10-3
次の日から、ジューンは平日は小学校に、日曜日は教会に行くことになった。
いつも汚れていて、家畜の匂いを漂わせ、ボロボロの服に、大人用の破れた靴を履き、絶えず怪我をしていて、時々顔に紫のあざができている。そんなジューンは村の小学校で浮いた存在となり、当然のようにいじめられた。けれど、仲間外れや嫌がらせなどという子供のいじめは、実母のいじめに比べればたかが知れていた。それに教師たちや牧師さまは、ジューンからすると信じられないくらい優しかった。驚いたことに彼らは、見た目は乞食のようだったジューンを、子供たちや村人の悪意から守ってくれた。ライト夫人がいない学校と教会は、ジューンにとってはまったくの安全地帯だった。そして安心して過ごすことができる時間はジューンの心の支えとなった。
ジューンは心の中で、異常な母親と実の家族を見限り、神さまとの繋がりだけを想うようになった。
授業や礼拝が終わると、ジューンは急いでライト家に戻った。少しでも遅れると罰として鞭で打たれることになるからだ。ライト家の外には安全な世界が広がっているというのに、どうやってそこへ行けばいいのか。まだ子供のジューンには皆目見当もつかなかった。
そこで、ジューンは毎日、神さまに祈ることにした。
神さまどうか、わたしをこの家から逃れさせてください。どうかわたしのただ一つの夢を叶えてください。それ以外に、望むことは何もありませんから。
毎朝毎晩と、礼拝での祈りをかかさずに半年ほどが過ぎた。
いったい何がきっかけだったのかは全く覚えていない。
ライト家の食堂に這いつくばって床を拭いていたジューンは、ライト夫人に暖炉の火かき棒で思い切り頭部を殴打された。
衝撃で、一瞬目の前が真っ白になった。次に眼が見えるようになると、さっきまで拭いていた床に血溜りが出来ていた。つんざくようなライト夫人の金切り声が降ってきた。
「なにやってんだい! 床を汚すんじゃないよ!」
はいと返事をしたつもりが声にならなかった。心臓の音がどくどくと身体中に響いて、両手が自分のものじゃないみたいに震えている。ジューンはかろうじてバケツを引き寄せ、左側の頭頂あたりから溢れ出てくる血液を受けながら、床の血溜まりを拭き取った。ライト夫人はどこかに行ったようだった。バケツに頭を突っ込んだまま、ジューンは這うようにして裏口から外へ出た。
「……うううう~、うううう~」
少しでも痛みを紛らわせるために、低く呻き声を漏らしながら厩舎にたどり着くと、寝床である藁の上に横たわった。激痛に歯を食いしばっているのに、意識が遠のく心地がする。いったいわたしは眠いのか? それとも……。
これから何が起ころうとしているのかを悟って、ジューンの胸の奥から喜びが沸き上がった。
やっと、神さまが夢を叶えてくださるのだ。
死という方法で、神さまはわたしがライト家から永遠に去ることを許してくださったのだ。
それなら天使さま、はやくはやく迎えに来て!
この痛みに耐えるのは、もう一分だって無理なんですから。
そして、次に気がついたとき、ジューンは九年経った今、まさに自分が座っているこの場所……コッツワース村の病院にいたのだ。ジューンはそこが天国だと、はじめは本気で信じていた。
そこでは白衣を着た優しい天使たちが病人を看護している。傷が癒えて、美しい馬車で連れていかれたのはコッツワース屋敷と呼ばれる優美な天上の宮殿だった。そこに住むサー・ウォルターやケイトという天使は、人間ではありえない完璧な容姿の持ち主だった。
やがて、グラムトン教区の牧師や小学校の教師たちという、ジューンの生前からの知り合いと会う機会があり、どうやらまだ生きているらしいと気が付いた。しかも、地獄みたいなライト家と地続きで、三マイルぐらいしか離れていない。
ジューンの知らないところで大人たちが動いて、ライト家から引き離してくれたのだ。
教会に駆け込んで、ライト夫人が娘を殺そうとしたと証言してくれたのはブリジットだった。彼女はその後すぐに辞めたらしい。
ケイトと同い歳だったジューンには、お嬢さまの遊び相手という仕事が与えられた。働き者だと分かると、身の回りの世話も任されるようになった。まだ義務教育の途中だったので、ケイトと一緒に家庭教師から勉強を習った。やがて義務教育は終わったが、ケイトの強い希望により引き続き一緒に勉強をすることになった。同じ教育を受けていないと、話し相手として物足りないからというのが理由だった。他のお屋敷ではあり得ない、法外な好待遇である。
コッツワース屋敷を天国だと思ったのも、あながち間違いではない。ジューンは清潔になり、ベッドで眠るようになり、十分な食事を摂るようになった。家族のように面倒を見てくれる上司たちがいた。庇護してくれる主人一家がいた。仲良くしてくれるルームメイトがいた。ジューンの夢は、あの頃の自分が想像できる範囲をはるかに超えて叶っていた。これ以上、望むことなど何もない。コッツワース屋敷を解雇になりさえしなければいい。自分自身のことは、もう充分だった。
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