3-2

 再び沈黙。気まずくて、数秒が失神しそうなくらい長く感じる。

 肺に空気が入りにくいような感覚が始まった。すると、ジョンが思いのほか軽やかに話しかけた。

「コッツワース屋敷はどんな建築かな? この辺から見える?」

 ジョンは歩きながら伸び上がるようにして、生垣の向こう側に林立する樹木の隙間から、遠くを見通そうとした。二人が歩く道は、コッツワース屋敷の敷地の外縁だった。

「いいえ、外の道からは見えないんです。門を入って、庭園を通ってからでないと、お屋敷は見えません」

「きっと見事な風景庭園なんだろうね?」

「た、たぶん、そうだと思います」

 ジューンは庭園の評価をよく知らなかったので、息が詰まりそうになりながら答えた。

「大工の先輩に教えてもらったよ、コッツワース屋敷は赤煉瓦のきれいなお屋敷だって。ネザーポート屋敷より大きいみたいだね?」

「はい、たぶん、少し大きいと思います」

「ネザーポート屋敷の工事は順調だよ。……ジューンは古い建築は好き? 新しい建物の方がいい?」

 ジューンは心の中で悲鳴を上げた。建物の新旧なんて、意識したことがあるだろうか。新しい方が仕事がしやすいような気はするが、一般的には古い方が価値が高いと言われている気がする。

「えっと……どうでしょうか、わかりません」

 考えることを諦めてそう答えた途端、情けなさと恥ずかしさと、申し訳なさが胸に溢れた。いよいよ感情が乱れて、思考どころではなくなっていく。

 ジョンはそうとは気づかずに、話を続けた。彼の気軽な質問は、ジューンにとっては裁判所の尋問くらいに重かった。ろくに物事を考えられない精神状態の中で、ジューンはまるで生死を左右するかのように、必死で正しい答えを返し続けた。

 次に我に返った時、ジューンは使用人ホールで同僚たちとともに昼餐の席に着いていた。目の前にはコンソメスープの皿があり、その両脇にカトラリーがあり、背後からホールボーイがグラスに水を注ぎ回っていた。大きな長テーブルにはキッチン部門以外の屋内使用人が勢揃いして、役職の階級順に座っている。一番奥の上座が執事のメイフェザー氏で、その隣が家政婦長のミセス・ウィンスレットである。

 ジューンは状況を把握しようと周囲を見回し、すでに食前の祈りも終わっていることを知った。ジョンとは門の前で別れた。それから敷地内の馬車道を歩き、屋敷の後ろ側へ回って木製の門から裏庭に入り、使用人の通用口から半地下にある使用人ホールに戻った。そこでしばらく過ごしたのち、昼餐に至ったはずなのだが、ジョンと別れた後の記憶がない。

 極限まで緊張した後の、放心状態だったのだろう。

 昼餐の最中はおしゃべり禁止という規則なので、ジューンの思考は否応なく過去の反省へと没入していった。豆の煮込みを口に運びながら、教会からの帰り道の、ほんの十分ほどの出来事を、何度も何度も思い返した。

 会話というものは、なんと難しいのだろう!

 ジューンの受け答えは、言葉も態度も全部最悪だった。ジューンが明るく感じの良い応対をしなかったせいで、ジョンは気まずく不愉快な思いをしただろう。

 別れ際にジョンは「また来ていいかな?」と言った。それは社交辞令なのだ。彼はジューンのことを、一緒にいても楽しくない子だと分かったから、もう来ないだろう。

 いったい、どうすれば正解だったのだろう? なんと答えて……たぶん、真実なんかどうでもよくて、肯定的で楽しい返事を。どんな風に……たぶん、とにかく笑顔で。そんな風に応じることが出来ていたら、もう一度、彼に会うことが叶ったのだろうか。

 その後何日も、この考えはジューンを捕らえて放さなかった。一日が終わり、疲れた身体をベッドに横たえるたびに、ジューンはジョンのことを思い出した。そして、己を呪わずにはいられなかった。

 再び日曜日がやって来た。ジューンは朝から落ち着かなかった。

 礼拝の最中に、もしや居るかもしれないと思った。教会の中ほどの席にいたジューンは、振り返って後方の席を見回した。

 中央の通路を挟んだ向こう側の、一番後ろの列に、ジョンを見つけた。容貌が目立つからすぐに分かる。彼はジューンに気づき、ぱっと右手を挙げて微笑んだ。ジューンは無意識に、満面の笑顔を返していた。

 自分で自分に驚いた。わたしは何をこんなに、思い切り笑っているのだろう?

 前に向き直ってからも、ジューンは顔が自然に笑うのを止められなかった。

 礼拝が終わり、参列者が教会から吐き出された。ジューンは使用人の仲間たちをそれとなく先に行かせて、外で待っていたジョンと落ち合った。使用人の群れはすでに話が聞こえないくらい前の方を歩いている。

「一週間ぶりだね」

 そう言って、ジョンは少し照れたように微笑んだ。ジューンの胸の内を、幸福な感覚が広がっていった。

「そうですね……」

 会いたかったと、もう少しで言ってしまいそうだった。

 ジョンはもう好みを尋ねる質問はしなかった。お互いの仕事の話を少しした。先週より口数が少なかった。沈黙が訪れると、胸の鼓動が響くのが分かった。けれど、もう焦って混乱することはなかった。

 心地のよい興奮と喜びで、身体が満たされている。ジョンもまた、眼を半月型にしてずっと微笑んでいた。二人はお互いの休日と休憩時間を確認し合って、昼餐後の十四時ごろに教会でまた会う約束をした。

 コッツワース屋敷の門に着き、ジューンだけ中に入った。鋳鉄の格子を挟んで、二人は見つめ合いながら挨拶を交わした。馬車道をしばらく行き、振り返ると、ジョンはまだそこに居てこちらを見つめていた。手を振りながら、ジューンは後ろ歩きで遠ざかった。馬車道はゆるやかにカーブして、やがて人工林の向こうに彼の姿が見えなくなった。ジューンは前に向き直り、屋敷に向かって駆け出した。

 これはなに? 何が起こっているの?

 生まれて初めての世界に、落ちてゆこうとしている。

 ジューンは戦慄し、足元の地面がぐらつく錯覚がした。その感覚を打ち消すように、ジューンはさらにスピードを上げて走った。


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