第29話 敗鏡尼

 正平十七年(一三六二年)九月の末、河内の山々は黄朽葉きくちばに押されて、徐々に緑が失われつつあった。

 正儀は楠木正綱まさつなを連れて、討死した津田武信の館を訪ねていた。

 水を打ったように静まり返った館で、武信の妻が二人を迎える。

「これは殿様(正儀)、それに若様(正綱)。ようお越しくださいました」

 館の中に通された正儀は、正綱とともに手を突き、深々と頭を下げる。

「奥方、すまぬ。わしの棟梁としての未熟さが当麻とうま(武信)を死なせてしもうた。無念じゃ」

「殿様、頭をお上げください。幼き時より一緒に育った殿様の方が、よほどお辛いかもしれませぬ」

 悲しみをこらえて、武信の妻は丁重に言葉を返した。

 そんな彼女を前に、正綱が強張った顔を上げる。

「当麻を死なせてしもうた。我が責任じゃ。わしが当麻の言うことを聞かずに無理な戦をしたことが原因じゃ。当麻はわしをかばって討たれた。すまぬ……本当にすまぬ」

 せきを切ったかように、正綱は胸のうちを吐露した。

 そこに、奥から目を赤くした少年が飛び出してくる。

「父上を……父上を返してくだされ」

 立ったまま言葉を投げつけてきたのは、武信の七歳になる息子、正寿丸しょうじゅまるである。幼いこどもの哀声あいせいに、正綱は居たたまれなかった。

「やめなさい、正寿丸……」

 武信の妻は、手で正寿丸の袖を引いて、横に座らせる。

「……若様、御無礼をお許しください。私も正寿丸も気持ちの整理ができていないのです。今日のところは、お許しくだされ」

 悔しそうな表情を浮かべた正寿丸を、妻がさとし、ともに手を突いて謝った。

 そんな正寿丸の姿をじっと見ていた正儀が、再び妻に目を向ける。

「そなたも存じておろうが、わしは津田の館で育った。当麻はわしにとって兄弟のようなものであった。じゃから、正寿丸はわしが後ろ盾と成り、立派な武将に育てたい。そなたさえよければ、楠木館へ一緒にくるがよい」

 正寿丸を自らの猶子ゆうしととして育てなければならないと責任を感じていた。

「殿様、ありがたいお申し出なれど……」

「いや、今すぐにとは言わん。正寿丸が館に来たいと思うそのときまでわしは待とう。それまでは、一緒に城へ遊びにくるがよい。これは当麻に対するわしの償いなのじゃ」

 武信の妻はうつ向いて沈黙する。そして、しばらく考えてから顔を上げる。

「武士の妻として、常に夫の死を覚悟はしておりました。それゆえ、わたし一人であればお断りしたと思います。されど、この子を立派な武士に育てるためには、殿様のお申し出をお受けせねばなりませぬ。私にはお断りする理由は見当たりませぬ。何卒なにとぞよしなにお願い致します」

「そうか……かたじけない」

 妻の気持ちを察しつつも、武信の顔を思い浮かべて安堵する正儀であった。


 翌日、聞世もんぜ(服部成次)が、赤坂の楠木館へ、一通の書状を届けた。正儀は、すぐに楠木正澄と河野辺かわのべ正友を呼び寄せる。

「これを見よ。京の七条道場の僧正そうじょうよりの書状じゃ。畠山国清が我らに寝返りたいと申してきた。すでに時宗じしゅうの僧を頼って大和の宇智うちに入っているとのことじゃ」

「すでに宇智うちに……畠山国清といえば、河内を攻めた幕府の総大将であったはず。将軍家執事の細川清氏に続き、関東執事の畠山国清までが我らに寝返りたいとは……いったい幕府はどうなっておるのじゃ」

 頭を傾げるようにして正澄は書状を受け取り、目を落とした。

 これに聞世が答える。

「国清は鎌倉公方くぼう謀反むほんを疑われ、時宗じしゅうの僧の手引きで京へ逃げてきたようです……」

 聞世の話は、およそ次のようなものであった。

 南河内に進攻して天野山あまのさん金剛寺の行宮あんぐうを焼き払い、龍泉寺城も占領した国清であった。だが、仁木にっき義長と対立したことで、将軍、足利義詮よしあきらに無断で関東に戻ってしまった。

 義詮の不評を買ったうえに、南朝に寝返った細川清氏と親しかったことが災いする。国清は、義詮の弟で鎌倉公方くぼうの足利基氏もとうじ謀反むほんを疑われた。これに国清は、伊豆国修善寺しゅぜんじに立て籠り、抵抗を続けた。その後、時宗じしゅうの僧侶らにまぎれて、京の七条にある時宗じしゅうの道場、金光寺こんこうじへと逃亡したとのことであった。

「それで、兄者はどうするつもりじゃ。細川清氏のように南軍の将として迎えるのか」

 書状から顔を上げた正澄に、正儀はゆっくり首を横に振る。

「国清を迎えて幕府と戦っても、結果は清氏の二の舞であろう。清氏は幕府の執事であったからこそ、将軍、足利義詮から粛清を受けたのじゃ。国清は先の関東執事じゃ。国清に対しても幕府は絶対に許さないであろう。おそらく、今の幕府は裏切り者を見せしめにして、たがを締めようとしておる。我らが国清を抱えれば、我らと幕府との間でいらぬ戦をすることになる」

「そうじゃな。摂津を落して力を回復したところで、兄者は幕府との和睦を考えておるのであろう。南軍に国清がっては、和睦がまとまらぬ。それがしも兄者と同じ結論じゃ。それに、国清は天野の行宮あんぐうを焼いた男。帝(後村上天皇)が簡単に許すとも思えぬ」

「うむ、その通りじゃ。そこで、四条大納言らには知られとうない」

 正儀は、強硬派である大納言の四条隆俊や、同じく大納言の北畠顕能あきよしが、国清を使って幕府にいらぬ戦を仕掛けることを恐れた。

 これに、河野辺正友が頷く

「では、この話、我らのところで留め置きましょう」

「うむ。それと、新九郎(正武)殿にも内密にな」

 正儀は、和田正武が血気にはやることも気にしていた。

「承知じゃ。兄者」

「承知しております。殿」

 正澄と正友は顔を見合わせてから、それぞれ、返事を返した。

 さっそく正儀は、宇智うちに潜伏する国清への断りの書状を、聞世に託した。


 翌々日、楠木館に網代笠あじろがさを被った僧侶の姿があった。館の前で、正儀に合いたいという僧侶と、追い返そうとした門番が、ひと悶着を起こしていた。この騒ぎに、河野辺正友が門番の元に駆け付ける。

「おい、どうしたのじゃ。何があった」

「これは、駿河守するがのかみ様(正友)。この者が名も名乗らず殿に合いたいと申しまして」

 その僧は正友の名を聞くと、それまでの態度を改めて、笠をとる。

「駿河守と言われると、河野辺殿であられるか」

「そなた、もしや左近将監さこんのしょうげん殿か」

 剃髪こそしていたが、その男の顔に見覚えがある。左近将監さこんのしょうげんとは先の関東執事、畠山国清のことであった。

 かつて、足利直義ただよしが南朝に帰参を申し入れてきた時のことである。当時、国清は高師泰こうのもろやすの後を受けて、楠木館とは目の鼻の先である石川河原のむかい城に入っていた。国清はここに直義ただよしかくまった。正儀は直義ただよしへ南朝帰参の諾了だくりょうを与える為、北畠親房の供をして、石川向いしかわむかい城に出向いて直義ただよしに会った。これに正友と国清は立ち会っていため、互いの顔を見知っていた。

「すでにその官職は捨てました。今は出家して道誓どうせいと名乗っております」

「なぜここへ。すでに断りの書状は貴殿の元に届いておるはずじゃ」

「いかにも。されど、それがしから直接、河内守かわちのかみ殿(正儀)にお話ししたい」

「殿は留守じゃ。いや、たとえっても会わぬであろう。命のあるうちに帰られよ」

 すると突然、国清は土下座して額を地面に擦り付ける。

「この通りじゃ」

 その態度に、正友は困惑した。

 そこへ外から、供侍ともざむらいを連れた正儀が帰ってくる。館の前で馬を止めた正儀が、くらから降りる。

「又次郎(正友)、どうしたのじゃ。その御坊ごぼうは誰じゃ」

「殿……」

 間の悪さに、正友は顔をしかめた。

 これに、国清が顔を上げる。

「楠木殿、それがしの顔がわかるか」

「これは、畠山殿か」

 正友の予想に反して、正儀は驚かなかった。それどころか、あっさりと国清を館の中に通した。


 楠木館の広間では、楠木正澄と河野辺正友をかたわらに置いて、正儀が国清を引見する。

「畠山殿、勘違いはして欲しくない。館に入れたからというて、貴侯と手を取り合おうとは思うておらぬ。断るにしても、一応の礼儀じゃ」

「楠木殿、待たれよ。先の戦ではかたきとなった間柄あいだがらではござるが、それも否応のないこと。頭を下げろと言われるなら、いくらでも頭を下げよう。されど、南方みなみかたにとっても、御味方を増やしたいであろう。昔のことは水に流し、手を取り合おうではないか……」

 無表情を返す正儀に向けて、国清が饒舌じょうぜつになる。

「……清氏が討たれたと聞いた。次はそれがしの番であろう。されど、みすみすとやられるわけにはいかぬ。畠山と南軍が手を握れば幕府に一泡食わせることができよう」

 自信満々に国清が申し出た。しかし、正儀は深くゆっくりと息を吐く。

「畠山殿、そなたは勘違いをされておられる。先の戦の遺恨で、そなたと手を組まぬのではない」

「では、いったい何の問題があるのじゃ」

 不思議そうな表情で、国清は正儀の目をじっと見た。

「先に細川清氏殿も同じことを言われ、我らとともに京を落した。じゃが、結果はそなたも知っての通りじゃ。それがしは、幕府と戦を行うことばかりが策ではないと思うておる。もし、我らが和睦すれば、幕府は条件にそなたの処罰を求めてくるのではないか。我らは、そなた一人を救うために、幕府と交渉することはできぬ」

 ゆっくりと首を横に振って、正儀は応じた。

 これに、国清が目をく。

「何と、幕府と和睦じゃと。これは可笑しなことを。これまで将軍からの和睦の誘いを頑迷に断ってきたのは南方みなみかたではないか」

「われらのうちでも、強硬な者もれば、和睦を求める者もる。それだけのことよ」

「お主は、和睦派じゃと言いたいのか。南方みなみかた随一の軍事の要が、和睦を願うておるというのか」

 疑う国清の様子を見て、横から正友が言葉を足す。

「殿の和睦への思いは、今に始まったことではない。幕府に戻った慧源えげん殿(足利直義ただよし)と和睦の折衝を取り計られた貴殿も御存知であろう。これまでもたびたび、和睦を公卿くぎょうに奏上されてきた」

「畠山殿、駿河守(正友)が申す通りじゃ。すまぬがお引き取りいただこう」

 そう言って、正儀は立ち上がる。

「い、いや、されど……お待ちくだされ」

 慌てた様子で国清がすがった。しかし、正儀は聞く耳を持たずに、広間を出て行った。

「兄者が言うようにお引き取りあれ。今日は大目に見て進ぜよう。されど、次にお会いした時は、主上しゅじょう(後村上天皇)の行宮あんぐうを攻めた賊として誅殺致す。それに、宇智うちは我らが知行ちぎょうするところ。早々に宇智うちからも立ち去られるがよかろう」

 そう言うと、正澄は郎党に命じて、国清を館の外へ放り出した。

 この後の国清の動向である。

 幕府から追われ、南朝への帰参も許されず、宇智うちに留まることもできなくなった国清は、南都(奈良)や山城やましろ禅寺ぜんでら律寺りつじを頼って潜伏した。

 しかし、幕府の御達しで、徐々に国清を支援する者は居なくなり、寝床はおろか三度の飯にもありつけなくなる。そして、ついには貧窮ひんきゅうの中で、哀れな最期を遂げるのであった。


 津田武信の討死から四十九日が過ぎる。正儀は、遺児の正寿丸しょうじゅまるに、楠木館へくるきっかけを与えるため、菊子を迎えに行かせた。

「正寿丸殿、わたしと一緒に、楠木の館に遊びに参りましょう」

 優しい菊子の問いかけに、正寿丸は母の顔をうかがう。

「正寿丸、母のことを気にする必要はありませぬ。菊子様に連れて行ってもらいなさい」

 母にうながされて、正寿丸はやっと頷いた。


 正寿丸は菊子に手を引かれ、楠木館への道を歩く。

「正寿丸殿はお幾つですか」

「七つです。菊子様は」

「私は十四です。正寿丸殿より七つ上のお姉さんですね」

 菊子は正寿丸に暖かく微笑んだ。その笑顔に、父を失い悲しみに暮れていた正寿丸の心は、束の間ではあるがやされる。

 この日、正寿丸は、正儀の実子である持国丸、猶子ゆうしで菊子の弟である藤若丸、同じく猶子ゆうしの熊王丸と初めて会った。

 皆で追いかけっこをして楽しく遊ぶこどもたちを、外から戻った楠木正綱が目にして立ち止まる。正寿丸の姿を認めた正綱は、父を返せと言われたことを思い出し、胸に手を当てた。

 その姿に気づいた菊子が、正綱に歩み寄る。

「太郎様(正綱)。当麻殿(武信)の子、正寿丸殿です。連れて参りましょうか」

「い、いや、存じておる……わしは用があるので失礼する」

 正綱は、いまだ正寿丸に顔向けできない。館へと向かう正綱に対して、菊子は心配そうに、その後ろ姿を見送った。


 その年の冬には、正寿丸は正儀に引き取られ、楠木館の離れで母と暮らすようになっていた。菊子は正寿丸を可愛がり、正寿丸も菊子を実の姉のように慕った。そして、歳の近い持国丸のよい遊び相手となった。

 正儀は縁に座り、正寿丸と持国丸の遊ぶ姿をなつかしそうに眺めた。二人の姿に幼い日の自分と津田武信を重ねたからである。

 父、楠木正成が、虎夜刃丸こと幼い正儀を、武信の父、津田範高の元に送ったのは楠木家存続のためであった。東条の楠木家に万が一のことがあっても、津田に預けられた正儀によって、楠木家の再興が図れるからである。

 家名の存続は武家にとって最も重要なことである。正儀の祖父、楠木正遠まさはるは、楠木家の家名を存続させるために和田家から婿養子に入り、叔父の美木多正氏は美木多の庶流家から、その正遠まさはる猶子ゆうしとして迎えられた。河内・和泉の在地豪族は、代々、周辺の有力豪族と婚姻、養子、猶子ゆうしの縁組を行って、その後ろ楯を得て、家名存続と一門の勢力拡大を図った。

 家名を存続させるということにおいて、目下、正儀の頭を悩ませていたのは、嫡養子ちゃくようしにした甥の楠木正綱のことである。

 家督を継がせるつもりで、正儀は紀伊橋本の橋本正茂まさもちの元から多聞丸こと正綱を呼び戻した。しかし、正綱の弟とおぼしき池田教正のりまさが現れて、正儀の側近中の側近であった津田武信が討死してからは、正儀と正綱の間には、心の隔たりができてしまった。

 腕を組んで目を閉じる。だが、これといって解決策は出て来ない。時をかけることくらいしか、正儀には解決策は思い浮かばなかった。


 楠木館の奥では、徳子が侍女のたえかたわらに置いて、正儀の従弟である聞世もんぜ(服部成次)を迎えていた。

 神妙な顔で、徳子が頭を下げる。

「聞世殿、無理を頼んで申し訳ありませぬ。この役目は聞世殿を置いて他にお願いができぬことです」

「お任せください。では、わかりましたら、奥方様(徳子)に使いを送りましょう」

 そう言って聞世は腰を上げる。たえも立ち上がり、聞世を見送って部屋から下がっていった。


 数日後、徳子は小袖のすそ端折はしょって短く着付けた壺装束つぼしょうぞくに、垂れ衣たれぎぬを付けた市女笠いちめがさを被り、赤坂を出て北に向かって歩いていた。隣には同じく旅装束たびしょうぞくに身を包んだ侍女、たえの姿がある。さらには楠木正綱、それに津熊義行と数人の郎党を連れ立っていた。

 同行する正綱の心は、相変わらず晴れなかった。だが、義母の徳子はお構いなしに心の中に入り込み、正綱を館の外へと引っぱり出した。

 そんな徳子に、正綱はなぜか逆らえない。腹立たしいという思いはなかった。ただ、何も言わずに旅支度たびじたくをさせて連れ出した徳子をいぶかしがる。

「叔母上(徳子)、いったいどこに連れていくのですか」

「今にわかりますよ」

 そう言うばかりある。同行する義行も、さあ、といった感じで肩をすくめた。

「さあ、着きましたよ」

 そう言って徳子がくぐったのは、河内の岩瀧山いわたきさん往生院おうじょういん六萬寺ろくまんじ)の山門さんもんであった。

「ここは、かつて、そなたの御父上(楠木正行まさつら)が、四條畷しじょうなわての戦の折に陣を敷いたところです」

「ここに陣を……」

 その言葉に、正綱は感慨深げに寺の中を見渡した。

 出迎えた僧侶に徳子は頭を下げ、一行は金堂に入る。そこには、聞世(服部成次)が女を連れて座っていた。

 徳子にうながされて、正綱と義行は女の前に座った。

「おなつかしや、多聞丸様……」

 自らの幼名を呼びかけた女を、正綱は凝視した。見覚えはない。だが、その声に、なぜかなつかしさを感じた。

 付き従った義行が、目を見開く。

「ふ、ふく殿ではないか」

 ふくは正綱の母、内藤満子みつこの侍女で、かつて満子の嫁入りに際し内藤家からつかわされた者であった。嫁ぎ先の楠木家で、満子が何の遠慮もなく胸のうちを吐露できる腹心の友でもあった。多聞丸こと正綱が生まれてからは、満子と一緒に、我が子のようにいつくしんで育てた。ふくは、満子が河内から摂津国能勢のせに帰された折にも同行し、後に縁あって、往生院おうじょういんの近くに嫁いでいた。

 正綱の隣に座った徳子が、ふくに向かって手を突く。

ふく殿、よう、御越しくださいました。徳子と申します。御呼び立てし、申し訳ありませなんだ」

「こちらこそ、多聞丸様と……いえ、太郎様(正綱)と会う機会を頂戴し、ありがとうございました」

 ふくも手を突いて頭を低くした。そして改めて徳子の顔を見る。

「そうですか……貴方様あなたさま伊賀局いがのつぼね様でございましたか。昔、三郎様(正儀)から、よく、貴方様あなたさまのことは聞いておりました。伊賀局様のような御方が三郎様の元に来ていただき、本当によかった」

「いえ、満子様が出ていかれた楠木家に、私などが入るのは心苦しい限りでございます」

「聞世殿……いえ、服部成次殿より、いろいろとお聞きしました。奥方様は信頼できる御方と思うております」

 そう言ってふくは、かたわらの聞世に目をやった。

 面識のあった聞世は、能勢のせに戻った後のふくの足取りを手を尽くして調べ、事前に会ってこの日を迎えていた。

 徳子の意図を察して、義行が大きく頷く。

「そうか……奥方様(徳子)は、亡くなった満子様の代わりにふく殿を……確かにふく殿は満子様と一心であった」

 一方の正綱は、徳子にたびたび頭を下げるふくの姿が、楠木家に恨みを抱く者の姿とも思えずに戸惑っていた。

「しばらく、水入らずでお話になられるがよろしかろう。我らは僧正そうじょう様にお会いして参ります。ゆっくりと、御語らいください」

 そう言うと、徳子は聞世と義行を連れて金堂から出ていった。


 ふくと二人っきりで後に残された楠木正綱であったが、緊張や戸惑いはなかった。逆に、どこかなつかしい安堵感を覚えた。

「太郎様、御達者でおられましたか」

 問いかけに正綱は頷く。その顔に、微かに幼き日の記憶が蘇る。

ふく、教えて欲しい。我が母は……己を追い出した楠木を……叔父上(正儀)を、恨んでおられなかったのか」

 いきなり正綱が本題を切り出した。

「恨み……」

 ふくは困惑の表情を浮かべる。

「……そうですね、満子様は確かに恨まれておられました。されど、それは三郎様ではなく、自らの運命さだめをです。三郎様でなくとも誰もがああするしかなかったでしょう。三郎様もきっと、自らの運命さだめを恨んだことでしょう」

「では、母がわしを置いていったのは、なぜなのじゃ。叔父上(正儀)が命じたからではないのか」

 すると、ふくは悲しそうな表情を浮かべる。

「満子様が三郎様に願い出たことです。太郎様が楠木の嫡流として、御父上様(正行まさつら)のように棟梁に成って欲しかったのでございます」

「母上が頼んだことと申すのか」

 潤んだ瞳を見せて、ふくが頷く。

「三郎様はそんな満子様の思いを汲んで、跡目は多聞丸様に継がせると約束されました。将来、生まれるであろう我が子を押し退けてまでも……そんな三郎様を、何で満子様が恨むことがありましょうや」

「将来、生まれる子……」

「はい、伊賀局(徳子)様のお子です」

 ふくの話は、正綱の心に深く突き刺さる。棟梁の長男として生まれながら、楠木の跡目に付けぬ持国丸の顔を思い浮かべた。そして、自らが生んだ子が跡目に付けぬことを承知で、楠木家に嫁いだ徳子の気持ちをおもんぱかった。

 実は、正儀に対する誤解は、往生院おうじょういんに来る前から解けていた。ただ、納得することを拒んでいただけである。もちろん、この寺に来たことで、より得心せざるを得なかった。だが、代わりに、徳子や持国丸に対する後ろめたさと、自責の念が生まれる。徳子が正綱を往生院おうじょういんに連れてきた思いとは裏腹に、正儀が楠木の跡目を譲ろうとしていることを重荷に感じた。正綱は、いっそ、母の思いなど無視して、ともに能勢のせに返してくれていれば、とさえ思った。


 楠木館に戻った楠木正綱は、館の縁に座って、持国丸と正寿丸が遊ぶ様子を、ただ、ぼんやりと眺めていた。

「太郎殿(正綱)、久しぶりじゃな」

 後ろから声をかけてきたのは、正綱にとっての里親、橋本正茂まさもちであった。正茂まさもちは、楠木の一門衆である橋本党の分家筋である。湊川みなとがわの合戦の後、楠木党を支えた美木多正氏が亡くなると、いくさ奉行として若い楠木正行まさつらを支えた。

 その正行まさつらが、四條畷しじょうなわてで非業の死を遂げた後は、若い正儀を棟梁として導いた。さらに、多聞丸と呼ばれた幼い正綱を、紀伊国橋本の館で預る。正茂まさもち夫婦は正綱を、自らの子とも孫とも思っていつくしんで育てた。

 そして、正儀が徳子を嫁に向かえ、一人前の棟梁となったのを見届けると、一線を退き、今は紀伊橋本に隠遁いんとんしていた。

「橋本の父上……いつ参られました」

「先ほどじゃ。三郎殿(正儀)に呼ばれてな」

 この日、正儀は、南朝に願い出ていた紀州橋本の所領安堵が叶ったことを伝えるために、正茂まさもちを呼び出していた。

 この育ての親の顔を見て、正綱は意を決っした。


 翌日、楠木正綱は神妙な面持ちで正儀の書院を訪れる。

「叔父上(正儀)、少しよろしいですか」

「いかがした、太郎(正綱)」

 久し振りに、正綱から声をかけられたことに、正儀は表情を和らげた。一方の正綱は、正儀の前に座ると、重い決心を口にする。

「叔父上、それがしを廃嫡はいちゃくとしていただきたい」

「何じゃと」

 廃嫡はいちゃくとは楠木の家督を継がないということである。

 唐突な申し出に、正儀は目を見開く。

「何を言うのじゃ、太郎。お前は、この楠木館で兄者(正行まさつら)の跡を継ぐのじゃ」

「いえ、どうか、楠木の棟梁は持国丸にお継せ願いとうございます」

 そう言って、正綱は頭を下げた。しかし、正儀は険しい表情で首を横に振る。

「何を言っておるのじゃ。お前は生まれた時から楠木の棟梁となる定めを背負っておる」

「叔父上が、我が母と交わした約束は聞きました。されど、もう、約束などよいのです」

「聞いたのか……されど、義姉上あねうえとの約束ではない。義姉上あねうえを通して我が兄、正行まさつらと交わした約束なのじゃ」

 正綱は、その約束の時には生まれてもいない持国丸の顔を浮かべる。

「父上との約束……死んだ者と約束されたと言われますか。叔父上のかたくなな思いが皆を不幸にしております。それがしとて重荷なのです」

「重荷じゃと……約束は約束じゃ。ならんものはならん」

 そう言って、正儀は正綱に背中を見せた。すると正綱は、拳をぎゅっと握って立ち上がる。

「わかり申した。では、致し方ありませぬ。それがしは失礼つかまつる」

 そういって正綱は背中を向けた。

「待て、待つのじゃ」

 書院の中に、呼び止める正儀の声がむなしく響いた。


 この日も、敗鏡尼はいきょうに(南江久子)の住む楠妣庵なんぴあんには、菊子の姿があった。菊子は毎日のようにいおりに通い、敗鏡尼の世話をするようになっていた。

 予てから徳子は、一人離れていおりで暮らす義母のことを心配していた。しかし、奥方の身上みのうえとしては、そうたびたび、義母の元にくることもできない。もともと近くに住む侍女のきよが、身の回りの世話をしていたのだが、彼女自身も歳をとった。このため、若い菊子が代わりに世話をするようになり、徳子も胸をろしていた。

 朝から菊子は、いおりの周りの草むしりをする。

「菊子、ずいぶんと綺麗になりましたね。もう十分ですよ。きよ白湯さゆを入れてくれました。一休みと致しましょう」

 中から敗鏡尼が現れて菊子に声をかけた。菊子は腰に手を当てて立ち上がる。

「敗鏡尼様、ありがとうございます。他にすることがあれば、何でもお申し付けくださいね」

「ありがとう、菊子」

 信心しんじん深く、真面目で面倒見のよい菊子を、敗鏡尼は本当の孫のように可愛がった。

 その敗鏡尼が、突如、麓からいおりに続く山道に目をやる。

「あれは……」

「敗鏡尼様、いかがされました」

 遠目で何かを見つめる敗鏡尼に、菊子が問いかけた。

「いえ、誰か居たような気が……三郎(正儀)……いえ太郎(楠木正綱)であったでしょうか」

「太郎様でございますか……」

 その視線の先を菊子も凝視するが、正綱の姿はおろか、誰も目には入らなかった。

「でも、太郎様であれば顔を出すでしょう」

「そうですね……きっと、気のせいでしょう。さ、きよが待っています。中に入りましょう」

 敗鏡尼は頷き、菊子とともにいおりの中に入っていった。

 外に誰も居ないことを確認して、木蔭から顔を出したのは、やはり、正綱であった。覚悟を決めて敗鏡尼に会いに来たところであった。しかし、自分を慕ってくれる菊子の姿を見て、それを押し留めた。結局、祖母に一言も声をかけることなく、このいおりを後にする。


 この日、楠木正綱は、正儀に書置きを残して、一人、東条を出奔した。菊子は楠木館に戻り、初めてそれを知る。

「太郎様(正綱)、なぜ……」

 大きな衝撃であった。あの時、やはり、楠妣庵なんぴあんに正綱が居たのだと思うと、後悔が重畳ちょうじょうと募る。なぜ、もっと探そうとしなかったのかと自分を責めた。

 菊子にとって正綱は、叶わぬ想いであった。それは、自身が一番よくわかっていた。故に、正綱が側にいるだけでよかった。それだけで菊子の心は華やいだからである。

 こののち、菊子は心の隙間を埋めるかのように、ますます観音菩薩への信心しんじんを強くするのであった。


 正平十八年(一三六三年)、年が明け、中国管領かんれいの細川頼之は、備後国ともの浦に居た。南朝方に転じたままの足利直冬ただふゆほうじて、長門国ながとのくに周防国すおうのくにに勢力を保っていた大内弘世ひろよと密かに会うためである。

 頼之は、将軍、足利義詮のめいを受け、敵対する将軍の兄、足利直冬ただふゆを孤立させるべく工作を進めていた。この時、直冬ただふゆを支える有力大名は、大内弘世ひろよと山名時氏の二人である。

 結局、大内弘世ひろよ長門ながと周防すおうの守護が保証されるのであればと、幕府側に帰参した。


 これに危惧を抱いたのは直冬ただふゆを支えるもう一人の大名、山名時氏である。時氏は南朝より中国探題たんだいに命ぜられていたが、南朝の帝(後村上天皇)を敬う気持ちも、直冬ただふゆに忠節を尽くす意思も希薄であった。利用できるものは利用したにすぎない。

 清和源氏新田流の支族であった山名氏は、鎌倉幕府のもとでは貧しい御家人であった。元弘の折には、本家の新田義貞には従わず、早くから足利尊氏を支えていた。その甲斐あって、時氏は山陰の守護大名に任じられた。只々ただただ、自らの領地を拡大して権力を広げようとする乱世の梟雄きょうゆうである。

 時氏の気性を知る細川頼之は、この機を逃さなかった。頼之は供を従えて美作国みまさかのくにへ入り、在地の寺を会談の場所として、時氏と、その嫡男の師義もろよしに会う。

「山名殿、大内殿が幕府についた。そなたがあくまで南方みなみかたに忠節を尽くすとなると、西からは大内、東からは赤松、そして南からはこの細川頼之を相手に戦うことになろう。されど、貴殿が我らに味方するというのならば、将軍が元の領地をそのままに、幕府への帰参をお許しになる」

 戦上手の時氏は、南朝の帝の名の元に、美作みまさか・備前をも侵略し、その勢いは留まるところを知らなかった。いずれは中国も、九州の地のように南朝の支配下に置かれそうな勢いであった。

 頼之は中国管領かんれいとして山名と対峙して延々と戦をするより、敵を寝返らせることを選んだ。幸い、九州の忠臣、菊池武光たけみつとは異なり、大内も山名も、自身の都合で南朝へくみしているだけであったからである。

 しかし、時氏は首を縦には振らない。

「元の領地というと伯耆ほうき因幡いなばの二か国のことか。我らはすでに出雲・丹波・美作みまさかを制圧し、石見いわみ・備前・播磨へも兵を進めさせておる。勢いは我が方にある。いずれ中国は山名のもの。それを我らの方から幕府に頭を下げて、元の二か国に封じられるのでは、交渉になっておらん」

 強気に時氏は振る舞った。

 しかし、頼之は時氏の内心を見透かしていた。機を見るに敏な時氏なら、これ以上、直冬ただふゆに義理立てし、南朝にくみすることへの危惧を、必ずや抱いているはずだと思っていた。

「将軍に立てついた者の最後は哀れじゃ。細川清氏は討死し、畠山国清は大和で野垂れ死んだ。南朝の凋落ちょうらくは誰の目にも明らかじゃ」

「じゃが、九州は征西将軍宮せいせいしょうぐんのみや様(懐良かねよし親王)の元、南方みなみかたの支配下じゃ」

「されど、九州の南軍の中心である菊池武光たけみつが、九州を留守にして上洛することがないことは、貴殿もわかっておろう。畿内を押さえることができなければ、南朝は早晩滅びる」

「畿内は楠木がおるではないか。摂津をうかがうほどに勢力を保っておる。伊勢の北畠とて……」

「確かに楠木正儀は、正成の子だけあって、なかなかの武将であろう。されど、頑迷な南朝の公卿くぎょうを抱えておっては、楠木だけではどうにもならん」

 時氏は、正儀が四条隆俊や北畠顕能あきよしら強硬派の公卿くぎょうの元、苦労している姿を思い浮かべ、言葉を詰まらせる。

「出雲・石見いわみ・播磨から兵を引かれよ。伯耆ほうき因幡いなば・丹波・丹後、そして美作みまさか、この五つの国でそれがしから将軍へ取り計ろうてみましょう。これが山名殿にとって最後の機会じゃ。よくよく考えるがよろしかろう」

「何、出雲からも兵を引けと」

 時氏の嫡男、師義もろよしは、片目で頼之を睨みつけ、声を荒げた。師義もろよしは、かつての南軍による京への侵攻の際に負った傷で、左眼を失い眼帯を付けていた。

「左様、出雲守護は京極道誉じゃ。山名殿が出雲を手放さない限り、この和議は収まらん」

「笑止、道誉と聞いては、尚更、引くわけにはいかぬ」

 頼之の申し出を、師義もろよしは鼻で笑った。

 山名が南朝に降ったのも、元はといえば、この師義もろよしと道誉による所領の争いからである。そして彼の左眼を奪ったのは京極軍であった。

 しかし、時氏は、しばし沈黙の後、ゆっくりと頷く。

「わかり申した。幕府に御味方しましょう」

「お、親父おやじ殿」

 師義もろよしは驚きの表情を見せるが、時氏が制する。

「小太郎(師義もろよし)、まずは、山名の家名を守ることが大事じゃ」

 棟梁、時氏の言葉は絶対であった。山名氏は五か国を条件に幕府に降った。

 頼之が時氏に約束した領地は広大なものである。時氏には伯耆ほうきと丹波の守護を、嫡男の師義もろよしには丹後の守護を、三男の氏冬は因幡いなば守護を、五男時義には美作みまさか守護を任じた。

 また、幕府のまつりごとに関われる引付方ひきつけかた頭人とうにんへの就任も約束した。


 この頃、足利直冬ただふゆは、石見国いわみのくにで静かに挽回の機会を伺っていた。

 逗留する屋敷の殺風景な庭で、直垂ひたたれから片腕を出し、へいに取り付けた的を狙って、弓矢の鍛錬に汗を流していた。その直冬ただふゆの元に、近習が駆け寄り、片ひざをつく。

「殿、吉川きっかわ駿河するが権守ごんのかみ殿より書状でございます」

「何、経兼つねかねからか」

 すぐさま書状を開いて目を通すと、その場で天を見上げた。

 直冬ただふゆのその様子に、近習が心配そうな表情を見せる。

「殿、何が書かれていたのですか」

「大内に続き山名が幕府に寝返った……もはやこれまでか」

 実父である足利尊氏からうとまれた直冬ただふゆは、叔父の足利直義ただよし嫡養子ちゃくようしとなった。その直義ただよし亡きあとは、幕府の不満分子の旗印として担ぎ上げられる。そして賀名生あのうの帝(後村上天皇)の元に参じ、南朝の惣追捕使そうついぶしに任じられると、一時は京を制圧するまでに勢力を誇った。

 しかし、山名時氏と大内弘世ひろよの二人の有力武将から見放された直冬ただふゆは、完全に孤立する。

「わしは、単なる旗印でしかなかったということか。ふふふ……」

 力なく直冬ただふゆは笑った。


 山名時氏が幕府に降ったことは、すぐに諸将の間で話題となる。その一人、京極道誉は娘婿である赤松則祐そくゆうの京屋敷を訪れていた。

 法体ほったい姿の二人が向き合う。

「山名は所領五か国の守護と引付方ひきつけかた頭人とうにんだそうじゃ。領地を増やしたいと思うたら、敵になればよいのじゃな。なに、簡単なことよ」

 吐き捨てるように道誉が言った。

 一方の則祐そくゆうも怒り心頭である。

しゅうと殿(道誉)はまだよい。出雲が返ってきたではござらぬか。我が兄、貞範さだのり美作みまさかは、山名に取られてしもうた」

「ふん、此度こたびのことで、将軍(足利義詮)は細川頼之よりゆきを大そう買われたようじゃ。佐殿すけどの(足利直冬ただふゆ)が力を失ったことを喜んでおられた。将軍は佐殿すけどのを憎んでおられたからな。されど、源氏将軍はいつの世にも、兄弟で骨肉の争いをする」

 道誉が言うところの源氏将軍の兄弟とは、足利尊氏と舎弟の直義ただよしのことだけではない。源頼朝と舎弟の義経、さらに二人の父、源義朝よしともと舎弟の義賢よしかた為朝ためともらの兄弟、もっと遡れば、祖先の源義家と舎弟の義綱など、血肉ちにくの争いは、清和源氏の宿命ともいえた。

 一方の則祐そくゆうは、細川頼之の実力に、この時、初めて一目置く。

「山名も憎いが、交渉に当たった細川頼之が曲者くせものかと」

「ううむ、細川清氏を討伐し、此度こたびは中国を平定か……されど、まずは、斯波しば道朝どうちょうじゃ。奴を何とかせねばならん」

 道誉は、娘婿である斯波しば氏頼の執事就任を妨害した道朝に恨みを抱いていた。

「確かに。道朝が幕政を牛耳るようになってから、我らの声は将軍には届かんようになりました。あやつを幕府管領かんれいの座から引きずりおろす手立てを考えねばなりませぬな」

 苦々しい顔で則祐そくゆうは腕を組んだ。

「それには、我らが手柄てがらを上げること、あとは道朝の失態を誘うことじゃ」

「されどしゅうと殿、手柄てがらというても中国平定より大きな仕事をせねばなりますまい」

 それは難しいと言わんばかりに、則祐そくゆうは大きく息を吐いた。

「やはり南との御一統であろう。南方みなみかたはもはや自力で京をうかがうことは叶わん。和睦をうながすならば今が潮時じゃ」

 その言葉に、則祐そくゆうは顔をしかめる。

「それがしは南方みなみかたとの折衝は御免こうむりたい」

「ふふ、先の御一統ごいっとうの折り、北畠親房に散々に振り回されたのであったな」

 正平しょうへい一統いっとうは、北畠親房の策を、則祐そくゆうが足利尊氏に仲介したことから始まった。

 則祐そくゆうは、かつて、大塔宮おおとうのみやこと護良もりよし親王の側近である。親房から親王の息子、大塔若宮おおとうのわかみやこと興良おきよし親王を預けられたことで、尊氏と申し合わせて播磨で挙兵するという大芝居を打った。そして、東の近江からその芝居に乗ったのが道誉である。しかし、最後は親房が裏切り、南軍が兵を進めたことで、御一統ごいっとうつゆと消えた。

「返す返すも腹立たしい。忌々いまいましい南の公卿くぎょうどもめ。全くもって信用できぬやつらじゃ。いったい誰に和睦を取り次いでもらえばよいか、さっぱりわからん」

 吐き捨てるように則祐そくゆうは言った。

 その態度に、道誉はにやりと笑みを浮かべる。

「であれば、その手柄てがら、この入道がもらうとしよう。妙な事から、楠木正儀と気脈を通じた。話のわかる男と見受ける」

「されど、楠木はしゅうと殿の息子や孫のかたきではありませぬか。構わぬのですか」

「それはそれ、これはこれじゃ」

 道誉は、目の前の敵を追い落とすためには、かつてのかたきとも手を組める男であった。

「ううむ……それに、斯波しば道朝の失態というても……」

「それはゆっくりと機会を待つことじゃ。いずれ、機会は向こうから訪れる」

 予言するかのように、道誉は不敵な笑みを浮かべた。


 この年の秋、三十歳となった観世かんぜ(服部清次)は、父、竹生大夫ちくぶだゆうこと服部元成から小波多こはた座を譲り受け、伊賀国小波多の福田神社で顔見せの興行を行う事となった。

「見物人もたくさん集まっておるぞ。いよいよじゃな」

 元成が観世と向かい合った。

「父上から教えていただいた猿楽を、このような形に作り変えてしもうた。申し訳なく存じております」

「なあに、よいのじゃ。これまでも猿楽は移り変わりながら今がある。お前が変えてくれるのなら、願ったりじゃ」

 かしこまる観世を前にして、元成は笑顔で応じた。

 観世は他流の猿楽と田楽を学び、独自の流儀を完成させていた。擬態や滑稽中心の伝統神事から、物語中心の芸能に大きく変貌を遂げる。主役の仕手方してかた(中央の演者)の他、脇方わきかた(仕手の脇で演じる者)、囃子方はやしかた(笛や太鼓たいこはやし立てる者)、狂言方きょうげんかた(演の合間で曲を語らい演じる者)の三役からなる総仕立ての歌舞劇であった。

「これまでの猿楽と、お前の猿楽とを分ける必要があるのう。呼び方を変えてみてはどうじゃ」

「呼び名ならば、猿楽のうにしようと思うております」

 のうとは、古来から、筋書きある芝居を指す言葉であり、本来、物真似ものまねや笑いが主体の猿楽に使う言葉ではなかった。

「うむ、よい名じゃ。どうせなら、字も変えてみてはどうじゃ。もはや猿真似の猿楽ではない。干支えとの『さる』を使うて申楽さるがくとするのはどうじゃ。昔はそのように書いたとも聞く。それに、『さる』のかたわらに……」

 そう言って元成は、『しめす』偏を宙に指で書く。

「……このように、一偏を加えれば、神楽かぐらにも通じる文字じゃ」

 元々、猿楽と神楽かぐらは、神事として神社を通じた縁もあった。神楽かぐらの中にも芝居仕立てのものもある。

神楽かぐらにも通ずる申楽さるがくのうと触れ込めば、箔も付くし、見物人も集めやすかろう」

「なるほど、申楽さるがくのう……良き名でございますな」

 父の提案に、観世は笑みを返した。

 そこに、母の楠木晶子あきこが、赤子を抱いて観世の様子を見にやってくる。

「そろそろ出番ではないか」

 赤子は晶子の孫、つまり観世の子で、鬼夜叉丸おにやしゃまるという。この春先に生まれたばかりであった。

「では、父上、母上、行って参ります」

 頭を下げて、観世は舞台に向かった。

聞世もんぜ(服部成次)が見ていないのが残念じゃな」

 観世の背中を見送った晶子は、少し寂しそうに呟いた。


 前髪を垂らした童子の面で舞台に登場した観世は、年嵩としかさの少年らしく足先から指先まで若い息吹を感じさせる。元々、擬態は猿楽の得意とするところではあるが、観世のそれは別格であった。

 内容は、喝食かつじき(まだ、受戒前の若い僧侶見習い)が、人買いに連れていかれようとする娘を助ける話である。観世は仕手方してかたとして、その喝食かつじきを演じていた。その技巧と相まって、物語性のある新しい猿楽は、見物人たちを魅了し、涙をも誘った。

 新生小波多座の初演は大盛況であった。観世大夫かんぜだゆう申楽さるがくのうが確立した瞬間である。


 正平十九年(一三六四年)六月、正儀の母、敗鏡尼(南江久子)が楠妣庵なんぴあんで病に伏せていた。春先にこじらせた風邪が元で寝込むようになり、ついには立ち上がることができなくなっていた。

 そんな母を、正儀と徳子が見舞いに訪れた。正儀は横になった母の隣に座り込む。

「母上、お加減はいかがですか」

 そう言って、母の顔を覗き込む。

(歳をとった)

 心の中で正儀は呟いた。それもそのはず、正儀自身もすでに数えで三十六となっていた。

 ぎこちない笑みを敗鏡尼が返す。

「大丈夫ですよ。今日はね、朝から加減がよいのです」

「敗鏡尼様は、今朝はかゆを残さず食べられたのですよ」

 くりやから、菊子が正儀に声をかけた。菊子は敗鏡尼のために、楠妣庵なんぴあんに寝泊まりするようになっていた。

 侍女のきよは、後ろで、ばつが悪そうにしている。

「私がおりますのに、申し訳ございませぬ」

 しかし、きよきよで、歳をとって体調を崩し、敗鏡尼を看病できる状態ではなかった。

 座るのも大変そうなきよの様子に、徳子が見かねて声をかける。

きよは、家に戻って養生した方がよい。菊子、きよを家まで送ってあげなさい」

「承知しました。母上様」

 菊子は頷くと、きよを支えて立ち上がり、ゆっくり外へと連れ立った。

 その後姿を見送った徳子が、今度は正儀の顔をうかがう。

「母上(敗鏡尼)のお世話は、私も行います。殿(正儀)、私もここに泊まろうと存じますが、よろしゅうございますか」

「そんな、徳子殿にまで……」

 その脇で、敗鏡尼は申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「私を生んだ母はすでにこの世にはおりませぬ。母と呼べるのは、殿の母上である敗鏡尼様をおいて他におりませぬ。どうかしばらく、私に世話をさせてください。私も母上と一緒にりとうございます」

 心から徳子は願った。敗鏡尼の死期が近いことは、ここに居る者は皆わかっていた。

「伊賀(徳子)がそう申すなら、そうすればよい。よろしく頼む」

 了承を取り付けて、徳子は嬉しそうに頷いた。

「ありがとう、徳子殿。貴女と菊子と、こうしてひとときを過ごせるとは、何と幸せなことでしょう」

 喜ぶ敗鏡尼の手を、徳子は両手で握り、微笑みを返した。


 七月三日、赤坂の楠木館に、正儀を訪ねて二人の来客があった。興福寺の公順こうじゅんと、四天王寺の東光とうこうである。正儀と楠木正澄が、館の広間で二人を接見した。

 公順こうじゅんおごそかに、組紐くみひもが掛けられた文箱ふばこを正儀の元に差し出す。

「楠木殿、我らは幕府から南方みなみかたへの和睦の書状を持って参りました。ぜひ楠木殿より帝(後村上天皇)にお取り次ぎをお計らいいただきたく存じます」

 それは、摂津へ攻撃をするかたわらで、待ち焦がれていた書状であった。しかし、正儀は怪訝けげんな表情を浮かべる。幕府の宰相さいしょうともいえる管領かんれい斯波しば道朝どうちょうに、知古がなかったからである。

「なぜ、それがしに……それは斯波しば殿の御指図なのですか」

「いえ、これは京極佐渡守さどのかみ(道誉)が将軍直々のめいを受けて動いていることにございます。佐渡守さどのかみは、和睦の書状を南方みなみかたにお渡しするに際して、楠木河内守かわちのかみ殿を介するようにと仰せでした」

「そうか、道誉殿のお考えか」

 舎弟の正澄に顔を向け、正儀は我が意を得たりと口元を緩めた。


 さっそく、正儀は住之江すみのえ殿に参内さんだいし、大納言の阿野実為さねために会う。

「京極道誉より、和睦の取り成しを願うて参りました。朝議へおはかりいただきとう存じますが、帝(後村上天皇)や他の公卿くぎょう方はどのように思われますでしょうか」

「河内守(正儀)、御上おかみ御心みこころは揺れておられる。四条大納言(隆俊)や北畠大納言(顕能あきよし)らに同調し、あくまでも討幕と主張しておる公卿くぎょうは、まだまだ多い」

「幾度も京奪還が失敗する中、まだ討幕など……」

 正儀は苦々しい思いであった。

「河内守が摂津で勢力を盛り返していることが、強行派の者どもの討幕を、勇気づけているのじゃ。皮肉な事よ」

「それがしが摂津の国を回復しようとしているのは、幕府との交渉を有利に進めんがため。京へ攻め上がることなど考えてはおりませぬ」

 ゆっくりと実為さねためは頷く。

「もちろんわかっております。さりながら、四条卿や北畠卿は、いまだ本気で討幕を考えておる。後の強硬派の公卿くぎょう烏合うごうの衆。二人のうち、いずれかが和睦に傾けば、御上おかみも御決心されるであろうが……そうじゃ、北畠卿は伊勢なので会うことは叶わんが、四条卿に会うてみられるか。会ってそなたの心根を率直に伝えてみてはいかがか」

 実為さねための提案は、正儀にこの度の和睦を諦めさせる狙いもあった。和睦派の実為さねためではあるが、御上おかみに御決心いただくには、機が熟していないと思ったからである。

 しかし、正儀は、四条隆俊と腹を割って話しをしてみたくなる。隆俊の父、先の大納言、四条隆資たかすけは、公卿くぎょうの中でも武人気質であり、討幕派ではあったが、正儀とも気脈を通じた仲であった。しかし、その隆資たかすけの死をきっかけに、釈明する暇もなく、正儀は息子の隆俊からうとまれる。それだけに、腹を割って話せば、わかり合えるところもあるのではないかと期待を寄せた。

「わかり申した。阿野大納言様に仲立ちいただけるのであれば、喜んでお会いしましょう」

「うむ……判った。ではさっそく手配しようぞ」

 少し、申し訳なさそうな表情を浮かべる実為さねためであったが、正儀は気づかぬ振りをして頭を下げた。


 翌日、住吉にある阿野実為さねための屋敷で、正儀は四条隆俊に会う。実為さねためと正儀が向き合うように上座と下座に座り、隆俊はその間に横を向いて座った。

 最初から、隆俊はいぶかしがる。

「阿野卿のっての願いというから参ったが……それで河内守の用とは何じゃ」

「実は、幕府からの和睦の申し入れがありました。四条大納言様(隆俊)より、御上おかみ(後村上天皇)に御奏上のうえ、朝議におはかりいただきとう存じます」

「やはり、そんなことであろうと思うた。麿を懐柔かいじゅうして和睦へと導くつもりであったか。ふふ、和睦を求めるそなたにとって、麿は目の上のこぶであろうからのう」

何卒なにとぞ、よしなに……」

 懇願する正儀を目の前にして、隆俊は不敵な笑みを浮かべる。

「九州では、征西将軍宮せいせいしょうぐんのみや様(懐良かねよし親王)と菊池武光たけみつが、征西府せいせいふ太宰府だざいふに移し、九州全土を支配に置いておるというのに、肝心の畿内ではこのありさまじゃ。菊池の勇猛さは天下随一。それに比べて楠木は何ぞ。和睦、和睦と逃げてばかりじゃ。いっそ、守護をそなたの従兄、勇猛な和泉守いずみのかみ(和田正武)に譲ってはどうじゃ」

 正儀は、隆俊の雑言ぞうごんを黙って拝聴した。すると、見かねて実為さねためが口を挟む。

「四条様、そのあたりでよろしかろう。河内守は聞いてほしいことがあって参られた。和睦をする、しないにかかわらず、話は聞くべきでありましょう」

 これに、隆俊は苦々しい顔で沈黙する。

 実為さねためが目配せをすると、正儀は軽く会釈をしてから、隆俊に改めて目を向ける。

「大納言様(四条隆俊)のお話し、この河内、十分に感じ入るところでございます。されど、九州と畿内では同じという訳には参りませぬ。南方みなみかたくみする武将はもともと少なく、我らの力だけで討幕はできませぬ。幕府を裏切った者どもの力を借りなければなりませぬが、細川清氏は討たれ、山名・大内は幕府に降りました」

「だから何じゃ」

「今後も幕府の内紛は続くやも知れませぬ。されど、将軍に討伐されそうになった者が、そのつど、我らを利用しようとするだけでございます……」

 ふんと鼻を鳴らす隆俊を前に、正儀はさらに続ける。

「……これらの者は、幕府を討伐したいのではございませぬ。幕府の中の敵を討ちさえすれば、また幕府に戻りたいと思うことでしょう。幕府を認めなければ、帝(後村上天皇)の立場はますます悪くなるだけと存じます」

 努めて冷静に、かつ穏やかに自身の考えを伝えた。

 しかし、隆俊の反応は違う。

「そのようなこと、そちに説教されずともわかっておる。我らはその裏をかいて、奴らを利用するまでのことじゃ。さりながら、そなたのように腰砕けがおると、うまくいくものもうまくいかん」

 予想していたこととはいえ、正儀は隆俊の感情的な態度に、終始、困惑する。

「なぜ、そこまで、討幕に固執されます。幕府は本当に無用なものなのでしょうか。幕府を倒しても武士は残ります。武士を統率する者は必要でございます。此度こたびの和睦の案も、我らの今の状況を思えば、決して不利な条件ではございませぬ。帝は将軍の上に立ち、帝のまつりごとも可能でございます」

「麿にそちの言うことを信じろというのか。そなたはここぞという時、戦場いくさばを離れ、我が父を見殺しにした。そのような裏切り者を信じろというのか」

 顔を真っ赤にして隆俊は激昂した。

 正平しょうへい一統いっとうの折、八幡の戦いでのことである。正儀は帝(後村上天皇)のめいで、三種の神器を持って賀名生あのうへ向かった。しかし、このことは一部の者しか知らぬことで、隆俊は正儀が逃げたとしか思っていなかった。

 事情を知る実為さねためが身を乗り出す。

「四条様、それは言い過ぎでございましょう。八幡合戦の折、河内守が戻って来なかったのには理由が……」

「いや、阿野大納言様。そのことはもうよろしいのです」

 正儀は実為さねためを制した。

「裏切り者の言うことなど聞きとうないわ。阿野様、麿はこれにて失礼する」

「大納言様、お待ち下されませ」

 しかし、隆俊は正儀に振り返ることなく座敷から出て行った。結局、正儀と隆俊の仲を改めて確認しただけに終わった。

 この後も正儀は、和睦の上奏に向け、公卿くぎょうたちのもとを奔走する。しかし、京極道誉からもたらされた和睦の申し入れは、結局、朝議にはかられることはなかった。

 楠木館の近くの寺で待たされていた興福寺の公順こうじゅんと、四天王寺の東光とうこうは、空しく京へ戻り、京極道誉へ報告せざるを得なかった。

 この後、正攻法では難しいと観念した正儀と、阿野実為さねためら和平派の公卿くぎょうたちは、一計を案じる。


 七月十七日、南北和議が決裂した直後、正儀の心に追い討ちをかける出来事が起きる。

 楠木館の奥間。侍女のたえが、慌ただしく正儀の前に現れてひざまずく。

「殿様(正儀)、敗鏡尼様(南江久子)の御加減が急に……ただちにいおりへお越しください」

 楠妣庵なんぴあんで母、敗鏡尼(南江久子)の看病をしていた徳子からの使いであった。

「何、母上はどんな御様子じゃ」

「今朝から呼びかけに応じられませぬ」

 たえの顔は強張っていた。

 すぐに正儀は実子の持国丸・如意丸と、舎弟の楠木正澄を連れて、たえとともにいおりに向かった。

 正儀が駆け付けると、そこには授翁じゅおう宗弼そうひつの姿があった。

宗弼そうひつ様、お越しでありましたか」

「しばらく四国を巡っておりました。戻ってみると敗鏡尼殿が伏せているとの話を聞きおよび、こうして参ったのですが……」

「そうでありましたか」

 正儀は、宗弼そうひつに向かって軽く会釈をしてから、敗鏡尼のかたわらに座る。

「母上、正儀です。三郎でございますよ。お気を確かに」

 息子の呼びかけにも敗鏡尼は目を開かず、苦しそうに息をするのみであった。

「昨夜までは、私の他愛もない話を、母上は笑って頷いておられました。それが、今朝起きられないと思うたら、このようなことに。あいすいませぬ」

 徳子は菊子とともに項垂うなだれた。首を横に振る正儀の隣で、持国丸が声を震わせて敗鏡尼にすがりつく。

「お婆様、お返事くだされ。お婆様」

「お婆様は、まだ起きないの」

 まだ数えで三歳の如意丸は、そう言って、しきりに皆の顔を見上げていた。

 正儀がそっと母の手を取る。

「死んではなりませぬ。まだ君臣和睦くんしんわぼく道半みちなかば。それがしは、まだ、母上に太平の世をお目にかけておりませぬ」

 その時、敗鏡尼の手が微かに動く。正儀の手を握り返えそうとしたようであった。

「母上、聞こえておったのですか……斯様かようにご心配をおかけし……」

 声を詰まらせた正儀は、母の手に一縷いちるの涙をこぼした。

 敗鏡尼が息を引き取ったのはその日の夕刻であった。

 持国丸・如意丸の兄弟と菊子は、目にいっぱいの涙を蓄えて亡骸なきがらにすがった。一足遅れで来た藤若丸、熊王丸、正寿丸も目を赤くする。徳子もそんなこどもたちの様子に目をうるませた。皆が騒然とする中で、正儀は、ただ呆然と母の亡骸を見つめることしかできなかった。

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時……」

 宗弼そうひつがその場で読経を上げる。皆は涙をぬぐいながら手を合わせた。


 敗鏡尼の訃報ふほうは、たえによって、近くに住む侍女のきよにも伝えられる。きよは自らの病の床で泣き崩れた。南江久子が楠木正成に嫁いでから、四十年以上も一緒であったきよの落胆は大きかった。

 この後、きよは、敗鏡尼のあとを追うかのように逝ってしまうのである。


 敗鏡尼の葬儀は、近親の者が集まり、勧心寺で執り行われた。しかし、そこには、敗鏡尼にとっての初孫、楠木正綱の姿はなかった。

 埋葬の後、徳子とこどもらは墓の前で手を合わせる。

 その隣で正儀が、ふところから一節切ひとよぎりを取り出して、息を吹き込んだ。かなでる調べは、幼き頃に母と一緒に聞いた、あの調べである。

 心の中で、正儀は問いかける。

(母上、聞こえておりますか。母上が持たせてくれた一節切ひとよぎりです)

 笛の音色に、幼き頃の思い出が、色紙をちぎり合わせたように蘇る。かたきであるはずの足利尊氏にもらった一節切ひとよぎり。虎夜刃丸が一度は棄てるが、母は、笛に何のとがめがあろうかと再び持たせてくれた。そして、笛を教えた尊氏の姿は偽りではなかったとさとされた。

 笛の音が途切れると、徳子はうっすらと涙を浮かべながらお腹を擦る。そこには新たな命が息づいていた。

「殿、きっと生まれてくる子は女の子です。母上様の生まれ代わりでしょう」

 その言葉に、正儀は静かに頷いた。


 数日後、正儀が主の居なくなった楠妣庵なんぴあんを訪れると、授翁じゅおう宗弼そうひついおりの中で一人、読経を上げていた。正儀は静かにその後ろに座ると、手を合わせ、ともに合唱した。

 読経を終えた宗弼そうひつが、正儀に振り返る。

「失礼ながら勝手に上がっておりまするぞ。ここにると、何やら心が落ち着きまする。敗鏡尼殿を通して、楠木正成殿を思い出すからでしょう」

宗弼そうひつ様もここが気に入りましたか。それがしは母の菩提をとむらうため、この地に小さな寺を建立こんりゅうしたいと思うております」

「ほう、それはよいお考えです。正儀殿、その寺の建立こんりゅう、拙僧にお任せくださらんか」

「これは願うてもないこと。母上や父上のことをよく知った宗弼そうひつ様が引き受けていただけるのなら、いうことはありませぬ。改めて、それがしより、よしなにお頼み申します」

 頭を下げて宗弼そうひつに感謝の意を示した。

 ふと、正儀は胸のうちを吐露したくなる。

宗弼そうひつ様、幕府との和議、此度こたびも先方の使者を手ぶらで帰すことになりました。それがしは父上の遺訓いくん君臣和睦くんしんわぼくと理解して、ここまで心血を注いで参りました。されど、和睦は実現せず、帝(後村上天皇)のお立場は悪くなるばかり。それがしは父の思いを取り違えていたのでしょうか」

 問いかけに、宗弼そうひつは口元を少し緩める。

「拙僧は生前の正成殿とよく語らいました。正成殿の人となりは、まだ幼かった正儀殿より、よう知っておったやも知れませぬ」

「父とはどの様な話を」

「正成殿は、武士の不満を誰よりも心配されておった。その解決に、足利尊氏殿は絶対に必要な御仁じゃと話しておった。それだけ正成殿は尊氏殿を買っておられた。逆に尊氏殿も正成殿に一目置かれておられた……」

 正儀は、尊氏が父とは仲のよい友達だと語っていたことを思い出した。

「……御父上は、幕府……とまでは言わんが、武士の棟梁として、武士をたばねるものを置く以外に、混乱は収まらぬと思われておった。その正成殿が今世いまよに生きていたとすれば、当然、討幕一辺倒ということはありえますまい。君臣和睦くんしんわぼく……御安心あれ。正儀殿はしっかりと父上の意志をお継ぎじゃ」

 正儀の顔に安堵の気色きしょくが浮かぶ。

「そのように宗弼そうひつ様に言っていただけると、何やら父に言われているようで……君臣和睦くんしんわぼくへの思いをいっそう、強くすることができました」

「それは何より。公卿くぎょうの頭の固さは拙僧もわかっておりまする。何せ拙僧も公卿くぎょうでありましたからな。簡単ではありませぬ……」

 苦笑いして、宗弼そうひつは話を続ける。

「……だからと言って諦めてはなりませぬ。正成殿もそなたの兄上たちも、いのちに代えて朝廷を御諫おいさめした。されど、そなたは生き抜いて朝廷を御諫おいそめされよ」

 静かに正儀は頷く。父や兄たちの覚悟の討死を理解する人が居てくれるだけで嬉しかった。

 この後、宗弼そうひつは、敗鏡尼の菩提をともらうために、いおりあとに小さな寺、観音寺を建立こんりゅうした。


 観音寺建立こんりゅうの直後、徳子が楠木館で三人目となる子を生む。腹の中の子は敗鏡尼の生まれ変わりになると徳子が予言したとおり、元気な女の子であった。正儀はこの子に、自らの名乗なのりにも通じる式子のりこと名付けた。


 正平二十年(一三六五年)、年が明け、正儀は住之江すみのえ殿に召し出されていた。朝廷の新たな除目じもくを受けるためである。

「楠木正儀を従四位下じゅしいのげとし、河内守に加え、新たに右兵衛督うひょうえのかみに任ずる」

「ははっ」

 蔵人くろうどより除目じもくを受けた正儀は、かしこまって綸旨りんじを受けた。

 続いて大納言、阿野実為さねためが正儀に追加の綸旨りんじを読み上げる。

「楠木河内守に蔵人くろうどを命じる」

 蔵人くろうどとは、帝のおそば近くに仕え、帝と公卿くぎょうの取次を行い、綸旨りんじ奏者そうじゃとして帝のみことのりそうじる役である。右兵衛督うひょうえのかみに任じられた武家が、帝のそばに仕える蔵人くろうどに任じられることは、通常ではあり得ないことであった。

 これは、大納言の実為さねためや参議の六条時熙ときひろなど、正儀と心を同じくする和睦派の公卿くぎょうたちが努力した結果である。南朝の武士の統率者ともいえる兵衛督ひょうえのかみの正儀を、蔵人くろうどとして帝(後村上天皇)のそばに置くことに意味があった。南朝が置かれた軍事的な窮地を帝に御理解いただき、和睦に向けて帝の決意をうながしていこうということの現れである。

 帝の御心みこころは、実為さねため時熙ときひろらの和睦派と、四条隆俊や北畠顕能あきよしらの強硬派との間で揺れ動いていた。この度の除目じもくは、両者の均衡を崩すものであった。

 正儀が蔵人くろうどに任じられたことに、大きな驚きと焦りを感じていたのは、当然のことながら強硬派の公卿くぎょうである。

 隆俊は、蔵人くろうど綸旨りんじを受ける正儀を、目を吊り上げて見ていた。

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