第十三章 ネザーポート屋敷

 こうしてジューンは元の生活に戻った。

 ネザーポート屋敷の動向は折々に噂が入る。家具類の搬入が終わり、翌週にはホワイトストン卿夫妻が居住し始めた。サー・ウォルターは挨拶に出向き、その翌日にはホワイトストン卿夫妻がコッツワース屋敷を訪れた。

 ホワイトストン卿は大柄で堂々とした体躯の初老の紳士。夫人は気さくな感じの人。同席したケイトお嬢さまからも、その場に控えていた従僕からも、不思議とご子息の話は伝わってこない。そしてジューンも、あえて尋ねはしなかった。

 日曜日の教会にも、午後の休憩時間にもジョンは現れない。ジューンも休日に出かけない。使用人たちは……少なくともアミーリアは、そのことに気づいているだろうが、今のところジューンの前では誰も何も言わなかった。

 そのうちに、「ジューンは工事の現場が変わったタイミングで、ジョンに捨てられたらしい」と噂が立つだろう。やがてコッツワースの人々とネザーポート屋敷との交流が本格化すれば、ジョンがホワイトストン卿の息子だということも、いずれは皆に知られてしまう。すると今度は、「ジューンは貴族に弄ばれて、捨てられたらしい」と好奇の目で見られることになる。実際には、二人は友達以上の関係ではなかったのだが、ラングリー氏が妊娠の心配をしていたように、世間はそうは見てくれないのだろう。

 どんな風に噂されるだろうかと思うと鳥肌が立つ。

 けれど、ジューンは悲観的なだけではなく卑屈なので、自分が惨めな立場にいることは何も問題がなかった。それどころか居心地が良い気さえする。問題なのは、ホワイトストンさまの評判である。

 エドマンド・ジョン・ホワイトストン。彼はいったい、なぜジューンを誘ったのだろう。門番用ロッジに一人で住むことになって、休日の話し相手が欲しかったのだろうか。

 もし、ジューンのせいでホワイトストンさまに悪い評判が立ったときには、なんとしてでも誤解を解かなければならない。人の噂という形のないものに対処して、ちゃんと彼の名誉を守ることが出来るだろうか。

 ホワイトストンさまと別れた夜から、二週間と五日が過ぎた。

 土曜日である今日が、再会の約束の日だということをジューンは覚えていた。彼はコッツワース屋敷で待っていろと言った。もし彼が来たら、ラングリー氏と会ったことは秘密なので、ジューンは何も知らないふりをして今まで通りに振る舞わなければならない。

 正午過ぎ。

 ジューンはケイトお嬢さまの身支度をしていた。手には紺色の、シルクサテンのアフタヌーンドレスがある。

 ケイトはこれから、両親と共にネザーポート屋敷に行く。ホワイトストン卿夫妻が近隣の貴族や地主たちを招待して、改装した屋敷のお披露目と、挨拶を兼ねての昼食会を開くのだ。

「そういえば、今日の昼食会にはエドマンド・ホワイトストンさまはお見えになるのでしょうか?」

 ジューンはケイトにドレスを着つけながら、思い切ってそう尋ねた。

「エドマンド・ホワイトストンって?」

 ケイトは怪訝そうな顔をした。ジューンはそれだけで、心臓が跳ねあがる心地がした。

「ええと、ホワイトストン卿のご子息の」

 声が裏返らないよう注意しながら答えた。手の方は止まってしまっていた。

「ああ……彼はたしか…………ネザーポート屋敷に部屋は用意したけど、ロンドン中心の生活になるということだったわ。このあいだのホワイトストン卿の話では」

 ケイトは息子の名前を完全に忘れていたような口ぶりだった。

「では、今日はお見えかどうか分からないのですね……」

 ジューンはなんとなく、彼は今遠くにいるような気がした。ロンドンか、あるいはヨークシャーに。

「そうね、分からないわ」

 ケイトはなぜ訊かれるのか不思議だというように眼を丸くした。ジューンは気まずさに思わず愛想笑いを浮かべた。

 今回のケイトの衣装は、襟が詰まって袖も長い日中用のドレスである。控えめなパフスリーブと襟元のリボン以外に目立つ装飾はなく、バッスルも小さめの落ち着いたデザインだ。けれど背中側はスカートのギャザーがたっぷりと寄り、真っすぐに落ちる細かなプリーツは素材が違う二種類の生地で作られていて、実は凝っている。一見シンプルだが上質なドレスは、ケイトの美貌をより際立たせ、内面の気高さをも表すように、とてもよく似合っていた。

 ケイトの艶やかなプラチナブロンドの髪をとかしながら、ジューンは想像した。

 今日は無理でも、いつかそのうち、ケイトお嬢さまはホワイトストンさまと出会う。

 この美しいケイトさまを見て、彼はどう思うだろうか。一瞬で、恋に落ちはしないだろうか。

 ヨークシャーのヒースランド伯爵。令嬢のフローラさま。

 一度聞いただけなのに、ジューンはその名前をはっきりと記憶していた。

 フローラさまは美しい方なのかもしれないが、ケイトさまより美しいということがあるだろうか。婚約は親同士が決めたものなのかもしれない。ケイトさまは普通のお嬢さまとはわけが違う。頭が良くて、ジョンのマニアックな話だって楽しめる。ホワイトストンさまは美しく聡明なケイトさまを好きになり、フローラさまとの婚約を破棄して、ケイトさまと結ばれる。……そんな未来がありはしないだろうか。

 ケイトの髪結いを終え、ネザーポート屋敷へ出発する馬車を見送ると、ジューンは使用人ホールへ降りて昼食を摂った。その後は半日の休暇である。テーブルで新聞を読むふりをしながら、ジューンはただ待った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る