11-3

 アフタヌーンティーの準備をしているうちに、先ほどの出来事が脳裏によみがえってきた。ジョンの腕の中に、優しく抱かれている自分。それを思うと、赤面せずにはいられなかった。

 しかし勘違いしてはいけないのだ。

 あの時のジューンは、ジョンにとって村の子供たちと同じようなものなのだ。抱きしめてくれたのは大人として当然の振る舞いなのである。

 さもなくば、人類愛によるものなのである。

 決して、愛されているなどと思い上がってはいけないのだ。

 翌日の日曜日は約束通りジョンと落ち合い、ネザーポート屋敷で整備の終わった庭園を散歩した。

 二人きりで林を歩き、眺めの良い場所でベンチに腰掛けた。目の前に灌木の茂みがあり、その向こうに芝生が広がり、整形庭園の縁まで続いていた。ツゲをきちんと刈り込んだ濃い緑の生垣の向こうには、白亜の屋敷が夢の中の景色のように、優美な姿で佇んでいた。

 屋敷の外壁は補修が終わり、工事用の足場もすでに取り払われている。何度も訪れたので、ネザーポート屋敷にも愛着がわいた。ふと、ここで働いていると錯覚を起こすほど。

「よかった、今日は昨日よりは少し元気になったように見えるよ」

 ジューンの隣でジョンが前屈みになり、顔を覗き込んだ。

「そうですね」

 ジューンははにかみながら微笑みを返した。

 それはあなたと一緒にいるからです。心の中で言って、いっそう恥ずかしくなった。こんなことは、自分のこととも思えない。一人でいるよりも、誰かといる方が安心するなんて……。ジューンはジョンが詐欺師かもしれないということを忘れそうになっていた。

「実は、ぼくの方も昨日、少し悲しいことがあってね」

 ジョンは遠くに視線を移してそう言った。髭もじゃの横顔が沈んでいるように見えて、ジューンは姿勢を正した。

「よかったら聞かせてください。何か力になれるかもしれませんから」

 深刻な声を出しすぎたのか、ジョンの顔が苦笑いになってこちらを向いた。

「そんな大したことじゃないんだ。手紙が届いたんだよ。ちょうどきみがバースにいる間に面接を受けた設計事務所からで、アシスタントとしての採用は見送らせていただきます、と」

 意外過ぎて、ジューンは思考の基礎がひっくり返るような心地がした。

「えっ、ジョンは……就職するつもりだったのですか? 設計事務所に?」

 ジョンはなぜ驚かれるのか分からないという顔をした。

「そうだよ。建築家の夢への第一歩なんだ」

 ジューンは深く頷いた。あの夢の話は、嘘ではなかったということだろうか。ジョンは続けた。

「本当は採用されてから話したかったけど、しょうがない。すぐにまた別の設計事務所に手紙を書くよ。候補はもう挙げてあるんだ。とにかく、どこかの設計事務所か建築会社に就職する。なるべく早くね」

「はい。次は絶対に採用になると思います」

 ジューンは、ジョンを雇わない人がいるなんて信じられなかったので、心からそう言った。ジョンは安堵したような笑みを浮かべた。

「それで、今後の計画なんだけど、建築家のアシスタントになったら、しばらく修行することになると思う。できれば三年ぐらいがいいけど、もっとかかるかもしれない。一人前になったら独立して、自分で事務所を開く。軌道に乗るまでは苦労するかもしれない。思っていた以上に大変そうだよ、建築業界は。何がって、体質が古いんだ。大学で学位を取ったけど、現場では徒弟制度が基本でね。建築学を専門の学問分野として認識していない人も多い。学位があると言っても、ぽかんとされることがあるよ。工事現場で働いた経験の方が重要視されているのだと思う」

「じゃあ、ここでの工事の経験が役に立ったのですね……」

 ジューンは内心、呆然としていた。ジョンが、そもそも大工ではないことを、自分から告白している。大学で学位だなんて、労働者ではなく知識人だということは、隠しているのではなかったのですか。

「ああ、いい経験ができたよ。……それで、下積みが何年になるか分からないし、今の段階ではアシスタントになれるかどうかも……。でも、心配しないで!」

 ジョンは落ち込んでいる相手をどうにか励まそうとするように、不自然に明るい声を出した。元気づけられなければいけないのはジョンの方なのに。ジューンは申し訳なくなりながら、無理に微笑んだ。すると、ジョンはコーヒーみたいな濃褐色の瞳を無邪気に輝かせて、はっきりとこう言った。

「ジューン、実はね、ぼくは将来、祖父の財産を相続する予定があるんだ」

「えっ!」

 ジューンは素っ頓狂な声を上げた。そんなことを言ったら、金を無心するときに都合が悪くなるのでは? ジョンは慌てたように付け足した。

「あっと、期待しないで。財産と言っても大した額じゃない。コッツワースみたいなのを想像しちゃだめだよ。ロンドンにフラットが三軒と、ノーサンプトンに屋敷が一軒、あとは公社債と株式なんだけど、贅沢をしなければ、働かなくても暮らしていけるぐらいは相続できるはずなんだ」

「それは……すごいですね」

 ジューンには彼の打ち明け話が何のためなのか、全く分からなかった。

「大したことはないよ。でも……、だから……」

 ジョンは言おうかどうか迷うそぶりを見せた末に、こう言った。

「生活費の心配はしなくていいから」

「はい」

 ジューンは実のところ、別段ジョンの生活費の心配はしていなかったのだが、そこは言わずに、ただ微笑んだ。ジョンは微笑みを返し、満足げに頷いた。

 彼の話は、それで終わったようだった。ジューンは訳が分からず、困惑したまま考えを巡らせた。

 ジョンは本当に設計事務所に就職するのだろうか。大学とか財産とか、本当なのだろうか。なぜ急にそんな話を?

 初秋の庭園を眺めているジョンの横顔は清々しく、ジューンを混乱させているとは夢にも思っていないように見えた。


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