13-5

 ジューンは、彼を助けたいという気負いのあまり、緊張で動悸がしながら、必死に考えを巡らせた。彼は何か、口に出すのがはばかられることを、ジューンに頼もうとしているのだ。はっきりと言葉で言わなくても、ジューンが察することを望んでいる。

「わかりました。あなたは昼食会の招待客の皆さまの前で、婚約者がいないと何か不都合があるのですね? つまり、あなたがわたしに頼みたいことというのは、あなたの婚約者のふりをするということなのですね?」

 エドマンドが無言のまま、何度も首を横に振った。ジューンは構わずに続けた。

「ですが、この服はどう見てもメイドの制服ですし、それに、招待客の中にはブルームフィールド家もいらっしゃるのです。彼らにはわたしが偽物だということが分かってしまいます」

「違う違う、違う。ふりをするんじゃない。婚約者になるんだよ」

 エドマンドは両腕を広げて、さっきよりもやさしくそう言った。

「わたしが、婚約者になる?」

 心臓が大きく音を立てた。ジューンの身体は震え、足から力が抜けそうだった。

「そうさ!」

 エドマンドの表情が輝いた。彼は両腕を広げたまま、そこにジューンが飛び込んでくるのを待っているようだった。

「あなたの言う意味が、よく分かりません」

 ジューンは立っているのもやっとの状態で、あえぎながら答えた。

 胸の中に、惨めさが広がっていく。

 こんなことを言い出すなんて……! 彼は、ジューンがラングリー氏と以前に会っていることを知らず、レディ・フローラという婚約者の存在を、ジューンが知っているとは知らないのである。

「ああ、もう、どうして分からないんだよ、はっきり言っているのに」

 エドマンドはじれったそうに両手を上下させた。

「だって、わたしがあなたの婚約者になれるわけがありません」

 婚約者は他にいるのだから……。しかし、それを言えばラングリー氏を裏切ることになる。

「なれるに決まってる! …………きみさえ構わなければだけれど……」

 エドマンドは急に弱気になった。

「構います」

 ジューンはきっぱりと言った。エドマンドの濃褐色の瞳が、傷ついたようにぶるっと揺らいだ。

「わたしはメイドです。ドレスも着られなかったし、礼儀作法もわかりません。だいたいそんなこと、誰も信じませんよ」

 ジューンは本当に訊きたいこととは違う言葉をつないだ。

「うわべのことなんかどうでもいいんだよ。人がどう思おうと関係ない」

 エドマンドは必死だった。少なくとも、そのように見えた。

 けれど……ジューンは冷静になろうとした。感情に流されずに、理性的であろうとした。

 彼が、……ホワイトストン男爵家の嫡男である彼が、メイドと結婚しようとするはずがない。

 それも、ジューンのような暗くて卑屈な女と……。

「わかりました、これは昼食会の余興なのですね! わたしにドレスを着せて、伯爵令嬢かなにかに仕立て上げて、あなたの婚約者だということにして、最後に、『実はただのメイドでした!』と種明かしをする。そういう冗談をするのですね!」

 ジューンは思い切って、人生の中でこんなに明るかったことはないというぐらい、めいっぱい陽気にそう言った。エドマンドの表情が、見る見る険しくなった。

 怒らせるなんて、誰が予想できただろうか。彼は叫ぶように言った。

「なにをバカなことを言ってるんだ! ぼくは真剣なんだよ! いま真剣に、きみにプロポーズをしているのに!」

 沈黙が流れた。

 昂った顔を見合わせたまま、二人は呼吸をする。

 エドマンドは返事を待っていた。ジューンの、どんな僅かな意思表示も見逃すまいと眼を見開いて。

 やがて、ジューンは口を開いた。

「……とても……無理なんですよ、出来ないのです」

 消え入るような声だった。エドマンドは痛ましげな顔をした。

「どうして……?」

「どうしてって、当たり前です。今だってそうではありませんか? 使用人ホールではなく、応接間に降りて行って、紳士淑女の方々に挨拶をする。……わたしに出来ることではありません」

 ジューンはもっともらしい理由を選んで口にした。

「きみなら大丈夫だよ。いつだって礼儀正しいじゃないか」

 エドマンドは安心させるように少し微笑んだ。ジューンは身を縮めて首を横に振った。

「普段は取り繕っていたとしても、ふとした時に育ちの悪さが出るものなのです。かならず、恥をかくことになります」

「恥をかいたっていいんだよ。そんなの何ともない」

「わたしは構いません。けれど、あなたに恥をかかせるわけにはいきません」

「恥なんか何ともないし、恥だとは思わない」

 エドマンドは断固とした調子で言った。ジューンもまたきっぱりと答えた。

「いいえ、あなたの人生の足を引っ張るわけにはいきません。わたしはあなたには相応しくありません」

 エドマンドは困り果てたという顔になり、なだめるような調子でこう言った。

「そんなことはないよ。とにかく、きみが心配しているようなことは全部大丈夫だ。ぼくが大丈夫なようにする。どうか信じてほしい。お願いだから、今は気持ちを落ち着けて、ぼくの言う通りにしてほしい」

「応接間に行くことは出来ません!」

 ジューンは身を縮め、追い詰められたように声を荒げた。エドマンドが息を呑む気配がした。ジューンはうつむき、もう彼の顔を見上げることが出来なかった。

「ジューン、どうか……」

 エドマンドの両手が、ジューンの視界に伸びてきた。

 突然に、ジューンは悲しくなった。自分自身の存在が、とても悲しかった。

 わたしはそれをしてはいけないのだけれど、もし、今、ありったけの勇気を出してこの手を取れば、その先には何が待ち受けているのだろうか。

「無理です。とにかく無理なんです! わたしには無理なんです! わたしは結婚とかが出来るような人間じゃないんです!」

 言ってしまった。

 ジューンは身をすくめ、うつむいた。

 彼がどんな顔をしたのか見えない。恐ろしくて、とても見ることができない。

 ややあって、声が降りてきた。

「分かった……。無理を言ってごめん。ぼくが悪かったよ」

 思いもよらない、やさしい声音だった。そして、温かな手が、ジューンの頭を撫でた。

「ごめんなさい……」

 かすれた声とともに涙がこぼれた。

 エドマンドはジューンを抱きしめた。

「大丈夫、大丈夫だからね……」

 頭や背中を撫でながら、彼はささやいた。

 ジューンは使用人の裏庭で慰めてもらった時と同じように、自分が普通の子供に変わるような感覚がした。そんな子供だった経験もないのに。コッツワース村の無邪気な子供たち。小学校で、ジューンをいじめて笑っていたあの子たちと同じような、幸せな子供に。

 ジューンは一瞬、彼の腕の中で、心のまま思い切り声を上げて泣く自分を想像した。この優しい人は、わたしの恐れを消し去り、わたしを変えてしまうだろう。

「……ごめんなさい、……本当にごめんなさい、……申し訳ありませんでした」

 ジューンはゆっくりと両手で押して、エドマンドを突き放した。逆らうでもなく彼は離れた。ジューンは顔を上げ、袖で頬をぬぐった。

「わたしときたら取り乱してしまって、泣くなんて、なんとお詫びしたらよいか分かりません」

 謝ったそばから、また涙が溢れてきた。ジューンは反対側の袖でふき取った。

「わたし、帰りますね。大切な催しのさなかにお邪魔してしまって、申し訳ありませんでした」

 エドマンドが悲痛な面持ちをして、言葉が見つからないというように立ち尽くしている。そんな顔をして欲しくないのに。怒ってもいいのに。ジューンはまた涙が出た。袖口で拭いながら隠すようにうつむき、ソファーに置いていたエプロンと帽子を取り上げた。

「では、失礼いたします」

 ジューンは片足を引いて膝を折り、お辞儀をした。新たに流れてきた涙で顔が濡れていたが、精いっぱい微笑んだ。

「待って、まだここにいて。送って行くから」

 エドマンドは我に返ったようになり、扉に立ちふさがりながらそう言った。

「玄関に馬車を回すから、少しここで待っていて欲しい。それから、父上に中座すると伝えてくる。すぐに戻るから、少しここで待っていて。いいね? すぐに戻るから、ここにいるんだよ」

 エドマンドは返事も聞かずに急いで出て行った。

 涙を拭きながら、ジューンは言われた言葉を思い返した。彼は中座すると言った。ジューンのことを自分で送って行くつもりなのだ。

 また涙があふれた。ジューンはエプロンに顔をうずめて泣いた。

 もうこれ以上、彼を煩わせることはできない。

 ジューンは顔を拭き、エプロンと帽子を身に着けると、そっと廊下に出た。

 使用人エリアの扉まで行き、振り返る。手すり子の間から、すぐに戻ると言った言葉通りに、エドマンドが主階段を駆け上がってくるのが見えた。ジューンは逃げるように、使用人エリアに飛び込んだ。

 階段で従僕とすれ違い、会釈を交わした。半地下の廊下では、上級使用人の恰好をした女性と出くわした。居間で会った女性とは別人である。

「あなた、うちのメイドじゃないわね。どちらの方?」

 ジューンは震え上がりながら答えた。

「コッツワース屋敷の……」

 怪訝そうだった女性の顔つきが、友好的に変わった。

「まあ、ブルームフィールド家の? 何かお困りですか?」

 女性はジューンのことを、招待客が付き添いに連れてきた使用人だと思ったようだった。

「いえ、あの、外に出たいのですが……」

「それなら、ここをまっすぐに行って、突き当りを左へ。すぐ左手に戸がありますから、そこを出てください」

 女性は廊下の奥を指し示して言った。

「はい、ありがとうございます」

 ジューンが膝を折ると、女性は微笑み、軽く会釈をした。

 使用人の通用口を出て階段を上ると、そこはラングリー氏の馬車を降りた場所である。

 ここから屋敷の正面側に行けば、また誰かに見咎められるかもしれない。ブルームフィールド家の人間に見つかる可能性もある。ジューンは裏道を使って遠回りし、しかし来た時と同じ門から出ることにした。庭園の中の道は改装工事中に散歩をしたので分かっている。そしてその門なら、確実に怪しまれずに出られるのである。


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