第三章 初恋の動悸とめまい

 日曜日の午前、コッツワース屋敷の使用人は村の教会に行く。礼拝が終わり、ジューンは同僚たちと共に、教会から村の大通りにつながる小路を歩いていた。

 前方に、焦げ茶色の髪をした長身の男が立っていた。顔は髭に覆われていて、額や首筋は、伸び過ぎた髪に包まれている。頭にはツイードのハンチング帽があり、白いシャツと、だぼっとしたベージュの綿ズボンに、古びた茶色のベストを身に着けている。背の高さと暑苦しい容貌で人目を惹いているのに、なるべく目立ちたくないとでもいうように、ぶ厚い胸板をすぼめるようにして、行儀よく両手を身体の前に重ねて佇んでいた。

 その姿を認めた途端、ジューンは身体が熱くなる。

 彼は村人だったのか。それとも村人の親戚なのか。思わず目を逸らして、予想を巡らせた。動揺を悟られないように、素知らぬ顔で通り過ぎなければと思った。しかしすぐに、自己紹介までした間柄なのだから、挨拶するのが礼儀だと気が付いた。

 ジューンは立ち止り、意を決して、その顔を見上げた。

「先日はどうも。ありがとうございました」

 軽く膝を曲げ、会釈する。ジョンは安堵したような微笑を浮かべた。

「よかった。覚えていてくれたんだね」

「もちろんですよ。今日は礼拝ですか?」

「うん、まあ……」

 ジョンは曖昧に答えて、口籠った。ジューンの背後を、使用人の仲間たちが何だろうという視線を送りながら通り過ぎて行った。

「コッツワース屋敷のメイドだということだったから、日曜日にここに来れば会えるんじゃないかと思って、来たんだ」

 ジョンは一本調子にそう言った。

「わたくしに、ですか?」

「うん、そうだよ」

 ジョンは食い入るようにジューンを見つめている。その様子にただならぬ何かを感じながらも、ジューンはそれが何なのか分からずに、ネザーポート屋敷に忘れ物でもしただろうかと記憶を探った。

「どういうご用件でしょうか?」

 すると、ジョンの顔から表情が消えた。彼は背筋を伸ばし、一つ息を吸って、吐いた。

「もしよかったら、少しお話しませんか?」

「はい……」

 ジューンはまた身体が熱を帯びるのを感じた。再び微笑んだジョンの、優しげな濃褐色の瞳に吸い込まれそうだった。

 コッツワース屋敷の敷地の入り口に向って、ほんの五百フィートほどの道のりを、ゆっくり、ゆっくりと歩く。

「日曜日は毎週教会に?」

「はい」

「仕事は休みなの?」

「いえ……、日曜日は隔週で、午後が休みになります」

「じゃあ今日は……」

「今日は勤務の週です」

「そうか……」

「はい」

 緊張して、頭の中が混乱して、何を話せばいいのか全然分からない。ジューンはジョンの質問に答えるので精一杯だった。そしてそれすらも、上手には出来なかった。

「今日も制服なんだね? すぐに仕事に戻れるように?」

「いえ、あの、私服を着るのが面倒くさいというか……、すみません」

「いや、構わないけど……」

 しまった。つい癖で、必要のないところで謝ってしまう。

 そのせいで、気まずい沈黙。どうしよう!

 心臓がバカみたいに大急ぎで鼓動を打ち、せり上がってきて口から出そうだ。顔面蒼白になって隣を見上げる。ジョンは思いのほか穏やかで、ジューンの視線に気づいて微笑みかけた。

「暑くなってきたね。ジューンは夏は好き?」

「な、なつ……?」

 わからない! 夏が好きかどうかだなんて、そんなこと、訊かれたこともないし考えたこともない!

 何が好きで、何が嫌いか。

 自分の好みなど問題にされない境遇で生きてきた者にとって、これは分かりにくい概念なのだ。

 ジューンは必死で自問したが、今はこのような難問の答えを出せるような精神状態ではなかった。考えようとすればするほど頭が真っ白になり、焦り始めるとますます考えられなくなった。

「ええと……、ええと……、季節って、好きとか嫌いとか言うものなんですか?」

 そんなつもりはないのに、こう尋ねるとまるで責めているみたいだ。しまったと思うがもう遅い。

「言わないかな?」

 ジョンは自信なさげだった。

「いいえ、いいえ、わたしがよく分からないだけなんです! よく分からなくて、つい……すみません!」

 ジューンは先ほどの発言をかき消したくて、手を振り回し、首を横に振りながら否定した。慌てすぎて、頭が茹りそうである。

「それじゃあ、……歩くのは好き?」

 ジョンがなだめるような微笑みとともに、またまた難問を繰り出した。ジューンは冷静になることに気持ちを集中させた。

「……それは……あの……、馬車と比べてということですか? それとも走るのと比べてですか?」

 馬車より歩くほうが疲れるから嫌い。走るより歩くほうが楽だから好き。……これで正解だ!

 ところが、ジョンは吹き出すように少し笑った。

「えっと……、これは言い方が悪かったな、ごめん。散歩が好きかどうか、知りたかったんだ」

「あ、散歩ですか……!」

 一気に顔に血がのぼった。

「それは……よくわかりません。用事がなにもなくて、散歩するためだけに外出することはないかもしれません」

 ジューンは恥ずかしくて、たまらずに下を向いた。

「そうか……メイドさんは忙しいからな……」

 ジョンの声はいたまし気にかすれていた。


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