12-2
約束までの三週間。
はじめの数日は、彼がくれた甘美な思い出を反芻しながら過ごした。
はじめは、三週間後をただ待つことしか頭になかった。
なのに、日一日と過ぎるほどに、ジューンは苦しくなっていった。霧の中で霞んでいるような、あるかどうか分からないジョンとの再会……。そのことを考えるたび、ジューンは頭がおかしくなりそうだった。
その日、彼が来なかったら、わたしは傷つくだろうか。
やっぱり騙されていたのだと、すぐに現実を受け入れることが出来るだろうか。忙しくて遅れているのだと、何か月も待つかもしれない。希望を捨てきれず、ずっと待ち続けるかもしれない。恋人だったわけでもないくせに、未練たらしく、再会を夢見て、何年も何年も……。
確かめればよいのだ。……そう何かが耳元で囁く気がした。
真実を知って、それで何かしようというわけじゃない。
ただ、確かめるだけだ。彼に知られずに確かめることが出来れば、それはなにも悪いことではないのだ、と。
ジョンと別れた一週間後の土曜日は、午後が半日休みだった。ジューンは灰色の午後用制服に、黒の麦わら帽子を被り、使用人の共用自転車にまたがった。
十月になり、悪天候の日が増えていた。うすら寒い曇り空の下、ジューンはコッツワース屋敷の庭園を抜け、外周道路を抜けて、牧草地と畑の間の田舎道をどんどんと進んで行った。
見慣れた景色が、いつもの順番で展開した。緩い上り坂を上がり切ると、二股を左へ行く。樫の老木が立つ角へ来たら、右へ折れる。蔦に覆われたコテージの突き当りを左へ行く。カーブに沿って走ると、右手にネザーポート屋敷の石塀が現れる。そして、ジューンは屋敷の門に到着した。
コッツワース屋敷の出入り業者から、荷馬車が家具を運び込んでいるという噂を聞いていたのだが、あたりは静まり返っていた。ジューンは片手で自転車を支えながら、何気なく門扉を押した。
門は開かなかった。工事の間、昼間は施錠していなかった門が、今は内側から南京錠がかけられている。鋳鉄の格子の向こうに、ジョンと二人きりで過ごした門番用ロッジが見えた。
不思議な感覚がした。先週までと同じネザーポート屋敷なのに、別の場所のようだった。
ジューンは格子を掴んだまま、門番用ロッジを観察した。緑のクロスの丸テーブルがあった出窓に、動く人影が見えた。
眼が合った気がした途端にそれは引っ込み、ややあって、玄関から出てきた。小柄だががっしりとした身体つきの老人である。紺のシャツと茶色の上着に、黄土色のズボンを穿いている。赤ら顔に、たっぷりとした髭を蓄え、身なりからして屋外担当の使用人と思われた。
「ここはなあ、とある偉いお方のお屋敷だぁ! 嬢ちゃん、何の用だね?」
門番か庭師か、あるいは猟場番と思しい老人は、近づきながら大声で呼びかけた。
「わたくしはコッツワース屋敷のメイドです! このお屋敷にお会いしたい方がいるのですが、取り次いでもらえますか?」
ジューンも大きな声で返した。
「誰に会いたいんだね?」
「それが……お名前は存じ上げないのですが……」
老人は露骨にうさん臭そうな顔をした。ジューンは慌てて説明した。
「身長六フィート強、髪はライトブラウンで、二十代前半ぐらいの男性です。すごく整ったお顔立ちで、役者さんみたいな、きれいなお方です」
「ほお! 役者みたいな、きれいな男かい!」
老人は急に面白がるような調子になった。
「それから、その方は個性的な髪形をしていらっしゃいます。後ろ髪が長くて、三つ編みにしているんです。もし、今、こちらにいらっしゃったら、取り次いでいただきたいのですが……」
「おお、おるよ! 変な頭で、役者みてえな顔した若いのが!」
老人は愉快そうに答えた。
「その方に、『鍵を届けに来た自転車の女』が会いたがっていると伝えてください」
ジューンは話が通じたことにほっとした。
「ああん? 鍵の……自転車……なんじゃあ? わしが、そいつを連れて来たらいいんじゃな?」
「はい! 『鍵を届けに来た自転車の女』です。どうぞよろしくお願いします!」
「ああ、ああ。そんじゃあ、ちょっくら行ってきてやっから、そこで、ほれ、待っとれや!」
「ありがとうございます!」
ジューンは丁寧に腰を落として礼をした。老人は手を振りつつ馬車道の奥へと消えて行った。
三、四十分が、経ったと思う。
屋外使用人の老人は、モーニングコート姿の若者を連れて戻ってきた。
その男は長身で細身であり、明るい茶色の髪に、黒のトップハットを被っている。ホワイトストン卿夫妻が改装工事の進捗を見にやって来たあの日、彼らと一緒にいた青年である。
青年は門番用ロッジの前で老人と別れると、ジューンの方へまっすぐに、颯爽と歩いてきた。そして鉄格子の前まで来ると、帽子を取り、恭しく礼をした。
「わたしがここにいる時で良かった。ちょうど用事が終わって、帰ろうとしていたところだったのです」
青年は褐色の瞳でジューンを見つめながらそう言った。驚いてもいなければ、不審がってもいない。まるでジューンが誰なのかも、何をしに来たのかも、全てを承知しているようだった。
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