第30話 南北和議
正平二十年(一三六五)春まだはじめであるが、南紀の桜は、早くも
この年、熊野の
すでに道誉は、京でたくさんの大工を集め、三十九名の武士に先導させて熊野に送り込んでいた。そして、京に忍ばせていた聞世(服部成次)配下の
熊野に到着する直前、正儀らは
正友が大声で叫ぶ。
「京極入道殿の行列とお見受け致す。無作法お許しあれ。危害を加えるつもりはござらん。刀を抜かれるな」
楠木の郎党たちは、片ひざ付いて座り、争う意志がないことを示した。
行列は突然の出来事にざわつく。道誉自身は
先頭を任された京極の郎党が叫び返す。
「何者じゃ」
すると正儀が一歩、前に進み出る。
「それがしは楠木
その名乗りに京極の郎党たちがざわついた。
「おのれ、楠木と聞いたからには生かしておけぬ」
息巻く郎党たちが刀を抜いたその時である。
「
そう言って、
「これは入道殿、こうしてお会いするのは、東大寺にて
「楠木殿、何と大胆な。わしが止めねば首と胴は繋がってはおらなんだぞ」
「いえ、そのようなことはありますまい。必ず入道殿がお止めになられたことでしょう」
「なるほど、わっはっはっは」
平然と答える正儀に、道誉は高笑いで返した。
「入道殿、
「和睦を断ったのは
道誉は
「……まあよい。ここで立ち話するのも何じゃ。これから
すると道誉は、正儀らを
「皆の者、わしが楠木殿とお会いしたこと、口外無用じゃ。よいな。それと客人に馬を用意せよ」
道誉は正儀を
正儀らは京極道誉に連れられて、熊野
「どうじゃ、壮大な眺めであろう。京から千人もの大工を集めてきたからのう」
道誉の言う通り、あちらこちら、ところ狭しと大工が働いていた。正儀はせわしなく働く大工たちの間を、道誉とともに歩く。
「先の和睦では、
「ほう、こうしてわしの前に現れるということは、力不足が解消したということか」
嫌味な問いかけであった。
「力不足が解消したかはわかりませぬが、
「何、そなたが
「なるほど、状況が変わったようじゃ。されど、わしとて状況が変わった。無理をして南北合一を進める必要がなくなったのじゃ」
「状況が変わった……とは」
「仔細は話せぬがな。わしにとって、無理をして和睦を推し進めても得るものはない」
正儀は、道誉一流の駆け引きと思った。
しかし、道誉が心変わりしたのは本当のことであった。昨年末に、幕府で問題が生じたからである。
将軍、足利
この騒動に、道誉の娘婿にあたる赤松
全ては京極道誉の策略であった。
もともと道誉の南北朝廷の合一は、幕府
真義のほどは兎も角、正儀は交渉を
「それは困りました。何があったかは存じませぬが、御一統は入道殿にとって損にはなりますまい」
「損ではないが、特段、得とも思うておらん」
返事を聞いた正儀は、これは駆け引きではなく本音だと感づいた。であれば、道誉の気を変えることが重要である。
「それがしが見るところ、将軍は、我が方の朝廷の息の根を止めるおつもりがないようにお見受けする。これが我が朝廷と京の朝廷がいつまでも並び立つ理由ではありますまいか。将軍(足利義詮)のお考えか、はたまた先の将軍(足利尊氏)の
正儀の言葉に、道誉が歩みを止めて振り返る。
「そのほう……」
畳みかけるように、正儀は話を続ける。
「足利将軍家にとって、我が朝廷は敵でもあるが、
ふふと道誉は笑みを浮かべる。
「面白きことをいう男よのう。さすがは楠木正成の子というべきか。されど、わしはもう歳よ。先々のことなどわからん。今更、将軍家に恩を売ってどうなる」
「入道殿は、入道殿が亡くなった後の京極家のことは考えぬのですか。跡継ぎ殿のためにも有益でしょう」
道誉の眉がぴくりと動く。
「跡継ぎじゃと。誰のお陰で、我が京極家が跡継ぎに苦労していると思うておるのか。忘れるでない、あくまで楠木は我が京極の
道誉の長男・次男を初め、多くの者が南軍との戦で
翌日、正儀らは昨日と同じ場所で京極道誉を待った。
近臣の河野辺正友は、不安げな表情を見せる。
「道誉は来ましょうや」
「必ずくる。京極道誉は賢い男よ」
正儀は心配する素振りも見せず、大工たちの手際のよさに感心しながら、
「殿、あれに。殿の見立ての通り、本当に来られましたな」
正儀と正友は顔を見合わせて、口元を緩めた。
その日から数日、正儀と道誉は和睦の協議を重ねた。
協議の場所は、楠木氏とは古い
二人の話し合いは、幕府を認め、北朝の皇統と、南朝の皇統が交互に
「では、入道殿、それがしは住吉に戻り、帝(後村上天皇)に奏上致します。入道殿も将軍への奏上をよしなに」
「楠木殿、心配なのは住吉の
先回、道誉から持ちかけられた和睦の時よりも、南朝の立場が悪くなっていることを、正儀は肌で感じていた。和睦を急がねば、この先、ますます帝(後村上天皇)の立場が悪くなるであろうことは想像に難くない。
「承知つかまつった。それがしから状況を入道殿にお伝えすることに致しましょう」
そう言って正友とともに座を立った。
道誉も
京極道誉は、正儀と会談した熊野
新生
道誉が先に走らせた使者から知らせを受けた観世が、大和との
ひれ伏す観世の前で道誉が
「この様なところまで御越しいただけるとは、恐悦至極にございます」
「
「はい。父(服部元成)より座を引き継ぎましてございます。今はこの座で
そう言いながら、観世は宙に『
「
「
胸のうちに自信を隠して、観世は頭を下げた。
「ところで、熊野で楠木の棟梁に会うてきたぞ」
不意に道誉の口から出た名に、観世は戸惑う。
「ど、どうして、それを私めに……」
「母方の従兄であるのであろう。そなたのことはここへの道すがら、調べさせてもろうた」
道誉に問われ、観世は黙りこんだ。
「どうした。成敗されるとでも思うたか。じゃが、ちょうど熊野で楠木正儀と和睦の協議をしてきたところじゃ。わしが楠木の縁者であるそなたを切れば、和睦にも影響しよう。運がよかったな。わっはっはっは」
豪快に道誉は笑った。
肝を冷した観世であったが、気を取り直し、道誉を案内して伊賀国小波多に入る。
福田神社の
緊張の面持ちで舞台に上がった観世は、舞台の中央に進み出て、大きく息を吸う。
「入道様、我が
そう言って、女形である
主役の
演目は、旅の僧侶と
『思えばこの世は仮の宿、心を留めてはならぬ……』
舞台の中央で紅の扇を開き、静々と足を運ぶ観世の動きを、道誉は客席から食い入るように見る。観世が演じる女は、まさにまったりという言葉が心地よい、
「いかがでございましたか」
少し考えてから道誉は口を開く。
「なるほど、猿楽とは思えぬほどに、優雅で品のある歌舞じゃ。足先から指の先までの細やかな配慮は田楽ゆえんか。
その言葉で観世は安堵する。
「……されど、目の越えたわしを唸らせるほどものではなかった」
続く道誉の言葉に、観世の表情が固まる。
「ど、どこがお気に召しませんでしたでしょうか。
身分をわきまえることなく、観世は道誉に詰め寄った。
「田楽にせよ猿楽にせよ、芸能は目で見て、耳で聴くものじゃ。その両方が調和すれば倍にも十倍にもなるであろう。観世
道誉の指摘は観世の心に刺さる。心の奥底に隠していた違和感を、見透かされてしまった思いであった。
「その
約束とは、観世が田楽の
「失礼を致しました……」
観世は深く頭を下げた。悔しさと恥ずかしさで顔を上げられない。道誉は、そんな観世をその場に残したまま、立ち去った。
熊野から住吉に戻った正儀は、大納言の阿野
交渉の経緯を聞いた帝は、神妙な顔で頷く。
「左様か、交渉を続けることで合意したのじゃな。
帝は先帝(後醍醐天皇)の
思えば南朝は、
そして、
「四条様のお顔も立てながら、事を進めたく存じます」
この後、
大納言の四条隆俊・北畠
すぐさま、正儀は京へ使いをやって、朝議の結果を京極道誉に伝えた。努力が実り、和睦交渉はやっと振り出しに戻った。
正平二十一年(一三六六年)三月、三条坊門に再建された将軍御所で、花見の宴が催される。かつてこの地にあった三条坊門
新たな三条坊門第は、その隣に昨年、建てられた。この度の花見は、言わば、復活した三条坊門第のお披露目である。そして、この宴を取り仕切るのは、幕府
道朝は、興福寺と春日大社による
将軍御所には朝から多くの諸将が集まった。広い庭に点在する赤い
宴席の首座に腰かけた将軍、足利義詮があたりを見渡す。
「
「いえ、道誉殿からは花見を楽しみにしていると、参上の意志を
そう言ったものの、道朝は顔を見せぬ京極道誉に
「道誉だけではない。公家や町衆の出も少なくはないか。せっかく我が御所を開けたというに集まりが悪い。修理大夫、しかと公家や町衆には伝わっておるのであろうな」
義詮の指摘を受けて、道朝があたりを見渡す。確かに集まりは悪い。
「ま、まだ早うございます。これから人は集まりまする」
その場を
そこへ、将軍近習が慌てて駆け込んでくる。
「申し上げます。
「なんじゃと、まことか」
わなわなと道朝は震えた。そんな道朝に、後ろから義詮が問う。
「修理大夫(道朝)、これはいったいどういうことじゃ。そなた、道誉はここへ参上すると申したな」
「は、はい、確かに。一風変わったものを興じると……」
「一風変わったものじゃと。それは何じゃ」
「それがし、内容までは……」
困る道朝に代わって答えたのは、駆け込んできた先の近習である。
「お話の件かどうかは存じませぬが、
近習の話はまだまだ続く。
もともと
もちろん、ただの馬鹿騒ぎではない。道誉一流の駆け引きでもあった。
「道誉め。幕府の花見を
真っ赤になって激怒する道朝であったが、すぐに真っ青にならざるを得なくなる。
「修理大夫、幕府の威厳を示すべきはこの宴。そなたに任せるのではなかった。これでは将軍は恥をかいたようなものではないか。道誉はいつにも増して無礼であるが、この宴そのものが、魅力のないものであったということじゃ。
「お、お待ちくだされ。首座の将軍がおらぬでは、来客をもてなせませぬ」
道朝は焦った。
そこへ、もう一人、将軍の近習が駆け込む。
「申し上げます。京極
「何、世に
将軍、義詮は
しかし、近くの来賓席で、事の次第を聞いていた関白、二条
「行けばよろしかろう。将軍が参れば、
なるほどと義詮が頷く。
「では、関白様と参るとしよう」
そう言って席を立ちあがった。
「お待ちくだされ、それではますます、こちらの宴が……」
「それはそなたの仕事じゃ。最後までしっかりと客人をもてなすがよろしかろう」
関白の良基が、止めようとする
義詮は道朝を
八月八日、将軍、足利義詮は突如、三条坊門第に軍勢を集める。幕府
義詮の使者が、道朝の元に着く。
「将軍は
「な、何じゃと、わしが
道朝にとって、
将軍、義詮を焚きつけて軍勢を集めさせたのは、もちろん京極道誉である。
すでに幕府内での威厳を失っていた道朝に、抗う
この道朝の行動は、戦が始まると幕府を慌てさせる。だが、道朝は戦をすることなく、後継ぎで執事の
しかし、越前国の
九月、京極道誉が総奉行として造営にあたっていた熊野の
京極道誉より
正儀は、熊野
社の落成を祝い、正儀が道誉の労をねぎらう。
「入道殿(道誉)、
「楠木殿、わざわざのお越し、痛み入る。そなたが住吉の
「かたじけのうございます。それにしても壮大な社でございますな」
正儀は、幕府の余力を感じずにはいられなかった。南朝には、
「今度、四天王寺の金堂が落成致します。
「なるほど、御返しというわけか」
「いかにも。幕府との和睦の雰囲気を
やはり、南朝内部の調整は一筋縄ではいかなかった。
「その
その提案に、道誉は苦笑いしながらも快諾した。
その年、摂津国の四天王寺、金堂の
「将軍が馬を寄進してくるとは。和睦の交渉が進んでいる証ということか」
大納言の四条隆俊は、阿野
「四条様、河内守(正儀)を甘く見ない方がよろしかろう。あの男、本当に和睦を
大納言、北畠
「そうじゃな。何とかせねば」
翌々日、正儀の和睦の動きに懸念を抱いた大納言、四条隆俊は、一人の男を自らの屋敷に招く。
「
現れたのは楠木一門の重鎮、和田正武であった。正武からすれば、隆俊は公家大将として、兵馬の繋がりがある。隆俊の要請を無下にはできなかった。
隆俊を前にした正武は、落ち着かない様子で下座で
「四条様におかれてはご機嫌麗しゅう。さて、それがしを召された御用向きは何でございまするか」
「近頃、戦がない日々が続いておるが、幕府の動きについて、意見を聞きたいと思うてな」
「はあ……されど、
「武勇の誉れ高き、そちを見込んでのことじゃ。まずは会うてもらいたい御仁がおる」
隆俊はそう言うと、手を叩き、近習を呼んで耳打ちする。しばらくして近習とともに顔を見せたのは、大納言、北畠
「これは、北畠大納言様」
伊勢に戻ったものと思っていた正武は驚く。そして、なぜ、この場に
「和泉守、久し振りよのう。四天王寺金堂の
「そうでありましたか」
「四天王寺で河内守(正儀)に会うた。以前に比べ、貫禄が増したようじゃ」
「左様でございますか。河内守殿も、兄、
しみじみと正武が応じた。
「ちょうど
「これは、恐縮にございます」
「ところで、和田家と楠木家はどういう
「正成公の姉が我が母でございます。ただそれだけではなく、正成公の父、楠木入道
面食らいながらも、正武は素直に答えた。
「なるほど、それで合点がいきました。他家はいかがじゃ」
「楠木一門の橋本も
「すると和田家が楠木一門の本家というわけじゃな」
「え……まあ……そうとも言えますが、本家というのはいささか……」
「本家筋の当主であるそちが、楠木の下に着くというのは、少々、窮屈ではないのか」
誘導する問いかけに、正武は返答に困る。
「い、いえ、それがしは、戦で河内守殿を支えることができれば、本望にございます」
「殊勝な心掛けじゃ。それにしても、戦嫌いの河内守には、和泉守はもったいない武将じゃな。のう、四条様」
「ほんにそうじゃな」
「いえ、河内守殿は戦嫌いではありますが、戦上手。戦に対して
「さりとて、その才も、勇将のそなたも、和睦一辺倒の河内守では宝の持ち腐れ。残念なことじゃ」
今度は隆俊が正武に同情の眼差しを向けた。
「いえ、そのようなことは……」
「……ない、と申すか。重ねて殊勝じゃ。されど、機微をみて、戦で力を示さねば、相手にいいようにされてしまう」
「ごもっとも」
小さく頷き、正武は隆俊に応じた。
「和泉守よ、河内守に反して、そなたが戦を必要と思う時があれば、我らのところにくるがよい。力になろうぞ」
武骨な正武でさえも、さすがに二人の思惑に気づかないはずはない。
「お心遣い、痛み入ります。されど、和田と楠木は一心同体。それがしと河内守殿が意見を
「そうか、要らぬお節介であったのう。気を悪くせんでくれ」
隆俊の言葉に、正武は恐縮する。
その後、正武は、幕府の動きなどについて、ひとしきり意見を述べた後、礼の言葉を述べて、帰っていった。
和田正武が居なくなった座敷で、四条隆俊が北畠
「北畠卿、和泉守をどう思われました」
「そうですな。言葉とは裏腹に、顔に出ておりましたな。本音では和睦に賛同しておらぬ。
「
隆俊は扇で口元を隠しつつ、
年が明け、正平二十二年(一三六七年)一月となった。正儀が、篠崎六郎
正儀は、よき日取りを選んで、二人に元服を執り行うこととした。
楠木館の広間には、舎弟の楠木
「なかなかよい顔つきをしておるな」
そう言って、正武は口元を緩めた。
「藤若丸、そなたに名を与える。今日からそなたは篠崎二郎
正儀が掲げた紙に書かれた『正』は楠木の
「二郎|正久……父上、ありがとうございます」
二郎としたのは、上に出奔した楠木太郎正綱がいたからであった。
藤若丸改め篠崎正久は目を輝かせる。そして、実の父に捨てられた自分を
「正久殿、よい名です。ほんに立派になられて」
姉の菊子は、弟の元服に目を潤ませる。そんな菊子の
「二郎の兄上、おめでとうございます」
正儀の嫡男、持国丸は、自らのことのように喜んだ。この時、持国丸も、はや、十三歳となっていた。数えで六歳となった次男の如意丸も兄の隣でにこにこと笑顔を振りまいて喜んでいた。
同様に正武は、熊王丸の頭にも
「どうした、緊張しておるのか。早く一人前の武将に成って、三郎殿(正儀)をお助けせよ」
「は、はい」
硬い表情で、熊王丸は正武に応じた。
「熊王丸、そなたは今日より宇野三郎
再び正儀は、新たな名を書いた書き物を掲げた。楠木の
「新たな名、ありがたく頂戴つかまつります」
熊王丸改め宇野
「元服した二人に、少しじゃが
思わぬ正儀の言葉に、二人は顔を見合わせた。
「二郎(篠崎正久)、そなたには
「我が祖父が戦った城……でございますか。あ、ありがとうございます」
正久は思わぬ祝儀に素直に喜びを見せた。
「三郎(宇野
申し訳なさそうに、
「父上、ありがとうございます。私如き若輩に、城などもったいなきことでございます」
手を突いて
正儀の実子である持国丸と如意丸、それに、討死した津田武信の遺児、正寿丸が、主役の二人を取り囲んで祝福した。正寿丸は、楠木家を出奔した楠木正綱と入れ替わるように、楠木館に入っていた。
兄弟たちの祝福に、正久は満面の笑みで応える。対して、
二人の元服が無事執り行われた後に、酒が振る舞われる。篠崎正久の姉、菊子が、
皆が楽しく
「よい元服式であったな」
そう言って正儀の盃に酒を注いだ。
「新九郎(正武)殿に
正儀は、笑顔で盃を口に運んだ。今度は、正儀が
「さ、新九郎殿も、もう一献」
「かたじけない……時に、幕府の使者を迎えて、和睦の交渉に入ったそうじゃな」
盃を手に、正武は無関心を装ってたずねた。
「うむ、京極入道(道誉)と交渉をはじめたところじゃ。意見の隔たりは大きい。時が必要じゃ。新九郎殿はどう思う」
「わしに聞いても無駄じゃ。わしであれば幕府と和睦などはせん。それは三郎殿もよくわかっていよう。和睦をすれば、正成公をはじめ、我が父や兄、多くの楠木・和田一族の死が何であったのか。あまりにも報われないではないか」
「その話はすでに何度も聞いた。されど、わしの考えは変わらん。父上も本心ではそれを願っていたはずじゃ。わしはそう信じておる」
今更とばかりに、正武は苦笑いで返す。
「三郎殿の考えはようわかっておる。これについては、いつまでたっても交わることはないであろう。じゃが、残念ながらそなたが棟梁。その
裏切って幕府側に転じた助氏を引き合いに、正武は、自らの一族への思いを
ささやかな宴はまだ続く。
「どうした、熊王、いや三郎。そなた、今日はおかしいぞ。先般から元気がない。せっかくのめでたい席というのに」
上座に腰を降ろす主役の一人、篠崎二郎正久が、もう一人の主役、宇野三郎
「い、いや、何でもないのじゃ」
「それにしても、父上(正儀)は何と優しいお方か。我らのような、楠木の血筋でないものを
黙って正久の話を聞いていた
「ど、どうしたのじゃ、三郎」
その様子に、正久は唖然とする。
急に、
慌てて正久も庭に飛び降り、
「だ、誰か、熊王(
その声に、近くに居た正儀の従弟、楠木正近が庭に飛び降りた。そして、
「いったい何をしておる」
正近の怒号で、菱江忠元と津熊義行ら、家臣たちもが庭に飛び降りた。正儀と和田正武も驚いて縁側に出る。そして、立ったまま騒然とした状況を見下ろした。
突如、
「うおぉ……死なせてくだされ。私は生きていてはならんのです」
「いったい、なんじゃ……」
その隣で正久は呆然とし、その後は声にならなかった。
裸足のまま正儀が庭に降り、
「何があった。わしに話してみよ」
「……わたしは父上を……こ、この手で討とうと思うておりました……さ、されど、父上を目の前にしても、
下を向いたまま、
宴席の一同は言葉少なに、縁側から
縁側の上から正儀の舎弟、楠木正澄が
「いったい、なぜ兄者(正儀)を討たねばならんのじゃ」
「……父上に拾われる前から……父上を討たんと思い……近づいたのです」
泣きじゃくりながら、
正澄は、信じられないという顔を見せる。
「な、何と。そなたがこの屋敷で暮らすようになって六年じゃぞ。六年も前からお前は兄者を討とうと狙っておったというのか」
「何か訳があったのじゃな」
正儀がたずねると、
熊王丸の父、宇野六郎は、幕府方の摂津守護を務めていた赤松
六年前、畠山国清が率いる幕府の討伐軍が、南河内から撤退した。すると、正儀が率いる楠木軍は反撃に転じる。さっそく摂津に出陣し、赤松
大将の
宇野家に残されたのが、まだ八つの熊王丸であった。大黒柱の死に家族が打ちひしがれる中、熊王丸が主君、赤松
「私は父の
心の嘆きが聞こえそうなほどに、熊王丸は肩を震わせていた。
「
「それでは遅うございます。幼い私だからこそ、
熊王丸の
「そなたにこの短刀を授けよう。この短刀で見事、
そして、南河内にたどり着いた熊王丸は、苦労の未、何とか楠木の家臣、菱江忠元に拾われる。そして、楠木館に招かれ正儀の
宇野
「この館に来てから六年、あの短刀で父上の
その短刀を正近が拾い上げる。
「それが、なぜ今となって……」
「今年は亡き父の七回忌。
この騒ぎで、奥から顔を出した徳子と菊子、それに侍女の
「……されど、やはりできません。父上は、自らの御父上、兄上らを討たれたにもかかわらず、己の
「では、もうよかったではないか。なぜ死のうとしたのじゃ」
縁側の上から楠木正澄が疑問を呈した。
「私が父上を討たぬということは、恩義ある赤松の殿(
「このたわけ者め、命は一つしかないのじゃ。死ぬことはいつでもできる。どうしてよいかわからないなら今は生きよ。生きて何をすべきか考えよ」
厳しく
一同は、正儀と抱き合う
数日後、宇野
出立の日、楠木館の前に皆が集まり、
「何かあれば、帰ってきなさい。あなたの家はここなのです」
徳子は心の内を隠し、母として気丈夫に声をかけた。しかし、その隣では、
「
去りゆく
「熊王の兄者っ」
持国丸は、如意丸や正寿丸とともに、
姉として接してきた菊子は、小走りに後を追って、立ち尽くす。
「熊王、大丈夫です。きっと観音様があなたを導いてくださいます」
頬を濡らしながら、大きな声で叫んだ。菊子は去りゆく
「あなただけが一人になるわけではありませぬ」
秘めたる思いが菊子にもあった。
この後、
元服の日からひと月後、正儀と徳子は、菊子を奥の間に呼び寄せた。
「父上様、母上様、お呼びでございましょうか」
菊子は正儀と徳子の前に正座した。
徳子が微笑みを浮かべて話しかける。
「二郎(篠崎正久)が元服し、菊子も姉として一安心したことでしょう。次は菊子の番です」
「私の番……」
意味深長な徳子の言葉に、今度は正儀に顔を向けた。
「そうじゃ。菊子も十九になった。そろそろ、縁談を考えねばと伊賀(徳子)が申してのう」
そう言って、正儀は徳子と顔を見合わせた。
「よい相手を探したいと思いますが、その前に、菊子は誰か思い
思い
「母上様、私は嫁ぐ事など考えておりませぬ」
「菊子は縁談などまだ早いと思うておるのであろう。されど、あっという間に年月は過ぎていく。早いとはいえぬぞ」
「いえ、父上様、違うのでございます」
改めて、菊子は両手を床に付いた。
「父上様、母上様、血の繋がりのない我ら
「うむ、菊子と二郎はわしと徳子にとって、実の子と同じじゃ。当然ではないか」
その言葉に、菊子は目に涙を溜める。
「二郎も立派な武士に成れました。まるで夢を見ているように幸せな日々でございました。これで心置きなく出家できます」
出家と聞いて徳子は言葉を失い、正儀は目を大きく開く。
「何を申すのじゃ、菊子。なぜ、そのような事を……」
「実の母が亡くなるとき約束をしました。私がどんなに苦労をしても、二郎を立派な武士に致しますと。されど、思いがけず二郎と私はこの館に置いていただけることになりました。そして、二郎は立派に元服し、正久という名を頂戴致しました。私の願いは叶ったのです」
菊子の言葉で、やっと徳子は声を出す。
「願いが叶ったのなら、そなたが尼にならなくとも、もうよいのではありませぬか」
しかし、菊子は首を横に振る。
「いえ、私が苦労せずに二郎が立派な武士に成ることなどあり得ませぬ。たまたま、私が苦労する前に、二郎がこの城に置いていただけるようになっただけ。その分、私が尼となって苦行をしなければ、釣り合いませぬ」
正儀は息を呑んだ。まるで悟りを開いた
その後も、正儀は徳子とともに菊子を説得した。しかし、菊子の考えは、ついに変わることはなかった。幾日もかけて話し合い、正儀は結局、河内の尼寺を紹介してやることにした。
熊王丸こと
正儀と徳子が菊子の旅立ちを見守った。義理の
「姉上……本当に行ってしまわれるのか」
「武士はそんな顔をするものではありませぬ。一生会えないわけではないのです。尼寺に入っても、私はいつでもお前のことを見守っております」
「姉上は、皆と離れ、寂しくないのですか」
問われた菊子が、
「わたしには、ほれ、この通り
実父、篠崎久親より譲られた
徳子は涙をこらえて、二人のやり取りを見守った。
「
正寿丸が
正寿丸が楠木館に来たのは、菊子が迎えに来てくれたことがきっかけである。正寿丸は何かと菊子を頼り、菊子も応えた。
「ありがとう、正寿丸殿」
菊子は正寿丸の手をぎゅっと握りしめた。正寿丸は顔を真っ赤にして下を向いた。淡い恋心であったかもしれない。
四月、正儀と京極道誉の交渉が、ついに実を結ぶ。
将軍、足利義詮は、南朝の帝(後村上天皇)に対しても、臣下の立場を受け入れた。そして、将軍の側から、京と住吉の両朝合一のことを、双方の帝に
住吉にある南朝の
しかし、正儀と道誉で大筋合意した合一の内容を、ここにきて蒸し返そうとしている者もいる。四条隆俊、北畠
「我ら朝廷の所領を
隆俊は和睦を破談に追い込みたかった。しかし、和睦の方針を決めた帝の手前、面と向かっては反対もできない。そこで、和睦の条件において、いちいち問題をあげつらった。
「四条様、
くどい隆俊に、大納言の阿野
「条件が呑めないのなら、和睦はできぬのが道理じゃ。いったい河内守(正儀)は何をしていたのか。このような和睦の条件を、よく奏上させたものよ」
参議でもない正儀は、朝議に加わることはできない。しかし、
「これでは、いつまでたっても堂々巡り。ここは
正儀と同じ和睦派の参議、六条
「まだ、議論が熟したとはいえませぬ。
そう言って結論を先延ばしにした。
だが、右大臣である
結局、朝議は、右大臣の
その夜、正儀は、大納言の阿野
「大納言様(
「うむ、さりながら、
正儀の後立ての一人でもあった和睦派の関白、二条
「こうなれば、最後の策に訴えるしかございません」
苦情の表情で、正儀は意を決した。
数日後、右大臣の
前回と同じく、正儀は
「これでは、我が方の
大納言の四条隆俊は、相変わらず、和睦案に難癖をつけた。
さすがに
「四条様、そこはすでに先日の朝議で終わったところ。蒸し返されては困ります」
「新たに約定に疑義が出てくれば、前提となる条件も変わります。もう一度、他の約定も確認して調整せねばなりますまい。それとも、
強行派の大納言、北畠
右大臣の
南北合一を果たした
優柔不断な
「あいわかった」
聞こえよがしに正儀が声を上げると、
「
そう言って、正儀は平伏した。
「お、
朝議を仕切る
そこに帝が入ってくる。
「その
「あ、はい。いや、その、まだ、何と申しましょうか……」
帝の問いに、朝議を取り仕切っていた右大臣の
「いったいどうなのじゃ。河内守、朝議の進捗を教えよ」
帝の指名により、正儀が口を開く。
「はい、将軍より奏上された両朝の合一の議に対し、条件面について吟味致しております。が、一つ一つの条件について、御指摘を受け、いまだ結論を見ておりませぬ」
「何、すでに約定は
御裁断に、さすがに異議を唱えることのできる者はいなかった。
朝議で決裁を受け、正儀は腹心の臣、河野辺正友を京の京極道誉の元に送る。
正友は南朝が条件を呑むことを道誉に伝えた。幕府は南朝のみならず、武力を背景に、すでに北朝からも条件面での同意を取り付けていた。
そして、将軍、足利義詮は、鎌倉
かつて、足利
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