10-6

 アダムス牧師が、あり得ないと言わんばかりの大きなため息をついた。その音はサー・ウォルターにも聞こえたに違いないが、彼は礼儀正しい態度を崩さずに続けた。

「我々はミス・メイを無理に引き留めるつもりはないのですよ。医師の話では、自宅療養でも構わないということですので、いつでも好きな時に帰ってくださってけっこうです。しかし見ての通り、ミス・メイは病院の服に着替えていますので、すぐに帰るにしても準備が必要です。その間に、応接室で医師からの説明を聞かれてはいかがですか? お茶とお菓子を運ばせますから、ゆっくりと休憩していただき、その間に、ミス・メイは支度をして、我々は帰りの馬車を手配するとしましょう」

 ジューンは歯がみする思いで見つめていた。ライト夫人の顔が、しめたものだとでもいうように、いやらしく緩んだ。

「おや、そうかい。そんなら、お代はそっちが払ってくれるんだろうね? こっちは頼んじゃいないのに、そっちが勝手に医者に診せたんだから!」

 ライト夫人は勢いを取り戻して言った。

「ええ、治療費はけっこうですよ、ミセス・ライト」

 サー・ウォルターの声は戸惑いを隠すように少し震えていた。その背後で、アダムス牧師が呆れて言葉も出ないというように首を横に振った。

 ライト夫人の黄土色の顔に、笑みのようなものが浮かんだ。

「そういうことなら、医者の説明とやらを聞かせてもらいましょうかね。部屋はどっちだい? ちょっと休ませてもらうよ、ここまで来るのに疲れちまったからね。そうそう、馬車を呼んだら、お代は先に払っておいておくれよ!」

 サー・ウォルターが看護師を呼び、ライト夫人は案内されて出て行った。アダムス牧師は批判がましい眼で友人を見た。サー・ウォルターはしょうがないだろと、表情と身振りで反論した。

 ライト夫人の気配が廊下からすっかり消えるのを待って、ジューンは口を開いた。

「旦那さま、お願いです。メイを家に帰さないでください。どうか、ここから直接コッツワース屋敷に連れて行ってください」

 サー・ウォルターは首を横に振った。

「ジューン、残念だがライト氏が承諾しなかったんだ。ミス・メイを雇うことは出来ない」

「それでライト夫人を馬車で連れて来ることになってしまった」

 アダムス牧師がしかめ面で肩をすくめた。

 ジューンの手足が痺れたようになり、心臓が音を立て始めた。身体中が、かすかに震えていた。

「あ、あの……、どうしてなのでしょうか? わたしのときは認めたのに、なぜメイはだめだったのですか?」

 ジューンはすがるようにサー・ウォルターを見上げ、次にアダムス牧師を見上げた。

「あの時と違うのは、……虐待があるかどうかということだよ」

 サー・ウォルターが躊躇しながらもそう答えると、アダムス牧師がすぐに後を引き受けた。

「ジューンの時は、ライト夫人が殴るところを使用人が目撃していたし、そもそもライト夫妻は暴力を悪いことだと思っていなくて、虐待していることを隠そうともしていなかった。それで、わたしはライト氏にこういう風に言った。このままでは、次に何かあった時には、ライト夫人は娘さんを殺してしまいかねない。コッツワース屋敷に奉公に出すという形で、二人を引き離したほうがよいと……」

 サー・ウォルターが咎めるような視線を友人に送った。しかしジューンは納得して頷いた。ライト氏は暴力を何とも思わない人間だが、殺人となるとさすがに外聞が悪いと思ったのだろう。アダムス牧師は続けた。

「わたしはあのとき腹の中で、ライト氏が渋った時のために次なる手段を考えていたんだがね。まあ、それは必要なくなったというわけだ」

「次なる手段だって?」

 サー・ウォルターが反応した。

「目撃者もいるのだから、ライト夫人を殺人未遂罪で告訴すると言って脅すんだよ。これは脅しでなくて、実際にしてもよかったと、わたしは今でも思っている」

 アダムス牧師が言うと、サー・ウォルターは信じられないという顔をした。

「ライト氏がすぐに了承してくれてよかった。おかげでジューンとミス・メイのお母さまが犯罪者にならずにすんだ」

 アダムス牧師は不服そうに鼻を鳴らしたが、反論はせずに話を戻した。

「ところが、だ。今日のことは事故で、何も知らなかったとライト夫人は言うんだよ」

 アダムス牧師の視線が、ベッドで座り込んでいるメイに注がれていた。

「『お嬢さんにキッチンメイドの仕事はどうか』と勧めてみたのだが、ご両親は娘を手放したくないという気持ちが強くて、お断りされてしまったのだよ」

 サー・ウォルターがメイに微笑みかけ、やさしく言った。その様子を見たジューンは、旦那さまは善良な性格ゆえに、ライト夫人の言うことを信じているのだろうと思った。


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