10-4
ケイトお嬢さまに気に入られ、メイドの仕事にも慣れて、コッツワース屋敷での居場所のようなものを手に入れつつあった頃、ジューンは思い切って、アダムス牧師に相談をした。ライト夫人はジューンがいなくなれば、次はメイをいじめるだろう。それが心配でたまらないのだと。
アダムス牧師はジューンを安心させようと、ライト夫妻にはたっぷりとお説教をしたから、きっともう大丈夫だと言った。ジューンはそんな方法は逆効果に違いないと思った。
実際には、アダムス牧師たちにとっても、ライト家は要注意の一家に変わりなかった。彼らは時々ライト家を訪問し、ひどい虐待がありはしないか監視を続けた。
メイは成長すると小学校に通い、教会にも姿を見せた。怪我をしていることがあっても、転んだだけだと言った。怪しい気配はあるものの、証拠はなく、メイ本人も否定する。ライト家は改心したのか、巧妙に虐待を隠すようになったのか、そのどちらかだった。
ジューンには、自分が逃げたことによって、メイが逃げられなくなったのだと思えてならなかった。虐待の証拠がないのに、助けてやってくれとせがむわけにもいかない。ジューンにできることと言えば、今まさに辛い思いをしているかもしれないメイを想って、自分もなるべく鬱屈とした気分でいることぐらいだった。
メイをこの病室からコッツワース屋敷に連れて帰ることが出来たら、彼女のために何でもしてあげよう。何でも教えてあげよう。今まで、それをしてこなかった罪滅ぼしのためにも、これからはわたしがメイを守らなければならない。
看護師が病室に入ってきて、ガス灯を順に点火し、また出て行った。
ほんのりとした明かりがメイの顔を照らしている。そのまつ毛が動いたかと思うと、彼女は目を覚ました。
少女はベッド脇に座っているジューンに気が付いて、びくりと身を縮ませると、慌てて半身を起こした。まるでジューンがナイフを持ってそこに立っていたかのように、少女は恐怖をあらわにしてジューンを凝視した。
「驚かせてごめんなさい、わたしはジューンよ。あなたの姉なの。分かるかしら?」
メイは眉をひそめ、疑うような眼つきをした。
聡明そうな顔をしていると、ジューンは思った。切れ長の眼から、ダークブルーの瞳が強い視線を放っている。薄い唇はきつく結ばれて、意志が強そうに見えた。
「……知ってる。コッツワースの准男爵のお屋敷に奉公に出たのでしょう? あなたがジューンなの?」
やがて、メイは愕然としたようにそう言った。
「ええ。会うのは九年ぶりだわ。あなたはまだ一歳で、こんなに小さかった」
ジューンは、よちよち歩きだったメイの身長を手で示して、微笑んだ。
「全然覚えてないけど。お母さんから聞いたから知っているだけよ」
メイは馬鹿にしたように言うと、ぷいと向こうを向いた。
お母さん。
衝撃的な言葉だった。あの女のことを、メイが実にすんなりと「お母さん」と呼んだ。そして、あの女がジューンのことを忘れていない。
意外であり、恐ろしくもあり、そして、それだけではない。
説明のつかない感情が起こっていた。不条理すぎて胸が悪くなる。とても容認できない感情だった。
メイは不機嫌そうに、ジューンのことを軽蔑するような眼つきで、ちらりちらりと見てきた。ジューンは、あの女が自分のことをメイに何と伝えているのかを疑った。しかし、それは今重要なことではないと考えた。
「ねえ、メイ、本当のことを教えてほしいの。その怪我は、どうしてそんなことになったの?」
「これは……」
メイは顔をこわばらせた。
「……牛を……動かそうとして、縄をかけて……引っ張ろうとしたら、急に、牛が走り出して、それで……引きずられたの」
少女は記憶をたどるような遠い眼になり、ダークブルーの瞳を震わしながら、とつとつと説明をした。
ジューンは悲しさと怒りを同時に覚えながら、しかし少女の繊細な心を脅かさないよう、あくまでやさしく問いかけた。
「それは、ライト夫人がしたことなんだよね?」
メイは答えなかった。恐れと疑いの中で、何と答えるべきかを迷っている。……ジューンにはそのように見えた。ジューンは思わず勢い込んで、こう続けた。
「大丈夫よ、わたしには分かるの。何かの罰だとか言って、あなたの手首に縄を結んで、もう片方を牛に結んで、それで牛を突っつくかして興奮させて走らせたのよ。もしかしたら牛でなくて馬かもしれない。ライト夫人が馬に乗って、あなたを縄で引きずった。……わたしもされた覚えがあるもの。ね、本当はそうなんでしょ?」
「ち、違う!」
メイは怯えきったように、激しく首を横に振った。ジューンは一瞬唖然とし、そして、胸の中に失望が広がるのを感じた。
「お願い、怖がらないで……大丈夫だから。本当のことを言っていいのよ」
「違う! そんなこと、されてないってば!」
メイはそう撥ねつけた。ジューンは必死に次の言葉を考えた。
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