第九章 バース出張

 これでお終いなのかもしれない。

 ジューンは涙をこらえながら、よろよろと来た道を戻った。初めは何も考えられなかった。コッツワース屋敷の赤レンガ壁を視界にとらえて、このまま戻ったら、深夜に仕事が終わるまで小箱をじっくりと見る時間がないことに気が付いた。ジューンは立ち止まると、小箱をさまざまな角度から見つめた。撫で回し、蓋に手をかけた。留め金はなく、蓋と本体の縁の凹凸がかみ合って閉まる仕様である。緩くもきつくもなく、それはすんなりと開いた。当たり前だが、何も入っていない。

 何か入れようか。ジューンは仕事の合間に考えを巡らせた。

 ジョンがくれた木彫の小箱は、ジューンには貴婦人の持ち物にしか見えなかった。この気品ある小箱に見合う中身など、わたしは何も持っていない……。

 結局、木彫の小箱は空のまま、ジューンの旅行鞄に入れられ、翌日、バースまで運ばれた。

 マイルズ家の別邸には、マイルズ夫妻と二人の娘、ブルームフィールド夫人とケイト、ブルームフィールド夫人のもう一人の妹であるルーシー嬢が滞在した。バースでの彼女たちはほとんど毎晩、観劇か演奏会、あるいは知人に招かれた晩餐会に赴いた。昼間の外出は習慣として、まずは鉱泉を飲む施設であるポンプ・ルームに行く。それから公園や広場を散歩する。一度だけクラヴァートン丘陵まで馬車で遠出をしたこともあった。

 一方、ジューンたちメイドはというと、許可なく外出はできないので、ほとんど家にいる。マイルズ家の別邸は、黄土色の石造りで、左右が隣家と繋がったタウンハウスである。

 マイルズ家にもメイドがいるので、ここでのジューンは掃除や台所仕事を頼まれることはなく、ケイトの身辺を世話して、その時々に応じた衣装に着替えさせることが仕事の大部分だった。

 ケイトやマイルズ姉妹が大人と別行動になる時だけ、ジューンは付き添い役として一緒に外出した。一度目はケイトと二人で貸本屋に行き、二度目はマイルズ姉妹も含めて四人で婦人用品店へ行った。翌週の月曜日に、ケイトは社交会館であるアセンブリールームズで開催される公開舞踏会に参加した。……バースに来てからの印象に残る出来事はそれぐらいだった。

 二週目の木曜日になり、事件が起きた。ジョンから、手紙が来たのである。

 別れの手紙だ。

 そう思ったジューンは、手紙を渡された後しばらく動けなかった。

 ケイトたちが出掛けた後、ジューンは屋根裏の寝室に駆け戻った。窓辺に立ち、心臓がどくどく鳴る音を聞きながら眼を通した。

『親愛なるジューンへ

 初めてきみに手紙を書くにあたり、とても緊張しています。ぼくは手紙があまり得意ではありません。しばらくの間、きみに退屈な思いをさせることをどうかお許しください。

 バースはどうですか? きみは何度も訪れているので、目新しいものはないかもしれませんね。こちらも取り立てて変わったことはなく、ネザーポート屋敷の改装は着々と進んでいます。

 今週の作業で面白かったのは、浴室のタイルを張ったことです。素材としてタイルは好きですし、高級品を採用しているので、扱っているだけで興奮します。作業していても、少しずつ出来上がっていく感じが楽しいのです。筋が良いと、親方にも褒めてもらえました。だいたい内装関係は全部楽しいです。壁紙の張り替えもワクワクしますね。もっとも、職人の先輩たちは「とっくに飽きた」とみな言いますが。ぼくは飽きないのではないかと思ってしまいます。

 そうそう、変わったことが一つありました。夕食をしにパブへ行ったときのことです。偶然そこで、アダムス牧師に遭いました。誘われて、彼が住むコッツワースの牧師館で飲むことになりました……』

 ジューンは眼を疑ったが、確かにそう書いてある。

『……応接間でワインをご馳走になっていると、サー・ウォルターがたった一人で訪ねてきました。三人で飲み語らい、有意義な時間を過ごしました。ぼくは次の日も仕事なので一時ぐらいに帰りましたが、二人はその後も飲んでいました。彼らはとても仲が良いようです……』

 ジューンは読むのを中断して、しばらく考えた。アダムス牧師はジョンのことを疑っていたはずだ。彼ならジョンを牧師館に誘い出し、村の男たちと取り囲んで何を企んでいるのかを吐かせるぐらいのことはしそうである。けれど、もしそんな怖い目に遇ったのなら、あえて手紙に「有意義な時間」などと嘘を書かない気がする。一体、三人でどんな会話をしたのだろう。

『……土曜日は用事のためにロンドンへ行きました。日曜の午前はコッツワース村の教会に行きました。サー・ウォルターは特別信徒席にいたため話せませんでしたが、使用人のみんなと会えました。子供たちもみんな元気でした。午後はネザーポート屋敷に戻り、門番用ロッジでのんびりしました。作り置き用の料理をしたり、風呂に入ったりしました。そして今、この手紙を書いています。

 ブルームフィールド夫人が帰館の予定を変えないことを祈っています。残りのバース滞在を楽しんでください。

 幸運を願って。ジョン・スミス』

 別れの手紙ではなかった。

 ほっとしているのに、胸がざわめく。不安で、そら恐ろしくて、このよく分からない状況がまだ続くのかと思うと逃げ出したい気持ちだった。なのに、彼の手の中にあっただろう手紙が、紙が、封筒が愛おしくて、心の中で密かに、彼の恋人になったような気分を味わってしまう自分を、止めることが出来なかった。


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