第 7 話 八幡行幸
元弘三年(一三三三年)九月、秋風が朝夕に涼しさを運ぶ頃となった。昼間の陽射しも柔らかみを帯び、ここに暮らす者、
この日、足利尊氏は
涼が抜ける客間に腰を落とした尊氏に、緊張の面持ちで久子が手を付く。
「これは足利様、ようお越しくだされました。正成の内儀にございます。先日は、我が子、
「これは奥方殿、わざわざ御挨拶に出ていただき、申し訳ござらん」
軽く礼を返した尊氏の顔は、愛想のよい笑みを
その笑顔に、思わず引き込まれそうになるのをこらえ、久子が再び頭を下げる。
「正成はおろか、
「いや、奥方殿、不在のときにむりやり上がらせていただいたのはそれがしの方。お気遣いは無用じゃ。勝手にしばらく待たせていただきますゆえ」
「そうですか……では……お待ちいただく間に何ですが、
恐縮しつつ、久子はいったん奥に下がって行った。
少し間を置いて、再び久子が尊氏の前に現われた時、その
小さな身体が、尊氏の前にちょこんと正座して頭を下げる。
「足利様、虎夜刃丸にございます」
「おう、これは虎夜刃丸殿」
「先日は、あ、危うき所をお助けいただき、ありがとうございます。こうして、そ……息災に……息災に過ごしておりますのも、足利様のおかけです」
母の顔をちらちら横目で伺いながら、覚えたての口上を、何とか言い終えた。
その、えらく背伸びした挨拶に、尊氏は一瞬目を丸くした後、こらえきれずに吹き出す。
「ふ、わっはは、虎夜刃丸殿は賢きお子よのう。歳は幾つじゃ」
そう問われ、片手を開いてから親指を折り曲げて見せる。
「四つ」
「そうか、やはり我が子、千寿王と同じか。そうじゃ、これを見られよ」
「これは
その笛に口を付けた尊氏が一曲披露する。
吹き込む息が竹の筒を通して奇妙に揺れる。音律は決して安定したものではないが、それが返って心地よい。その調べは、虎夜刃丸と久子の心に強く刻まれた。
それでも久子は、笛の音より、気さくに笛を吹いて見せた尊氏に感心する。
「お上手なのですね。まさか武勇の誉れ高き足利様が、風流に笛など吹かれるとは驚きです」
「いえいえ、わしなど、大して何もできませぬ。佐々木
そう言って尊氏は鷹揚に笑ってみせた。
「すてきな調べでございますね。何という曲でございますか」
「いや、それがしも曲の名は知らぬのです。幼い頃、旅の坊主に教えてもろうたもので、他で聞いたことはないものです」
「左様でございますか」
納得する母の隣で、虎夜刃丸は尊氏が手にする笛をじっと見つめていた。
尊氏は、その視線の先にある
「ほれ、虎夜刃丸殿も吹いてみられるか」
「うん」
遠慮なく受け取ろうとする虎夜刃丸に、久子が恐縮する。
「よろしいのですか。大事なものではないのですか」
「いやいや、そのようなものではござらん。西の市で買うたのです。鎌倉にいる我が子へ送ってやろうと思いましてな。笛を作って売っておる者がいて、先日……そう、虎夜刃丸殿を拾ったあの日、
虎夜刃丸は見よう見まねで笛に息を吹き込んだ。ぴいぃと調べにならない音が出る。それでも、顔をほころばせて、何度も息を吹き込んだ。
「どうじゃ、気に入ったか。じゃが、曲を吹くにはもう少し大きくなってからじゃな。この
「ほんとうに」
「ああ。一緒に
「やったあ」
幼い顔にいっぱいの笑みを浮かべた。
「いえ、足利様。ご子息のために買われた大事なもの。いただくわけには参りませぬ」
返そうと、久子は笛をむりやり虎夜刃丸から取り上げた。すると、何とも悲しそうな顔をする。
「奥方殿、虎夜刃丸殿がそれをもらっても、我が息子は大丈夫じゃ……」
そう言って
「……ほれ、もう一つあり申す。こうして合わせるとぴたりと合う」
二本の
「同じ竹から切り出したものじゃ。二本あるので気になさるな」
尊氏は恐悦する母子の前で、何度も笛を吹いてやった。虎夜刃丸にとって記憶に残る楽しいひとときであった。
楠木正成と
「お帰りなさいませ」
屋敷に入るや否や、上がり
仔細を聞いた正成は、虎夜刃丸が手にする
「これを尊氏殿がのう」
ほんの少しの違いで会えなかった事に、正成は心底残念がった。
「中将殿(忠顕)、先日も
自らが生んだ皇子を皇位につけたいと願う
一方、多くの恩賞を手に入れ、我が世の春を謳歌する忠顕にとっても、赤松円心の一件で厳しい目を向ける親王は、悩ましい存在である。
「
「今、
そう言って、おろおろと瞳を曇らせる。普段、聡明な
「
「中将殿、かたじけない」
「いずれにしても
「中将殿、して、策はおありですか」
問いかけに、忠顕はゆっくりと頷く。
「宮様は武力として赤松円心を配下におき、楠木正成とも親しい。公家においても
「何と、そのようなことができるのか」
「もちろんでございます。ただし、それには
「我が宮のためです。わらわは何でもする覚悟。して、
「はい、宮様は、足利尊氏が幕府再興を謀ろうとする奸物と疑っております。その足利をうまく利用することです。幸い我らは、尊氏とも親しい佐々木道誉とも知己を得ております。どうか麿にお任せを」
忠顕は不敵な笑みを浮かべた。
帝(後醍醐天皇)の求めに応じ、
顕家はこの時まだ十六歳。聡明で文武両道、先例のない若さで参議に登った、帝も期待する英才である。
上段に鎮座した帝の
「親房、
「これはありがたき幸せ。思いも
「
心当たりのない恩賞に戸惑いを隠しつつ、親子は仰々しく頭を下げた。
しかし、歳若い青年に、帝がただで官位官職をくれるはずがない。
「それで、顕家においては、
前置きなく、いきなり顕家に命じた。
「
戸惑いの表情を浮かべた顕家は、言葉を詰まらせた。その隣で親房が首を傾げる。
「はて、
「
「恐れながら、我が北畠家は学者の
勘気を
「これは今世の
問いかけに親房は静かに頷く。
「はい、
「そうじゃ。
無表情で親房は、帝の
一方、帝は親房の問いに応じながらも、その隣に座る息子、顕家に視線を注いでいる。
「顕家は武芸にも秀でておる。軍事の面では白河の
若くて大志を抱く顕家の表情は満更でもなかった。
息子の様子を察した親房が、先んじて口を開く。
「この件、持ち帰ってよくよく考えたいと思います。しばらく時をいただきとう存じ……」
「親房っ、
帝は親房に顔を向ける事なく言葉を遮り、顕家をじっと見つめる。
「どうじゃ顕家。
「……は、はい……この顕家、若輩の身ながら、
父を横にして口を閉ざしていたが、自らの感情に耐えかねて、本音を吐露した。
「うむ、若い者はよいのう。
したり顔の帝とは対照的に、親房は目線を外して、小息を吐く。
数日後、虎夜刃丸は母の久子に連れられて、京から河内の赤坂城(下赤坂城)に戻った。多聞丸までもが旅の疲れでぐったりする中、虎夜刃丸だけは興奮覚めやらなかった。
「京はどうじゃった。賑やかなところであっただろう」
陣屋の広間で、虎夜刃丸らを叔父の美木多正氏が迎えた。
「人がたくさんおった」
「そうであろう。わしも京に行った時、人の多さに驚いた。まあ、河内に幕府軍が押し寄せた時も、あまりの人に驚いたがな。うわっはっは」
そう言って正氏は豪快に笑った。
虎夜刃丸が小さな
「五郎叔父(正氏)、これを見て」
「笛じゃな。買うてもろうたのか」
「ううん、もろうたのじゃ。足利尊氏殿に」
「足利尊氏……」
幼子の口から不遠慮に出た火中の人物の名に、正氏の目が尖った。
「足利殿は父上(楠木正成)の友だちじゃ」
「友だち……」
そう言われると、護良親王が敵視する足利尊氏と、兄、正成の関係が今どうなのか、余計に検討がつかない。正氏は、助けを求めるかのように、久子の顔を覗いた。
「五郎殿、実はいろいろとありましてね……」
久子は虎夜刃丸が迷い子になった
「そうじゃったか」
正氏は、尊氏という男は虎夜刃丸のような小さな子まで魅了するのかと感心する。遅かれ早かれ、兄、正成が言うように、尊氏の元に武士が集まるのは避けられないと思った。
「新たな館はいかがですか」
久子の問いかけで、正氏は我に返る。
「館……あ、ええ、
「そうですね。大工たちの面倒も
振り返ると、そこで虎夜刃丸が、力尽きたように眠り込んでいた。
「まあ、この子ったら。さっきまで元気に話していたのに……」
そう言って、久子は自らの
「よほど疲れていたとみえる」
十月二十日、北畠親房と顕家の親子は、帝(後醍醐天皇)の第七皇子、わずか六歳の
幼くして母と離ればなれとなる
歳若く、自らも多情多感な顕家は、そんな親王の
「宮様、今は泣きたいだけお泣きくだされ。お嘆きはこの顕家がしかと受け止めます。その涙が枯れた時、宮様と麿の新たな国造りが始まるのです」
帝がいずれの皇子を
その
前から歩いてくる
「我らが願い、一つ叶いました。次は赤松です」
すれ違いざまに、忠顕は
十一月、赤松円心を絶望の淵に落とす出来事が起きる。
京の赤松の屋敷。三男の赤松
「何じゃ、騒々しい。いかがした、三郎(
「父上っ、兄者っ、朝廷は新たな
「な、何じゃとっ」
円心は、その入道頭まで真っ赤にして声を上げた。これで
「何のための討幕であったのか……我らだけでなく、
そう言ってわなわなと肩を震わせ、手に持つ扇を床に投げつけた。円心の帝(後醍醐天皇)への疑念は頂点に達した。
同じ
足利尊氏の舎弟、足利
先立って、北畠親房・顕家親子が
そこで帝は、妥協案として弟の
十二月、
しかし、ここにも
雪もなく、よく晴れた年の瀬。桐山の麓に楠木の新たな拠点ができ上がる。新しい楠木館は、燃え落ちた古い館より少し南の地、こんもりとした丘の上にあった。大人たちは、正月前に館が竣工したことに、胸を撫で下ろした。
虎夜刃丸は、兄や従兄弟らと一緒に大きな館の中に入る。まだ火の気のないその中は、外と同じくらいに寒かった。
虎夜刃丸がぐるっと中を見渡して、白い息を吐く。
「大っきい……まるで京のお寺の様じゃ」
こどもたちは大きな瞳を輝かせ、あちらこちらを、きょろきょろと見て回った。
館の外から美木多正氏の声が聞こえる。
「おおぉい、多聞丸、持王丸、新しい赤坂城も見せてやろう。付いて参れ」
南には金剛山の支脈である桐山があり、山に分け入ったところに、楠木本城ともいえる新しい赤坂城(上赤坂城)が造られていた。
「わしも行く」
歳上の多聞丸・持王丸を追って、
「待って、虎も」
「明王も行く」
幼い二人も慌てて外へ駆け出した。
新しい赤坂城は、本丸(主郭)に上がるまでに四つの
正氏は渡り終えてからこどもらに向かって振り返る。
「この吊り橋は、敵が攻めてきた時に切り落して、相手の侵攻を防ぐのじゃ」
虎夜刃丸らに伝えたのは橋のことばかりではない。本丸へと続く複数の抜け道、丸太や大岩など敵に対する防御の仕掛け、弓を持って兵を潜ませる場所……虎夜刃丸は見るもの全てに目を丸くした。
本丸は石を積み上げ、木の
正氏はこどもたちを連れて
正面に建つ、ひと際大きな建物の前まで来て、正氏が立ち止まる。
「これが、本丸の陣屋じゃ。それで、あっちが食い物を貯めておく兵糧庫、さらに向こうは弓矢や
「ふうーん……お、大きな
言うや否や、持王丸は
静かに息を吐き心気を整えた虎夜刃丸も、兄、多聞丸に教わった通り、攻めくる敵を想像して
「おお、虎夜刃丸も登れるようになったな」
登り方を教えた多聞丸は、正氏の声に鼻を高くして、自分も後に続く。そして、最期に美木多正氏も
「遠くまでよく見えるぞ」
ぴんと冷たく締まった空気を通して見る景色は絶品であった。
おもむろに正氏が北を指差す。
「あっちが石川河原じゃ。いま、あそこに石川城を造っておる。満仁王丸・明王丸、わしらは、これよりそこに住まうのじゃ」
そして、今度は北西を指差す。
「
正氏は一つ一つを指さしてこどもたちに教えた。
「五郎叔父(正氏)、このような城や砦を造って、いったい誰と戦う気なのじゃ。幕府はなくなったのであろう」
不思議そうに持王丸が首を傾げた。
「そうじゃな。されど、まだ騒乱は続くであろう。お前の父(楠木正成)の頭の中には、戦う相手がすでに見えておるのかも知れんな」
「足利尊氏殿か」
「ううむ……どうであろうなあ」
正氏は目線を
一方、虎夜刃丸は、足利尊氏と聞いて首を傾げる。自身にとっての尊氏は、あくまで父の仲のよい友人であった。
建武元年(一三三四年)正月を迎え、虎夜刃丸は数えで五歳、兄の持王丸は九歳、多聞丸は十二歳となる。
清々しい白木の匂いが立ち込める楠木館に、猿楽の
正月用に少し上物の
「元成殿、晶子殿、よう、参られた」
「
赤子を抱いた晶子が軽く頭を下げる。その隣で元成も赤子を抱いていた。
うりふたつの小さな顔に、久子が頬を緩める。
「まあ、何と可愛い子たちじゃ」
「かたじけない。双子は畜生腹と言って忌み嫌い、一人を里子に出す人もいるそうです。されど、我らは二人を大事に育てたいと思うております。すでにそれがしにはこの二人しかおりませんので……」
元成の言葉の裏には、養子に出した二人の息子の存在がある。元成は前妻との間に二人の子がいた。一人は母の出である大和猿楽の
晶子が抱く赤子に、久子は手をかざしてあやしながら、表情を作って笑わせる。
「おお、笑うた、笑うた……そうですね。気にされる事などありませぬ。二人とも大事に育てられませ」
「
胸をなで下ろした晶子が
兄たちと一緒に広間に顔を出した虎夜刃丸が、元成と晶子が抱く赤子らを見て、目を丸くする。
「うわ、赤子が二人おる」
「名は確か……」
持王丸が赤子を交互に見ながら首を捻る。
「こっちが
「……こっちが
晶子と元成が、赤子の顔を見せながら、それぞれ答えた。
「
そう言って多聞丸は観世丸を、持王丸は聞世丸を恐る恐る抱く。そして、虎夜刃丸は赤子たちの頬を、おずおずと交互に触った。
子守から解放された元成が久子に向き合う。
「ところで
「
「帝の世継ぎを
「では、いよいよ、
「いえ、帝の世継ぎは、
不意を突かれ、久子の表情が固まる。
「
「朝廷の中でも駆け引きがあるのでしょう」
晶子が言葉を濁した。武家の家督争いでも、揉めごとがあるのは日常茶飯事。久子もよくわかっている。帝の世継ぎともなると尚更とは思ったが、
翌日、楠木館に逗留する服部元成と晶子の前に、虎夜刃丸がひょっこりと顔を出す。そして、お気に入りの小さな
「叔母上はこれを吹けるか」
「まあ、何と可愛いらしい
そう言って夫の元成に目をやった。
どれ、と元成は虎夜刃丸から
鼻高々に元成が、虎夜刃丸の顔に視線を戻す。
「まあ、芸の一座を率いる者として、この程度はな」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
虎夜刃丸はそう言うと、いったん奥に引っ込んでから、今度は母、久子の手を引いてやってくる。
「母上、あの調べを一緒に」
「あの調べ……ですか」
もちろん、久子は
「母上、せーの、ふ、ふふ、ふふ……」
虎夜刃丸は久子を
「治郎殿(元成)、今の調べを吹くことはできますか」
久子の要望に元成は頷き、竹の筒に息を吹き込む。と、見事に節を回しながら、その調べを
気色満面の虎夜刃丸が、元成にせがむ。
「ねえ、わしにも教えて。ねえ、教えて」
「ううむ、虎夜刃丸殿にはちと早いが……まあ、指使いなら……」
結局、元成は、楠木館に逗留している間、ずっと、虎夜刃丸に付き合わされる羽目になる。
正月二十三日、十一歳になった第五皇子の
帝(後醍醐天皇)は、鎌倉幕府の後ろ盾で代々引き継がれた大覚寺統と持明院統の両統
そもそも帝は、若くして
そしてもう一人、不屈の精神で自らの願いを実現させたのが、
しかし、この
当の
六月、ついに
四条
その隆貞が正成に、
「宮様(
用件だけ伝えると、隆貞は次の武士を訪ねるべく、慌ただしく楠木の京屋敷を後にした。
屋敷の外で隆貞を見送った楠木
「これは大変なことになった。いかがする、三郎兄者」
「うむ……尊氏殿とは戦いたくはない。幕府なき今、御家人らを取り
「宮様は、だからこそ、討たんとされておられるのでしょうが……」
「勝ち負けは、武士どもが足利と
正成は、戦をすれば
「じゃが、三郎兄者、このまま
「もちろんじゃ。宮様にお会いして、
「されど、赤松殿はこれまで
「いま、円心殿の心は動いておるはずじゃ。新田義貞殿が播磨守に任じられたことで、このまま
郎党に馬を用意させた正成は、急ぎ京の赤松屋敷へ向かった。
翌日、楠木正成は赤松円心と連れ立って
門を潜るとあちらこちらから、がちゃがちゃと金具の擦れる音が聞こえる。すでに
中に入った二人は、
「赤松、楠木、よう来てくれた。
親王は、正成と円心が
先に口を開いたのは正成である。
「宮様、早まりなされますな。足利と一戦交えるなど、無謀でござる。我らがこうして参ったのは、宮様をお止めするためです」
「左様、楠木殿が申した通りでござる。わしも
円心は、足利と争っても赤松にとって何の利もないことを悟っていた。
二人の話に近臣の四条隆貞は、はらはらと
親王は血走ったその目を吊り上げる。
「何と、先の戦の英雄が、
「宮様、足利の兵力は我らの比ではありませぬ」
なだめるべく円心が応じた。
「もちろんわかっておる。だからこそ、こうして畿内の有力者に
わなわなと肩を震わす
「されど、御親政に不満をもつ武士は、残念ながら宮様ではなく、足利尊氏を旗印として選ぶでしょう。彼らからみれば宮様は朝廷、つまり御親政そのものなのです」
「何、武家の不満の矛先は
「左様にございます。宮様から
その指摘に親王は首を振って否定する。
「それは、朝廷が
「宮様のお気持ちはお察し致します。されど、それらの武士にとっては裏切られたという思いと、宮様の
「くっ……」
今初めて、
「それと、足利は、宮様の方から足利討伐の旗を上げることを望んでおりまする」
「なに」
「尊氏は朝敵になることを恐れております。宮様に対して足利が先に兵を挙げることは決してありませぬ。されど、宮様から先に兵を挙げれば、自らを守る大義名分が生じます。それこそが足利の思う壺。
冷徹な正成の説明に、親王は目をそらし、眉間に
「宮様、どうかご辛抱のほどを。我らが動くときは、足利から何らかの動きがあったときでございます」
追い打ちをかけるように、円心も翻意を
主力として期待する二人の意見に、親王の
畿内の訴訟を扱う一番所の奉行人には正成が、そして
「これは、楠木殿、それがしも奉行に任じられましたぞ」
呼び止めたのは、その道誉であった。金糸を
「これは佐々木殿。訴える者が多すぎて、とても手が回らない状態でした。佐々木殿に加わっていただき、助かります」
「いや、面倒なことは勘弁してくだされ。今までも任官から逃げ回っておったのです。それが、ついに
挨拶程度に言葉を返したつもりの正成は、悪びれずに喋る道誉に唖然とする。
「しかも、何の因果で
「いえ、とんでもない。畿内は人の割に土地が少なく、面倒なところですぞ」
そう言って正成は苦笑する。
「いやいや、楠木殿。畿内の貴殿が畿内の訴訟を扱えば、自らの
道誉は
八月の終り、楠木正成の
多聞丸が上洛するついでにと、久子は持王丸と虎夜刃丸を連れて同行していた。なかなか河内に戻ってこない夫、正成のために、子どもらを合わせてやろうと思ったからである。
恩地左近満俊の嫡男、恩地満一に連れられた一行が京に入る。母に
一行は四条
「多聞兄者、あれは何じゃ」
河原に群がる大勢の人たちに向けて、虎夜刃丸が指を差した。
「さあ、何であろう」
手をかざした多聞丸も、しげしげと眺めた。
「どれ、わしが見て来てやろう」
「これ、待ちなさい」
久子の制止を振り切って持王丸が駆け出した。
人を
「なんだ……このごろみやこにはやるもの……」
持王丸の声に、後ろの誰かが声を被せる。
「このごろ都に
「
声の方へ振り返った持王丸に、
「
その公家は扇で口を隠し、品よく笑った。
「ちゅ、中納言様、
追いついた久子が声を
中納言と聞いて周りの人々がざわつく中、藤房が久子を凝視する。
「おや、その
「楠木
そう言って、深々とお辞儀をする。
元弘の折、久子は一度、藤房とは顔を会わせていた。また、正成が藤房と懇意である事も知っていた。
「おお、正成殿の奥方か」
藤房は、身内に見せるような親しみある笑顔を見せた。
楠木と聞いて再びざわつきはじめる周囲に、
「正成殿に挙兵を
「その折は、わざわざ河内の山深い田舎へお越しいただき、恐縮でございました」
「いやいや、何の。頼む方が出向くのは当たり前じゃ……」
気さくに久子に応じた藤房は、隣の子供らをも目を落とす。
「……すると、こちらは正成殿の御子息か」
「嫡男の多聞丸と申します。父がお世話になっております」
「次男の持王丸と申します。よしなにお願い致します」
二人の兄たちがそろって頭を下げるのを見て、慌てて小さな身体が続く。
「虎夜刃丸です」
少し気恥ずかしそうにうつむいた。
「そうか、虎夜刃丸殿が一番下の弟殿じゃな」
すると、今度は顔を上げてしっかりと頷く。その仕草に藤房は目を細めた。
「ところで中納言様(藤房)、この騒ぎ、何があったのですか」
まだ、久子は立て札を見ていなかった。
「
「まあ、そのようなものが……」
驚く久子の隣で、多聞丸が立て札の方へと目を向ける。
「それはいけません。私が引き抜いてまいりましょう」
立て札に向かおうとする多聞丸に、藤房が首を横に振り、片手を上げて制する。
「おやめになられた方がよい。庶民には
藤房は
しかし、多聞丸は正義感が強い。
「されど……」
「これを引き抜いても、また違う場所に落書が立つだけじゃ。なぜかおわかりか。それはこの落書に書かれていることが、満更、嘘ではないからじゃ」
その言葉に、多聞丸も久子も表情を失う。
そろり、持王丸がたずねる。
「では、朝廷の役に付いている父上も間違っておるのですか」
「正成は立派な武士じゃ。その
先ほどから漏らさず耳を傾けていた虎夜刃丸を見て、藤房が声をかけた。
しかし、虎夜刃丸は首を傾げる。
「……わかりませぬ」
「正直じゃな。ほほほ」
高笑いしながら、藤房は虎夜刃丸の頭を手で
九月初旬、
赤松円心は恩賞で冷遇され、後見の
最も
さすがに親王も、足利尊氏のせいだけで今の自身の境遇があるとは思っていない。その背後に隠岐派の面々、さらに帝(後醍醐天皇)の
しかし、
親王は、
「
「この日のために弓の名手を集めております。それに、北畠卿(親房)が奥州から
男山への道程が
しかし、ひとり、悩みを深くする者がいる。
「宮様、
円心は利に聡い武士であり、
しかし、親王を動かすのは損得ではなく、理想である。
「大丈夫じゃ。尊氏は幕府再興を狙う奸物。いずれ放っておくことができなくなるであろうことは、
「左様にございますか……」
「じゃが、
「承知しております」
その日、密談は、
京に出てきた虎夜刃丸は、母、久子に連れられて、兄たちと一緒に清水寺に
この寺があるあたりは東山と呼ばれる。しかし、東山という山はない。大文字山から比叡山まで連々と続く山々の総称である。そして、その麓に建つのが清水寺であった。
虎夜刃丸が、手を繋いだ母の顔を見上げる。
「母上、なぜ、この寺に来たのじゃ」
「このお寺の御本尊である千手観音の脇には、
「びしゃもんてん……」
「
そう言って久子が、にっこりと笑みを返した。
前を歩いていた次兄の持王丸が、得心顔で振り返る。
「そうか、兄者の寺なのじゃな」
「そうです。父上の幼名も多聞丸。御婆様が若い時、
母の話に、当の多聞丸は神妙な表情で背筋を伸ばした。
一行は僧侶の案内で本堂に上がり参拝を済ませる。そして、帰ろうとしたところで、急に寺が慌ただしくなった。
何事かと久子が僧侶を掴まえる。
「あの、どうかなされましたか」
「楠木様、申し訳ありませぬ。
虎夜刃丸の目が、きらり輝く。
「えっ、
幼過ぎて
それは久子とて同様である。
「あの、我らは以前、宮様(
「承知しました。
僧侶の気遣いで、一行は寺の奥院で
しばらくして、
「おお、正成の奥方か。達者であったか」
親王は客間に入るなり、気さくに声をかけた。
笑顔の親王は、四条隆貞と供回りの公家や武士たちを連れていた。供の者たちを下手に控えさせ、自身は隆貞のみを脇に従えて上座に腰を下ろした。
改めて、久子はこどもたちとともに頭を低くする。
「宮様、その節はありがとうございました。一度、お会いしてお礼を申し上げたいと思うておりました。思いがけず、宮様がこちらにお越しと聞き、失礼を顧みず、お待ち申し上げた次第でございます」
「そうか、
虎夜刃丸が
「お助けいただき、ありがとうございました」
「おお、あの時の子か。確か名は……」
「虎夜刃丸にございます」
「そうじゃ。虎夜刃丸じゃ。大きくなったのう」
観心寺で親王に盗賊を退治してもらわなければ、虎夜刃丸も久子もここには居なかった。足利尊氏とともに命の恩人である。その二人から、虎夜刃丸は同じ親しみの匂いを感じ取っていた。
「宮様もお願いごとでございますか」
無邪気な虎夜刃丸の問いかけに、親王の視線が一瞬、宙を切る。
「う、うむ、
もちろん、虎夜刃丸の知らない名である。
「さかのうえ……」
「そうじゃ。
聞き覚えのある名称に、虎夜刃丸がええとっと顔を上げる。
「征夷大将軍は宮様……」
「これ」
側近の隆貞が過剰に反応し、こどもの話を制した。征夷大将軍を
その場の空気を察して、久子や恩地満一らにも緊張が走った。
「ああ、
親王は苦笑いで応じた。久子らは、その落ちついた態度に胸を
「ところで奥方(久子)、今日、正成は」
「はい。毎日、奉行所に出向いております」
「奉行所……ああ、
正成の動向を親王は気にしていた。挙兵を邪魔されては
「そうか、忙しい日々を送っておるのじゃな。結構、結構。では、
そう言うと、
九月二十一日、虎夜刃丸の姿は、いまだ京にある。この日は恩地満一に連れられて、兄たちと洛中の南の端まで来ていた。男山八幡宮への帝(後醍醐天皇)の
「虎夜刃丸、我らの父は、帝を御護りして行列に加わるのじゃ。よく見ておくのじゃぞ」
兄の多聞丸に
この度の
一つは恩賞の不公平により、公家と武家の間に生じた亀裂である。もう一つは、阿野
突如、後方から、
周囲の興奮を受けて、額に手をかざした満一が、行列の先端を見つける。
「お越しになられましたぞ」
「あ、あれが
そう言って、持王丸がぽかんと口を開けた。初めて見る行列に一同も釘付けになった。
行列の先頭は丸に二つ引きの旗印。馬上に足利尊氏を認めた虎夜刃丸が、思わず声を上げる。
「あっ、足利殿じゃ」
すると声が届いたのか、尊氏が振り向き、にこりと笑みを返した。
「続いて御公家衆でございますよ」
手を口に添えた満一が、虎夜刃丸らに呟いた。
「あの御仁は先日の……
多聞丸の声で虎夜刃丸は藤房を探した。だが、そこに見た藤房に、先日の柔らかな表情はない。厳しい顔をして正面を見据えていた。
公家と武家の垣根をなくすため、公家には質素な出達ちにと申し送っていた。しかし、
突如、持王丸が声を上げる。
「あ、父上じゃ」
「殿の後ろの
自信ありげに満一が説明した。
虎夜刃丸は、行列の真ん中で帝を守護して兵を率いる父を、今更ながら誇らしく思う。
まだ
「多聞兄者、
先般、清水寺で見かけた
虎夜刃丸は、行列に加わっていなかった親王が、そこに居るのではないかと、居ても立ってもおられず、その男を追って駆け出す。しかし、人ごみの中ですぐに見失った。
多聞丸が虎夜刃丸に追いついて、手で頭を抑える。
「勝手に駆け出しては駄目ではないか」
「でも……あ、あそこじゃ」
その公家は周囲に目を配りながら、やさぐれた侍たちと合流して通りから外れて行った。
「ううん……何か様子が変じゃ。虎、少し静かにするのじゃぞ」
多聞丸は虎夜刃丸の手を引いて、男たちに近付き、辻角の土塀に隠れて息を殺す。すると、男たちの声が虎夜刃丸にも聞こえてきた。
「やはり、聞いていた通り、先頭は足利尊氏であったな」
「では、手筈通り決行は、
「人の少ない宇治川の
聞き耳を立てる多聞丸の顔が厳しくなる。その表情に、虎夜刃丸は大事が起きようとしていることを悟った。
「馬上の尊氏にいっせいに矢を放つ。さらに奥州勢を正面に配して、撃ち漏らした者を一掃する。よいな」
「相わかった」
男たちの会話は虎夜刃丸にも理解できた。驚いて無意味に口を動かそうとする虎夜刃丸に、人差し指を口に当てた多聞丸が、顎で離れるよう促した。
二人はその場を静かに離れ、恩地満一と持王丸の元に戻る。
「満一、大変なことになった。わしは父上に、このことを伝えてくる。そなたは虎夜刃丸と持王丸を頼むぞ」
「お、お待ちください、多聞丸様、いったい何が……」
引き留めようとする満一を残し、多聞丸は自らの足で
唖然とする満一の袖を、虎夜刃丸が引っ張ってしゃがませる。
「あのね……」
虎夜刃丸が満一と持王丸の耳元でささやいた。
「それはまことにございますか」
驚いた二人は、多聞丸が駆けていった方角に、茫然と目を向けた。
はあはあと息を切らし、多聞丸は帝の
だが、行列を離脱して多聞丸の前に現れたのは、叔父、楠木
「多聞丸、
馬上の
「七郎叔父、大変なのじゃ。足利殿が狙われておる」
「なにっ」
驚いて馬から飛び降りた
「では、明後日、宇治川の
「うん。わしと虎夜刃丸が見た。間違いはない」
「よく知らせてくれた。あとは任せてくれ」
労いの言葉を掛けると、
帝(後醍醐天皇)は男山八幡宮に到着すると、
帝の参拝が終わると、公家も武家も一緒になって、八幡宮の参道脇に植樹を行う。この度の
正成は自らの名にかけ、楠の苗を自らの手で植え、武家として必勝祈願と、朝廷の役人として世の安寧を祈った。
参拝の儀式はつつがなく終わる。帝をはじめとする一行は、男山の麓にある
その夜、楠木正成・
荏胡麻油の灯りが不安定に揺れる中、仔細を聞いた藤房が、ふうぅとひとつ溜息をつく。
「そうか、そのようなことが。
「帝や足利殿(尊氏)に、このことを伝えますか」
「そうするのはたやすいこと。じゃが、それでは宮様の処罰は免れぬ。たとえ名を出さなくとも、真っ先に疑われるのは宮様じゃ」
「では先に、その者どもを討ち果たしますか」
再び問う
「それでは、そなたたちが
「されど、帝にも足利殿にも、まして
ううむと声を漏らした
しかし、突如、何かを思いついたかのように、おもむろに目を開く。
「中納言様(藤房)、すぐに帝に奏上いただけないかと存じます」
「何、方法があるというのか」
翌々日、男山八幡を出立して洛中に戻る帝(後醍醐天皇)の
対して、
「来たぞ、狙うは先頭の足利尊氏ぞ」
「おおっ」
殺気だった男たちが、矢をあてがった弓の
(よし、来た)
だが、その瞬間、自身の目を疑う。先陣を務めているのは
足利軍は楠木軍と入れ替わり、行列の中衛を守護していた。しかも、尊氏は
尊氏を狙っていた男たちに、ざわざわと動揺が走る。
「こ、これでは矢を射ることができぬではないか」
男たちは
ただ、赤松
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