第十章 過去
日没前のコッツワースは、薄い灰色のベールに覆われたように、辺り一面がくすんで見えた。黄緑の芝生も、赤褐色の屋敷もぼやけている。ジューンはブルームフィールド家の箱馬車に乗り、いつもより少し高い場所からそれを見ていた。
ブルームフィールド准男爵家の本邸、コッツワース屋敷。
赤レンガの壁面と、立ち並ぶ白い柱形。その合間を長方形の窓が整然と埋めている。屋根面からは装飾的な手すり子と壺飾りのパラペットが立ち上がり、寄棟屋根の傾斜を隠して、横長長方形の外観を形作っていた。直線的なシンプルさと優美さを併せ持つ、赤褐色のカントリーハウス。暗緑色の敷布に置かれた、木彫りの宝石箱みたいだ。ちょうど、ジョンがくれた小箱のような。
薄闇に沈む屋敷と庭園。その背景は、不自然なほど明るい、黄色がかった水色の空だった。うろこ雲が、ここからは見えない場所で沈もうとしている太陽に照らされて、黄金色に輝いている。
「九年前を思い出すね」
斜め向かいの座席から、不意にサー・ウォルターが話し掛けた。ジューンはびくりとして、うす暗い車内に目を移した。
「は、はい」
「今ごろは病院できちんとした手当てを受けているはずだ。大丈夫だよ」
薄闇の中に、サー・ウォルターの端正な顔立ちとシルバーブロンドが白っぽく浮かび上がっていた。ジューンは引き込まれるような感覚がして、言葉が出ずに、ただ頷いた。
バースから帰館した二日後、半地下のキッチンで後片付けをしていたジューンは、突然サー・ウォルターに声を掛けられた。ここは彼が出入りするような場所ではない。ジューンも、他のキッチンメイドたちも、不意に現れた当主の姿にみな息を呑んだ。
「ジューン、たった今、牧師館からアダムスの使いが来た。ミス・メイ・ライトが大怪我をして、村の病院に運び込まれたそうだ。馬車を出すから、わたしと一緒に来なさい。アダムスも、もう病院に行った」
まだジョンへの手紙のことで一杯だったジューンの頭の中は、その瞬間に一掃された。メイはジューンの実の妹だった。
馬車はコッツワース村のメインストリートを走り、高いレンガ塀の通りに入って間もなく停車した。木製の簡素な門があり、そこをくぐるとブナの木が立つ前庭があり、その奥に病院があった。黄灰色の石造りで、平屋建ての大きな建物である。
サー・ウォルターはアダムス牧師とともに医務室へ行き、ジューンが先にメイと会うことになった。看護師に案内され病室に入ると、そこはベッドが十床ほど並ぶ大部屋だった。一番入り口側のベッドに、今年十歳になったはずのメイが眠っていた。
赤ん坊のころと、驚くほど変わらない寝顔だった。身体は痩せていて、背も歳の割に小さい。くせのある金髪が絡まって、二つに垂らした三つ編みが原形をとどめないほど、ぐちゃぐちゃになっていた。
小さな右頬に、大きなガーゼが貼られていた。右腕が毛布の上に出て、肩から肘にかけて包帯が巻かれていた。手首が、赤紫に腫れ上がっていた。その腫脹の中に、縄目の跡としか思えない模様が、白く浮かび上がっていた。
「血だらけで歩いているところを村人に保護されたそうだよ」
いつの間にか、サー・ウォルターが隣に立っていた。彼は気遣わしげに、こう続けた。
「けがは右側体側全体の擦過傷で、骨に異常はないということだ。運び込まれたとき意識はしっかりしていて、本人が言うには、牛に縄で引きずられた、とのことだそうだよ」
ジューンの胸を、えぐるような痛みが何度も行き来した。サー・ウォルターに、訴えたいことがあった。それはジューンの奥深くで、怒りと共に巨大な渦を巻いていて、破裂しそうな今の頭では、うまく言葉に出来そうになかった。ジューンはまず、親切な主人に礼を言わなければと思った。
「あの……ありがとうございます、連れて来てくださって。わたし、妹に会うのは赤ん坊の時以来なのです」
見上げると、サー・ウォルターは少し微笑んだ。
「わたしは今から、アダムスとライト家に行ってこようと思う」
ジューンは息を呑んだ。
「それは、ライト氏……わたしたちの父親と話をしてくださるということですか?」
サー・ウォルターは頷いた。
「キッチンメイドを増員しようという話があってね。ライト氏が同意すれば、ミス・メイにうちに来てもらうことが出来る」
ジューンは、わっと声を上げそうになった。
「ああ、旦那さま、感謝します! 本当にありがとうございます!」
サー・ウォルターは苦笑いを浮かべた。するとその背後に、アダムス牧師の大柄な身体が現れて、友人を代弁するようにこう言った。
「ジューン、まだ礼を言うのは早い。ライト氏が承諾するかどうかが問題だ」
二人は出掛けていき、ジューンは祈りながら見送った。ベッド脇の椅子に座り、再び妹の寝顔に眼を落とす。ジューンがライト家を去った時、メイは一歳だった。よちよち歩きの、かわいい妹。だがメイの方は、姉を覚えていないだろう。
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