第28話 湊川の送り火
正平十七年(一三六二年)七月、京の夏は相変わらず蒸し暑い。
蝉の声がうるさく響く将軍御所には、京極道誉の姿があった。細川清氏が
このことに、足利一門の筆頭、
そこで、道誉は一計を案じる。
「執事不在となって早、
続き間の上段に座る足利義詮を前にして、道誉は
「うむ、わしも気にしておる。入道(道誉)、誰かよき者はおるか」
「
道誉に手厳しい道朝の名がその口から出たことに、義詮が、意外なと言わんばかりの表情を返す。
「何、道朝じゃと」
「はい、何と言っても将軍家御一門の筆頭。諸将を抑え込むには、この上もない御方かと存じます」
「ううむ……妙案じゃが、
一門筆頭で、父、足利尊氏の代からの勇将である道朝が、執事を引き受けるとは、とても思えなかった。しかし、義詮のみならず、そのことは道誉も織り込み済みである。目的は別のところにある。
「それなら、
単に執事の格を上げるための進言ではない。
「そうか。若い氏頼ならよかろう。それでは、入道に任せよう。内々に打診してみるがよい」
「ははっ、承知致しました」
義詮の前で、道誉は顔を伏せてほくそ
京極道誉から話を聞いた
しかし、元来、
だが、諦めがつかないのは義詮である。道誉に相談することなく、父の
御所に出仕した道朝が義詮の前で
「御所様、せっかくのお声かけではありますが……」
申し訳なさそうに頭を下げる道朝の言葉を、義詮が遮る。
「
「それがしが……でございますか」
「うむ。じゃが、足利一門筆頭の
「
道朝は首を傾げた。
「長崎が如き内なる
その名に道朝は心が動いた。
「将軍自らそこまで頼まれては、それがしも断ることはできませぬ」
「そうか、引き受けてくれるか」
義詮の顔からは、安堵の表情が浮かんだ。
「ただ、それがしの力を必要とされるのであれば、将軍家の執事には氏頼の弟、
道朝は後妻の子であった
「何と、氏頼が跡目ではないのか……じゃが、跡目を
「ははっ」
道朝は
七月二十三日、将軍、足利義詮は、正式に、十三歳の
義詮にとって執事は、氏頼であろうが
しかし、義詮にはそうであっても、これに面子を
氏頼は、執事どころか
そして、道誉は道朝に深い恨みを
八月初め、南河内の楠木館は出陣の
正儀と甥の楠木正綱は、出陣に先立って摂津へ下見に出かけた。その数日間のことである。徳子が二人目の男子を産んだ。
二人が赤坂に戻ってくると、持国丸が待ちわびた風に、館を飛び出してくる。馬から降りた正儀は、
持国丸が満面の笑み向ける。
「父上(正儀)、男じゃ。
「そうか、
正儀は持国丸の頭を
馬から飛び降りた正綱も、持国丸の元に駆け寄る。
「持国丸、そなたも今日から兄じゃな。叔父上(正儀)の嫡男として弟の面倒をしっかりみるのじゃぞ」
「嫡男……嫡男は太郎兄者(正綱)であろう」
正綱は、はっとする。正儀と徳子はあくまで叔父叔母であり、今でも父母と思ったことはなかった。しかし、持国丸は自分のことを兄と思って慕ってくれる。自分も持国丸を実の弟として接していた。正綱は、自分を嫡男として扱ってくれる正儀を父と呼べぬことに、初めて後ろめたさを感じた。
そんな正綱の思いとは関係なく、持国丸は正綱の手を引いて、正儀の跡を追い掛けた。
館の奥では、侍女の
「これは殿(正儀)、このようなところをお目にかけ、申し訳ありませぬ」
気づいた徳子が、赤子を乳から離そうとすると、とたんに火がついたように泣く。
「気の強き子じゃな。よいよい、そのまま続けよ」
「あいすいませぬ。お出迎えもせずに」
徳子は正儀に頭を下げて授乳を続けた。
「何の、その分、持国丸が迎えてくれたわ」
頬を緩めた正儀が、徳子の前に腰を下ろした。
遅れて、持国丸に手を引かれた正綱が顔を出す。すると、侍女の
「こ、これは太郎様(正綱)……」
「あ、失礼した。叔母上(徳子)」
徳子の白い胸元に驚いた正綱が背中を向ける。一方、持国丸は、そんな正綱を尻目に徳子の横に座り、乳を飲む赤子の頬を指でそっと触った。
授乳姿の徳子に気を遣う正綱は、ちらちらと横目で見ていた。そんな正綱に徳子は微笑む。
授乳を終えて胸元を直した徳子が、抱いた赤子の背中を軽く叩いた。
「太郎殿、もう、よろしいですよ」
赤子から顔を上げた徳子が、正儀に目を合わす。
「殿、名前を着けてやらねばなりませぬね」
「うむ、すでに決めてある。
「意のごとく、でございますか」
「そうじゃ、この子は次男。正綱を入れれば、楠木の名を受け継ぐ三人目の
「まあ、殿様らしゅうございます」
「気に入らぬか」
そう言って正儀が、徳子の顔色をそろりと
すると、徳子が正儀をまじまじと見返す。
「ふふ、気に入りました」
わざと作った真面目な表情にこらえ切れず、正儀と一緒に笑った。
「父上様(正儀)、兄上様(正綱)、お帰りなさいませ」
そう言って菊子が藤若丸と熊王丸を連れて部屋に入ってきた。
菊子らに徳子が笑顔を向ける。
「菊子、藤若丸、熊王丸、ちょうどよいところへ。この子の名がいま決まったところです。如意丸です。皆、可愛がってくだされ」
「如意丸殿……なるほど、よき名でございますね」
意図を察したかのように菊子は頷いた。その実弟の藤若丸は生まれたばかりの如意丸にわざと深々頭を下げる。
「如意丸殿、藤若丸にございます。末永くお引き立てのほど、お願い申し上げます」
お
「如意丸殿、我が顔をよくご覧あれ」
普段は大人びた熊王丸も、如意丸を笑わせようと、自らの顔を手で引っ張る。その顔に、如意丸の代わって皆が笑い転げた。
八月半ば、正儀は、和田正武や橋本正高、
この突然の南朝による軍事行動に、幕府の対応は後手に回る。摂津の守護は、赤松
その中に、
「十郎(
実母は、
「父上、亡き母上のためにも楠木が棟梁、正儀の首を取って、墓前に報告しとうございます」
楠木正儀に対し、並々ならぬ決意で臨もうとしていた。
「よくぞ申した。それでこそ池田の跡取りじゃ。そなたの母も喜ぶであろう」
父の
摂津に進出した楠木軍は、前回の摂津侵攻と同様に、この地の天満宮に陣を張った。
「三郎殿(正儀)、肩透かしじゃな。このまま幕府軍が出て来なければ、我らは何のために出兵したのかわからんぞ」
「新九郎(正武)殿、心配は無用。すでに
後ろに向けて正儀が目配せすると、津田武信が進み出て絵地図を広げる。
「殿(正儀)の仰せの通りです。聞世殿(服部成次)が
絵地図の中で、武信が神崎橋の向こうへと指をつつっと動かす。
「……敵はここ、
これを受けて、正儀が正綱に顔を向ける。
「太郎(正綱)、お前ならどう攻める」
「はい……敵は神崎橋の向こうにおよそ五百。こちらは千四百。まず四百を橋の手前に配置し敵を引き付けます。そして、残りの兵を五百ずつに分けて、それぞれ、この神崎川の上流と下流から渡らせ、敵の背後を突いてはいかがかと存じます」
突然の問いかけであったが、正綱は落ち着いていた。先に摂津の下見をした際、神崎橋あたりも調べていたからである。
「なるほど、それはよき策ではないか。のう、三郎殿(正儀)」
感心した正武がひざを打った。しかし、正儀は納得しない。
「うむ、よき案じゃが問題がある。神崎川の下流は川幅も広く、川底も深い。船を手当てせねば渡ることはできぬ。今から船の手当てはできん」
「ううむ。では、上流から神崎川を渡るしかないのう」
諦め顔で正武は腕組みをした。
「そうじゃな。新九郎(正武)殿の申す通り敵の背後を突くのは上流からと致そう。されど、正綱が言うように下流へも兵を送ろう」
「叔父上、それはどういうことでございます」
「確かに。渡れぬ川下に兵を送っていかがするのじゃ」
正綱と正武に、正儀は絵地図の神崎川の下流を指差す。
「下流に向かわせる兵は
「なるほど……」
「うむ、敵の驚く顔が目に浮かぶわい。やってみようではないか」
正綱は感心し、正武は面白がった。
池田
「
「池田十郎
頭を下げる池田
「池田殿、よう来てくれた。そうか、十郎殿は初陣であるか。されど、初陣にしては、今日の敵はちと手強いぞ」
「相手が楠木だからこそ、父に初陣を願い出ました」
「おお、頼もしき跡継ぎでござるな。されど、池田殿には前線ではなく、この本陣に居てもらおう」
定俊の言葉に、
「十郎、お前は初陣じゃ。皆の足手まといになってはならん。本陣から皆の戦をよく見ておくことも大事な戦じゃ。よいな」
「はっ」
言いたい言葉を飲み込んで、
「池田殿、相手が楠木と聞くと、大概嫌がるものじゃが、戦えぬことを悔しがるとは、これは将来、楽しみよ。わっはは」
定俊は父の
幕府軍は
兵たちを前に、武信が
「皆、両手に
「よし、地面に立て終わった者から、急いで戻るのじゃ」
武信の
川向こうに布陣した幕府勢からは、暗闇に
「神崎橋は守りが固いとみて、楠木は下流に大軍を移しておる。
一方、正儀は暗闇の中、
川の様子を見に行った正綱が、正儀の元に戻ってくる。
「叔父上、このあたりは渡れそうです」
「よし、ではこのあたりでよかろう」
正儀の合図で楠木軍は進軍を止めた。そこは、神崎橋から二十町ばかり北の、
「よし、隊列を崩さず、ここから対岸を目指すのじゃ」
和田正武が指揮して、兵と馬を対岸に渡らせた。歩兵は胸まで水に浸かるが、
神崎橋の西、幕府軍の
「殿(定俊)、川の上流に
「何、楠木か。対岸の楠木の本営はどうなっておる」
定俊は神崎橋の対岸の楠木の本陣を見遣った。
「楠木の本営は動いてはいないようです。
兵の言葉に定俊は腕組みをする。
「うむ、
定俊は近習に命じると、ひと眠りしようと陣幕の中に入って横になった。
短い夜が終わり、東の空からゆっくりと夜が明ける。陣幕の中でひと眠りしていた
「殿、大変です」
「う、うん、どうした」
定俊は寝ぼけた
「と、とにかく、こちらへ」
その兵は、定俊を陣の裏手に連れて行く。
「あれをご覧ください」
「赤松からの加勢か。聞いておらんが……」
のんびりと軍勢を見ていた定俊だが、朝日が軍勢を照らし出すにつれ、顔が引きつる。
「菊水……菊水の旗ではないか。いつの間に楠木が……」
正儀は幕府軍を取り囲むように、
「こ、この敵の数では
定俊は、
幕府勢の動きは、その西に移動した楠木勢からよく見えた。
津熊義行が指を指す。
「敵は
「ふん、こっちは全てお見通しじゃ」
楠木正綱は、幕府軍が正儀の術中に
「よし、皆、
正儀が命じると、周りの兵がいっせいに、えい、おう、と声を上げた。
そして、
「何、すでに
「よし、者ども、敵を討ち取れ」
ついに合戦が始まる。和田党は、浮足立った幕府軍を、あちらこちらで散々に打ち破った。
定俊は池田親子を含む兵五十人に守られて逃げるが、正武が和田党を率いて先回りし、これを討たんと取り囲む。
「敵の大将を取り逃がすな。囲め、囲め」
正武の怒声が響いた。
和田の騎馬に囲まれるものの、弱冠十五歳の池田
「新九郎(正武)殿に後れを取るな。者ども、行くぞ」
正綱も騎馬隊を指揮して突入していく。馬上で槍を構え、大将、
すれ違いざま、二人の目が合う。
「くそ、あの者、邪魔立てしおって」
馬を駆って走り抜ける
その一瞬の隙を突いて、幕府軍の大将、
「くそ、取り逃がしたか」
正武は歯ぎしりしながら、逃走する幕府軍を目で追った。
楠木軍が摂津の神崎川で幕府軍を撃破した知らせは、幕府を震撼させる。将軍、足利義詮は、執事の
義詮の機嫌は悪い。
「
「南軍を京から追い払い、清氏を四国で討ち取り、やっと、諸国の
これは摂津の守護である道誉の失態であった。普通の人ならば、頭を垂れるところである。だが、この男は違う。
「ほんに情けない。わしがその場に居ようものなら、楠木など追い返したものを。残念じゃが、わしはその時、春王丸様の御供で京を離れることができなんだ。それがしにとっても、まことに残念な事じゃ」
悪びれる事もなく言い放った。
その態度に道朝が
「まるでそなたは、春王丸様に責任があるような言いようじゃな」
「はて、そのようなこと、この入道(道誉)が申しましたか。楠木の運のよさを言うたまででござるよ」
このやり取りに、義詮が神経質そうに眉間に
「もうよい。我らが考えねばならんことは、南軍を討つことじゃ」
「では、摂津守護として、この入道が兵を率いて出陣致しましょう。西には赤松
道誉は頭を下げつつ、意味ありげに執事の
「あいや、待たれよ。執事がおるのに道誉殿の名で兵を集める必要もありますまい。
道誉が以外にあっさりと出陣を願い出たことに、道朝は慌てて出陣を申し出た。道誉に目立つ役割を回したくなかったからである。
道朝の目配せに、まだ数えて十三歳の
「御所様、ぜひ、それがしにお命じくだされ」
「
「では、ご随に」
道誉は、これで出陣しなくて済んだとばかりに、笑いをこらえて道朝と
九月十六日、神崎川での戦に勝った楠木軍は、
そのゆく手には、赤松氏の摂津の出城である
兄の
「おのれ楠木、次なる狙いは我ら赤松か。
片や、
西侵する楠木軍は、海手の
しかし、正儀は
手ぐすね引いて
楠木軍は西へ、さらに西へと進んだ。そして、
ゆっくりとあたりを見渡した。背後には小さく盛り上がった
この地にくるのは、皆、これが初めてである。
「ここで父上が死んだのか……」
誰かに聞かせるわけでもなく、正儀が呟いた。
あたりを見渡した正儀は、目を
不意に正儀は、背後に父、正成の気配を感じる。
「父上」
小さく声を上げて振り向いた。しかし、誰も居ない。
(あの場所は、ここだったのか……)
一生懸命、あの時の記憶を
隣では正近が、やはり、この地で散った父、
正儀が諸将を集める。
「よし、ここで父上たちの
敵が在所として用いた民家に火を掛けるように命じた。
手筈どおり、楠木の兵たちは家々には金を渡して家を空けさせ、空になった家に念仏を唱えながら火を着けて回った。
「これは、父上たちへの送り火じゃ。今だ
「はい、叔父上」
燃え上がる炎に火照る顔で正綱も手を合わせた。
もちろん、それだけが目的ではない。あくまで戦である。勝ち戦を宣伝するためには、
「よし、皆、引き上げるぞ」
家々に火を放ち終えた正儀は、兵に
この楠木の行動に拍子抜けしたのは、六甲山の
「楠木め、相変わらず
摂津、西宮の寺を本陣として、
「聞世(服部成次)か」
振り返る事なく正儀は言い当てた。
「はい。京に放った
振り返って、聞世と向き合う。
「幕府が動いたか」
「左様にござる。
「そうか、ご苦労であった。そなたは先に住吉へ戻り、阿野大納言様(
書状を受け取った聞世は、軽く頭を下げて、陣から出ていった。
正儀は
「我らはこれより、河内に戻ることとする。太郎(正綱)、小七郎(正近)、陣を引き上げよ。撤収じゃ」
「承知」
従弟の楠木正近は、撤退を
正儀は、その広縁に立っていた和田正武に顔を向ける。
「新九郎(正武)殿、京から幕府方が出てこないうちに、和田党も引き上げてくだされ」
「ううむ、撤退は惜しい気もするが……まあ、当初からのそなたとの約束じゃ。やむを得ん」
正武は楠木正綱を連れて、寺の
しかし、正綱は釈然としていない。
「当初からの約束とはいえ、これだけ我らが優勢であるのに、撤退せねばならんのですか」
「何じゃ、太郎殿(正綱)も不満であるか。確かに、三郎殿(正儀)の戦の才は先代譲りじゃが、少々物足りぬ。危ない賭けには出ぬからな」
「爺様は違ったのですか」
「ん、正成公か。あのお方は違った。だから
正綱は、正儀とはまた違った魅力を和田正武に感じていた。
「それがしの父は……」
「
正武は正綱の肩を軽く叩いて、自軍へと向かった。
九月二十二日、楠木ら南軍は、幕府
正儀にしてみれば、南軍が勝ったという事実が諸国の
「兄者、南軍が西宮の陣を引き上げて、撤収を開始したぞ」
「何じゃと……楠木め、またもや我らを無視しおったのか。くそ、こんなことであれば、討って出ておればよかった」
摂津守護を望んでいた
楠木軍は南河内の龍泉寺城に帰還する。そして、正儀と楠木正綱らが楠木館に戻ると、家族や
馬から下りた正儀に、徳子と持国丸が駆け寄る。
「殿(正儀)、御味方の大勝利、おめでとうございます」
「父上、おめでとうございます」
「うむ、伊賀(徳子)、持国丸、無事に戻ったぞ」
二人は満面の笑顔であった。
その隣では、正綱の元に藤若丸とともに菊子が駆け寄っていた。菊子は正綱の無事な姿に、胸に手を当てて安堵の表情を浮かべる。
「太郎様、おめでとうございます」
「兄上、おめでとうございます。姉上はずっと心配しておったのですよ」
すると菊子が顔を赤くして、余計な事をと言わんばかりに、目を三角にして藤若丸を睨んだ。そんな二人の様子に、正綱は口元を緩める。
「二人とも、かたじけない。ところで熊王は……」
正綱があたりを見渡すと、熊王丸が前に進み出る。
「ここにおります。父上、兄上、おめでとうございます」
「おお、そこに
正綱が語りかけると、熊王丸は目線を下げる。
「そ、そうでございますか」
言葉少なに、熊王丸は表情を固くした。
正儀は持国丸に手を引かれて館の中に入っていく。正綱も菊子と語らいながら、ともに館の中に入った。
後に続いて館に入ろうとする熊王丸の肩を藤若丸が叩く。
「わしらも早く元服し、戦に出て
「ああ、そうじゃな」
熊王丸は強い思いを胸に、腰に差した短刀の
東条に戻った正儀は、幕府
さっそく、広間に舎弟の楠木
「聞世(服部成次)からの知らせじゃ。我らが撤退した摂津では、幕府軍が神崎川に布陣を続けておる。さらに
従兄の細川
正澄が甥の正綱に視線を向ける。
「幕府は
「幕府軍が南軍を力で追い払ったと諸国に
皆の顔色を
「その通りじゃ、太郎(正綱)。我らはそれを阻止せねばならん」
肯定されて正綱は安堵する。
「では、叔父上。それはどのように」
「夜討ちをかけて、細川の
「なるほど、幕府の面子は
納得顔で正澄が頷いた。しかし、正綱は首を傾げる。
「されど、どのように
「渡辺党の力を借りよう」
なるほどと、隣で正近が膝を打つ。
「とすると、船で近づくということじゃな」
渡辺党は
祖先の
「日が暮れてから船を出し、海から船を焼打ちする。大軍を動かす必要はない。精鋭を選び、五十人ばかりで攻めればよいであろう」
「叔父上、その大将、それがしにお命じくだされ」
正儀の話に目を輝かせて、正綱が身を乗り出した。
しかし、正儀は首を横に振る。
「太郎(正綱)にはまだ早い。小七郎(正近)に任せることにしよう」
「いや、叔父上、ぜひともそれがしにお任せを。爺様(正成)や父上(
口元にきっと力を込め、正綱は食い下がった。和田正武が語っていた、武士にとっての賭けのしどころだと思ったからである。
「太郎、そなたにはこの指揮は難しい。焦る必要はない。ここは小七郎(正近)に任せよ」
「そうじゃ、正綱。ここはわしに任せよ」
首を横に振る正儀に続いて、正近も正綱を
これを正綱は、自身が信用されていないからだと思う。元服してから二年、幾度も
「いえ、叔父上、ここはぜひ」
食い下がる正綱に、
「殿、確かに若様は少々若うございますが、大将を経験するのはよい機会かと。船の上から焼打ちし、敵が攻めてくれば船を引けばよろしかろう。それがしも出陣しますゆえ、ここは若様に大将をお命じくだされ」
武信の進言に、正儀は舎弟の正澄と顔を見合わせる。すると、正澄は仕方ないという顔で軽く頷いた。これに、正儀は軽く吐息を吐く。
「わかった、太郎。そなたに大将を命じよう。されど、当麻(津田武信)の言うことをよく聞き、決して無理はするな」
「叔父上、ありがとうございます。きっと、楠木の名に恥じぬ戦をしてみせます」
「よかったですな、若様」
武信は正綱と顔を合わせて喜んだ。しかし、正儀は浮かれる正綱に一抹の不安を禁じ得なかった。
数日後の夜である。楠木正綱の姿は
「楠木の若様、ここから
話しかけてきたのは、渡辺惣官家(惣領家)の棟梁、
正綱が
「船はいろいろあるようじゃが、どれを使うのじゃ」
「これにございます」
それは目の前の、十人ばかりが乗り込める小舟であった。
「この船で……」
「若(正綱)、小さい方がよいのです。敵に見つかりませぬからな」
そう口にした武信が、ひょいと船に乗って見せた。
「若様、これを五艘出して、南から
言いながら、
不安定な舟の上で、正綱は身体をねじり、腰を落として倒れないようにする。我ながら情けない姿だと思う。そして、自らが思い描いていた合戦とは、およそかけ離れた状況に落胆していた。
舟から上がった正綱は、少し考え込んでから武信に顔を向ける。
「当麻(武信)、兵を二百ほど集めることはできぬか」
その言葉を武信はいぶかしがる。
「若(正綱)、兵を集めていかがなさる」
「敵の軍船を焼き払っても、誰がやったのかわからないのでは意味がなかろう。楠木ここにありと示さなければならん」
「若の仰せは最もな事なれど、殿(正儀)より、合戦するべからずと釘を刺されておりますゆえ……」
難しい表情で、武信は正綱を
「合戦などせぬ。
大将として、正綱は少しでも自身の采配を見せたかった。武信も戦略は的を射ていると思う。また、それ以上に
隣に控えていた津熊義行が正綱に応じる。
「では、それがしから東条の殿(正儀)に
「いや、叔父上(正儀)へは、わしから
「承知しました。では東条の殿(正儀)によしなに」
武信はそう言うと、義行を伴って
さっそく武信らは津田荘に入り、父の津田範高、兄の範長に出陣を願った。武信と義行の奔走で、数日のうちには津田党と、
幕府の兵たちが寝静まった頃を見計らい、楠木正綱は、津田武信や津熊義行、そして津田範高・範長親子が率いる津田党などからなる二百を率いて淀川を下り、陸路、
一方、
「よし、はじめるぞ」
不安定な小舟の上に立ちあがった
―― びゅん ――
目の前の
「ひ、火じゃ」
兵の多くは陸に上がっていたため、各船には数人の留守番を残しているだけであった。
「焼き討ちじゃ」
「ふ、船が燃えておるぞ」
「敵襲じゃ」
「皆、起きろ、起きろ」
あちらこちらで緊迫した声が
陸路で
武信の父で、老体に鞭打って参陣した津田範高が、正綱の顔を
「若様(正綱)、うまくいったようでございますな」
「うむ。では、そろそろ参るとするか」
そう言って正綱は二百人の兵を率い、火を消すために小舟を出そうとしていた細川勢に突進した。
菊水の旗が
「我こそは、亡き楠木
正綱の名乗りで、楠木軍の兵がいっせいに刀を抜いて気勢を上げた。
細川の兵は、前には突如現れた楠木軍、後ろには燃える
「よし、このまま敵兵の中に突っ込んでから引き返す。津熊三郎(義行)、ついて参れ」
「おう」
正綱の
「わ、若様……無茶をなさる」
刀を交えないと聞いていた津田範高は、驚いて嫡男の津田範長と顔を見合わせた。
範高らの心配をよそに、正綱と義行は、細川勢の中でひと暴れすると、気が済んだかのように、範高の元に戻ってきた。
「若、さ、幕府の援軍が来ぬうちに、早く撤退の
「よし、では、者ども、撤退じゃ」
武信に
その矢先、
急ぎ逃げようとする楠木正綱の前を、加勢に駆け付けた幕府方の騎馬が塞いだ。
それは、池田十郎
池田勢の中から
「菊水の旗、楠木じゃな。我らに
「何、母の
そう言いながら正綱が振り向く。
「……あの者は」
見覚えのあるその顔に、正綱は立ち尽くした。
しかし、その隣で津田武信が正綱を急かす。
「若、なりません。さ、早う」
「わかっておる」
そう言って馬を走らせようとした正綱に向けて、
「我こそは池田
これが、血を分けた兄弟の出会いであった。
このことを伝え聞いた時の将軍、足利尊氏は、楠木正成の血を絶やすまいと、北摂津の池田
その後、
その池田
「どうゆうことじゃ、当麻(武信)。楠木
馬上から正綱が武信に詰め寄った。武信はその隣で、驚きを隠しきれない様子で
「当麻(武信)、何をしておるのじゃ。早う逃げるのじゃ」
馬で引き返してきた津田範高が、呆然とする二人に怒鳴った。
正綱の一瞬の
「ここは我ら津田党が兵を引き付ける。当麻(武信)は若様を連れて、早う逃げるのじゃ」
範高はそう言うと、嫡男の範長と十数人の郎党を率いて押し寄せる
後から津熊義行の騎馬が駆け付ける。
「若様、それがしの後に続かれよ」
義行が槍を振って道を作った。しかし、続こうとする正綱に、池田の兵が襲い掛かる。
「ぐわっ」
鮮血が散る。一瞬早く馬を前に出した津田武信が、正綱を守るために身を挺していた。
「当麻(武信)、当麻、しっかりせよ」
「若……お逃げくだされ」
そう言うと、武信は胸を押えて落馬する。
正綱は慌てて、馬から飛び降りると、武信を抱えた。
「その出で立ち、楠木の大将とお見受けする。御覚悟を」
馬を寄せた
「
今度は
「何……」
二人の間に一瞬の沈黙生まれた。そこに、二人の間を割るように義行の騎馬が割って入る。
「若様っ」
その
「当麻(武信)……すまぬ。当麻(武信)……許してくれ」
武信を見捨てるしかなかった。正綱は涙を流す暇さえなく、がむしゃらに馬で駆けた。
一方の
翌々日、津熊義行とともに楠木館に戻った楠木正綱は、
険しい顔をした正儀が、立ったまま、二人の前に詰め寄る。
「なぜ当麻(津田武信)が死ななければならなかったのじゃ。なぜ津田の父上(津田範高)と兄上(津田範長)が討たれなければならなかったのじゃ……」
武信ばかりでなく、正綱を逃がそうと幕府勢の前に立ちはだかった津田範高と範長も、津田党十数人とともに討死していた。
「……なぜ津田の父上を呼び寄せて陸から兵を進めたのじゃ。なぜ敵陣へ切り込んだのじゃ……」
怒りに任せて正儀は、矢継ぎ早に正綱を問い詰める。
「……お前の行動は、死ななくてもよかった者を死に追いやったのじゃ」
正儀は、二百の兵が陸路、
義行が正綱を
「殿(正儀)、
「いえ、三郎(義行)はそれがしの
顔も上げずに、正綱は低い声で正儀に応じた。
「言うべき事はそれだけか」
その正綱の態度に正儀は声を荒げた。幼き頃から兄弟のように育った武信を失って、珍しく冷静さを失っていた。
だが、正綱にとっても、慕っていた
しかし、正綱にも、正儀に確かめなければならないことがある。
「叔父上(正儀)、幕府勢に囲まれた時、先駆け二十騎を率いていたのは池田十郎
思わぬ話に、正儀は表情を曇らせる。
「それが……当麻(武信)が討たれた理由だというのか……」
二人の間に
正儀は感情を押えて口を開く。
「
「なぜ……なぜにございますか」
強く問い詰める正綱に、正儀はまっすぐ正綱の目を見返す。
「楠木の家を守るためじゃ」
二人の衝突に、義行ははらはらと、交互に目をやった。
正儀は
「なぜ、それがしも一緒に
「お前は兄者(
「池田
「わしも後で母上(敗鏡尼/南江久子)から聞いた話じゃ。その時に
正儀が話終わるのを待って、正綱は顔を上げて睨みつける。
「叔父上は、ずっとそれがしをたぶらかしてきたのか」
「たぶらかす……そうじゃ。できればお前はそのことを知らずに育って欲しかった。わしは最後まで
そう答える正儀に、今度は正綱が目を
二人の張り詰めた空気に、義行が居たたまれずに顔を上げる。
「太郎様、殿は決して御母上に厳しく当たった訳ではありませぬ。最後の最後まで、御母上を救う道を考えられた挙句のことなのです」
「義行、もうよい」
正儀が義行を制すると、再び沈黙に包まれた。
変わらず正綱は正儀から目を
黙り込む正綱に、正儀は再び語りかける。
「今は当麻と、津田の父上・兄上の成仏を願い、残された者のことを考えてやるしかない。津田党は棟梁と主だった家臣が亡くなった。残されたのは元服したばかりの
「当麻には七つになる子がおる。その子は父なしで育たねばならん。幼き時のお前と同じじゃ。楠木として何ができるか……お前はその子に何と声をかけてやるのか。大将は父母のない子を作らないよう心掛けねばならん。戦はここぞという時に……勝てる算段が付いた時に、最低限のことをすればよいのじゃ」
それは、正儀の信念であった。
このことは正綱も理解できる。だが、頭でわかっていても、心は違った。楠木の家を守るためにと母、満子は楠木家から追い出された。そして死んだ。血の繋がった弟と
母を裏切り、自分を騙していた叔父、正儀に対する不信感。一方で、
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