第 8 話 中先代の乱
建武元年(一三三四年)十月、急変する空模様が秋の終わりを告げる。
低く流れる
鎌倉幕府が滅亡して一年と半年足らず。
朝廷から討伐を命ぜられた楠木正成は、急遽、虎夜刃丸らの上洛を切り上げさせて河内に戻す。さらに手元に置くはずだった多聞丸までも、いったん帰すこととした。籠城戦の難しさをよく知る正成だからこそ、長期化も覚悟してのことであった。
供として付けた恩地満一には、南河内で兵を集めるように命じる。そして、自身は、京で
南河内に入った楠木軍は、本城の赤坂城(上赤坂城)を囲む支城の一つ、
この城は西に対する要の城で、小振りな
城将は末弟の楠木
遮るもののない山頂は、北風にさらされ、早くも冬を迎えようとしている。しかし、主閣(本丸)に用意された焚き火が、兵たちを優しく迎えた。
「者供、出立は三日後とする。久しく河内に戻っていなかった者は妻や子に会いたいであろう。家に戻って
うおぉと喜ぶ兵に、
「そうじゃ、早う帰っておっかあを喜ばせてやれ」
「それ以外の者は、この城で休むがよいぞ。飯も酒もたんと用意してある。ただし、女はおらぬがな」
からからと笑いながら、正氏の大口が軽口を叩いた。
河内
その美木多正氏を龍泉寺城に残し、ひとまず楠木正成は、その麓に建つ
「父上と七郎叔父(
「みんな、父上と七郎叔父が帰ったぞ」
手前の道で待ち構えていた虎夜刃丸と持王丸が、館に振り返って声を張った。すると館の外で待っていた多聞丸が小走りに駆け寄る。兄弟は父を迎えるため、わざわざ楠木館からこの館に来ていた。
子どもらと一緒の正成たちを、
「殿、七郎殿(
「うむ、一緒に来ておったのか。赤坂の館で待っておれば、よいものを」
無愛想な正成だが、一足早く、京から帰ったばかりの久子を気遣ってのことである。
その後ろには、乳飲み子を抱いた
「
妻が抱く赤子を見て、
「おお、
「ほら、父上ですよ」
頷きながら
―― ひっ、ひっく、ああぁん、ああぁん ――
滅多に戻らない
「おう、よしよし……これは困った」
戸惑う
「七郎叔父、こうやると
「そうなのか」
言われた通り
そんな
「七郎(
「おお、そうせよ。わしも
「
顔をほころばす
「澄子殿、私も二度、京に行きましたが、行けば何とかなるものですよ。京に住むかどうかは、行ってから決めればよいではありませぬか。まずは京を自分の目で見ることです」
「はあ……そんなものですか」
「そうですよ、そんなものです」
敬慕する久子に
虎夜刃丸に手を引かれ、館の中に入った正成の前に、持て余すほどの広い板間が広がる。
「何やら落ち着かぬのう」
京で様々な役を持つ正成が、この新たな館に戻るのは、片手で足りるほどであった。
これに久子がくすっと笑う。
「久方ぶりの河内です。そう言わず、御
「北条残党の討伐を命ぜられておるのでゆっくりはできぬ。されど、久しぶりの河内じゃ。
そう言いながら、正成は腰から
風呂の番をしていた侍女の
「さ、殿様、お着替えの前に、まずは湯を浴びて埃を落としてくだされ」
「う、うむ、そうしよう」
頭を
少し開けた板戸の間から流れ込む
「
十二歳の多聞丸は、
「うむ、奈良興福寺の
「
聞き覚えのある名に、多聞丸が首をひねった。
「どうやら湯浅党の縁者のようじゃ」
「なるほど、それで紀伊の飯盛山か……で、湯浅
「定仏は
父は息子たちに教えを説くように語った。
しかし、持王丸はまるで心配していない。
「父上が立ったからは、飯盛山の砦もすぐに落ちるでしょう」
「そうであればよいがのう。朝廷に不満を持つ者が
父の話を聞いて多聞丸が無言になる。いつぞや目にした京の落書を思い出していた。
一方、虎夜刃丸は話に入ることができず、つまらなそうに持王丸に目をやった。
「大人の話じゃ。虎夜刃丸にはちと早い」
ふふんと、持王丸がこましゃくれながら応じた。
すると、正成がにやりと口元を緩める。
「では、持王丸にはわかるのか」
「あ、いや……わからん」
消え入りそうな声に、どっと笑いが起こった。
三日後、楠木正成は兵を率いて紀伊国に出陣し、紅葉も落ちた
その名のとおり、飯を盛ったように見えるこんもりとした山で、龍門山から連々と続く山脈の一部である。
麓から楠木
「三郎兄者、
問いかけに、正成は
「うむ、思うたより多いな。
「承知した。されど、元弘の折の戦とは逆じゃな。まさか、我らが山を取り囲むことになろうとはな」
「城攻めの難しさは我らが一番よう知っておる。
兄の厳命に、
飯盛山の守備の固さに、正成はじっくりと時をかけて砦を落す
その頃、京の
朝廷は播磨守の新田義貞に、国守との兼務で播磨の守護を任じた。そして、赤松円心からは播磨の
夕日が差し込む赤松の京屋敷。円心の顔が赤いのは、そのためばかりではない。
―― ぐわっしゃん ――
烈火の如く怒った円心が、怒りに任せて板間に飾っていた壺を、
「いったい、わしに何の落ち度があるというのか。これは取り巻きの
嫡男の
理不尽に耐えてきた
「帝(後醍醐天皇)の世を創るため、これまで、この赤松党がどれだけの犠牲を出してきたか」
「おお、そうじゃ」
同調する次男、
「父上、この先、どうなさる」
「この上は
「当然じゃ。目にものを見せてやるわ。三郎(
目を吊り上げた
「ま、待ってくれ、父上、兄者。我らが京から離れれば、
予見していたことではあったが、
「三郎、お前の気持ちはわかる。これまで宮様と生き死にをともにしてきたからのう。されど、わしは棟梁を継いで赤松の家を守り抜かなければならん」
円心が片膝を着いて、
「わしとて心苦しい。
「されど、父上……」
「いや、
血気に
翌日、赤松
また、自分たちが京から居なくなった後、親王をお護りするため、奥州の兵を派遣してもらうよう、北畠親房に書状を送ったことも話した。
「そうか……
「宮様、これが今生の別れとなるやもしれませぬ。宮様と吉野で、紀伊で、ともに戦った日々、楽しゅうございました」
「
気丈に振る舞う親王の言葉に、
赤松党が京から去った後、中納言、
この日、帝(後醍醐天皇)は、出雲国守護である
そして、目前に広がる
皆より遅れて
「藤房、待っておったぞ。その
しかし、帝の言葉にも愛想なく、藤房は、ただ無言で平伏するのみであった。
「この
満足げな帝の言葉に、藤房はゆっくりと顔を上げる。
「はて、馬でありましょうや、竜でありましょうや……」
藤房の意味深なもの言いに、一同の視線が集まる。
「……世にも珍妙なものでございまするな。唐の故事では、漢帝が一日に千里をかける駿馬を献上されても、喜ぶ事なく国を栄えさせたと申します。一方、周王は八頭の馬を
和やかな席を、一瞬にして冬としてみせた。
「こ、これは中納言様、口を慎みなさいませ」
坊門清忠が、あわあわと腰を浮かし、両手を差し出して藤房を止めるかのような仕草をみせた。
「これは
「
帝は明らかに不機嫌である。
「藤房、
すると、藤房はすうっと大きく息を吸う。
「恐れながら申し上げます。元弘の戦で身を
震える手で口を押えた清忠が、恐る恐る玉座に目を向ける。帝は表情を変える事なく、ただ、じっと藤房を凝視していた。だが、ほとばしる精気は、天賦のもの。ぴりぴりと帝の憤りが伝わった。
しかし、藤房は構わず続ける。
「源頼朝以来、実際に国を治めてきた守護を軽んじ、旧弊の国司を
藤房と帝の間には、少しでも触れると切れてしまいそうなくらいの緊張の糸が張り詰めた。
ようやく、帝が重々しく口を開く。
「赤松は自ら播磨守を欲し、
藤房は
「その赤松の企てとやら、誰の
「
顔を真っ赤にして忠顕が反論を始めた。
すると、待ち構えていたかのように、藤房が睨みつける。
「
「中納言様、お言葉が過ぎまするぞ」
清忠が、扇で口元を隠し、声を押えるようにして藤房を制した。
「坊門
「そ、そのようなこと……」
清忠はあわてて否定した後、おずおずと目を反らした。
「先の戦で
熱く語る藤房に、帝は眉間に皺を寄せて、沈黙を返した。
代わりに忠顕が身を乗り出し、藤房の方へ身体をねじって反論する。
「中納言様は武家を取り立てて、公家をお見捨てになるおつもりですか。
これに藤房は、ぎっと忠顕に視線を差し込む。
「朝廷が幕府になっても構わぬではないか。公家はいったん職を辞し、領地を返上し、そのうえで公家でも武家でも構わぬ。実力のある者を
しかし、忠顕はふっと息を漏らして首を横に振る。
「それが公家を見捨てるということなのです」
「いや、公家も武家に負けぬようにすればよい。奥州の北畠はいかがじゃ。
忠顕を黙らせたあと、もう一度、帝に顔を向ける。
「……
すると、帝が低く、唸るように声を上げる。
「
そう言うと、おもむろに立ち上がり、すうっと玉座を下りる。
「
少し腰を浮かしぎみに、藤房は奥に消えようとする帝に手を伸ばし、声をかけ続けた。
食い下がる藤房を忠顕が制する。
「御見苦しかろう、中納言様。
「だまらっしゃい」
鋭利な刃物で突き刺したかのように、藤房が一喝してみせた。
「こ、これはただでは済みませぬぞ。
そう言って清忠が、内大臣の
「中納言殿、お帰りになり、
帝が完全に奥に下がったのを見極めた藤房は、改めて居住まいを正してから
「言われるまでもなく覚悟の上のこと。好きになさるがよろしかろう」
落ち着きを取り戻した藤房は、深く礼をしてから立ち上がり、何事もなかったかのように、堂々と
数日後、参議、坊門清忠の屋敷である。ここに、左中将の
帝(後醍醐天皇)の
「
「一条殿、それはまことか」
予見できていなかったといえば嘘である。上座に座る清忠が、形ばかり驚く素振りを見せた。
「さすがに
「歌とは……」
『住み捨つる 山を浮世の人とはば 嵐や庭の 松にこたへん』
清忠の問いかけに、行房が甲高い声で歌を詠んだ。
忠顕がふふっと笑みを浮かべる。
「よいではありませぬか。我らと考えの違う者におられては、この先、やりにくくなるだけじゃ」
「左様に存じます。
顎のあたりを触りながら名和長年も同調する。
ここに居る者は、誰も
話が収束したところで、忠顕が一人ひとりに目を向ける。
「おのおの方……
「されど、あまり過激なことは……」
若くて向こう見ずな忠顕に、清忠は
「何を言われます。この先、
腹を
「すでに
追い打ちをかける忠顕の話に、清忠が焦りの色を濃くする。
「む、
「北条残党へ足利討伐の挙兵を呼びかけ、上洛を
清忠が思わず
「よ、よくそのようなものを手に入れられたものじゃ」
「これは麿が用意したもの。
ふんと鼻を鳴らして、忠顕が軽く言ってのけた。
すると、行房が可笑しそうに口元に笑み溜める。
「足利の恐い執事殿(高師直)が、『我らと戦を起こしたくなければ宮様に厳しい
清忠の首筋に、つうぅっと冷たいものが走る。
「な、何を呑気な。その
「いえ、
悪びれることなく忠顕が言い放った。
内心、呆れる清忠だが、隠岐派の面々を前にして、反論するまでの気概はない。この場においては、ただ、黙認するのみであった。
十月二十一日、
「宮様、用意が整うまで、
「む、ここでか」
一瞬、
部屋に入るや否や、外から
親王は強張った顔で
「何事っ」
「宮様、御免」
その声とともに、闇に潜んでいた二人の男に、親王は背後から左右の腕を押さえつけられた。
「無礼者っ」
怒鳴って二人を睨みつける。闇に目が慣れてくると、武者姿の名和長年と
「宮様っ、大人しくお縄をお受けくだされ」
大声を発したのは長年であった。
「何、
「
「何と……まさかそのようなこと……」
実父の命令と聞き、膝から崩れ落ちる思いであった。
だが、武勇の誉れ高い親王は、長年の手を振り払い、
この出来事は、始まったばかりの親政を、混沌とした色のない世界へ
ぴりぴりとした冷気と、白い息を、交互に頬で受けながら、早馬が駆ける。
紀伊国飯盛山を兵糧攻めにすべく取り囲んだ楠木正成の元に、
元成は、強ばった顔で本陣まで駆け込むと、正成と
「
「なっ、何じゃと。それは本当か」
いつもは冷静な正成が、珍しく声を荒らした。
「京に放った我が一座の者の知らせです。命じたのは帝(後醍醐天皇)とのこと」
「何と……それで、宮様は今どこに」
「何でも、御沙汰が下るまで、足利殿の屋敷に預け置かれている
その言葉に、正成は目を閉じて額を手で覆った。
隣で、
「赤松円心殿が播磨に戻り、
「いや、こういう時だからであろう。北畠卿(北畠親房)も京を離れ、四条卿(四条
兄の話に
「三郎兄者(正成)、これは、足利殿(足利尊氏)の仕返しか……」
「足利殿の仕返しもないとはいえぬが……考えてみれば、
「すると、
「やめておけ。それ以上の詮索は
そう言うと、正成は真一文字に口を閉じ、曇天を背負った飯盛山を見上げた。
十一月、楠木正成は紀伊国から軍勢を従え、紀見峠を越えて楠木本城である赤坂城(上赤坂城)に帰還する。そして舎弟、楠木
目を丸くして、虎夜刃丸が奥から飛び出してくる。
「父上、お帰りなさい」
「殿、お疲れ様にございました」
跡を追って出てきた久子も、多聞丸・持王丸と一緒に戸惑いぎみに迎えた。楠木軍の帰還は、つい先ほど早馬で知ったばかりである。急な帰着に、館は右往左往と慌ただしくなった。
「うむ……五郎はおるか」
家族の出迎えにも、正成は表情を崩すことなく広間へと急ぐ。その気ぜわしさに、虎夜刃丸らも慌てて後に続いた。
遅れて出てきた舎弟の美木多正氏が、正成の前に立つ。
「兄者、突然の帰還じゃな。飯盛山は落ちたのか」
難しい表情の正成に代わって、
「落とすには落としたが……
「で、追わなかったのか……兄者にしては、珍しく粗い戦じゃな」
飯盛山では急遽、正成が兵糧攻めを止めて、力業で兵を飯盛山に攻め上がらせた。
楠木軍は当然ここで追撃して、敵将の
「わしは明日、精鋭を率いて京へ上る。
その言葉に、久子と正氏は互いの顔を見合わせた。
虎夜刃丸が正成の
「宮様がどうかしたの」
楠木館には、いまだ
広間に入り、
虎夜刃丸も、幼子ながらに、
楠木正成が京へ出立する日の朝である。桐山の麓にある楠木館に、飯盛山に残った
広間では、張りつめた空気の中、
「何事か」
「楠木殿、
「何と……もう舞い戻ったのか……」
列席した和田
想定よりもずっと早い再挙に、
「いかがする、三郎兄者」
「致し方あるまい。反乱の鎮圧は帝(後醍醐天皇)の
言葉を絞り出すと、続いて恩地満一に視線を送る。
「……わしはすぐに書状を
「はっ。承知つかまつった」
正成の
足利尊氏の元で
再び紀伊に出陣するべく、久子に手伝わせて
「父上、宮様(
幼子のまっ白な言葉が、正成の胸に突き刺さる。
「よいか虎夜刃丸、宮様は
しかし、虎夜刃丸の涙が止むことはなかった。
「久子、慌ただしくてすまぬな」
「いえ、そのようなことは……わたくしもこの子と一緒に
そう言って虎夜刃丸を抱き寄せた。
立ち上がった正成は、久子の顔を見て頷くと、
京の足利屋敷。広間では、足利尊氏が執事の
「
ふうぅと息を吐いて顔を上げた尊氏は、書状を
「
「可笑しなことですな。我らに言うのは筋違い。我らの糾弾に応じたとはいえ、処罰を決めたのは帝(後醍醐天皇)じゃ」
「京に戻って、直接、帝に直訴するつもりなのであろう。言わば、それまでの時間稼ぎじゃ」
「なるほど……されど、
「ううむ。じゃが、楠木殿を敵に回したくはない。味方に着ければ、これほど頼もしい男もおらぬからな」
尊氏は腕を組んで
「
「まさか、
「虎を野に放つような真似はできぬ。じゃが、楠木殿には我らが味方であることを示さなければならん。楠木殿は飯盛山で苦戦しておられるのであろう。のう、
そう言って、追い立てるように、
楠木本城(上赤坂城)の麓にある楠木館では、こどもたちが武芸の稽古に励み、それを久子と
多聞丸は弓矢の稽古を、持王丸は刃先が木製の
その左近の息子、満一が、ちょうど京から赤坂に戻ってくる。そして、
「奥方様(久子)、紀伊飯盛山の殿(楠木正成)の元へ、足利殿が援軍として入られるとのことにございます」
意外な援軍に、久子は耳を疑う。
「何と、足利殿が……」
「実際に兵を率いられるのは、御一門の足利
足利高経とは足利家の分家で、
弓矢を持ったまま、
「
「
そう言って左近も首を傾げた。
釈然としない顔つきのまま、多聞丸が手に持つ弓に目を落とす。
「実際、飯盛山を囲うには兵が足らず、五郎叔父(美木多正氏)まで出陣されたところ。父上にとっては、ありがたい援軍には違いないのじゃが……」
「きっと、殿とは争いたくはないということでしょう。されど……」
続く言葉を、久子は飲み込む。
その向こうでは、虎夜刃丸が尊氏の名を聞いて手を止める。次兄の持王丸が『足利尊氏は悪い奴じゃ』と話していたのを思い出していた。だが、悪人には思えなかった。
しかし、それ以上に二人に共通して親しみある匂いを感じていた。物心つく前から、この匂いで、自らの
だが、成長するにつれて、その力は衰えていった。今では足利尊氏に感じた親しみが、本物だったかどうかも、あやふやになっていた。
「虎夜刃丸様、手元が留守になっておられますぞ」
「う、うん」
左近に
久子の不安は的中する。足利尊氏は
戸板に囲まれた部屋が足利の京屋敷の離れにある。うち、ひとつの戸板は、番の侍たちが仁王立ちする入り口。残りの戸板には釘が打ち付けられ、空気と
その部屋に入った尊氏が、神妙に平伏する。
「宮様(
「ふん、そなたに会うて、言いたいことを言うてやろうと思うておったが……そう
「……どんな奴かと思うておったが、会えば普通の気のよい男じゃ。さすがに人たらしよ。武士どもに人気があるのはわかる。じゃが、それこそが
「……」
親王の言葉にも、尊氏は一言も反論せずに沈黙していた。
「たとえそちがよき男であっても……たとえ早くに会うて酒を酌み交わす仲となっておっても……我らは相まみえることはない。そう、夏と冬のようなものじゃ」
「申しわけなく存じます」
「もうよい。そちが勝ったのじゃ。
親王の繰り言を、尊氏はただ黙って拝聴するのみであった。
十二月、
親王の側近であった参議四条隆貞や
隆貞らはこれに抗って、差し向けられた兵と争い、討ち果てる。そして、生きて捕縛された者たちは、六条河原に引き出されて処刑された。
護良親王の近臣は、ただ一人、播磨国に戻った赤松
自ら職を辞して廟堂を退いていた先の
建武二年(一三三五)一月二十九日、楠木正成は足利高経の手を借りて、ようやく飯盛山の北条残党を平定した。
首謀者の
正成は高経とともに、
武者姿の二人が、白州に座って北条残党の平定を報告した。
そして、一連の説明の後、正成が突然切り出す。
「反乱の平定が成った今、それがしは、けじめを付けて、記録所、
突然の出来事に、
「
「さまざまなことがありましたゆえ一言では申せませぬ。ただ、大事な方々をお止めすることができなかったのは、この河内の不徳の致すところでございます」
「何も、そちの責任でもあるまい。考え直すがよかろう」
道平は
御殿の上から、特段、驚いた風もない
「左大臣様、河内守の申す通り、
正成が帝(後醍醐天皇)から距離を置くことは、忠顕らにとっては都合がよいことであった。
そのことを承知で、正成はただ黙ってその言葉を受ける。結局、辞意は
その後、楠木正成は足利尊氏に援軍の御礼を
なごり雪がうっすらと楠木館を覆う。年が明けて虎夜刃丸は数えの六歳。外の様子を見ようと縁側に出て、
外から戻った正成が、そんな虎夜刃丸を見つけて前に立つ。
「
「うん……父上、足利尊氏殿は悪い御方なのでしょうか」
すると、難しい顔をして正成が虎夜刃丸の隣に座る。
「宮様も尊氏殿も双方に己の信じる道があった。ただそれだけじゃ。どちらが悪いというものではない。虎夜刃丸も大人になれば、戦いたくもない相手と争わざるを得ない事も出てくるであろう。いや、むしろ、そのことの方が多いやも知れぬ。辛いことじゃ」
「ならば、父上は尊氏殿とも戦うのか」
深く息を吐いた正成が、困った表情を見せる。
「そうはなりたくないものじゃ。足利殿は帝(後醍醐天皇)の
歯切れの悪い父の言葉に、幼心にも、それ以上の質問は
それから数ヵ月が過ぎた六月二十二日、にいにいと蝉の声が鳴き渡る京で、騒動が起きる。
むしむしと不快な湿気に包まれた京の町に、
その楠木勢の前に、足利家の執事、
先方の旗印に目をやった
「向こうから出張ってきたのは
「うむ、頃合いじゃな。者ども、掛かれ」
正成の
馬を降りた正成は、落ち着いた様子で
「者ども、取り逃がすな」
「おりました」
楠木の兵が、格式高い
「
「ぶ、無礼者め。武士の分際で、こっ、このような事を……ただで済むと思うな」
「これは
静かに正成が答えた。
朝廷の多くの役を辞した正成であったが、
「帝を
「な、何の証拠があって……」
恥辱を加えた
すると正成が片ひざついて、
「弟君の西園寺
「ふん、帝をお迎えする予定であった西園寺別邸の北山
凄みを効かせる
討幕前、
「西園寺様、北条
だが、
北条泰家とは、幕府滅亡の折、自害した北条得宗、高時の弟である。
不意に
「泰家はどこじゃ。北条残党はどのように挙兵する手筈になっておったのか。ええい、言わぬか」
激昂して
「
「ちっ」
その後、正成らは北条泰家の行方を懸命に探索するが、ついに行方はわからなかった。
河内国の楠木館。京の騒動を知ることもなく、虎夜刃丸は平穏な日々を過ごしていた。朝のうちは母に読み書きを習い、昼からは武芸の稽古に汗を流す毎日である。
次兄の持王丸に木刀を持たされた虎夜刃丸は、じりじりと野山を焦がすような日差しの中で、懸命に素振りを行っていた。
が、急に虎夜刃丸の手元が止まる。
「なあ、持王兄者、多聞兄者はどうしておるかのう」
長兄の多聞丸を思い出し、寂しそうに呟いた。
多聞丸は父、楠木正成に従って、京、四条
「さあ、わからん。されど、兄者はよいのう。京で暮らせて。わしもあと二つ歳をとれば、父上に頼んで京の屋敷に置いてもらおう」
持王丸は、ただ単に、多聞丸をうらやましがっていた。
「そんなことより、虎。手元が留守になっておるぞ。さ、あと百回振ってみよ」
「えぇぇ」
剣術が苦手な虎夜刃丸に、持王丸は厳しく木刀を教えた。
そこに、庭から小波多座の
「持王丸殿、五郎殿はおられるか」
「あ、治郎殿(元成)。五郎叔父(美木多正氏)なら広間におるが……何かあったのじゃな」
「ううむ、東国でまずいことが起きましてな。持王丸殿の父上に頼まれて、知らせに参ったのじゃ」
元成は、こどもらにまで神妙な表情を見せた。
館に上がり、汗を拭った服部元成を、いつもと変わることなく、美木多正氏が広間で迎える。正氏は目代として、日々、楠木館に通っていた。
「おお、治郎。何かあったのか」
上座に腰を据えた正氏が、歴史の転換点ともなる出来事とは露知らず、呑気に問いただした。
すぐに久子と恩地左近(満俊)も顔を出す。片や、虎夜刃丸と持王丸は、汗を
「
「何っ」
「途中途中で北条の残党や御親政に不満を持つ者どもを
担いだ頼重は、
この、北条残党が鎌倉の足利
「何じゃと……」
愕然とする正氏の傍らで、久子と左近は言葉を失った。
縁側で聞き耳を立てていた虎夜刃丸と持王丸も仰天し息を呑んだ。
北条時行の挙兵は、楠木正成が京で取り逃がした北条泰家と無縁ではない。西園寺
その北条泰家は、
さらに時を同じくして、北条一族の
前のめりになって、正氏が元成に顔を近づける。
「鎌倉の足利
「
「まるで、元弘の戦で破れた鎌倉の幕府のようじゃ」
縁側で聞いていた持王丸が思わず叫んだ。
「それで、宮様方は」
宮様
「足利
「おそらく……」
自信なさげな元成の言葉を、久子が不安げな表情で繰り返した。
大人たちの話に虎夜刃丸は身震いする。東国から大軍が京に攻め上ってくる予感が走った。
北条時行の軍勢が鎌倉府を落としたとの知らせは、一足早く京の廟堂へも届いていた。だが、現実を見ない朝廷の公家たちは、額面上は驚くも、いまだ緊迫感は見られない。遠い東国での出来事は、京の日常を過ごす者たちにとって、あの世の出来事であった。
そんな朝廷において、焦りの色を濃くしたのは公卿でもある足利尊氏であった。舎弟、足利
神妙な面持ちで、尊氏が頭を下げる。
「
いつもは、帝の前に出ると石のように固くなる尊氏だが、この日は
帝は近くに座る行房に命じて
「うむ、
「はっ、ありがたきお言葉、恐悦に存じます。ついては、賊軍討伐を諸国の武士に
申し出に、居並ぶ
だが、何事にも自らの意志を持つ帝の考えは明白である。
「それは駄目じゃ。武蔵守(足利尊氏)、そちが征夷大将軍として鎌倉に下れば、それはすなわち幕府を開くということに他ならん」
「幕府など、それがしは決してそのようなことを考えておるわけではありませぬ。北条の残党は、過日の紀伊飯盛山の
「わかっておる」
顔色を変えることなく帝は応じた。
「いえ、この勢いは、ますます諸国に飛び火することでしょう。早々に手を打つためには、全国の武士に、征夷大将軍として賊軍討伐の
「いや、征夷大将軍に任ずれば、たとえそちに幕府を開くつもりがなくとも、周りの者はそうは見まい。武家どもはそちが幕府を開く事を期待し、公家どもは幕府を開くのではないかと疑心暗鬼に
その言葉に、尊氏は苦渋の表情を返した。
「……さりながら、そちの言う事も一理ある。鎌倉府将軍宮として関東に下った我が子、
諦めさせるために、征夷大将軍の職を先に埋めてしまおうということである。
しかし、事は切迫している。尊氏に引く素振りは見られない。
「恐れながら申し上げます。かの源頼朝公以来、征夷大将軍は武家が任じられてこそ、その本領が発揮されまする。諸国の武士は、征夷大将軍の職名だけでは動かせませぬ。
「そこまで、征夷大将軍に
これには、さすがの尊氏も返す言葉を失う。駆け引きは、帝の方が一枚上手であった。
「御館様、征夷大将軍の件はいかがでしたか」
期待する
「征夷大将軍は鎌倉
「では、それがしは大将軍の執事として、お供つかまつります」
棟梁の決意に
八月二日、北条残党の蜂起に加担して、
護送役である
この時、
「さ、早く来られよ」
定平は、妻から引き
定平は、自分の役目が無事に終わり、やれやれと、肩を叩きながら屋敷の中に入った。
まさにその時のことである。
―― ぎゃっ ――
外から聞こえた絶叫に、定平は驚いて外へ飛び出る。そこには長年の郎党に首を
断末魔を聞き、続いて門の内から飛び出してきたのは
「殿……」
夫の
定平は、哀れな
「
「こうすればわざわざ出雲へ行く手間も省けるというもの」
「帝はこのこと、御承知か」
「
淡々と長年が応じた。
北条時行に敗れて三河国
そして、もうひとつは京でのことである。その
京の足利屋敷では、馬の
―― ざっ、ざっ、ずざっ ――
馬に乗ろうとする尊氏の前に、
「足利殿っ」
「これは河内守殿(楠木正成)、いかがされました」
驚く尊氏の前で、正成が馬から飛び降りる。
「見送りに参りました。足利殿には鎌倉に留まる事なく、また、京に戻って来て欲しいと思いましてな」
「ふふ、
正成の言葉に尊氏は、手で顔を
「それは無理もありませぬ。清和源氏の棟梁ですからな。じゃが、朝廷もそれがしも尊氏殿を必要としております。それを肝に御銘じいただき、鎌倉に御下りくだされ」
「相分かり申した。河内守殿、肝に銘じましょう。では、これにて」
尊氏は馬に跨り、正成に白い歯を見せてから、馬の
これが
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます