第44話 家督相続

 元中三年(一三八六年)正月、千早城の背後に迫る金剛山は、いただきに雪を載せている。年が明けて五十七となった正儀も、同じく頭に白いものが混じっていた。

 前年に大きな痛手を負った楠木党は、実質、赤坂城から千早城に至る河内の山岳部に押し込められる。正儀は息子の正勝・正元とともに、幕府軍の急襲に備えるために、楠木館を空けて、楠木本城である赤坂城(上赤坂城)に居を移していた。そして、楠木正顕まさあきとその息子の正通まさみち正房まさふさを、仁王山におうざん城から、千早城に移した。

 新年を迎えた正儀は、数え十五歳となった多聞丸に元服を執り行うこととする。赤坂城には楠木一族は元より、和田正頼・正平まさひら親子らの一門、傳役もりやくの和田判官はんがん良宗、河野辺又二郎正友、菱江庄次郎忠儀、服部十三じゅうぞう成儀なりのりら家臣が集まった。

 烏帽子親えぼしおやは正儀の舎弟、正顕。かしこまる多聞丸に正顕が侍烏帽子さむらいえぼしを載せて、頂頭懸ちょうずがけあごの下で結んだ。

 続けて、正儀が書き物を手にして多聞丸にかざす。

「お前に正秀の名を与えよう。今日からそなたは、楠木九郎正秀と名乗るがよい」

「大殿(正儀)、ありがとうございます。父(橋本正督まさただ)のような立派な武将となれるように励みまする」

 そう言って、多聞丸改め楠木正秀は頭を下げた。

 後ろに控えた傳役もりやくの良宗は、かつての主人である正督まさただを思い出したかのように、じっとその姿を見つめ、感極まっているようであった。

「お前には、楠木正成、楠木正行まさつら、橋本正督まさただという武勇名高い名将の血が流れておる。名に恥じぬ武者となるよう、精進しょうじん致せ」

 そう正秀に語りかけながら、正儀は、兄の正行まさつらに思いを馳せる。四條畷しじょうなわての戦で討死してからすでに三十八年が経っていた。

 思えば、正成、正行まさつら、そして正督まさただ(正綱)へと続く血脈は、いずれも華々しく戦場いくさばに散った。いずれも南朝の公卿くぎょうが主張した無謀な戦略で、死なずともよいいのちを落とした。正儀は、元服した正秀を、今度こそは無駄死させてはならないと、よりいっそう思いを強くするのであった。

 無事に元服の儀が終わると、正儀は上座から一同をゆっくりと見渡す。

「皆、聞いてくれ。九郎(楠木正秀)が元服した今日をもって、わしは楠木の惣領を小太郎(楠木正勝)に譲り、又次郎(河野辺正友)と供に赤坂城を出る事とする」

 そう言って正友と顔を見合わせ、互いに小さく頷いた。

 十七年前、正儀が幕府に参じるにあたり、いったん家督を正勝に譲った。だが、正儀が南朝に帰参したことで、舎弟の正顕が朝廷から任じられていた河内・和泉両国の守護の地位、および正勝が持つ楠木の家督は、再び正儀の元にあった。

 その正儀の決意に皆がざわつく。

「父上(正儀)、何もこの城を出ることはありますまい」

 正勝が慌てて正儀を押し留めた。しかし、正儀は首を横に振る。

「わしは賀名生あのうの楠木屋敷に移り住み、主上しゅじょう(後亀山天皇)のまつりごとをお助けしたいと思うておる」

賀名生あのうに……でございますか」

 正元も正儀の唐突な決断に困惑の表情を浮かべた。

「これまで戦で多くのいのちを失った。思えば無駄な戦、無謀な戦が幾多もあり、失わずともよいいのちを失ってきた。皆もそう思うであろう……」

 その言葉に、皆、亡くなった者の顔を思い浮かべ、口をつむぐ。

「……戦はここ一番のときに行うものじゃ。されど、これまでの強硬な公卿くぎょうたちは、あまりにも武士のいのちを、いや、人のいのちを軽んじておった。わしは参議の役を仰せつかり、公卿くぎょうとして朝議に出られることになった。じゃが、あくまで武士として主上しゅじょうのお側にお仕えし、朝廷が人のいのちを重んじるまつりごとをするよう、力を尽くすつもりじゃ」

 正勝が表情を柔らかくして頷く。

「承知しました。父上がお決めになった事じゃ。我らは従うのみでござる。赤坂・千早城はそれがしが守ります。御安堵くだされ」

 嫡男、正勝の存在は、正儀にとって心強いものであった。

「それがしも、小太郎の兄者(正勝)の元で力を尽くします」

 元服し立ての正秀も口元を引き締めた。

 そんな正秀に、正儀はたつが生んだ我が子、三虎丸みとらまるの姿を重ねた。三虎丸みとらまるも今年で十五歳。元服を行ってもよい歳である。たつの父、交野かたの秀則が幕府側に残り、正儀と決別してからは、たつにも、三虎丸みとらまるにも会うことはなかった。正儀は、三虎丸みとらまるとその母、たつを残して南朝に帰参したことに、やはり、心がとがめていた。


 その三虎丸みとらまるも、摂津国正覚寺しょうかくじ村の祖父、交野かたの秀則の元で元服の儀を迎えていた。

 交野かたのの親族の者が烏帽子親えぼしおやとなり、三虎丸みとらまる侍烏帽子さむらいえぼしを載せた後、祖父の交野かたの秀則が名を与える。

「今日からそのほうは、交野かたの小三郎正長と名を名乗るがよい」

交野かたの……小三郎……正長」

 噛みしめるように三虎丸みとらまるは呟いた。

 楠木の通字とおりじ『正』が付いた正長の名は、かつて、正儀が三虎丸みとらまるへと、たつに語っていた名であった。一方、名字は交野かたのである。正儀と決別し、幕府に恭順の意を示す秀則の元で、楠木を名乗ることは許されなかった。三虎丸みとらまる改め交野かたの正長は、心の奥で、父と同じ名字を名乗れない自らの不遇を嘆いた。

 一方、母のたつは、我が子の元服に笑顔を見せる。だが、それも表向きで、心のうちでは正儀に晴れの姿を見せてやれない事を哀しんでいた。


 四月、楠木一門の棟梁となった楠木正勝は、朝廷(南朝)より従五位上じゅごいのじょう右馬頭うまのかみとともに河内守かわちのかみに任じられた。一方、正儀は賀名生あのうの小さな屋敷に移り住む。かつて、北畠親房や顕能あきよしがそうであったように、息子を領国経営にあたらせて、自身は廟堂びょうどうまつりごとに専念するためである。

 この日、正儀は参議として賀名生あのう廟堂びょうどうにあった。今、朝廷(南朝)は大きな問題を抱えていた。紀伊の拠点を失った南朝は凋落ちょうらく著しく、朝廷としてのていを維持することさえ難しくなっていたのだ。

「紀伊の年貢は滞り、河内も以前の半分にも満たぬありさまです。今はこの南大和の年貢と、北畠大納言の伊勢半国の年貢しかありませぬ」

 二列で向かい合って座る公卿くぎょうの中から、中納言の六条時熙ときひろが窮状を訴えた。

 伊勢の南半国を支配するのは先の右大臣、北畠顕能あきよしの息子、北畠顕泰あきやすであった。顕泰は南朝のために年貢こそ上納していたが、正儀ら和睦派が大勢を占める廟堂びょうどうからは距離を置いていた。そして、領国経営に力を注ぎ、独自に領地拡大のために幕府方の伊勢守護、土岐頼康と争っていた。

 この状況に、関白の二条冬実ふゆざねが唸る。

「ううむ、もはや幕府との和睦しか残されておらぬのか……」

「恐れながら申し上げます……」

 末席から正儀が声を上げる。

「……これだけ衰退した今、我らから和睦を乞うては、全て幕府の言いなりにならざるを得ません。今は我慢の時かと存じます」

 これに憤慨したのは、春宮権大夫とうぐうのごんのだいぶとして即位前の帝(後亀山天皇)を内から支えてきたごん大納言の花山院かざんいん師兼もろかねである。

「そなたは和睦を欲していたのであろう。変節したのか」

 いきどお師兼もろかねに対して、正儀は首を横に振る。

「滅相もございませぬ。それがしは今も変わらずに和睦を求めております。されど、今の我らには幕府に要求を飲ませるだけの力がありませぬ。さすれば、幕府の要求を一方的に飲まざるを得ません。和睦とは、互いに譲るところがあってこそ。一方的に相手の言い分を飲むのは和睦ではなく降参にございまする」

 正儀の言葉に一同は頷き、師兼もろかねはばつが悪そうな顔で目を反らした。

橘相きっしょう(正儀)の言い分はわかるが、ではどうすべきか、麿はそれを知りたい」

 廟堂びょうどうを仕切る立場の冬実ふゆざねは、行き詰まった南朝の行末を考えあぐねていた。

「まずは、大和、河内、紀伊で少しでも勢力の回復を図りつつ、時期をお待ちいただきとう存じます」

「時期……時期とは何ぞや」

 師兼もろかねが不安げな表情で正儀に問いただした。

「我らは北河内に畠山基国、和泉に山名氏清、そして紀伊に山名義理よしただ、さらには伊勢の土岐頼康と、いずれもこの朝廷(南朝)を滅ぼし、自らの領地拡大に固執する者どもに囲まれております。さらに幕府管領かんれいは、朝廷に強硬な態度を示す斯波しば義将よしゆき。今、幕府と和睦するとなれば、これらの者を相手にせねばなりませぬ」

「うむ、それは承知しておる。じゃが、そちの言うように、待てば状況が変わると申すのか」

「朝廷(南朝)との戦で得をしたのは、所領が増えた先の者ばかり。それがしが京に放った透っ波すっぱの知らせでは、これに対する不満が幕府の中から生じております。いずれ不満は足利義満を動かすでしょう」

 それまで沈黙していた内大臣の阿野実為さねためが口を開く。

「関白様、橘相きっしょう殿は常久じょうきゅう(細川頼之)の復帰を待っておるのです。先の幕府の者どもはいずれも管領かんれい斯波しば義将よしゆきと歩調を合わせる者たち。常久が管領かんれいに復帰すれば、その者たちは失脚すると。特に、山名一族は六分の一衆などと呼ばれ、全国の六分の一の国を我がものとしております。これは幕府将軍の足利義満にとっても、放っておくことはできないでしょう」

 得心した表情で冬実ふゆざねが頷く。

「なるほどのう、さすがは橘相きっしょうよ」

「ははっ。ただそれまでしばらく時を要すかと存じます。我らはこれ以上、力を削がれないよう守りを固め、力の回復に務めなければなりませぬ。近隣の豪族に働きかけ、味方に引き入れたく存じます」

 正儀の意見に、今度は右大臣の吉田宗房むねふさが懸念を抱く。

橘相きっしょうの申すことはもっともじゃが、はたして豪族どもが我らの力になろうか。今、南大和の豪族でさえも、幕府に降る者が後を絶たぬ。どのように我らに引き込むか、その点はどのように考えておる」

「はい、それには南軍にまだ力があるところを見せねばなりませぬ。挙兵して我らの存在を示します。ただし、我らの力では山名や畠山とまともにやり合っても勝てませぬ。討って出て、逆に敵が討って出てくれば、さっと兵を引き上げます。敵を倒すことが目的ではありませぬ。あくまで我らの存在を示せばよいのです」

 冬実ふゆざね宗房むねふさに目配せして頷く。

橘相きっしょう、相わかった。内府ないふ殿(内大臣/阿野実為さねため)とよく相談して事を運ばれるよう頼みます」

「承知つかまつりました」

 正儀は、軽く実為さねため一瞥いちべつしてから、冬実ふゆざねに向けて平伏した。


 さっそく正儀は参議として河内、紀伊、大和の諸将に出兵をうながした。しかし、正儀の下知げちに応じたのは楠木正勝が率いる楠木党と、和田正頼・正平まさひら親子が率いる和田党、そして橋本正茂まさもちの孫である橋本正賢まさかた、和泉を追われて紀伊に逃れていた淡輪たんのわ光重くらいであった。

 出陣した楠木軍の中には、元服したばかりの楠木正秀の姿もあった。正秀の騎馬の両側に、正勝と正元が馬を付ける。

「九郎(正秀)、お前にとっては初陣じゃ。無理をすることはない。わしや小次郎(正元)の後に着いてくればよい」

「そうじゃ。此度こたびの戦は、勝つことが目的ではない」

 正勝と正元の言葉に、正秀は威儀いぎを正す。

「承知っ。されど、それがしとて楠木の男。単に後ろに下がっていることはできませぬ。今日まで鍛錬してきたのです。機会があれば、それがしにお任せくだされ」

 気負う正秀に、正勝は正元に目を見合わせて、苦笑いを浮かべる。

「判った。機会があれば、お前に任せよう」

「か、かたじけのうございます」

 正勝の言葉に正秀は喜び勇んだ。そして、その後ろから馬で従う傳役もりやくの和田良宗は、正秀の凛々りりしい姿に目を細めた。

 大和五條に集結した南軍は、紀の川沿いに西に進み、桂木の幕府代官所を襲い、さらには紀伊国府に向けて進軍した。


 突然の南軍の動きに驚いたのは、紀伊国府の守護館に居た幕府側の紀伊守護、山名義理よしただである。前年の三ヶ谷みかだに砦での戦や、大旗山おおはたやま篠ヶ城しのがじょう攻めで、山名軍は圧勝していた。駆逐したはずの南軍が、今更、出兵してくるなど、考えてもいなかったからである。

 義理よしただは重臣の話に苦々しい表情を浮かべる。

「南軍の数はどのくらいじゃ」

「はい、二百余騎ばかりかと」

「わずか二百じゃと……ううむ」

 その数で仕掛けてくるとは、正気の沙汰と思えない。逆に、何か罠があるのではないかとさえ疑った。

 重臣が、そんな義理よしただの顔色をうかがう。

「殿、いかが致しましょうか」

「ううむ、すぐに討伐軍の支度したくを急がせよ。用意ができ次第、お主が率い出陣せよ」

「承知致しました。それではさっそく……」

 重臣はそう言うと義理よしただの元を立ち去った。

「ここは、我が領地、南軍が罠など仕掛けられるはずはないか……ふふ」

 薄ら笑いで、義理よしただは不安を払拭した。

 出陣の用意を整えた義理よしただの元に、南軍の元へ放っていた斥候せっこうが戻ってくる。

「申し上げます。南軍は紀伊国府を目の前にして急に反転。大和へ向けて兵を引き上げました」

「何、引き上げただと。いったい何なのじゃ」

 義理よしただは唖然とするほかなかった。


 南軍を率いる楠木正勝は、南軍がいまだ健在であることを世の中に示すだけでよかった。

 それから三月みつき後。今度は楠木正通まさみちや和田正頼ら百五十余騎が、かつての楠木の拠点である龍泉寺城を通過し、河内石川、河内平尾へ進軍した。ここでも、河内石川の幕府代官を威圧して追い出すが、幕府の河内守護しゅご、畠山基国が動きはじめる前にさっさと撤退した。

 楠木党は一年間、こうした動きを辛抱強く繰り返す。初陣を飾った正秀にとって、この軍事行動は、正勝や正頼から戦の手解てほどきを受ける場として、ちょうどよかった。

 南軍のこうした動きは、尾ひれが付いて噂が広がる。京に伝わる時には、南軍が二千余騎で山名義理よしただや畠山基国に一矢報いたという話に変わっていた。服部成儀なりのり透っ波すっぱを使って積極的に噂を流したためである。

 結果、息を殺していた南朝寄りの豪族たちの中から、噂を聞き付けて、正勝らに呼応する者たちが現れた。


 元中四年(一三八七年)七月、正儀は南軍の状況を賀名生あのうの帝(後亀山天皇)に奏上するために、行宮あんぐう参内さんだいした。内大臣の阿野実為さねためや中納言の六条時熙ときひろも同席する中、正儀は仰々しく頭を下げる。

右馬頭うまのかみ(楠木正勝)の動きに呼応して、近隣で朝廷(南朝)に復す者たちが出て来ております。これまでの者たちと合わせると、河内国の八尾や福塚。紀伊国の貴志きし贄川にえかわ。そして、大和国では三輪、秋山、真木などが御味方となりました」

 一つ一つ豪族の名前を上げて、正儀は帝を勇気づけた。

橘相きっしょう(正儀)、祝着である。この先も朝廷に復す者が続けばよいのう」

「はっ」

 正儀は再び深く頭を下げた。

 かたわらから時熙ときひろが、正儀の顔をうかがう。

橘相きっしょう殿、和泉の美木多はどうじゃ。そちとは縁があるのであろう」

 美木多助氏・助朝すけともの親子は、正儀が南朝に帰参した時、正儀から離れて幕府に残っていた。

「書状を送っておりますが、返事はありませぬ。美木多の所領は和泉。しかも、山名氏清の居城からも遠くはありませぬ。我らに帰参すれば、滅ぼされるのは必定。和泉の所領を捨ててまで、こちらに帰参するのは難しいかと存じます」

 正儀の説明に時熙ときひろは溜息をついた。

 実為さねためが空気を読んで、話題を変える。

「ところで橘相きっしょう殿、畿内以外の地でも、朝廷(南朝)の勢力の回復が必要じゃ。そちの意見を聞かせてくれ」

「はい。それがしは九州のてこ入れが急務と存じます。征西大将軍の懐良かねよし親王様が亡くなられ、跡を継いだ良成よしなり親王様も苦戦されているご様子」

「昨年、幕府方の今川了俊りょうしゅんが、征西府せいせいふ宇土うど城を攻めたのであったな」

 正儀の説明に、時熙ときひろはううむと唸った。

「げにも。宮様(良成よしなり親王)は近隣の豪族の力を借りて何とかこれを追い払ったようにございます。されど、もはや九州の朝廷勢力は風前のともしびの地で宮様が孤立することがないよう、朝廷より側近として御支えできる御方を送るべきかと存じます」

 帝は大きく頷き、自ら口を開く。

内府ないふ(内大臣/阿野実為さねため)、橘相きっしょうの進言、さっそく朝議にはかってみるがよい」

御意ぎょい

 実為さねためは居住まいを正し、深く頭を下げてかしこまった。

 続けざま、帝が直接、正儀にたずねる。

橘相きっしょう、して、関東はどうじゃ」

「ははっ、関東は幕府の中から謀反むほんが続いている様子。しばらくは様子をみてはいかがかと存じます」

 正儀の話に、納得顔で実為さねためが帝に顔を向ける。

「確か、幕府の小田孝朝が、謀反むほん人の小山おやま義政の遺児、若犬丸(小山おやま隆政)をかくまったことが発覚し、鎌倉で捕えられたとか」

御意ぎょい。内大臣様(実為さねため)の仰せの通りにございます。これに乗じて、幕府の関東管領かんれい、上杉朝宗が小田城を攻め、孝朝の家臣らは城を捨てて男体城に立て籠りました。その小田を討伐する鎌倉公方くぼうの足利氏満も、将軍、足利義満との対立が深まるばかり。関東は幕府の者同士で今後も争いが起きることと存じます。我らが自ら兵を挙げなくとも、いずれ帝の権威にすがろうとする者も出て参りましょう。そのとき、幕府討伐の綸旨りんじを与えるだけでよろしいかと存じます」

「なるほど、橘相きっしょう(正儀)の申す事、よく判った。では、関東はしばらく様子をみるがよかろう」

 帝の言葉に実為さねため時熙ときひろ、そして正儀は平伏した。


 後日、朝議で正儀の意見は決議された。南朝はごん大納言の花山院かざんいん師兼もろかね左近衛大将さこのえのたいしょうに任じ、一軍を付けて九州に下向させた。師兼もろかね肥後国ひぜんのくに宇土うと城に置いた征西府せいせいふに入り、征西せいせい大将軍の良成よしなり親王を補佐することになる。


 その数日後、懐成かねなり親王の室となった正儀の娘、楠木式子のりこが、大望の男児を産む。生まれた子は淳義王あつよしおうと名付けられた。

 正儀は知らせを受けて、宮邸みやていに馳せ参じる。式子のりこは産後で、いまだ横になったままであった。

「よくやった。式子のりこ

「父上(正儀)、わざわざお越しになり、申し訳ありませぬ」

「いやいや、そのままでよい。産後は無理をしてはならん」

 起き上がろうとする式子のりこを手で制しながら、枕元に座る。

「伊賀(徳子)にも見せてやりたかったものじゃ」

 そう言って、式子のりこの隣で、すやすやと眠る淳義王あつよしおうに目を落した。

 亡き母の名に、一瞬、顔を曇らす式子のりこであったが、我が子を見守るその表情は、すでに母の顔になっていた。その芯の強い瞳は徳子に重なり、正儀は思わず柔らかな表情を浮かべる。

 かつて、後村上天皇と交わした言葉が思い出された。正儀は、幼い式子のりこのお転婆ぶりを、徳子に似たからと言って、帝を笑わせた。天皇は正儀に、その式子のりこと、自らの皇子である懐成かねなり親王との婚儀を約束して崩御ほうぎょされた。当時、まだ公卿くぎょうでもなかった正儀の娘を、宮妃みやひに迎えるなどあり得ないことであった。いかに後村上天皇が正儀を信頼していたかを示すものであった。

「どれ、爺様が抱いてやろう」

 正儀が淳義王あつよしおうに手を延ばすと、すかさず侍女が止めに入る。

橘相きっしょう様(正儀)、なりませぬ。宮様は生まれたばかり。首も座っておりませぬ」

「ううむ、抱けぬのか……では、明日はどうじゃ」

「父上、今日も明日も同じでございますよ」

「ううむ、致し方ないのう」

 しぶしぶ手を引っ込める正儀に、式子のりこは微笑む。孫を前にした正儀は、只のありふれた祖父の顔を見せた。

 平和で穏やかな時が流れる中、式子のりこの表情が一瞬、曇る。

「父上、この平穏な日々はいつまで続くのでしょう。兄上(楠木正勝)はたびたび、兵を出していると聞きます。また戦になるのでしょうか」

「小太郎(正勝)が行っているのは戦をせぬための戦じゃ。必ずや南北合一を行って、そなたを京に連れていってやろう」

 そう応じる正儀に、式子のりこは首を横に振る。

「父上、私は賀名生あのうのままで十分に幸せでございます。このひと時がずっと続けばよいと思うております。そして、この子が戦乱に巻き込まれることがないことを祈るばかりでございます」

「そうじゃな……ほんに」

 式子のりこの願いに、正儀は淳義王あつよしおうに目を落として、小さく呟いた。


 七月の終り、賀名生あのうの楠木屋敷に、河野辺正友が出仕していた。

「又次郎(正友)、もう、身体の方は大事ないのか」

 正友は体調を崩して、ここしばらく寝込み、正儀の元に顔を出していなかった。

「風邪をこじらせただけにございます。ご心配をおかけしました」

「そうか、わしもお前ももう歳じゃ。無理はするな」

「承知しました」

 そう言って、正友は笑いながら頷いた。嫡男の正国が、篠ヶ城しのがじょうで篠崎正久とともに討死してからも、努めて変わることなく勤めに励んでいた。だが、その悲しみはえたわけではなかった。

「それはそうと大殿、菱江忠儀からの知らせにございます。石見いわみ隠遁いんとんしていた足利直冬ただふゆ殿が亡くなられました」

「何、直冬ただふゆ殿が……いったい、いつのことじゃ」

「七月二日に、自らの館で息を引き取ったとのことでございます、予てから身体を壊してせていたようです」

 正儀と同じ時代を生きた武将が、また一人亡くなった。

 直冬ただふゆは、実父の足利尊氏に愛されず、叔父、足利直義ただよし嫡養子ちゃくようしとなった。そこからは、実父の尊氏に認めてもらわんと、ただ一心に将としての勤めに励んだ。だが、尊氏は直冬ただふゆを認めることはなかった。その思いは、いつしか尊氏への憎しみに変わり、生涯、幕府を敵に回して戦う羽目になる。

 そして、幕府と対立していた山名時氏、大内弘世ひろよらに担がれて南朝に降る。正儀ら南軍とともに京に攻め入り、尊氏を京から追い落としたこともあった。

 しかし、直冬ただふゆを担いだ山名時氏、大内弘世ひろよは、伺いを立てることなく勝手に幕府に帰参する。孤立した直冬ただふゆきゅうした挙句、幕府に降参を申し出た。最後は石見いわみの国人、吉川きっかわ氏の監視を受けながらの生涯であった。

 三回目の京への侵攻で、正儀は初めて直冬ただふゆに会った。正儀からみれば、直冬ただふゆはやはり足利の御曹司おんぞうし直冬ただふゆの戦は、将軍の座を実弟、足利義詮よしあきらと競っているようにしか映らなかった。その生い立ちを知ったのは、後のことである。さらに山名や大内に裏切られたとの知らせに触れると、同情を禁じえなくなっていた。

 正儀は立ち上がり、縁に出て遠くに目をやる。

直冬ただふゆ殿、安らかに眠られるがよい」

 静かに目をつむり、手を合わせた。

 故人をしのぶ静かなひとときが、突如、壊れる。

「ごほっ……うう、ごほ、ごほ……うう」

 ただならぬ背後のうめき声に正儀が振り返ると、正友が苦しそうに掌で口を押えて咳をしていた。

 歩み寄って正友の背中を擦る。

「又次郎、どうした」

 正友の掌に血痕が見られた。正友はしばらく苦しがった後、次第に落ち着きを取り戻す。

「大殿、もう、大丈夫でございます。心配をおかけしました」

「無理をするな。館に戻って、しばらく療養せよ」

 只事ではないと悟った正儀は、郎党に正友を送らせた。


 京、室町にある花の御所。征夷大将軍、足利義満の元に、幕府管領かんれい斯波しば義将よしゆきが出仕する。かたわらには、いつものように、政所まんどころ執事、伊勢照禅しょうぜん(貞継)の姿があった。

「慈恩寺殿(足利直冬ただふゆ)が亡くなられ、御所様(義満)の御代みよはますます盤石。喜ばしいこと、この上ないことにございます」

 義将よしゆきは義満に祝辞を述べた。

管領かんれい殿、仮にも慈恩寺殿は御所様の叔父にあたります。そのような言葉は御遠慮なされませ」

 義満の前で照禅にたしなめられた義将よしゆきは、こほっと咳払いをして態度を変える。

「これは申し訳ありませぬ。慈恩寺殿の冥福を祈りたいと存じます」

 不遜ふそんな顔を隠すように、義満に向かって深く頭を下げた。義満は冷めた表情で義将よしゆき一瞥いちべつしてから、照禅に顔を向ける。

「照禅、直冬ただふゆの死に安堵することなく、後世にうれいが生じないようにするのじゃ。たしか嫡男は冬氏とか申したな。一応はの従兄じゃ。不穏な者どもが旗頭はたがしらとして担ぐかもしれん」

「承知致しました。目付めつけ吉川きっかわに命じ、厳しい監視を続けましょう」

 そう言って、照禅は軽く頭を下げた。

「御所様、うれいを除くために、いっそ討ち取ってはいかがかと。御所様の命あらば、すぐにでもそれがしの手勢を送って、うれいを取り除いてご覧に入れまする」

 強硬な義将よしゆきは得意顔で義満に提言した。

「降参した直冬ただふゆの名で赦免をしたのじゃ。なのにその子、冬氏を、謀反むほんを企てた証拠もなく討ってしまっては、将軍の権威に傷を付けよう。今、そのような言葉は聞きとうはない」

「も、申しわけございませぬ」

 義将よしゆきは強張った表情で、抗弁を呑み込むようにして頭を下げた。

 以前は、義将よしゆきら有力諸将を抑えることに苦慮していた義満であった。が、今では将軍としての威厳を備え、諸将は義満の顔色をうかがうようになっていた。一癖も二癖もある諸将との駆け引きを制することが出来たのは、細川頼之による善導ぜんどうと、持って生まれた天賦の才である。

「ところで、越前守(義将よしゆき)、今日は何用じゃ」

 義満が問いかけると、義将よしゆきは再び気を取り直す。

「近頃、河内の楠木が、たびたび、出兵を繰り返し、幕府の領地を脅かしております。早めに討伐したく、お許しを得ようと参りました」

「楠木か……そのことは照禅からも聞いておる。じゃが、たかだか百や二百。兵を出しても、その地を維持するだけの力はなく、すぐに兵を引くありさまと聞いておるが」

 義満は義将よしゆきから目をらし、面倒くさそうに答えた。

「されど、楠木の挙兵に呼応して、南軍に走る者たちも出て来ております。これこそ、早いうちに後世へのうれいを取り除きたく存じます」

 義将よしゆきは、政敵、細川頼之・頼元の兄弟が、いつまた結びつきを深めるかもしれない楠木を、今のうちに完全に滅ぼしておきたかった。

「楠木正儀はもう老齢であろう。自ら出陣をしておるのか」

「いえ、すでに嫡男の小太郎正勝に家督を譲っておるようです。おそらく兵を率いているのは正勝ではないかと思われます」

「楠木正勝……か。歳は幾つじゃ」

「それは存じ上げませぬが……」

「正儀の年齢からして御所様と同じような歳かと存じます」

 義将よしゆきに代わって照禅が答えた。義満は、あごを触りながら思案した後、口を開き直す。

「よかろう、楠木討伐に出陣するがよい。正勝の将としての器を量ってやろう……」

 義満は、これまでの楠木とのえにしに思いを馳せるかのように、口元に笑みを浮かべる。

「……じゃが、此度こたびの討伐は、南方みなみかたを滅ぼす戦ではない。決して南主(後亀山天皇)を追い詰めてはならん。楠木の動きを封じさえすればよい。千早の城攻めとなると、こちらも相応の痛手を負うことになろう」

 義満としては、千早攻めで失態がさらされ、幕府の威厳に傷が付くことを嫌った。そして、南朝との和睦の可能性を失いたくはなかった。

 対して義将よしゆきは、楠木軍の動きを封じるだけでは不満であった。だが、将軍の機嫌を損ねてはならないとかしこまる。

「承知しました。では、楠木を封じてご覧に入れまする」

「越前守(義将よしゆき)よ、一つ条件がある。山名には頼らぬようにせよ」

 六分の一衆と呼ばれる山名一族が、これ以上、手柄てがらを上げることがないようにするのは当然のことであった。しかし、河内に隣接する和泉の山名氏清と、河内の背後から兵を動かせる紀伊の山名義理よしただを使えないことは痛手でもあった。

 義将よしゆきは一瞬、声を詰まらせる。だが、照禅の目配せに気づくと、すぐにその場で平伏する。

「御所様、承知致しました。討伐軍は畠山を中心と致しましょう」

 内心は忸怩じくじたる思いであったが、将軍の機嫌をそこねては元も子もない。具体策は後に回し、兎に角、義将よしゆきめいに復した。


 八月、ここは賀名生あのうにある南朝の行宮あんぐう。紀伊へ出陣しようとする楠木正勝が、帝(後亀山天皇)に拝謁していた。

 御殿の下には、正勝と舎弟の楠木正元、それに千早城の楠木正通まさみち正房まさふさ兄弟らの姿があった。もちろん楠木正秀も、傳役もりやくの和田良宗とともに従っていた。

 正勝は兵を後ろに座らせ、自らは正元ら一族とともに、具足(甲冑かっちゅう)姿で、きざはしの前に両ひざ付いて頭を下げた。

 殿上てんじょうには御簾みす向こうの帝を中心に、関白左大臣の二条冬実ふゆざね、右大臣の吉田宗房むねふさ、内大臣の阿野実為さねため、中納言の六条時熙ときひろ公卿くぎょうが居並ぶ。その一番端には参議である正儀も座っていた。正儀にとっても、正勝にとっても、晴れがましいひと時であった。

 帝が蔵人くろうどに命じて御簾みすを巻き上げさせ、正勝に声をかける。

右馬頭うまのかみ(正勝)、出陣大儀である。勇ましい兵を見ることができ、ちんは満足じゃ。南軍の存在を十分に示してくるがよい」

「はっ。承知つかまつりました」

 帝の引見が終わると、正勝は深々と頭を下げて立ち上がる。

「者ども、いざ、出陣じゃ」

「おお」

 後ろに控える兵たちとともに、正勝は気勢を上げた。

 行宮あんぐうの外に出た正勝は、郎党から手綱たづなを受け取り、馬に跨がる。その両脇には、馬に乗った舎弟の正元と正秀の姿もあった。

「わしがお前たちを見送る側になろうとは……歳をとったものだ」

 きざはしを降りて外に出てきた正儀が、そう言いつつ、馬上の頼もしい息子たちに頬を緩めた。

「では父上(正儀)、出立致します」

 一礼をして、正勝は軍を大和五條へと進めた。


 いったん五條に出た楠木正勝は、紀の川沿いに伊勢街道を西に進み、紀伊国府に向かう考えであった。しかし、事態が急変する。

 南軍の元に、河内から早馬が駆け付けた。息を切らせた伝令が正勝の前で馬から飛び降りて、片ひざを付く。赤坂城に留守居役として残った菱江忠儀が差し向けた使いである。

「殿(正勝)、大変でございます。畠山軍が南河内に侵攻しました。その数およそ三千余騎」

「何じゃと」

 正勝は驚きの声を上げた。舎弟の楠木正元が馬を寄せる。

「赤坂城や千早城の者たちは無事か」

「はい、いずれの方々も御無事です。畠山軍は仁王山におうざん城を落とし、紀見きみ峠へと向かおうとしているよし兵庫助ひょうごのすけ様(菱江忠儀)の考えでは、千早城に籠られると逆に厄介と考えて、殿(正勝)が出陣したところを討たんと兵を進めたのでは、とのことでございます」

「どうする、兄者(正勝)」

 正元に問われ、正勝は苦渋に満ちた表情を浮かべる。正勝には、楠木軍のみならず、賀名生あのうの帝(後亀山天皇)を護るという務めがあった。


 翌日、幕府の河内守護しゅご、畠山基国は自ら兵を率い、紀見峠を越えて紀伊橋本に入ろうとしていた。楠木軍が賀名生あのうから進発したという知らせを受けての出陣であった。

 その基国の元に、南軍の様子をうかがうために放っていた斥候せっこうが戻る。

「報告致します。楠木を中心とする南軍三百は、昨日、賀名生あのうを発って、五條に入りました。ですが、反転して賀名生あのうに戻っていったようです。おそらく我らの動きを知ったためと存じます」

「うむ、ご苦労であった」

 斥候せっこうねぎらった基国が、重臣に振り返る。

「我らはこのまま進軍する。五條を抜けて、賀名生あのうへ向かうのじゃ」

「殿、管領かんれい殿(斯波しば義将よしゆき)は楠木を追い払うようにとの下知げちでございました。将軍(足利義満)や管領かんれい殿の断りもなく、南主(後亀山天皇)を襲ってよろしいのですか」

「我らに南主を攻める意志はないが、楠木討伐の際に巻き添えをくらったとなると致し方のない事じゃ」

 基国は薄ら笑いを浮かべながら答えた。

 将軍、義満の意思とは別に、管領かんれい義将よしゆきからは、状況によっては、南の帝に向けて兵を挙げても致し方なしとの内諾を得ていた。

 基国は、細川頼之が幕府管領かんれいに復帰し、南北合一が成ることを危惧していた。合一が実現すれば、再び楠木が、畠山を押しのけて河内守護しゅごの座に着く恐れがあった。そこで、楠木の息の根を止める機会をうかがっていた。そのためなら、南朝を滅ぼすこともいとわなかった。


 畠山基国は国境くにざかいを越えて紀伊橋本に進んだ。さらに、これを追って後駆おくれがけの軍勢も続々と国境くにざかい紀見きみ峠を越えようとしていた。

「敵襲じゃ」

「南軍が襲って来たぞ」

 兵たちから声が上がった。

 畠山の本軍を急襲したのは、南軍の橋本正賢まさかたらが率いる二百騎である。楠木軍と合流すべく、紀伊橋本に兵を集めていた。これが畠山軍に矢を射かけたのである。

「こしゃくな南軍め。討ち取れ」

 基国の怒声で、兵たちが手に手に弓を持って反撃の矢を放つ。兵力で圧倒する畠山軍が襲い掛かると、南軍は多くの死傷者を出して大和五條に向けて敗走した。

「これは好都合じゃ。この先には賀名生あのうがある。者ども、敗軍を追って、賀名生あのうを襲うのじゃ」

 南帝(後亀山天皇)に兵を挙げるきっかけを得た基国は、後駆おくれがけの軍勢を待つこともなく、五條、そして賀名生あのうに畠山軍三千を進ませた。道々、南軍の抵抗を平らげて、楠木正勝が軍を引き返した賀名生あのうへ攻め込む。しかし、楠木軍の反撃はない。行宮あんぐうはすでにもぬけの空となっていた。

 南軍の様子をうかがいに近隣に散った側近の一人が戻ってくる。

「殿、百姓をつかまえて口を割らせたところ、楠木がたくさんの御輿みこしを守って公家衆とともに南に向けて落ちていったとのことでございます」

「南……十津川か……よし、皆の者、我らは急ぎ南軍を追撃する。御輿みこしを担いでの敗走なら、すぐに追いつくであろう」

 基国は絶好の機会にほくそんだ。


 畠山軍が過ぎ去った賀名生あのうの山の中に、正儀の姿があった。

御上おかみ(後亀山天皇)、今のうちでございます」

 正儀の呼びかけで、帝が阿野実為さねため公卿くぎょうとともに、木々をき分けて現われる。

「危ないところであったな」

 帝は大きく息を吐いて、安堵の表情を見せた。

 正勝の南軍が護って十津川郷に向かったのは帝のから玉輦ぎょくれん(天皇の御輿みこし)と、中宮(皇后)たちの空の御輿であった。畠山の急襲で、賀名生あのうへ引き返した正勝と正儀が話し合い、南軍をおとりに帝を逃がすことを即断したのである。

 正儀は、馬を用意して帝や中宮(皇后)、皇子たちを背に載せ、自ら帝の馬のくつわをとる。そして公卿くぎょう近衛このえの兵たちとともに、東の天川てんかわ郷に向けて落ちていった。


 一方、南軍の後を追った畠山基国は、馬上で首を傾げる。

「おかしい。なぜ南主(後亀山天皇)たちの御輿みこしを担いで進む南軍に追いつかぬのじゃ」

 その時、軍勢の先頭から伝令を乗せた馬が引き返してくる。

「殿、この先にたくさんの御輿みこしが放置されております。目撃した百姓の話では、南軍はここで四方に霧散した模様です」

「何、ここで消えたじゃと……」

 基国は、報告を聞いてあたりを見渡した。あたりは深い山である。たかが二、三百程度の兵が霧散して山の中に入っていったとすれば、探しようがなかった。

「くそ、逃げられたか」

 基国はほぞを噛んだ。


 後日、京の室町だいに、畠山基国が賀名生あのうの南まで南軍を追撃したという報告がもたらされる。

 将軍、足利義満は、自慢の庭で池の鯉に餌をやりながら、政所まんどころ執事、伊勢照禅(貞継)から報告を受けていた。

「誰が、賀名生あのうまで襲えと言うたか。三種の神器がなくなりでもすれば、たいへんな失態じゃ……」

 義満は照禅の報告に、怒鳴り声を上げる。

「……主上しゅじょう(後小松天皇)に顔向けができぬようになる。勝手な振る舞いをしおって。管領かんれい斯波しば義将よしゆき)はこのことを許しておったのか」

「そ、それは定かにはわかりかねますが、おそらくは成りゆきで畠山殿(基国)もそうなったのではないかと思います」

「ふうむ。それで南主の行方は」

 義満の逆鱗に、照禅は額に浮き出た汗を手でぬぐう。

「後で知り得たことですが……南軍とともに南に向かったと思わせ、実は賀名生あのうに留まっていたとのこと。畠山軍が南軍を追って十津川に向かっている間に、奥吉野に逃げていったと聞きました」

「ううむ。南軍を指揮していたのは正儀のせがれ、楠木正勝であったな。知略は父譲りか……楠木はやはりあなどれぬ相手よ。諸将が勝手に奥吉野を攻めぬよう、が申し渡そう。すぐに管領かんれいを呼び寄せるのじゃ」

「ただちに」

 義満は、その場を下がっていく照禅の背から池の鯉に視線を戻し、餌を手にする。

「楠木正勝か……」

 楠木家の跡継ぎの名に、にやりと口元を緩め、池の中に残りの餌を投げ入れた。


 天川てんかわ郷に入った帝(後亀山天皇)は、月登山げっとうざん河合寺かごうじ行在所あんざいしょとして難をしのいだ。

 そして数か月後、南朝は畠山軍が撤退した賀名生あのうに戻る。もちろん、そこには正儀の姿もあった。


 賀名生あのうで落ち着きを取り戻した正儀の元へ、千早城の舎弟、楠木正顕がたずねてくる。

「兄者(正儀)、美木多助氏殿が亡くなった。病だったそうじゃ」

「助氏殿が……そうか……」

 一時代をともに駆けた武将が、また一人亡くなったと知り、正儀は茫然とする。

 助氏は楠木の与力として、正儀にとって心の通じ合う心強い武将であった。しかし、たもとを分かって敵となる。その後、復縁して正儀の元に戻ってくるが、最後は幕府側に残り、その後は正儀と言葉を交わすこともなかった。

「兄者、聞くところでは、助氏殿は、最後に兄者に従って朝廷(南朝)に帰参できなかった事を悔やんでおられたようじゃ。兄者と敵味方に分かれたままで死を迎えたくはなかったのであろう」

「助氏殿の本居は山名氏清の館のすぐ北。朝廷(南朝)に降れば、確実に滅ぼされる。自らの一族を守るためには致し方がない事じゃ」

「されど兄者は、いざというときには、山名を北から攻めるための大事な戦力とも考えておったのであろう。それも助氏殿が亡くなったことでついえた。嫡男の助朝すけとも殿は曾祖父の美木多助家殿に似て現実的な男じゃ。情では動かぬであろう」

 正儀は苦笑いを浮かべる。さすがに弟の正顕は、正儀のことをよく理解していた。

「ところで四郎、又次郎の具合はどうじゃ」

 河野辺正友は、正儀の前で吐血してから、南河内の自身の館で養生していた。

 すると正顕は難しい表情を正儀に見せる。

「それが、見るたびに痩せ細っておる。今日はそれもあって兄者を訪ねたのじゃ。一度、見舞ってやるがよい」

「そうか……わざわざ、すまなかった」

 正友の様子に、正儀は元気なく応じた。

 二人は特別な関係であった。まだ幼かった正儀が、東条を離れ津田範高の館に迎えられた時からの近習で、津田武信を加えた三人は固い絆で結ばれていた。武信が討死してからは、正儀は全てを正友に頼った。二人の仲は、弟の正顕でさえも嫉妬するほどあった。それだけに正顕は、正儀を気遣った。


 後日、正儀は国境くにざかいを越えて河内に入り、河野辺正友を見舞った。館に入った正儀は、正友の妻に案内されて奥間に入る。そこには、生気を失った正友が横になっていた。

「これは大殿(正儀)、お見苦しい姿を……」

 起き上がろうとすれども、身体に力が入らないようであった。その様子から、もう幾ばくもない命と、正儀は悟る。

「いや、そのまま」

 その言葉に、正友は申し訳なさそうに、そのまま横になった。

 正儀は感情を抑えつつ、手にしたざるを差し出す。

「珍しいものが手に入ってのう。これはきじの卵じゃ。精をつけねばな。かゆにでもかけて食べるがよい」

 そう言って、卵が入ったざるを、後ろで控えていた妻に渡した。

「今朝、朝議が開かれた。わしは二条様(冬実ふゆざね)に、幕府との間で和睦の糸口さえつかめぬことへの叱責を受けた」

 枕元で正儀は残念そうに語った。これに正友は、寝たままにあきれ顔を返す。

「公家とは勝手な者たちにございますな。これまで大殿がたびたび作った和睦の機会を反古にしてきたのは、御自分たちだというに……されど、大殿は、それでも君臣和睦を貫くのでございましょうな」

「無論じゃ。常久殿(細川頼之)が幕政に戻れば、再び和睦の話が進むであろう。そのときまでの辛抱じゃ」

 すると、正友が微かに首を左右に振る。

「大殿はあまりにも常久殿を信頼し過ぎです。常久殿とて、利なくば楠木を見限るでしょう。それがしは心配でござる」

「大丈夫。常久殿はきっと我らを助けられる。又次郎(正友)、君臣和睦のあかつきには、一緒に京に入ろうぞ」

 もちろん、正儀も南北合一は簡単ではないことをよく解っている。まだ、ひと山ふた山越えなければならない。それでもそう答えたのは、正友の心の負担を除きたかったからである。

「大殿、それがしはそれまで持ちますまい。あの世で南北合一を見届けることに致します」

 そう言って正友は笑みを浮かべた。

「いや、駄目じゃ。わしと一緒に京に入るのじゃ。これはわしのめいじゃ」

 正儀は涙をこらえて正友の手を握る。しかし正友は、ただただ微笑みを返すのみであった。

 正友が亡くなったのは、それから一月ひとつき後のことであった。


 年が明け、元中五年(一三八八年)二月、将軍、足利義満は和泉守護の山名氏清を従えて高野山もうでと紀伊見物に出かける。しかし、単なる遊覧ではない。

 一つめは、表向き中立を保つ高野山に対し、幕府に反抗しないよう釘を刺すこと。

 二つめは、紀伊の豪族に対して将軍権威を見せつけること。将軍が紀伊を遊覧するほどに紀伊は幕府の治める地となった事を、地の豪族らに知らしめ、南軍に馳せ参じるかもしれない潜在的な南軍戦力を削ごうということである。

 そして三つめは、山名を探ること。山名は一門で全国の六分の一に当る十一カ国の守護で、六分一衆と呼ばれた。和泉の山名氏清だけで、他に丹波、但馬たじま山城やましろの守護を兼ねる大名である。さらに紀伊で足利義満を迎える山名義理よしただも、紀伊の他に美作みまさかの守護も兼ねていた。

 義満は、乱世の梟雄きょうゆうとして山名の家名を一代で上げた、山名時氏の性格を引き継ぐ四男の氏清を最も警戒していた。八幡太郎(源義家)を同じく祖先に持ち、たもとを分かったとはいえ征夷大将軍を夢見た新田義貞の分家筋でもある。そこで義満は、自ら山名のふところに入り、氏清を探ろうとしていた。

 義満の輿こしが和泉国の守護館に到着する。館の前では氏清が家臣を並ばせ、頭を低くして輿こしから降りる義満を待ち受けていた。

陸奥守むつのかみ(氏清)、出迎え、ご苦労であった」

「紀伊への道中、この陸奥守むつのかみいのちに代えて南軍よりお守り致しますゆえ、御安堵召されますよう」

「うむ、頼もしき限りじゃ。高野山への案内あないも、よしなに頼むぞ」

「はっ。紀伊では、我が兄、修理大夫しゅりのだいぶ義理よしただ)も合流して高野山へ御供致します。高野山も幕府の力を思い知り、南軍に味方しようなど、思う事さえなくなるでしょう」

 氏清は、義満に要らぬ疑いをかけられまいと注意し、よい印象を与えることに終始していた。

 翌日、義満は、氏清を従えて紀伊に出立した。


 将軍、足利義満が紀伊に入ったことは、賀名生あのうの朝廷も把握していた。さっそく関白の二条冬実ふゆざねが、正儀も含め公卿くぎょうたちを廟堂びょうどうに集める。

「義満は、今日にも紀伊に入るようじゃ。このまま、義満の好きにさせておいてよいものか。皆の意見を聞きたい」

 強硬派が威勢を失った廟堂びょうどうにおいては、この冬実ふゆざねが、最も幕府を警戒していた。

 右大臣の吉田宗房むねふさが、公卿くぎょうらの不安を代弁する。

「義満の動きは、紀伊の豪族たちへ自らの力を見せるためでありましょう。せっかく右馬頭うまのかみ(楠木正勝)を出陣させて、紀伊・大和で力の回復を進めておるというのに……このまま、紀伊で義満に思うようにされては、またも幕府に走る者が出てくるのではないか」

 由々しきことと気色ばむ宗房むねふさに対し、中納言の六条時熙ときひろが応じる。

「右大臣様の仰せは最もな事なれど、義満に対して兵を挙げるとなると、幕府に朝廷(南朝)討伐の口実を与えてしまうことになりませぬか。そうなると、山名や畠山だけでなく、諸国から集められた幕府の大軍が押し寄せて参りましょう。御上おかみ(後亀山天皇)の身を危険にさらしてしまうことにもなりかねまする」

 この後、公卿くぎょうたちから、双方の発言に対して闊達に意見が交わされた。しかし、賛否両面から一通り意見が出尽くしたところで沈黙が生じる。列席した公卿くぎょうたちも互いの意見はよくわかっており、皆、心の中で葛藤していた。

 関白、二条冬実ふゆざねが溜息をつく。

「義満を討ち取る算段がつけば出陣を考えられるが、負ければ朝廷の立場はますます悪くなる。難しいのう」

「関白様、我らの今の兵力では山名兄弟には勝てませぬ。そうであろう、橘相きっしょう殿(正儀)」

 内大臣の阿野実為さねためが正儀に目配せした。

御意ぎょい。この一年、豪族の帰参をうながし、兵を増やして参りましたが、我らが集められる兵は、以前の朝廷(南朝)とは比べるまでもありませぬ。それに対して山名の兵は幕府屈指の強兵つわもの。万に一つも討ち取ることはできませぬ。それに……仮に義満を討ち取ることができても、我らにとって、起死回生の一手となることもないかと存じます」

「それはどういう意味じゃ」

 実為さねため怪訝けげんな表情を浮かべた。

「それがしが見るところ、すでに幕府は、将軍や管領かんれいの力量だけで成り立っているのではなく、幕府という器で成り立っているものと存じます。たとえ将軍や管領かんれいが討たれても、幕府という器がある限り、新たな将軍を立てて幕府の権威は続くものと存じます」

 この正儀の言葉に、関白の冬実ふゆざねは苦々しい顔をする。

「では橘相きっしょうは、義満を放っておくしかないというのか。それでは朝廷(南朝)の権威を保つことは難しい。右馬頭(楠木正勝)を出陣させてきた、そなたの苦労も無駄になろう」

御意ぎょい。そこで、義満を討たずとも、朝廷(南朝)の威厳を保つ事を考えればよいかと存じます。それがしに一つ、考えがございます」

 廟堂びょうどう公卿くぎょうたちざわつく。

「そのようなことができるのか」

 右大臣、宗房むねふさの問いに、正儀はゆっくりと頷いた。


 紀伊国に入った将軍、足利義満は、紀伊守護の山名義理よしただに迎えられて高野山へもうでる。和泉守護の山名氏清も一緒である。義理よしただ・氏清の兄弟を従えて真言しんごん座主ざす長深ちょうしんに会ったのは、高野山の僧兵や紀伊の豪族たちに向けての幕府の示威行為であった。

 その後、一行は紀伊府中の守護館に入る。ここで義理よしただは、義満のために宴席を開いた。

「御所様(義満)、これにて紀伊における幕府の権威は確実なものとなりました。それがしもこれで領国経営にいっそう励めまする」

 義理よしただは銚子を持ち、上座に腰を据えた義満の盃を酒で満たした。これを義満が一気に飲み干す。

「紀伊国は上国じょうこくじゃ。気候も温暖で雨もよく降る実り多き国。この国に幕府の支配がおよぶことになったことは、まことに喜ばしいことである。修理大夫(義理よしただ)よ、この国を、南方みなみかたの手からしっかりと守るがよかろう」

「ははっ」

 義満の言葉に義理よしただは大げさな身振りで答えた。

 律令国りつりょうこくの格式は、上から大国、上国、中国、下国であり、大和や河内は大国、紀伊は上国、和泉は下国であった。

 酒が入って一同がよい気分になった頃、義満が氏清を呼び寄せ、酒を勧めた。

「御所様、南方みなみかたの領国は、南大和と河内・紀伊の一部、それと、伊勢の南半国のみでございます。伊勢の北畠(顕泰)は新たな南主(後亀山天皇)とはそりが合わぬとも聞きまする。もはや南方みなみかたは税源も立たれ風前のともしび。我らも働き甲斐があったというものでござる」

 義満の酒をあおった氏清は、気分よく話しかけた。

「かつての南方みなみかたの和泉・紀伊国は、そなたたちの領国となった。南方みなみかたあっての山名じゃ。そなたたちは南方みなみかたに頭があがらぬな」

 そう言って義満が大笑いすると、氏清は顔を強張らせて閉口した。そんな氏清の態度を、義満は冷静に観察しながら話を続ける。

「されど、六分一衆と呼ばれるほどに山名が大きくなったのも、そなたたち兄弟の働きがあってこそじゃ。さぞ、惣領の弾正だんじょうも、さぞ喜んでおろう」

 弾正とは亡き山名時氏の五男、山名時義ときよしのことで、義理よしただ・氏清の弟である。時氏が亡くなった後、惣領はいったん嫡男の山名師義もろよしが継いだが五年後に亡くなった。このため、同じく正室の生んだ五男の時義が他の兄弟を押えて惣領となっていた。このことに、腹違いの兄、氏清はおおいに不満を抱いていた。

 弾正だんじょう時義の名に、氏清は憮然とした表情を浮かべる。

「惣領などと申しても……我らが苦労して手にした領国が、あやつのものになるわけではございませぬ」

「そうか、陸奥守むつのかみ(氏清)は、弾正(時義)が嫌いか」

 そう言って笑いながら、義満は銚子を持って氏清の盃に酒を注いだ。

「まあ、何と言えばよいか……」

 氏清が返答に困っていると、会話を聞きつけた兄の義理よしただが、慌てて二人の間に割り込む。

「御所様、酒が不味くなりますゆえ無粋な話はそれまでとされて。さ、一献、参りましょう」

 義理よしただは義満の盃に酒を注ぐとともに、氏清に厳しい視線を送ってたしなめた。

「そうじゃな、としたことが迂闊うかつであった。せっかく紀伊の美味にあずかれるのじゃ。今宵こよいは楽しく飲もうぞ」

 そう言って義満は口元を緩めた。

 義満は翌日以降も紀伊を遊覧し、二十日ばかり紀伊に滞在した。


 三月十三日、将軍、足利義満の一行は、和泉守護、山名氏清の護衛で紀伊国の府中から、京に向けて出立しようとしていた。

 紀伊守護の山名義理よしただに見送られて、義満が御輿みこしに乗ろうとしたまさにその時のことである。義理よしただの近臣が駆け寄り、片ひざを付く。

修理大夫しゅりのだいぶ様(義理よしただ)、申し上げます。南軍が雨山あめやま城を占拠したとのことにございます。その数およそ三百」

「何、南軍が……」

 将軍の面前で面子をつぶされた義理よしただは、苦虫にがむしを噛みつぶしたような顔を近臣に向けた。

 南朝方の公家武将、広橋修理亮しゅりのすけが、橋本正賢まさかた淡輪たんのわ光重らを率いて雨山土丸あめやまつちまる城を奪還したのである。雨山は、紀伊国から和泉国に繋がる粉河こかわ街道の要所にあり、神通じんつう峠を抜けて和泉国に入ろうとしていた義満一行を狙ったものであることは明らかであった。

 氏清は鼻で笑う。

「御所様(義満)、兄者(義理よしただ)、なあに、相手はたかが三百。蹴散らして御覧に入れましょう」

「いや、万が一のことがあってはならん……御所様、粉河こかわ街道は止めて、鍋谷なべたに峠を通ってはいかがでしょうか」

 念には念を入れて、義理よしただが義満に進言した。

「うむ、そうするとしよう。されど、南軍を恐れて将軍が迂回したなどと思われては恥じゃ。修理大夫しゅりのだいぶ義理よしただ)はすぐに兵を出して、雨山を取り戻すのじゃ。よいな」

「ははっ」

 折角の紀伊見物の最後を汚された義満の声は、誰が聞いても不機嫌そうであった。


 三月十六日、楠木正勝・正元の兄弟は、河内国平尾に楠木軍を招集する。義弟の正秀は元より、千早城の楠木正通まさみち正房まさふさの兄弟、和田正頼・正平まさひら親子が、騎馬隊を率いて続々と集まった。正勝は正儀のめいを受け、河内平尾に集められるだけの南軍の騎馬を集めた。

 正秀は焦りを隠しきれない表情で、正勝に対する。

「小太郎兄上(正勝)、騎馬隊ばかり三百は集まりました。されど、足利義満は三千の兵を従えております。しかも、ここは平地ひらちでございます。いったい、どのように戦うのですか」

「九郎(正秀)よ、刃を交えるばかりが戦ではないぞ。戦わずして勝つのじゃ」

「戦わずしてどうやって将軍(義満)の首を取るのですか」

「首は取らぬ。こたびは朝廷(南朝)の威厳を保つのが目的じゃ」

 そう言うと正勝は、納得がいかぬ正秀を残して兵たちの元に戻った。


 将軍、足利義満の軍勢は鍋谷なべたに峠を越えて和泉に入り、北進する。南軍は楠木正勝の命令の元、河内平尾の森の中に隠れていた。正秀も息をひそめて義満の一行を待ち受ける。

「来たぞ、義満の一行じゃ」

 正元の声で正秀はあたりを見渡す。だが、軍勢の姿はどこにもない。

「小次郎兄上(正元)、将軍はいったい、どこに」

 正秀の問に、正元がはるか西を指差す。

「あそこじゃ。微かに土ぼこりが舞い、鳥たちが飛び立つのがわかろう」

 それは南軍から一里も西を北上していた。

「あんなに西を……」

 てっきり、一行の通り道で待ち伏せしているものと思っていた正秀は驚いて、目を白黒させた。

「足利義満は紀見峠ではなく鍋谷なべたに峠を越えて来ているのじゃからな。我らより西にあるのは当たり前じゃ」

「されど、あのように遠くでは、戦はできませぬ。しかも、今から駆けても、敵に逃げられてしまいませぬか」

 あせる正秀に、正元はただ笑みを浮かべるだけであった。

 義満が北上したのを見定めて、正勝が馬に乗る。

「皆の者、出陣じゃ。幕府軍を追撃する」

 続いて、楠木正通まさみちや和田正頼らもそれぞれの兵に下知げちした。南軍の騎馬隊三百は、土煙を上げて、義満の一行に迫っていった。


 驚いたのは将軍、足利義満に従い行軍する山名軍である。後方から報告に駆けあがった兵に山名氏清が問いただす。

「何事じゃ」

「一里ほど後方に、南軍とおぼしき騎馬隊が駆け上がって参ります」

「何じゃと……敵の数は」

「土煙でよくわかりませぬが、たいした数ではありませぬ。反転して討ち取りますか」

「ううむ……」

 氏清は思案する。

「……いや、御所様(義満)が御一緒じゃ。万が一のことがあっては山名はつぶされる。幸い敵はかなりの後方じゃ。急ぎこの場を通り過ぎよう」

 氏清は義満の御輿みこしに近づき、事の次第を報告した。すると、義満は輿こしの中から御簾みすを手で払い上げる。

「何、南軍が……」

「恐れながら、御所様におかれては、馬に御乗換えいただき、急ぎこの場を通り過ぎられますようお願い致します」

 氏清の奏上に義満は頷き、すぐに馬に乗り換える。そして、氏清の先導の元、急いで軍を進めた。


 追撃する楠木正勝は、将軍一行が行軍を速めて楠木軍を振り切ろうとするのを見定める。そして、河内の国府あたりまで進軍すると、兵たちに向けて声を張る。

「止まるのじゃ。もうよい。深追いは止めよ」

 正勝のめいを楠木正元や和田正頼が次々と伝えた。

「よし、将軍、足利義満は我らの勢いに恐れをなして、逃げていったぞ。それ、小次郎(楠木正元)、勝鬨かちどきを上げよ」

「承知、我らは将軍を追い払ったぞ。えいおう。えいおう」

「えいおう、えいおう」

 正元の勝鬨かちどきに兵たちも続いた。

 楠木正秀は、一矢も射ることなく戦が終わったことに呆然とする。

「さ、若様も」

「あ、ああ……えいおう、えいおう」

 正秀も傳役もりやくの和田良宗にうながされ、訳もわからぬままに勝鬨かちどきの声を上げた。


 国府のあたりは人通りも多い。人々は突然現れた将軍の行軍と、跡を追い駆けてきた楠木軍に驚き、物陰に隠れて様子をうかがう。そして、楠木軍が勝鬨かちどきを上げて引き上げていくのを見届けた。一段落すると、隠れていた者たちが通りに出てくる。

「あれは、菊水と非理法権天ひりほうけんてんの旗印。楠木軍じゃ」

「初めに通り過ぎたのは、ふたきの旗印であったぞ。まさに足利将軍家の軍勢か」

「ということは、南軍が将軍の軍勢を敗走させたということか」

 人々が言葉を交わした。


 楠木正勝は、わざわざ人通りの多いところを選んで勝鬨かちどきを上げていた。楠木軍の活躍が商人や旅人を通して河内、和泉、大和、紀伊に伝わっていくことを狙ったものである。南朝の支配地域に、南軍が将軍の一行を追い払ったという噂を流し、南朝の面子を保つ事さえできればよかった。

 雨山で南軍が兵を上げれば、必ずや将軍一行は鍋谷なべたに峠を通る。そう算段の元、河内平尾に兵を置いて待ち伏せし、将軍一行を敗走させたように見せかけたのであった。一方、雨山の南軍は、山名義理よしただが討伐の兵を上げると、役目は終わったとばかりに、早々に城を放棄して引き上げる。

 全ては正儀が正勝に授けた策である。ここまでは正儀の計算通りであった。

 だが、この直後、予期できぬことが起きる。南朝方の桜井光幸みつゆきが、楠木軍に続けとばかりに、河内国八尾で将軍、足利義満の一行を襲った。勝ち戦に乗じようと思ったのである。

 しかし、護衛である山名氏清の兵は無傷のうえ、出迎えに出てきた畠山基国の軍勢も加わる。桜井党はいとも簡単に幕府勢に取り囲まれ、光幸みつゆきは敢なく討死する。

 せっかくのはかりごとも、最後に光幸みつゆきが討たれたことでけちが付く。結局、将軍を追い払ったという噂は、すぐに打ち消されることとなる。


 正儀の良策も功を奏さず、意気消沈する楠木の人々を、更なる不幸が襲う。楠木正勝の妻、文子ふみこが病にせ、一月ひとつきの闘病の後、正勝とこどもらに看取られて息を引き取ったのだ。

「母上、母上」

 九歳の金剛丸と十三歳の照子は、母、文子ふみこ亡骸なきがらすがり付いて泣いた。正儀は、次々と見舞われる不運に言葉も出なかった。

 楠木の菩提寺である檜尾山ひのおざん観心寺に、正儀や楠木正顕らをはじめとする親族が集まった。そして、観心寺の金堂でおごそかに文子ふみこの葬儀が執り行われる。読経の中で正勝は項垂うなだれ、金剛丸と照子は涙に暮れた。

 葬儀には、懐成かねなり親王のきさきとなった正儀の娘、式子のりこの姿もあった。


 葬儀の後の観心寺中院ちゅういん。こどもらが居ないことを確認して、式子のりこ項垂うなだれる楠木正勝の前に座る。周囲には正儀の他、正顕や正元、津田正信の姿もあった。

「兄上(正勝)、少しよろしいですか」

「ああ、式子のりこか。わざわざ賀名生あのうから来てもらい、すまなかった」

 正勝は無理をして、妹に笑顔を見せた。

「兄上、あまりに早く文子ふみこ殿が亡くなり、こどもらのことが心配です。どうでしょう、照子だけでも私に預からせてもらえませぬか。賀名生あのうの刑部卿様も御心配されておられます」

 刑部卿とは、文子ふみこの父、紀俊文きのとしふみのことである。

「照子を……」

「私が母代わりとなりましょう。そして一年の後に官女として行宮あんぐうに出仕させれば、姫としての礼儀作法も身につけることができます。私も、我らが母(徳子)も、そうして参りました。器量よしの照子であれば、一廉ひとかどの姫になることでしょう」

 河内の南部においても攻勢を強める畠山に対して、若い娘を河内に留めるのは、正勝にとっても気掛かりなことであった。

 ふうむと言って腕を組んだ正勝が、正儀に顔を向ける。

「父上(正儀)はどのように思われますか」

「そうじゃな、照子にとってはそのほうがよいかのう。伊賀(徳子)も生きておれば、きっとそうしたであろう」

「母上も……」

「うむ、かつて女官であった伊賀は、宮中に強い想い入れがあった。昔、幼い式子のりこに、いつかは出仕できるようにと、宮中での礼儀作法を教えておったぐらいじゃ」

「左様にございましたなあ」

 式子のりこも、記憶を手繰たぐる様に、目を閉じた。

 父の言葉に、正勝も照子を賀名生あのうに送る決心を固める。

「では式子のりこ、照子のことをよろしく頼む」

 正勝の言葉に、正儀も胸をろし、徳子の喜ぶ顔を思い浮かべた。

 ふと中院の外に目を配ると、開け放たれた障子の向こうから、新緑の頃を過ぎた濃い緑が目に飛び込む。初めて正儀が徳子と出会ったのも、ちょうどこの頃であった。

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