第一章 英国カントリー・ハウスは工事中

 緩慢な起伏をくりかえす緑色の地表を、白金みたいな六月の太陽が照らしていた。眩暈のするような、果てしなく続く田園風景を、懸命に自転車を漕ぎ進む少女の姿があった。

 十九世紀末、英国ノーサンプトン州。

 牧草地を走る、生垣に挟まれた田舎道である。

 少女は灰色のドレスに黒い麦わら帽をかぶり、髪は淡い金髪で、後ろで束ねて三つ編みにしていた。小柄な身体はでこぼこ道で飛び上がり、風が吹けば、麦わら帽を片手で押さえた。

 彼女の名はジューン・ライト。ブルームフィールド准男爵家の邸宅、コッツワース屋敷のメイドである。ジューンは数日前から響き始めた槌音の源を目指していた。

 牧草地と畑を通り過ぎ、厳めしい鋳鉄の門をくぐって、ジューンはまるで砂糖で塗り固めた四角いウェディングケーキのような、白亜の邸宅に辿り着いた。周囲には木材が運び込まれ、そこかしこに工事作業員の男たちがたむろしている。

「あのぉ……すみません! 改装工事でしょうか?」

 ジューンは一番近くにいた工事作業員に話し掛けた。

「そうだけど?」

 作業員の男はうさん臭そうにジューンを見下ろした。薄汚れた白シャツを腕まくりし、黒いハンチング帽に、灰色の綿ズボンを穿いている。背が高く、筋骨隆々のがっしりとした体格で、くせのある焦げ茶色の髪と髭が鬱蒼と茂るように顔を覆っていた。

「改装が終わったら、誰かお住まいになられるのですか?」

「ああ。この屋敷はホワイトストン男爵が買ったんだ」

 男爵といえば貴族である。ジューンの脳裏に、使用人仲間たちの驚く顔が浮かんだ。

「教えていただきまして、ありがとうございました!」

 ジューンは片足を引いて腰を落とし、深々とお辞儀をした。

 それから二十四時間後、ジューンは再び改装工事中の邸宅……ネザーポート屋敷を訪れていた。

 昨日の仕事には手落ちがあった。ホワイトストン男爵が買ったというだけでは、誰が住むのか分からない。男爵本人と家族なのか、親戚の誰かなのか、はたまた、愛人とその子供のための別邸なのか。

 それでも、一年以上放置されていた屋敷に貴族の買い手がついたという情報は、コッツワース屋敷の人々の話題をさらった。コッツワース屋敷とネザーポート屋敷は二マイルほど離れているが、その間に、他に貴族や地主階級の家はない。前の所有者は長年の贅沢三昧と令息の賭博癖のために借金を重ね、ついに屋敷を売りに出したのだ。

 ネザーポート屋敷の外壁には工事用の足場が組まれていた。他の作業員に混じって、昨日の髭の男がいた。身長ぐらいの足場の上で、さらにその上に組まれた木材をワイヤーで固定している。ジューンが近づくと、彼は気配を感じたのか、声を掛ける前に振り向いた。左右を確認し、足場から飛び降りる。

「やあ、また来たね」

 長い前髪と頬髭の間で、半月型の眼が笑っていた。

「はい、あの、わたくしはコッツワース屋敷のメイドなのですが、奥さまが新しい隣人について、あらかじめ知っておきたいと」

 ジューンは緊張しながら、あらかじめ考えていた台詞を言った。

「なるほど。ここに住むのはホワイトストン男爵とその夫人と、息子が一人と、執事が一人に従者が一人に……あとは使用人が二十名ほど、というところだね」

 男はすらすらと答えた。髭の顔は相変わらず微笑んでいる。

「ご令息がいらっしゃるのですか?」

 ジューンの声が大きくなった。

「ああ。ただし彼は、こことロンドンを行ったり来たりすることになると思うけど」

「そうなのですね。たびたび教えていただき、ありがとうございました!」

 ジューンは腰を落として深々と礼をした。

 すると、髭の男は左手で帽子を取り、それを胸に当て、右手を横へ水平に上げて、優雅にお辞儀をした。

「お安いご用ですよ、お嬢さん」

 それから、二十四時間後。

 ジューンはまたネザーポート屋敷に向かって自転車を走らせていた。

 また、失敗をやらかした。

 そもそもジューンは、人と話すことがあまり得意ではない。初対面ともなればなおさらだ。そしてあの髭もじゃの男は、今までにない感覚がした。嬉しそうに微笑んでいる濃褐色の瞳を見ると、全身が痺れたようになって、動揺して、早く逃げ出したくなった。それで冷静であれば出来る仕事が、不備だらけになってしまうのだ。

 コッツワース屋敷の主であるブルームフィールド家には、ジューンと同じ十八歳の美しい令嬢がいる。彼女は目下、花婿募集中なのである。

 髭の工事作業員は、屋敷の正面側の外壁に張り付いて、コテを手に補修作業をしているようだった。側面側にいる仲間たちから一人離れているので、まるでジューンを待っているように見えた。足音に気づいて、彼は振り返った。髭の顔が、満面の笑顔になった。

「やあ、また来たね」

 昨日と同じ感覚に襲われる。身体が芯から震えて、頭で考えていたことが空っぽになった。男はコテを地面に置き、立ち上がると、ジューンに向かって両腕を広げた。

「なんでもお教えしますよ、お嬢さん」

 一瞬、男のたくましい胸に抱きしめられた錯覚がした。

 ジューンは息をつき、平静を装うことに全神経を集中させた。鼓動の高鳴りをあえて無視し、思い切って眼を見上げた。

「あの……男爵さまのご令息のことを……」

 思ったより弱々しい声しか出ない。男の濃褐色の瞳がいたわるように微笑んだ。

「エドマンドのことだね。二十二歳、髪は茶色、眼も茶色。……他には?」

「あの、独身でいらっしゃいますか?」

「うん」

「ご婚約は?」

「そんなのまだだよ!」

 男は弾かれたように笑った。

「そうなのですね、よかった。では、エドマンドさまはどんなお方ですか?」

「どんな……!」

 髭の男はぎょっとして眼を丸くし、思案顔になった。やがて、彼はにんまりと唇の両端を上げて、大きな手で頬髭を撫でつけながらこう答えた。

「エドマンドはねぇ、外見は普通並みだけど、中身はなかなか見所のある男だよ」

「そうなのですね。下々の者にも優しくしてくださいますか?」

「……どうだろう? でも努力はしている」

「それはよかった。では……背は高いですか?」

「そうだね、けっこう高いほうだよ」

「へえ~! もしかして、あなたよりも高いのですか?」

 男は言葉に詰まり、しばらく固まった後に、こう答えた。

「いや、比較したことはないかな」

「あ、そうですよね。すみません、変なことを訊いてしまって」

「きみはどうしてそんなにエドマンドに興味があるの?」

 ジューンは返答に困ったが、すぐにお嬢さまを売り込むチャンスと考えた。美しい令嬢の噂を広めて、いち早くエドマンドさまの耳に入るよう仕向けるのだ。

「わたくしがお仕えするサー・ウォルター・ブルームフィールド准男爵には、エドマンドさまと歳が近い、十八歳の、それはそれは美しいお嬢さまがいらっしゃいます。金髪に青い瞳で、すらりと背が高くて、とてもスタイルがよろしくていらっしゃいます。そのうえ聡明で、寛大な、すばらしいお嬢さまです」

 ジューンはにこやかに紹介をした。

「そうなんだね」

 男の反応はそっけなかった。

「エドマンドさまがネザーポート屋敷に移られましたら、お嬢さまとお会いになる機会もあるかと思います」

「エドマンドはきみのお嬢さまと仲良くなれると思うから、心配いらないよ」

「そうですか? それなら良かったです」

「それより、もし良かったら、名前を教えてくれる?」

「キャサリン・ヘンリエッタ・ブルームフィールドさまです。ご家族の皆さまは、ケイトや、ケイティとお呼びになります」

「いや、ミス・ブルームフィールドではなくて、きみの名前を」

「わたくしですか?」

 ジューンが訊き返すと、髭の男ははっとしてこう言った。

「これは失礼を。ぼくはジョン・スミスといいます。大工の見習いをさせてもらっています」

 本当に? と喉元まで出かかった。ジョン・スミスとは、まるで例文のような名前である。

「わたくしはジューンと申します」

 すると、ジョンは顔中をほころばせて、右手を差し出した。

 その手に触れることはためらわれたけれど、拒否するわけにもいかなかった。

 全力で平静を装いながら、一回りは大きい手を握り返した。感触と温もりの気持ちよさで震えて、それが全身に広がる心地がした。今の自分の顔はどんどん火照って、赤くなっているに違いない。恥ずかしくて逃げ出したいのに、もう一度彼の眼を見たいという気持ちが勝った。顔を上げると、ジョンは穏やかに微笑んでいて、半月形の眼の中で、濃褐色の瞳が澄みきっていた。

 ジューンは思いつくままに礼を述べて、逃げるように立ち去った。もう尋ねることも残っていない。その日以来、ネザーポート屋敷の工事現場に行くことはなかった。


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