第 6 話 建武の新政
元弘三年(一三三三年)六月、南河内の山々は
ここは、赤坂城(下赤坂城)の本丸(主郭)に建つ陣屋の中。
皆の前に立った虎夜刃丸は、毛先まで汗でびっしょりと濡らし、はあはあと肩で息をしている。
「ち、父上(楠木正成)から便りがきたのか」
「ああ、いま、母上が目を通されておる」
書状に目を落とす久子の邪魔をさせまいと、多聞丸が早口で応じた。その隣では、
場の空気に押された幼い二人は、顔を見合わせ、持王丸の隣に大人しく座った。
「それで
にいにいと鳴く蝉に根負けした正氏が、こらえきれずに声をかけた。その隣では妻の
すくっと顔を上げた久子が、二、三度まばたきをしてから、ぐるっと皆の顔を見渡す。
「殿(正成)は、四条
「えぇ、父上は京に住むのか……河内には帰ってこないのかぁ」
不満をいっぱい顔に出し、虎夜刃丸が久子の顔を見上げた。
「そうですね……京での勤めも仰せつかり、これからは向こうで過ごすことが多くなるそうです」
「うむ、兄者(正成)は、帝(後醍醐天皇)の新たな
正氏は自慢気に言葉を投げ掛け、我が事のように喜んだ。
この
しょんぼりとする虎夜刃丸の様子に、久子は小さな吐息を漏らし、正氏に視線を送る。
「そこで、五郎殿(正氏)を河内国の
すると正氏はその顔を強張らせる。
「何と、わしがこの河内国の
尻込みする正氏に向け、
「大丈夫でございますよ。五郎殿は、今でも立派に、殿(正成)の名代を努められておられるではありませぬか」
「そうでございますよ。
「そうかのう……」
久子の励ましに、正氏は顔の緊張を
大人の話に、虎夜刃丸は首をひねる。
「じょうらくって何」
「京に行くことですよ」
母の答えに、虎夜刃丸の目がらんらんと輝く。その場で立ち上がり、久子の手を引っ張る。
「虎も行く。虎も行く」
「わしも行きたい」
「京を見てみたい」
末弟に続き、多聞丸と持王丸も久子にせがんだ。もちろん、満仁王丸と明王丸とて同様である。父、正氏の手を引っぱって京への同行をせがんだ。京は、幼子でさえ心ときめく花の都であった。
しかし、久子は表情を崩さず首を横に振る。
「今は討幕直後で京は荒れております。まだ、
「ええっ」
虎夜刃丸は、この世の終わりに浮かべる表情を見せた。
その顔に、久子は茶目っ気たっぷりの微笑みを返す。
「でも、この
「本当に……」
そして、頷く母の顔を見て、虎夜刃丸は明王丸の手を取る。
「やったあ」
幼い二人が小躍りする姿に、多聞丸も満面の笑みを浮かべる。そして、久子自身も初めての上洛に、心の奥底で胸を躍らせていた。
六月十三日、
そして、行列の中央は馬に跨った
京の人々は、武勇の親王を持て
凱旋を果たした
表向きの儀式が終わった後、親王は帝によって御殿の奥に招かれた。久方ぶりの親子の対面である。
「
無表情の千種
「はっ、ありがたき幸せにございます。
そう言って
「うむ、これからは
「はい、そのためには、
親王は、鞘を失くした刀身が如く、ぎらつく目で熱く訴えた。
だが、その進言は帝の腹に冷たく落ちる。
「足利のことか。
「仮に高氏にその気がなくとも、武士供は武家の棟梁として高氏を担ぐでしょう。武士が、武士の世を創りたいなどと思わない
親子の間に小さな緊張が生まれる。
「では、どのようにせよと申すか」
「はい、そのためには、我ら皇族が力を持たなければなりませぬ。古代、
いつぞや、
「……
帝は自慢の長い髭を揺らすように深く頷く。
「なるほど……
しかし、帝の顔から話の感触を推し量ることは難しかった。反応を見極め切れなかった親王は、帝が表情を消したことを気にしつつ、礼を述べて下がって行った。
「宮の考えは一理あると思うが、その
これに忠顕は、一瞬、悩むような表情を見せてから口を開く。
「麿も、宮様のお考えに理はあろうと存じます。さすがは戦う宮と名をはせる、
いったんは親王の顔を立ててから、上目づかいに帝の表情を拝する。いかにも思案している素振りである。
その顔色を
「ただ、
「うむ、宮は豪気な気質じゃ。そちがその様に思うのもわからんではない。されど、朝廷の中に幕府は創れぬ。宮は頼朝にはなれぬ」
すると
「恐れ多きことなれど、であればこそ、
これに帝は、暫し無表情に考え込む。
「むう……じゃが、次の帝になりたいのであれば、自ら望んで征夷大将軍にはならんであろう。一度は仏門に身を置いたのじゃ。自らの立場はわきまえておろうぞ。きっと宮は
「はい、麿も宮様が恐れ多いことを考えるとは思うておりませぬ。さりながら、宮様とて周囲に担がれぬとは限りませぬ」
「げにも。京への凱旋では、赤松が先陣として得意満面でございました。大きな力を持たせ過ぎぬようにお考えになるべきかと」
ここぞとばかりに、忠顕は赤松円心の名前を出した。二人の間には
「うむ、そちたちの心配はよう判った。心に留めおくこととしよう」
帝の言葉を受け、忠顕らは表情を崩すことなく神妙に平伏した。
その息子、四条隆貞は参議に任じられ、晴れて朝議にも出ることのできる
一方、赤松円心は
すでに楠木正成が守護と共に
討幕前の国司は守護・地頭によって、その権力は
(ぐぬぬ、なぜじゃ。なぜ、わしが播磨の国守でないのじゃ)
だが、
数日後、中納言の
「中納言様、ようお越しくだされました。ちょうど我が弟が河内から出て来ております」
兄に
「中納言様、お久しゅうございます。美木多五郎正氏にございます」
そう言って頭を低くした。藤房が
「
正成も正氏に合わせるように頭を下げた。
「正氏、そなたの兄はしばらく京から戻れぬかも知れぬ。留守の間、河内国の
「ははっ」
その言葉に正氏は緊張し、ぴんと背筋を伸ばしたままひれ伏した。
次に正成が、
「楠木七郎
「末弟の
「そうか。では、
「ははっ」
頭を下げた
再び、差しで正成と向かい合った藤房が語りかける。
「ひとまず、
「はい、されど、これで収まったわけではございませぬ。
「そうじゃな……」
溜息をつくように藤房が正成に相槌をうつ。
「……そして、さらなる問題は、土地に関する朝廷の御触れじゃ」
その指摘に、今度は正成が沈痛な表情を返した。
藤房と正成の二人で進む話に、正氏が首をひねって口を挟む。
「はて。確か御触れは、
釈然としない正氏に、正成が振り返る。
「問題は土地の拝領に、必ず
事の重大さに、正氏は開いた口がそのままとなった。
しかし、問題はそれだけではない。続く話を藤房が引き取る。
「さらに
今回の所領に関する
正成が藤房に向けて顔を戻す。
「どなたのお考えでございましょうや」
「決めたのは
隠岐派とは、生死を賭けて隠岐脱出を共にした
頷きながらも、
「されど、宮様(
「それは、早々に恩賞を受けたからじゃ。赤松もあの時、正成らと一緒に恩賞に
時が戻せないことを、藤房はしみじみ惜しんだ。
帝が還行した時、円心は、自らが
「正成、もう一方の当事者である足利はどうじゃ」
中納言の問いに、正成は慎重に言葉を選ぶ。
「足利殿は
これから起きることを、まるで予言するかのごとく応じた。
「それでは、また宮様と足利が衝突することもあり得ると……」
「いかにも。それがしは宮様を見捨てるような真似はできませぬ。宮様と足利殿の争いとなれば、宮様に付いて足利殿と争うことになりましょう。されど、正直、それは避けとうございます。そうならないためには、御親政で、いかに足利殿を取り込むことができるかということかと存じまする」
これに、藤房はゆっくりと頷く。
「正成の申すことはもっともなことよ。麿からも
「
藤房は他の
眉間にしわを寄せるような難しい話が終わると、藤房は、いつもの温厚な顔に戻る。
「ところで話は代わるが……正成、
そう言って意味あり気な微笑みを見せた。女房をあてがうとは
「帝がそのようなことを。
「あいや、待たれよ……」
やんわりと断ろうとする正成を、藤房が制する。
「……すでに目星をつけておるのじゃ。我が親族の滋子という官女でな。当人にその気はないかと聞いたところ、満更でもない様子。何せ楠木正成の名前は京では知らぬ者はないからな。ほほほ」
「いや、されど、それがしは河内に残した妻一人で十分にございますれば、
「まあ、妻は一人でなくともよかろう。それに、
その視線の先では、
「三郎兄者、帝の手前もあります。形ばかりはお受けになってはいかがですか」
「わしは
二人の弟は、兄が困る姿が可笑しくてたまらない様子であった。
「何が大丈夫じゃ。お前たち、余計な事を言わなくてもよい……」
身体をひねって弟たちににらみを効かせた後、神妙な顔を正面に戻す。
「……中納言様、形ばかりとはいえ、その滋子殿にも迷惑の掛かることゆえ
「左様か。まあ、そこもとのそういうところが信頼できるのじゃが……まあ、今日はこの話、ここまでとしよう」
扇を振って風を取り込みながら、藤房は残念そうに呟いた。
七月、鎌倉では、幕府を討って、そのまま駐留していた
鎌倉の新田館では、ちょうど、足利館の偵察から執事の船田義昌と、新田四天王の筆頭、
重広が義貞を前に、その広い肩を震わせる。
「
「馬鹿な、いったいどういうことじゃ」
眉をつり上げた義貞は、執事の義昌に向けて泡を飛ばした。
「はっ、足利は帝(後醍醐天皇)の
舎弟、
「それがどうしたというのじゃ」
「
「加えて、新田も千寿王の元に参じた一門のひとつに過ぎず、宗家の足利が恩賞を取り仕切るのは道理じゃとも触れておるようです」
「何じゃとっ」
続く重広の言葉に、顔を真っ赤にした義助が、怒鳴り声を上げた。
新田の祖、源
義貞が唇を噛みしめる。
「足利め、
「
猛将の重広は、戦に相当の自信があった。
「重広、
沈着な義昌は、にべもなく反対した。
二人の声をあらげた話を聞きながら、義貞が目を
「兄者、どうする」
沈黙する義貞に、舎弟、義助が決断を迫った。その声に、義貞は大きく息を吐いてから、ゆっくりと目を開ける。
「
これに重広は、納得しかねる表情をみせる。
「されど、
「いや、我らは、京へ上って
義貞は執事の義昌に、急ぎ上洛を命じた。
新田軍は大急ぎで上洛の
その頃、南河内の桐山の麓では、たくさんの大工と
虎夜刃丸は母、久子に連れられて、現場に来ていた。
「みなさん、握り飯ですよ。ここらで、休憩としてくだされ」
久子は、
これに、大工の棟梁が前屈みになって
「これは奥方様、それに若様までも。いつも、わしらのために申し訳ないことです」
「館は、皆さんに頑張っていただいてこそできるのです。私どもにできるのはこの程度。さ、遠慮せずに」
夫、正成が河内・摂津・和泉の太守となった後でも、久子の身なりも態度も、まったく変わるところはなかった。
そんな母を真似て、虎夜刃丸も握り飯を載せた盆を、大工たちに差し出す。
「どうぞ、いっぱいあるよ」
「こりゃ、若様、すまねえなあ」
「棟梁。奥方様と若様のためにも、是が非でもよい館を造らねばならんな」
「もちろんじゃとも」
大工たちは虎夜刃丸を囲み、それぞれの顔に、はち切れんばかりの笑みを
その大工たちの間を縫って、虎夜刃丸の視線が向こうへと通る。
「五郎叔父」
「おっ、虎夜刃丸も来ておったのか」
桐山を下ってきた叔父の美木多正氏が、ゆっくりと皆の元に歩み寄る。京から戻り、早速、城造りを采配していた。
虎夜刃丸は握り飯の載った盆を久子に預けると、正氏に駆け寄る。
「新しい赤坂城はいつできるのじゃ」
「そうじゃな、あと半年といったところか」
虎夜刃丸が小首をひねる。
「半年……」
「うむ、寒くなって雪が降る頃じゃ」
「えぇ、そんなに先なの……」
今は汗がだらだらと流れる真夏である。虎夜刃丸は蝉の声に圧倒されたがごとく、肩を落とし、顔の汗を小さな腕で
そんな甥っ子を尻目に、正氏は久子の元に歩み寄る。
「
「まあ……一緒に住むものとばかり思うておりました。淋しくなります」
そう言って久子は向こうの人混みに目をやる。そこでは、正氏の妻、良子も大工たちに握り飯を振る舞っていた。
「明王丸も行っちゃうの。遊べなくなるのか」
淋しがる虎夜刃丸に、正氏は口角を上げる。
「ははは、なあに、会おうと思えば毎日でも会える距離じゃ。わしは河内の
そう言われ、ほっと息をつく虎夜刃丸であった。
京の
北畠家は村上源氏の名門で、代々、大覚寺統の重鎮
しかし、帝の期待を背負った第二皇子の世良親王が早世したことで、その
近臣の中では随一の頭脳を持つ北畠親房を帝は惜しみ、この度、再び
帝は二人だけの時を作った。親房は帝の前で、その坊主頭を仰々しく下げる。
「
「うむ、
「いえいえ、麿はしばらく
言葉とは裏腹に、表情からはまったく戸惑った様子は見受けられない。帝を前にしても、いささかも動じる気配もない。ただ鋭い眼差しを隠すかのように、口元だけは微笑んでいた。
「日頃から
そう言う帝ではあったが、自信家の親房が本音を言っていない事くらい、当然のごとくわかっていた。
「朝廷の役もずいぶん変わりました。四条様(四条
「親房が隠居しておった間、世の中は一変したからのう」
これまでのことを思い出し、帝はしみじみと吐息を漏らした。
「これも
「うむ、それでは親房は、
「
「ううむ、親房、何が申したい」
本題を遠回しにする親房に、帝はしびれを切らした。
「都では
上目遣いに、親房は気性の荒い帝の様子を
「うむ、親房、続けよ」
「
そう言って帝の顔に目をやった。話を聞き終えてもなお、無表情に沈黙していた。その様子に親房は、加減を誤ったかと神妙な顔付になる。
間を置いて、帝が静かに口を開く。
「親房、
「滅相もありませぬ。この親房の
「先般、藤房(
親房は黙って平伏し、帝の言葉を拝聴することしかできなかった。
八月五日、朝廷は新たな
足利高氏を前回からわずか二か月で、
武家で
一方、上洛を果たした新田義貞を、
また、帝の
一方、朝廷が新田義貞を播磨介に任じたことは、
「帝(後醍醐天皇)は、このわしを新田の下に置くつもりか」
京に構えた赤松屋敷でその報に触れた円心は、帝への忠誠心が急速に冷めていくのを覚えた。
京の足利屋敷では、執事の
「
我がことのように嬉しがる
「さらに帝(後醍醐天皇)は、自らの
格式高い
「兄者は人がよいのう。帝は兄者に幕府を開かせたくないだけじゃ。征夷大将軍以外のあらゆる官位官職を与えて、清和源氏の嫡流である兄者のご機嫌をとっておるだけであろう」
遠慮なく
「御舎弟殿」
しかし、尊氏に気にする素振りは見られない。
「いや、よいのじゃ
「で、どうなさる。まさか、借りてきた猫のままではあるまい」
それがわかっているのなら、とたたみ込んだ。
嫌味なもの言いの
「鎮守府将軍を返上しようと思う」
その言葉に驚いて、
「鎮守府将軍は征夷大将軍への一里塚。それを返上されると申されるか」
「いや、それでよい。さすがは兄者じゃ」
真っ赤な顔で尊氏を
「
その直接的なもの言いに、
「鎮守府将軍を拝命している間は飼い猫よ。
「うむ、その通りじゃ。そこで、帝と離れ過ぎぬよう、朝廷の役は、当家の執事である
尊氏は
「そ、それがし……でございますか」
「うむ。この役を任せられるのは、弟である
「では、御舎弟殿で」
「いや、
これに
「それでよいかと存ずる。されど兄者、
「うむ、新田か。細川頼春の知らせでは、鎌倉では両方の武士が睨みあい、戦寸前だった様子じゃ。今、京で騒ぎを起こしたくはない。しばらくは様子をみるとしよう」
「うむ、そうじゃな……それにしても、こうもあっさり鎌倉を離れるとは……」
後日、尊氏は鎮守府将軍を返上し、朝廷の役職から距離を置いた。
九月に入り、楠木正成は朝廷より
その三番所の奉行には、中納言の
役所の廊下で、藤房が正成を呼び止める。
「
振り返って会釈をした正成は、苦い表情を浮かべている。
「はい。御会いするには御会いしたのですが、足利への敵対心は増しております。尊氏殿と直接お会いすることを御勧めしましたが、返ってお怒りを
「左様か……」
残念そうな表情で藤房が溜息をついた。
「正成、尊氏が鎮守府将軍を返上した件をいかにみる」
「おそらく鎮守府将軍を拝命している限り、征夷大将軍は望めないと考え、静かに己の言い分を朝廷に伝えているのでしょう。その一方で、足利家の執事、
分析は冷静であった。
「麿も正成の見立てに同意じゃ。さりながら、問題は武士どもがこれをどのようにみておるのかじゃ」
「世の中はすでに帝が尊氏殿を排除したかのように、『尊氏なし』と騒いでおります」
「事実を知らぬ者の言いようよのう」
目を閉じた藤房は、噂に踊らされる者たちを嘆くかのように顔を上げる。
「はい。されど、足利殿は、おそらくはそれも見越したうえでのことでしょう」
「というと」
藤房の問いに、正成は番所の外の行列に目をやる。
「武士の訴えは延々と続いております。恩賞にありつけなかった者の不満が渦巻いております。尊氏殿が役を外されたとなれば、不満をもつ武士にとっての
「尊氏はそうやって、帝に無言の力を示そうとしておるわけじゃな。しかし、尊氏という男、なかなかの切れ者よのう」
「尊氏殿だけではありません。御舎弟の
「左様か……まずは武士どもの不満を解消することじゃな。不公平な
藤房はそう言って空き部屋に目をやった。
部屋の主は
同じく隠岐派の名和長年も、左京の市を司る
藤房は、これらの者たちの振る舞いを、北畠親房が感じたと同様に、苦々しく思っていた。それだけに、以前と変わらず質素に過ごす正成には好感を持っていた。
この数日後、虎夜刃丸は母の久子や、兄の多聞丸・持王丸とともに京へ入った。叔母の良子とともに従兄弟の満仁王丸・明王丸、さらに恩地満一ら家臣も一緒である。ただし、幼い
京に入った虎夜刃丸らは、四条
京の通りは広く、公家や武士、
初めての京の都。四歳の虎夜刃丸は、見るものすべてが珍しく、高揚していた。もちろん同じ歳の明王丸、七歳の満仁王丸、八歳の持王丸、そして十一歳の多聞丸も、皆、同様であった。
それだけに久子は、気が気でない。
「虎夜刃丸、明王丸、どこに行くのです。勝手に離れてはなりませぬ」
「母上、猿楽の一座じゃ。
持王丸は猿楽一座の呼び込みを見て雑踏の中を駆け出した。
「ちょっと、持王丸。こんなところではぐれては……」
「母上、大丈夫。ここに
あわあわと声を張る久子を制して、しっかり者の多聞丸が追いかけた。
竹細工の屋台に目を奪われていた虎夜刃丸は、兄たちが走っていったことに釣られ、焦って走り出す。
「これ、虎……あなたまでどこに行くのです」
呼び止める久子の声も、雑踏にかき消されて届かなかった。
顔を強ばらせ、虎夜刃丸は夢中で走る。兄たちに置いて行かれまいと必死であった。
しかし、幼い足では多聞丸や持王丸に追いつくはずはない。結局、兄たちを見失い、人ごみの中で立ち尽くす。後を振り返るが、母たちの顔も見えない。もう一度首を回すが、ただ、見知らぬたくさんの顔がぐるぐると自分の周りを回っているだけであった。
すると、自然と涙が
うずくまって泣く虎夜刃丸の前に、一人の男の影が差し込む。
「これ、そこの
顔を上げた虎夜刃丸の瞳に、穏やかな表情の武士が写る。そこには、数人の供を従えた足利尊氏の姿があった。
供廻りの者が尊氏に言上する。
「
「そうか、それは難儀なことじゃ。その
「……と……虎夜刃丸……」
ひくひくと泣くその合間で、絞り出すように声を発した。
「うむ、虎夜刃丸だけではわからんのう。苗字は何という。苗字……わかるか。わしなら足利じゃ。細川や畠山、いろいろあるであろう。父上から聞いたことはあるか」
「……く……楠木……」
虎夜刃丸が答えると、尊氏の供廻りたちは互いに顔を見合わせる。
しかし尊氏自身は気に留める様子もなく、しゃがんで虎夜刃丸の目線に自らを合わせる。
「そうか、楠木殿か。それで父上の名は何と」
「……三郎……正成……」
その返事に、尊氏は思わず笑みをこぼす。
「おう、やはり、正成殿のお子か。よし、わしが坊門の屋敷まで送ってやろう」
「
すかさず供の一人が心配した。
「わしと楠木殿は、お前たちが心配するような仲ではない。わし一人の方が相手も気兼ねしなくてよかろう。薬師丸は付いて参れ。他の者は帰れ。お前たちが居ては邪魔じゃ」
尊氏が同行を命じた薬師丸は元服前の
虎夜刃丸はひくひくと声を引きつらせて尊氏に目を合わす。
「お……おじさんは誰……」
「おう、これは失礼した。わしは足利尊氏」
「おじさんは父上のことを知っておるのか」
「もちろんじゃ。わしは、そなたの父上の、仲のよい友だちじゃ」
父の友だちと聞いて安心した虎夜刃丸は、尊氏に付いて立ち上がった。
「馬に載せてやろう。乗ったことはあるか」
「ある。父上が乗せてくれた」
「そうか、河内にも馬はおるのじゃな。ははは」
呆然とする供らを尻目に、尊氏は虎夜刃丸を馬に載せて四条
同じ頃、
帝(後醍醐天皇)は
先立って、朝廷の沙汰により自らの
帝は親王の力量を評価していないわけではない。むしろ逆で、とてつもない帝王気質を受け継いでいると思っている。親として喜ばしいと同時に、今、帝位にある者としては背中が冷たくもなる。ただ、近臣が言う親王の野心を、単純に鵜呑みにしているわけではない。例え当人にその気があったとしても、およそ、仏門にあった親王が皇位に就いた試しはない。いわゆる
だが、この宮なれば、もしや、とも思う。それは、古代の天智天皇の後を、壬申の乱に勝って実力で奪取したのは、出家していた弟の天武天皇であったからである。その歴史に名を刻む絶対専制君主にも通じる覇気が、我が息子にはあると思っていた。
そんな帝の心の葛藤は露知らず、
親王の尊氏に対する不信感は頂点に達している。
「
顔を上げて帝を見据え、強い言葉を押し付けた。
「尊氏は、
帝は、親政成功のためには、尊氏との対立を
「そこが尊氏の
「宮の申し分はわかるが、鎮守府将軍を返上しただけでは
「されど、
「今日の話はここまでじゃ。下がってよいぞ」
帝にしても、尊氏が鎮守府将軍を返上した狙いぐらいはわかっている。だが、
入れ替わるように、帝が寵愛する阿野
隠岐に付き従ったことで、帝の信任を勝ち得た
その
帝の前に座った
「
「うむ、
「近頃、
「うむ、わかっておる。じゃが、そちが思うほど
「そうでございますか。お許しくだされ。何やら宮様は難しい顔をして出て行かれたようにございますが」
「うむ、
その脇で言葉少なに控えていた
足利尊氏は虎夜刃丸を連れて、四条
「七郎叔父っ……わぁーん、わぁん、わぁん……」
叔父の姿を目にして安堵したのか、急に声を上げて泣き出した。そして、その足にしがみ付いた。
「と、虎夜刃丸ではないか。足利殿、これはいったい……」
「これは御舎弟殿。なに、驚くのも無理はござらん。西の市で泣いているところを拾い申してな。これも何かの縁、河内守殿の顔でも見て帰ろうと参った。おられるか」
「おるにはおりますが、少しお待ちを……」
「いやいや、お手を
そう言って尊氏は、ずかずかと屋敷に入っていく。
「正成殿、おられるか。尊氏が参りましたぞ」
屋敷の隅々まで聞こえるような大声に、奥から正成が出てくる。
「これは、足利殿、わざわざお越しいただき、恐縮でござる」
驚く正成の前に
「虎夜刃丸ではないか。なぜ、ここにおるのじゃ」
「父上の……友だちに……ここまで連れて来てもろうたのじゃ」
ひっくひっくと肩を揺らしながら声を絞り出した。
「友だち……」
言葉を繰り返した正成は、思わず頬を緩めた。そして尊氏を客間に通して上座に座らせると、自らは虎夜刃丸と
尊氏から西の市での出来事を聞き、丁重に礼をする。
「今日あたり、河内の妻が息子たちが連れて、京に入るとは聞いておったのですが……まさか、虎夜刃丸が迷い子になっていたとは。足利殿に声をかけられなければ、どうなっていたことか」
「それがしにも、鎌倉に残して来ておる虎夜刃丸殿と同じ位の子がおります。子の親として、ご心配はよくわかります。されど
そう言って尊氏は、正成の隣に視線を落とした。
自分が
「いや、左様なことは……」
一方、正成は苦笑いしか返せない。
尊氏が言う我が子が、新田義貞上洛のきっかけとなった千寿王だということはわかっていた。しかし、あえてそのことには触れなった。
二人は、特に
「正成殿、長居をしてしもうた。さて、帰るとしよう」
少し酒も舐めた尊氏は、頬骨の辺りをほんのり上気させて席を立った。
屋敷の門を出ると、薬師丸が馬の
「正成殿、今日は会えてうれしゅうござった。やはり、わしは正成殿とは気が合うようじゃ」
そう言って馬に乗ろうとする尊氏に、正成が声を返す。
「尊氏殿、わしは貴殿とは戦いたくない。これが本音じゃ。一緒に
「それはわしとて同じこと。わしも貴殿とは戦いたくない。正成という男に惚れこんでおるのでな」
「御親政に尊氏殿は必要。単に武家の棟梁ということではなく、貴殿の器量が必要なのじゃ。わしは田舎侍ゆえ、
「わしの方こそ……今日は来てよかった」
尊氏は馬に跨ると、薬師丸を伴って帰っていった。
「どうも憎めない御仁じゃな。いきなり乗り込んでくる度胸といい……なるほど、武家の棟梁と周りが言うのも頷ける」
「うむ、まこと尊氏殿を敵にはしたくないものよ」
そう言って正成たちが振り返り、屋敷に入ろうとしたその時である。多聞丸と河内から従った郎党が、慌てて楠木屋敷へ駆け込んできた。
「多聞丸ではないか」
息を切らせる多聞丸の両肩を、
「叔父上……父上……大変でございます。虎夜刃丸が……虎夜刃丸が、行方知れずになりました。今日、我らは都へ着いたのですが……母上と持王丸は、郎党たちと一緒に、いまだ探しております」
正成と
「多聞丸、少し落ち着け。わしに着いて参れ」
「七郎叔父、今はそれどころではないのです」
そういう多聞丸を、
「あそこを見てみよ」
「虎……」
気が抜けて、へなへなとその場に座り込んだ。
「すぐに母上に知らせてやるがよい」
背後から正成が声をかけた。多聞丸は振り返って頷くと、急いで屋敷を飛び出していった。
「尊氏殿を引き合わせたか……不思議な子よのう」
正成は寝ている虎夜刃丸に目を落し、ふふっと笑みをこぼした。
親王が上座に座ると、平伏していた
「おお、
「帝(後醍醐天皇)とのお話はいかがでございましたか」
「うむ、そちの父君(赤松円心)の播磨守就任の件は、
すまなそうに
「左様でありますか。我が父は、宮様のため、
「円心に播磨守を名乗らせてやれなかったのは、
「宮様、何を仰せでございます。宮様がいつも我らのことを考えてくださっていることは、この
そう言って親王の
すると、隆貞はその貴公子然とした顔に似合わぬ苦々しい表情を見せる。
「左様、恩賞が平等に分配されておりませぬ。いずれ不満は大きな渦となって、御親政を襲うことになりましょう」
四条
その隆貞の言葉に、
「原因の一つは足利じゃ。帝は尊氏に気を遣い、前回の
「げにも」
「まずは征夷大将軍を狙う足利からじゃ。足利がおる限り、御親政に安寧は生まれぬ」
親王の両の拳に自然と力が入った。
「兵を集めますか」
ついに最後の一線を越える言葉を、隆貞が発した。
すると、
「うむ、密かに味方になりそうな者たちをあたっておこう。足利に対抗するそのときのために、備えだけはしておくのじゃ」
「されば、きっと我が父、円心。それに楠木殿。多くの者が、お味方されることでしょう」
一片の不安もなく、
「鎌倉から新田義貞が出て来ております。足利とは清和源氏の嫡流を争う血筋とか。新田は宮様の
隆貞の提案に
「義貞は、確かに清和源氏の嫡流を争う血筋でございましょうが、新田は新田で征夷大将軍を狙っておるのではないでしょうか」
「新田の件は、しばらく様子をみようぞ」
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