12-3

 お互いに自己紹介をしながら、二人はネザーポート村のパブに移動した。

 青年はネイサン・ラングリーといい、ホワイトストン男爵の従者だった。お若いのにとジューンが驚くと、こう見えても二十八歳だと彼は言った。屋敷から屋敷へと転職をしてキャリアを伸ばし、若くして男爵の従者になった。次は執事を狙いますよと、悪びれることもない。

 パブの店内は暗く、昨晩の酒の匂いがまだ残るようだった。窓際の四人席でテーブルを挟んで向かい合うと、ラングリー氏は口を切った。

「あなたが来た理由は、だいたい察しがつきます。ネザーポート屋敷の工事が終わって、エドマンドさまと会えなくなったのでしょう?」

 ジューンは急に息が苦しくなる感覚を覚えながら、問い返した。

「今……誰とおっしゃいましたか?」

 ラングリー氏は眉をひそめ、憐れむような眼でジューンを見た。

「エドマンド・ジョン・ホワイトストンさまです。あなたが驚いているところを見ると、彼は最後まで本当の姓を名乗らなかったようですね。あの日、あなたが鍵を届けたのは、ホワイトストン男爵のご子息であるエドマンドさまですよ」

 ラングリー氏の声は、ジューンの身体を貫くようだった。来るべき時がついに来たのだと、ジューンは思った。

「あ……やはりそうなのですね……、わかりました。お忙しいところをお呼び立てしてしまって申し訳ありませんでした。わたしがあなたに教えて欲しかったのは、それだけなんです」

 こんなに冷静なのに、涙が込み上げてくるのが不思議だった。理性と感情は別々の部分にあるのだなと、ジューンの中の冷静な部分が思った。不意に胸が詰まり、ジューンはたまらずにうつむいた。そして冷静さが、けんめいに涙を押しとどめた。

「本人から聞いていますよ。あの方は身分を隠し、大工だと偽ってあなたに近づいたのでしょう?」

 ラングリー氏の声が、追撃するみたいに降ってきた。

「ええ、まあ、そうですね」

 ジューンは自分の中の理性を総動員して、顔を上げ、冷めた声音を出した。一瞬、まるで他人のことを話しているような感覚がした。ラングリー氏が探るような視線でジューンを見つめていた。彼はジューンから眼を離さずに続けた。

「ジョンというのはあの方のミドルネームで、スミスというのはあの方の母君、ホワイトストン卿夫人の旧姓というわけです」

 そこへ、パブの店主がやって来て、注文していたコーヒーをぞんざいに並べた。店主の中年男は見慣れぬ顔が珍しいのか、やや不審げにジューンを見て、次にラングリー氏を舐めるように見た。ラングリー氏は優美に微笑み、会釈をした。店主は一瞬動揺したような顔を見せたのち、いぶかしげな視線を残してカウンターへ戻って行った。ラングリー氏はコーヒーを一口飲むと、何事もなかったように話を再開した。

「こうして拝見したところ、あなたはとても真面目そうに見えますね」

「そうですね……よくそういう風に言われます」

 ジューンが答えると、ラングリー氏は険しい顔つきになり、先ほどまでよりも感情のこもった調子でこう言った。

「わたしはね、貴族の子弟が遊ぶにしても、あなたのような純朴そうなお嬢さんを相手にするのは、いかがなものかと思いますよ」

「ええと……」

 ジューンはラングリー氏の言う意味がいまいち飲み込めず、あいまいに答えた。

「はっきり言って、まったく酷い話です。わたしは使用人で、彼らのすることに口を出せる身分ではありませんが、個人的には、本当に残酷なことだと思っていますよ!」

 ラングリー氏は憤りを抑えられないというように、やや興奮した様子でそう言った。ジューンはなんとなく、彼が考えていることが分かった気がした。

「いいえ、残酷ではありませんよ。わたしはジョン……ホワイトストンさまに、とても良くしていただいたので」

 ジューンは誤解を解こうと、無理に微笑んで見せた。ラングリー氏は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに眉間に縦じわを寄せ、悲愴な表情に戻った。

「彼はあなたにどんな約束を? 結婚とか?」

「いいえ、結婚だなんて、そんな滅相もない」

「……妊娠しておられるわけでは?」

「まさか、違いますよ」

 ラングリー氏は拍子抜けしたようだった。彼は安堵のため息を一つ吐くと、しばらく思案したのちに、また話を始めた。

「それは良かった。けれどまだ分かりますまい。今後その兆候があったときは、泣き寝入りすることはありませんよ。その時は、まずわたしに知らせにいらっしゃい。ホワイトストン男爵は非情な方ではないので、あなたを無視するようなことはありません。それに、わたしもなるべく多くの援助を引き出せるよう、協力しますからね」

 ラングリー氏は明るく言い、勇気づけるように微笑んだ。ジューンは心の底に惨めさのようなものが浮かぶのを感じたが、気づかないふりをした。

「わかりました。お気遣いありがとうございます」

 するとラングリー氏は、また深刻な表情になった。

「けれど……これはわたしからのアドバイスですが、あまりしつこくはなさらない方がいい。表立っては騒がず、決して醜聞を立てぬこと。……これが大切なことです。エドマンドさまは、ヨークシャーのヒースランド伯爵のご令嬢、フローラさまと婚約しておられます。悪い噂が先方の耳に入るようなことがあれば……ホワイトストン男爵はあなたに容赦しませんよ。そこは貴族ですからね……彼らの敵にならない方がいい」

 ラングリー氏は声を落としてそう言った。

「そんな……敵だなんて、とんでもない。ホワイトストンさまにご迷惑になるようなことは、決していたしません」

 ジューンが言うと、ラングリー氏は相手を見透かそうとするように目を細めた。

「では、今のところ妊娠もしておらず、ホワイトストン家に対する要求は、特にないということでよろしいですか?」

「よ、要求……? 要求は……あ、ありません」

 思いも寄らないことを訊かれて、ジューンは困惑しながら答えた。

「それではあなたの用件は、本当にただあの方の本名を知りたかっただけなのですか?」

 例えば他に何があるのかが、ジューンには分からなかったが、ラングリー氏はそのことが意外なようだった。

「ええ、そうです。そのことだけ、はっきりと知りたかったのです。最初から、住む世界が違ったのです。心のどこかでずっと疑っていたのに、わたし、現実を知るのが辛くて眼を背けてきたんです。でも、今ははっきりと分かって、すっきりしました」

 それは真実、ありのままの感想だった。

 心の中を覗き見れば、溺れそうなくらい悲しさでいっぱいだけれど、その上には清々しい風が吹いている……そんな気分だった。

 ラングリー氏はすっかり納得したようだった。彼はくつろいだ様子になり、コーヒーに手を伸ばした。

「あなたは立派な分別をお持ちのようだ。まったく、これほどの女性を騙すとは、エドマンドさまが憎らしいですよ。どうか今回のことでそう気を落とさないでください。あなたにはあなたに見合った素晴らしい男性が、きっと現れますから」

 ラングリー氏はジューンを力づけるように、そう言って微笑んだ。その晴ればれした表情を見て、ジューンは本当に完全に終わったのだと実感せずにはいられなかった。ジューンもまた、微笑んだ。

「ありがとうございます。……そうだ、『今まで親切にしていただいて、ありがとうございました』と、ホワイトストンさまに伝えていただけませんか? ラングリーさん」

 ラングリー氏は困ったという顔をした。

「申し訳ありませんが、それはできません。……と申しますのも、わたしはエドマンドさまから、身分を明かさないよう口止めをされているのです。ですから、もしまた彼と会うようなことがあっても、今日あなたとお会いしたことは黙っていてもらえますか?」

「まあ、そうなんですね。分かりました。今日のことは誰にも言いません」

 ジューンは自分と同じ使用人という立場の不自由さを思いやった。

「助かります。他に、何か訊きたいことはありますか?」

「そうですね……」

 ジューンは真剣に考えた。ジョンについて、真実を知ることが出来るのは、これが最後かもしれない。

「ジョン……ホワイトストンさまの夢は、建築家になることなのでしょうか?」

「あの方がそう言ったのですか?」

 ラングリー氏は怪訝そうな顔をした。

「え、ええ。そのために設計事務所に入ると。今週はロンドンで就職活動をすると仰っていましたが……」

 ジューンは突拍子もない質問をしてしまったかと、恥ずかしくなりながら答えた。

「就職活動ですって? それは嘘ですね」

 ラングリー氏はぴしゃりと言った。

「今頃はヨークシャーの、ヒースランド伯爵の所領で銃猟を楽しんでいらっしゃいますよ。美しい婚約者もご一緒です」

 就職活動と訊かれたことがよほど可笑しかったのか、ラングリー氏は忍び笑いをしている。

「そう……ですか」

 ジューンは魂が抜けたような気分だった。ラングリー氏は笑うのをやめ、取り繕うように言葉を続けた。

「しかし、建築家になりたいというのは本当かもしれません。大工の真似ごとをするぐらいだから、よほど建築がお好きなのでしょう。オックスフォードに入学しなかったのも、そのことが関係しているようです。ただ、ホワイトストン卿は大反対するでしょうね。ゆくゆくは爵位を継いで当主となられるのだから、職業は必要ないどころか、男爵家の恥だとお考えになるでしょう。けれど、わたしは貴族が職業を持つというのは、必ずしも恥ずかしいことだとは思いませんよ」

 ラングリー氏は唇の片側を上げて、苦笑いのような笑みを浮かべた。

 ジューンは救われた気がした。わたしが知っているジョンに、真実はちゃんとあったのである。

「では、やはりホワイトストンさまは建築がお好きなのですね。そのことが聞けて良かったです。ホワイトストンさまは建築の話をするとき、とても楽しそうだったから……」

 ジューンに幾度も見せてくれた、あの嬉しそうな笑顔。

 未来への希望に満ちていて、まぶしくて、ジューンの歩む道すら明るく照らされる気がした。

 ラングリー氏はもう一度、他に質問はないかと尋ねてくれた。ジューンはもう何も訊かなかった。丁寧にお礼を述べて、席を立った。パブを出たところで、ラングリー氏と別れた。

 一人になったジューンは自転車にまたがり、漕ぎ出してみた。頭の中はもやが掛かったようにはっきりせず、ふわふわと幻想の世界をさまよっているようだった。

 いつの間にか、コッツワース屋敷に戻ってきている。

 使用人の裏庭で自転車を定位置に戻しながら、ジューンは考えていた。

 驚くようなことも、悲しむようなことも、起こってはいない。

 偉大な神さまはすべてお見通しなのだ。たとえ一瞬でも、心のどこかで分不相応な望みを抱いたジューンに、神さまが当然の罰を下された。

 ただそれだけのことなのである。


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