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 ライト家は、コッツワース教区に隣接するグラムトン教区にある。大地主のブルームフィールド家とは比べるべくもないが、小作人ではなくて、比較的裕福な自営の農家だ。簡素だが大きな家には、住み込みで働く農夫やメイド、それに子守りをするナニーもいた。

 実のところ、ジューンはライト家にいた頃のことを、あまりよく覚えていない。記憶は断片的で、あいまいだったり、はっきりしていても急に途切れていたりする。今のジューンにとってのライト家は、記憶そのものに、後から得た情報や知識が付加されて形作られている。

 ライト家というところは、威嚇と、攻撃と、怒りが渦巻く、弱肉強食のサバンナみたいな世界で、ジューンはそこで実の母親に虐待されながら育った。農場主の父は三人の兄たちを怒号と暴力という伝統的な手法で熱心に支配していたが、女の子供には全く興味がなかった。時代が時代なら、生まれてすぐに荒地とか森の奥とかに廃棄されたのかもしれない。しかしおかげで、ジューンは床磨きをしていてうっかり通行の邪魔になったりしない限りは、父や兄に殴られることはなかった。父と兄は母を罵倒し、母は腹いせに娘を殴る。単純明快な構図に物心つく前からはめ込まれて、果てのない労働に駆り立てられながら、なるべく怪我を増やさずに次の日まで生き残ることがジューンの生活の全てだった。

 ジューンの扱いは家畜と同程度で、厩舎で寝起きし、食事は牛馬と一緒に食べた。だからその頃のジューンは、自分を家畜だと思っていたように思う。未発達な身体を酷使する農作業と牛馬の世話に加えて、母屋での家事労働もジューンの仕事だった。ライト夫人は気まぐれに時々優しいなどということもなく常に脅威で、ジューンが遅かったり失敗をしたりすると、罵りながら鞭で打った。餌のように与えられる食事は不十分で、全くないことも珍しくなかった。餓死の危機やら、冬には凍死の危機やらが、日常的に襲ってきた。

 八歳のとき、メイが産まれた。ライト家にブリジットという名のナニーがやって来た。

 ブリジットは三十歳ぐらいの、黒髪黒眼で笑顔が可愛らしいナニーだった。これは後で伝え聞いたのだが、赤ん坊のジューンを育てたのも、このブリジットだった。ジューンが三歳のころに、子守りはもう不要だからと暇を出されていたのが、また赤ん坊が生まれたので呼び戻されたのだ。当時は何も覚えておらず、言われてもよく理解できなかった。ただ、ブリジットはジューンと再会して、とても喜んでくれた。このブリジットと話したことが、記憶にある限り初めての、人との会話らしい会話だった。一方的に浴びせられる罵詈雑言でも、相手の怒りを感知して反射的に口から出てくる謝罪でもない。人と人との、普通の会話だった。

 ライト家ではメイドはぎりぎりの数しか雇わない。ブリジットは、本来ならナニーと兼任など出来るわけがない洗濯場の仕事も負わされていて、朝から晩まで働きながらメイの面倒を見た。ジューンはブリジットを手伝おうと、見よう見まねでメイの世話を始めた。小さなジューンの身体で、赤ん坊をおんぶしながら仕事をするのは過酷以外の何物でもなかったが、その頃のジューンは、メイの温もりと笑顔、そしてブリジットを助けたい一心に支えられていた。他のメイドはライト夫人に便乗してジューンをいじめたが、ブリジットはそうではなかった。雇われている立場上、ライト夫人から庇ってくれるわけではなかったが、こっそりと「奥さまの機嫌が悪いから、今は隠れていた方がいい」などと教えてくれた。ジューンはブリジットのそばに居たくて仕方がなかった。メイをおぶって、可能な限り洗濯場に入り浸った。そして、ブリジットの仕事を手伝いながらお喋りをしていると、必ずと言っていいほどライト夫人が現れて妨害をした。

「おい! この能無しどもめ! ぺちゃくちゃ喋って、さぼるんじゃないよ! 石炭の補充は終わったのかい? このノロマめ! 早くするんだよ! 今すぐに!」

 ジューンがブリジットと楽しく話す声は、ことのほか彼女の怒りに火をつけるようだった。ライト夫人は、ジューンが完璧に不幸でなければ、決して許してはくれなかった。

 ジューンが九歳になる直前のある日、見知らぬ男が二人、ライト家を訪ねてきた。厩舎に水を運んでいたジューンは、彼らが門から現れて前庭を通り、玄関に入っていく様子を目撃した。一人は小柄で年老いていて、一人は大柄で若い。二人とも黒い長衣に白い襟、周囲につばのある黒い帽子という同じような服装だった。何かを話して笑ったかと思うと、お互いに道を譲り合いながら、穏やかな歩調で歩いてくる。

 ジューンはそれを見ただけで分かってしまった。彼らは異質な、外界からの侵入者。ブリジットが小さな風穴を開けたように、ライト家にとっては不都合な異星人なのだと。

 不思議と今でもはっきり覚えているその光景が、グラムトン教区の牧師と、コッツワース教区のアダムス牧師だったということは、ずっと後になって知った。


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