5-3
「名前も怪しいな」
アダムス牧師は憮然と眼を細めた。
「はい……本当にジョン・スミスという名前の方には大変申し訳ないのですが……」
「髭も伸ばしすぎだろ」
「……それは別にいいんじゃないですか? 個人の趣味の問題ですから」
ジューンは少しむっとした。
「髭はともかく、偽名を使っているのだとしたら、真っ当な人物ではないな」
アダムス牧師は忌々しげに首を横に振った。
「でも、もし偽名をつけるとしたら、普通はもっと別な名前にすると思います」
ジューンは飛びつくように反論した。
「確かに、そうかもしれん。だが……どうも彼は信用ならない」
アダムス牧師は顔をしかめ、かすれ声でつぶやいた。ジューンはとっさに何か言おうと口を開きかけたが、何も言葉が出なかった。反発する気持ちと同意する気持ちが一時に沸き起こり、吐き気となって胸に込み上げた。アダムス牧師は心配そうにジューンの顔を覗き込んだ。
「ジューンはしっかりしているから、悪い男に騙されるとは思っちゃいないよ。けれど、若い独身女性を狙った詐欺事件が起きていることも事実なんだ。彼が金の無心をしてくることがあったら、疑った方がいい」
アダムス牧師が突然何の話を始めたのか、はじめは意味が分からなかった。そして、衝撃を受けた。ジューンは今の今までそんな可能性を、まったく思いつきもしなかったのだ。
「でも、ジョンは全然お金に困っているようには……。食事代も払ってくれましたし……」
うろたえるあまり、思いついたことをそのまま口走っていた。
「詐欺師というのは、最初はそうやって信用させるものなんだよ」
アダムス牧師は諭すように言った。
「わたしなんかを、どうして? 大金を持っているわけでもないのに」
ジューンは眼の端にジョンの姿を捕らえながら、すがるようにアダムス牧師を見上げた。
「そうは言っても給料を貰っているだろう? 自立して働いている独身女性が一番狙いやすいんだ。金持ちの令嬢は常に親やら付き添い人が眼を光らせていて、簡単に近づけない」
「それはそうですけど、でも、彼はとてもそんな人には……」
ジューンが食い下がると、アダムス牧師はにっと口の端を引き上げて笑った。
「わたしはなにも、ジョンを詐欺師だと言っているわけじゃない。違うのならそれで良いし、多分違うのだろう。ただ、巷には悪い奴もいるから、さっきの話を頭の片隅に置いて、用心することを忘れないで欲しいというだけさ。いいね?」
「はい……」
心情としては釈然としないものが残ったが、そう言われては頷くより他なかった。
ジョンが子供たちの手を逃れて、小走りに近づいて来た。アダムス牧師は軽く会釈をして行ってしまった。
「なんの話?」
ジョンは息が上がって、髭の下の肌がピンクに色付いていた。
「いえ、あの、大した話では……。アダムスさんが、子供たちと遊んでくれてありがとうって……」
ジューンは気が動転した時のごまかし笑いが出ないように注意しながら言った。
「そうか。じゃあ、そろそろ移動しようか。実はね、今日はネザーポート屋敷に行かなきゃならないんだ。施主のホワイトストン男爵が、急に工事の様子を見に来るっていうから、案内をしなきゃならない」
「えっ、ジョンが、男爵を案内するんですか?」
ジューンは眼を見開いた。ジョンは袖で顔の汗を拭ったり、シャツの乱れを直したりしていた。アダムス牧師のことはもう忘れたし、ホワイトストン男爵のことも、まるで友達が遊びに来るという程度にしか考えていないように見えた。
「うん。近くまで来たから、ついでに来るんだってさ。申し訳ないんだけど、その間ジューンは門番用ロッジで待っていてくれるかな。案内は一時間もかからないと思うから」
二人は自転車でネザーポート屋敷へ移動した。門番用ロッジでコーヒーを飲みながら出窓から見張っていると、果たして石塀の向こうに、二頭立ての無蓋馬車が現れ、ゆっくりと曲がって門の前で止まった。ジョンは出迎えるために出て行き、ジューンはそこで様子をうかがった。
無蓋馬車にはパラソルを掲げた白いドレスの婦人と、黒いフロックコートの初老の紳士が乗っていた。そして向かい側の座席にもう一人、ジューンの眼からは斜めに背中を向けるかたちで、黒い礼服姿の紳士が座っていた。
それだけ認めると、ジューンは気づかれないうちにと、窓枠の外側へ姿を隠した。ジョンが門扉を開けたらしく、馬車が敷地へ入って来る音が聞こえた。馬車の音が止み、何かやり取りをする話し声が数回聞こえた。そして再び馬車が走りだす音がして、その音は徐々に小さくなり聞こえなくなった。
ジューンはすることもなく、門番用ロッジの中を歩いた。居間の奥にはまだ部屋があるらしく、キッチンの反対側に入ったことのない扉が一つあった。小さな玄関ホールには、一人通るのがやっとという狭い階段がある。ジューンは薄暗い二階をしばらく見上げていたが、次に玄関ホールの壁際に目を移した。そこには白木のスツールが置かれていて、その上に、鍵束があった。
ジューンはそれが何を意味するのか考えたのち、鍵束を引っ掴んで外に飛び出した。ジョンの自転車にまたがり、走り出す。
ネザーポート屋敷の正面に続く馬車道はS字型に曲がっている。林の中を中間地点あたりまで来ると、前方のカーブからジョンが現れた。鍵を忘れたことが恥ずかしいのか、照れ笑いしながら走ってくる。
「ありがとう! 助かったよ、本当にありがとう!」
鍵束を渡すと、ジョンは息を弾ませながら言った。
「ジューン、門番用ロッジの二階にある本とか新聞とか、好きに読んでいいよ。退屈だろうけど、しばらく待っていて。なるべく早く戻るから」
「わかった」
ジューンが頷くと、ジョンは嬉しそうに微笑んだ。
その背後に、近づいて来るもう一つの人影があった。
二十代前半と見える若い男で、黒のモーニングコートに格子縞のズボンとトップハットの礼服姿である。ジョンと同じくらい背が高いが彼ほど逞しくはなく、細身ですっきりと直線的な体型をしている。髪は明るい茶色で、襟足を長く伸ばし、細い三つ編みにして前に垂らしていた。奇抜な髪型をしているのに品が良く、驚くほど端正な顔立ちをした青年である。
彼は不思議そうにジューンを見ていたが、ジョンが鍵束を見せて「行きましょう」と促すと、帽子を少し持ち上げて会釈をした。ジューンは、はっとして膝を曲げ、礼を返した。
同じ年頃の、二人の青年の後ろ姿が遠のいて行った。傍らに自転車を支えながら、ジューンはそれを見送った。
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