第 9 話 建武の乱
建武二年(一三三五年)八月も終りの頃。幾度めかの大風が暑気と湿気を追い払い、雲を天高くに吹き飛ばした。気付けば、枯色の
ここは楠木本城(上赤坂城)がある桐山の麓、赤坂と呼ばれる地に建つ楠木館である。
戸を開け放った奥の間に、秋風が涼を運ぶ。中では、数え六歳の
久子が虎夜刃丸の右手を後ろから支え、筆を走らせる。
「ほら、このようにすればよいのです。今度は一人で書いてみなされ」
「う、うん……」
気乗りしない様子で、虎夜刃丸は右手で筆を持ち、母の字を真似た。しかし、
「母上、こっちの手で書いてもいい」
言うや否や、筆を左手に持ち替えて、器用に筆を走らせる。
「ふうぅ、やっぱり、筆も左でしか持てぬのですね」
息子の左利きを直そうとした久子が、溜息をついた。
そんなに難しいものかと、自分でも利き手を替えて筆を走らせてみる。
「うぅん、なかなか難しいものですね。虎夜……あれ、虎夜刃丸……」
ちょっと気を緩めた隙に、目の前から姿は消えていた。
「……こ、これ、待ちなさい。虎夜刃丸」
慌てて久子が立ち上がる。
縁側に出ると、ゆく手を塞がれて立ち往生する虎夜刃丸と、鉢合わせした恩地左近(満俊)の姿があった。
「奥方様、ちょうどよいところに。今、呼びに行こうとしたところです。さ、若様も」
母子は、左近に追い立てられるようにして、広間に向かった。
その広間には、上座に美木多正氏が腰を据えている。そして、その前には見知った二人の顔があった。
「お邪魔しております」
「
「あにじゃ」
「あにじゃ」
晶子は数え三歳となる双子の息子を連れていた。
「やった、
そう言うと、虎夜刃丸は機嫌よく広間から出ていった。
一方、久子は、正氏の傍らに座り、義理の妹に笑みを見せる。
「よく来られました。晶子殿も猿楽の興行に同行されるようになったのですね」
「はあ。されど、東国の戦の影響で、畿内も騒然としており、興行どころではなくなりました」
下目遣いに、晶子が青い吐息を洩らした。
すると、正氏が
「で、治郎(元成)、その東国の話は聞こえて来ておるか」
「はい、東国に向かった足利尊氏殿の元には、佐々木
腕を組んだ正氏がううむと唸る。
「やはり、清和源氏の棟梁、足利尊氏の威名は絶大じゃな」
朝廷は尊氏を征夷大将軍には任じなかった。だが、尊氏が京を出立した翌日に、形だけ整えるように征東将軍を任じていた。
「八月九日に、
元成の話に、一同は息を呑んだ。
久子は、尊氏一人が動いただけで、こうまで戦況が変わってしまうものかと、心底、感心した。
続く元成の話では、北条軍を指揮した
久子はほっと胸を
「とにかく東国の反乱も無事に収まり、京の殿(楠木正成)も一安心でございますね」
「だといいのじゃがな……」
正氏は厳しい顔を崩さなかった
そこに、竹で作ったとんぼや駒を抱えて虎夜刃丸が戻ってくる。
「えぇ……」
目線の先には、晶子の脇で寝息をたてる観世と聞世の姿があった。
いかにも残念そうな息子の顔に、久子が頬を緩める。
「旅の疲れでしょう。そっと寝かせてあげましょう」
「ごめんなさいね、虎夜刃丸殿。起きたらまた遊んでやってくだされ」
申し訳なさそうに言葉を足す晶子だが、口元は可笑しそうに笑みを浮かべていた。
「う、うん」
虎夜刃丸は尖らした唇を戻しながら、はっと思い出したように、元成に顔を向ける。
「そうじゃ、
「それが、残念ながらわかりませぬ。このところ、宮様のお話はめっきり聞こえて来なくなりました」
こども相手にも元成は困った表情を見せた。これに虎夜刃丸は、がっかりと小さな肩を落とした。
足利尊氏は、北条討伐が終わっても京に戻らず、鎌倉府に留まっていた。そして、帝(後醍醐天皇)の
朝廷は尊氏のこの動きに困惑し、鎌倉へ
紅葉前の深沈な緑に囲まれた鎌倉府庁。その広間で、下座に座った足利尊氏が、神妙に平伏している。さらに後ろには、舎弟の足利
「賊軍の反乱を鎮めたるは喜ばしき限り。軍功については朝廷で取り仕切るゆえ、武蔵守(尊氏)は一刻も早く
上座に迎えられた朝廷の
「承知つかまつりました。賊軍を討伐した今、この鎌倉に留まる
尊氏は、そう言って
「兄者、まさか、本当に京に戻るのではあるまいな」
尊氏は無表情に立ち上がると、先ほどまで
「
当たり前のように答える尊氏に、二人は驚きの表情を浮かべる。
「兄者、今、京に戻っては、朝廷に取り込まれる。ここに残って、源頼朝公のごとく、全国の武士に号令を出すのじゃ。兄者が武士を統率すれば、いずれ帝も、兄者を征夷大将軍として認めざるを得ないであろう」
「それがしも、御舎弟殿と同じ意見でござる」
「
「兄者、あの帝が、望んで兄者を征夷大将軍にすることなど、あり得んことじゃ」
「そんな事はない。帝は、いや朝廷は、わしを必要としておる。東国下向の際には、必ず京に戻ると楠木殿にも約束した」
説得に応じない尊氏に、
「朝廷に兄者の戻る場所はない。もう遅いのじゃ」
「どういうことじゃ」
「わしは北条時行に鎌倉を追われた際、
一瞬、尊氏は
「
思わず、がっと立ち上がり、尊氏は弟を詰問した。
ばつが悪そうに
「何と浅はかなことをしてくれたのじゃ」
「足利の、いや兄者のためを思うてしたことじゃ」
「お前がやったことは、この足利家を朝敵に
「それでも構わぬではないか。我らの思いを遂げるためには、いずれ朝敵も覚悟せねばならん」
兄の怒りにも、弟は
「そのようなことはない。帝と和を結び、帝の元で幕府を開く道を考えるべきであったのじゃ。少しの間…今少し時をおけば、武士の
「時をおけば実現するというものではない」
「もうよい。わしは寺に入り、宮様(
「お、
引き留める
翌日になっても足利尊氏の怒りは収まらず、近習を通じて、
計算高い
「こうなってしまえば致し方なし。これより、わしが兄者に成り代わって足利を取り仕切る。
「それがしは足利家の執事にござる。もし、御舎弟殿(足利
普段から尊氏べったりであった
「よし、まずは我らが言い分を帝(後醍醐天皇)に訴えよう」
足利の奏状を受け取ると、参議、坊門清忠が疑心暗鬼のまま、新田義貞を
御殿の一間で、
「
「な、何と……」
目を剝く義貞を前に、清忠が奏状の内容を伝える。
一つ、新田の鎌倉攻めは足利の
一つ、新田の鎌倉討伐の成功は足利千寿王の加勢あってこそのもの。
一つ、
奏状は、これらのことから君側の奸として、義貞を
とんだとばっちり、いや、暴言といえる足利の奏状に、義貞は身体を震わせる。
「足利は、それがしに濡れ衣を被せようとしております。尊氏の狙いは、幕府を開いて日の本を己のものとせんがため。ゆえに、武力を持つ新田を朝敵として討伐し、朝廷が抗う力を取り除こうとしておるのです」
その抗弁に、清忠はさもあらんと頷き、傍らの忠顕に視線を向けた。
「では、新田殿からも、足利の奏状に対する
清忠の意図を汲んだ忠顕が、予めの段取りを伝えた。
怒り心頭の新田義貞は、その日のうちに
一つ、足利の六波羅攻めは名越高家の討死を機に朝廷に寝返ったにすぎない。
一つ、足利の六波羅制圧は五月七日。新田の蜂起は五月八日。六波羅征圧を知り得るはずもなく、千寿王参陣も取るに足らない。
一つ、六波羅を占領して勝手に奉行所を開き、
一つ、足利は
一つ、
これを一つ一つ読み上げて、義貞は反論を行った。
「これらのことより、討たれるべきは足利であることは明白でございます。さらに、最も許せないのは、北条
「何、
坊門清忠にとって初めて聞く話であった。
「つい先ほど、関東より知らせが届きました。受けた者はそれがしだけではありませぬ。御疑いなら、どうぞご確認いただければと存じます」
義貞の話に、清忠は顔を蒼くし、
南河内の楠木館では、虎夜刃丸が関東の様子、特に
館に到着するや否や、
虎夜刃丸は、父からいつもと異なる気が漂っていることに気づく。多聞丸と満一も沈痛な面持ちで一言も発することなく座っていた。
重苦しい空気に耐え切れず、久子が問う。
「殿、急なお戻りでございますが、いったい何が……」
「
その言葉に一同は息を呑んだ。
「しいぎゃく……」
「
兄、多聞丸の説明に、虎夜刃丸は耳を疑った。
皆が言葉を失う中、虎夜刃丸が立ち上る。
「父上は……父上は、宮様の命まで取られることはないと、話しておられたではありませぬか」
「すまぬ、虎夜刃丸。尊氏殿ならばきっとそのようなことはないと信じておった。じゃが、舎弟の
厳しい表情を崩さず、正成は両の拳を握りしめる。怒りをどこにぶつけてよいか、わからないようであった。
涙を浮かべる虎夜刃丸を、久子が
言葉を失っていた正氏がやっと口を開く。
「どのようなお最期で……」
「鎌倉に送られた
母に抱かれて泣き続けていた虎夜刃丸は、父の話に我慢できなくなる。その手を振りほどき、裸足のまま縁側から外へと飛び出した。
「虎、待て、待つのじゃ」
すかさず、多聞丸も庭へと飛び降りる。そして、虎夜刃丸に追いついて、背中から抱きしめる。
「虎夜刃丸……」
「多聞兄者……なぜ宮様が死なねばならんのじゃ」
「うむ……きっと、父上が
そう言って
「
「そうじゃ、
虎夜刃丸は兄の言葉にはっとする。
「尊氏殿とも戦うのか……」
大きく頷く多聞丸に、虎夜刃丸は涙がいっそう
一方、広間では、引き続き正成が皆に向かって話を続けている。
「朝廷が面と向かって足利と戦えば、国中を巻き込む
「承知した」
兄、正成の目を見据えたまま、正氏はゆっくりと頷いた。
その
京の
「
「急に呼び立てをしてすまなかった」
「
「うむ……」
下座から無表情で聞き返す
「……実は鎌倉で、
「な、何と……」
驚く
「
「それがしに、足利討伐の指揮を……」
言葉を詰まらせた
「お引き受けさせていただきとう存じます。が、ひとつ、
「何じゃ、申してみよ」
「行房、
「しょ、承知致しました」
行房は一瞬、
朝廷は新田義貞、名和長年、
ぴりぴりとした冷気が張り付める
正成ら武士も、
「足利尊氏の
清忠は、自らの責任から逃れるかのように、ことさら声高に足利討伐を主張した。
「足利は我が新田の所領まで、恩賞として従った武士どもへ与えている
頼もしげな義貞の言葉に、
しかし、正成一人、表情を異にする。
「討伐ですが、ここで足利と戦うことは、日の本を二分する
意外な提案に、義貞は
「
「そうじゃ。河内守殿は
口調を合わせるように、
「それがしが得た知らせでは、
そう言って正成は、足利討伐の総指揮を任された
だが、その
「正成、今更、
十一月八日、帝(後醍醐天皇)は新田義貞率いる討伐軍を鎌倉へ送る
これに応じて四条
親王の母は、
公家大将の二条為冬は為子の弟で、
新田義貞が京を発った四日後のことである。
先の北条時行の反乱で出陣の
朝廷は、京から東征する新田義貞と、奥州から進軍する北畠顕家とで、鎌倉の足利尊氏を挟み撃ちにしようとしていた。
その奥州軍には顕家の父で、
しかし、当の尊氏は、帝(後醍醐天皇)に恭順の意を示すため、
十一月二十五日、兄、足利尊氏に代わって
まずは執事、
朝敵となった足利軍の士気の低下は目を覆うばかりであった。その責任は当然、この戦に火を着けた
本陣とした寺の
「御舎弟殿(
「ふん、出家したくばするがよい。わしが棟梁になって足利を率いる。者ども、参ろうぞ」
詰め寄る
一方の
十二月五日、強い北風が吹くこの日、足利軍を率いて出陣した足利
対する朝廷の討伐軍は、足利軍を追撃し、三島にある伊豆の国府を押えて陣を敷いた。
国庁とする館の中。上座には
そして、皆に囲まれるようにして、新田家の執事、船田義昌に伴われた一人の男が、神妙に
つい先ほどまで足利軍に同行していたはずの道誉に、義貞が冷たい視線を送る。
「
「
「貴殿は、足利方に真っ先に加わった足利の与力ではないか」
義貞の罵倒にも道誉はまったく動じる素振りはない。
「それは、朝廷より征東将軍に任じられた足利尊氏に従ったまでのことでござる。これも当然のこと……」
悪びれず、道誉は
「……宮様、それがしはいつも帝の
その
すると、意を汲んだ為冬が、道誉を手前に呼び寄せる。
「佐々木
「ははっ。この入道、死力を尽くしたいと存じます」
大げさな身振りで頭を下げる道誉に、義貞は苦々しそうに、ふんと小さく鼻を鳴らした。
佐々木道誉が朝廷側に走ったとの知らせは、足利
「くそっ」
気を荒立てる
「御舎弟殿(
「うぐぐ、道誉め。よくも裏切りおって……ちっ、兵を引くしかないか」
その時であった。尊氏・
「御舎弟殿、東に土煙が上がっております。何者かの軍勢が東から攻め寄せておりますぞ」
「何じゃと。もしや奥州軍ではあるまいな」
直義が思わず腰を浮かせた。
陣中に緊張が走る。
「御舎弟殿、いくら何でも奥州から駆け付けるには、ちと早すぎましょう。御味方かも知れませぬぞ」
「あ、あれは、
「
ふと、
誰かと喧嘩をしても、道に迷っても、必ず兄が助けてくれた。兄の顔を見ると、もう大丈夫と安堵する自分が、いつもそこにいた。二人の関係は、あの頃と何も変わっていなかった。
足利尊氏の出陣の効果は大きかった。道々で参陣する武将を吸収し、舎弟
このことを知った討伐軍は、二手に分かれて進軍することを決する。
一手は新田義貞が率いる本軍で、箱根峠から足利軍の正面を突いて鎌倉を目指す。もう一手は、宮将軍、
十二月十一日、足柄峠へ向かった宮将軍、
ついに、両軍は
そんな中でも、脇屋義助は一歩も引かずに尊氏軍と刃を交わす。しかし、正面の敵軍に気を取られる脇屋勢の背後が騒がしくなった。
後方より上がってきた兵を、義助が
「何事か」
「さ、佐々木道誉が裏切りました。佐々木京極軍が後ろから我らに矢を射かけております」
ぎょっと義助が後ろに目をやると、佐々木
これを見た朝廷方の
公家大将の二条為冬は、
「ここは麿が時を稼ぐゆえ、宮様(
「二条様……」
「宮様を頼むぞ、
己の不安を見せぬよう、為冬は精一杯の笑顔を作り、義助の肩を叩いた。
戦などしたことのない歌人の為冬であった。だが、甥である
為冬は、馴れぬ
一方、箱根では、新田義貞の軍勢が、家臣の
そこへ、血相を変えた新田家の執事、船田義昌が駆けつけて、自らの馬を義貞の馬に寄せる。
「
「ぐぬぬ、やはり道誉か」
勝利目前の義貞であった。だが、
新田義貞は、いったん伊豆国府で体制を整え、鎌倉に戻る足利軍を追って鎌倉へ討ち入ろうと考えていた。義貞には勝算があった。奥州から鎌倉に、北畠顕家が向かっていたからである。
しかし、足利尊氏の非常識さに、義貞の思惑は外れる。
尊氏は鎌倉へは引かず、兵糧もままならない中で、朝廷の軍勢を追撃するため、そのまま西に進みはじめたのである。
思わぬ足利軍の追撃に、義貞は軍勢を立て直すことが叶わず、
数日後、木枯らし舞う
その光に煽られた影が正成の顔を険しく見せる中、楠木
「で、三郎兄者、何と書いてある」
「足利軍が朝廷の追討軍を破ったそうじゃ。尊氏は新田殿(義貞)を追って京へ進軍しておる」
「何と。それをわざわざ兄者に知らせてきたのか。早馬で……」
それは足利尊氏からの密書であった。
「尊氏は、
「恭順の意とは信じられぬが」
「うむ、恭順というより、新田討伐を正当化して、帝と和を結び、征夷大将軍を迫るつもりであろう」
「ではやはり、北条の世が足利の世に変わるだけじゃな。して、兄者に何を求めてきておるのじゃ」
「尊氏はわしに、新田討伐に加わるように誘ってきておる。四国を丸ごとくれるそうじゃ」
そう言って、書状を
「ははは、気前がよいのう。それだけ三郎兄者のことが怖いということか……で、兄者はそれでも断ると」
「当たり前じゃ……
「とすると、赤松円心殿にも密書は送られているということか」
「そうであろうな」
「円心殿はどうされるかな。
書状に目を落したまま、
「されど、円心殿はどうかな。むしろ、足利より朝廷を憎んでおろう。我らは円心殿をも敵にせねばならんかもしれん」
河内国、赤坂の楠木館が慌ただしくなった。京の楠木正成より、河内
さっそく正氏は河内・和泉の武士たちへ出陣を
あと半月、年が明ければ、数えで七歳になる虎夜刃丸も、兄の持王丸、従兄の
薄暗い
「父上は誰と戦うのじゃ」
「誰って……」
一瞬、持王丸が言葉に詰まる。
「……足利尊氏に決まっておろう……お前、誰と戦うのかも知らずに戦の用意をしておったのか」
知らないわけではない。状況が変わっていないか祈るような気持ちであった。虎夜刃丸にとって、
いつぞやの父の言葉を思い出す。
(虎夜刃丸も大人になれば、戦いたくもない相手と戦わざるを得ない事も出てくるであろう)
本当に父は尊氏と戦わなければならぬのか。幼子は小さな心を痛めた。
そのころ、朝廷にも討伐軍の敗戦が伝わっていた。
「まさか数に勝る討伐軍が足利に敗れるとは」
御殿の前の庭には、
「こうなれば、早々に新田に援軍を送り、討伐軍を立て直すべきと存じます」
これに、即座に正成が反応する。
「恐れながら申し上げます。足利軍は敗走する新田殿を追いかけて西に進軍しております。されど、さらにその背後から、鎮守府将軍(北畠顕家)が率いる奥州軍が追いかけております。今、援軍を送って敗走する討伐軍を立て直すより、奥州軍を待って、一気に足利軍を叩くべきかと存じます」
自分の意見を軽くいなされ、忠顕はむっとしてにらみ返す。
「河内守(正成)、それでは、京に逃げ帰る討伐軍を追って、足利軍も京に入ってくるではないか」
「それもやむを得ないかと存じます。いま、敗走する討伐軍からは逃げる兵が続出している状況でしょう。
「せ、
正成の説明に、若い忠顕は激昂する。
「……
威厳を傷つけられた忠顕は、感情のままに罵声を浴びせた。
「これはとんだ御無礼を」
そう言って正成は頭を下げる。思わぬ難癖にも、正成は身分・官位の差から我慢せざるを得なかった。
「その、
突然、足利討伐の責任者、四条
「……麿は思うところあり職を辞しておりました。されど、思いもよらぬ
その語りに一同がざわつく。
「四条中納言様、いったい何を言わんとされておられるのか」
話を折られ、忠顕は
「
「証拠は宮様の北条残党への挙兵と上洛を
独り言のように呟く
「その
そう言って
すると、忠顕が視線を外す。
「そ、それは、その折の状況で……」
「さらにおかしなことがございます。その証拠の
「他の方にも
「されど、当家の
追及に、忠顕の顔が青ざめる。
事情を知る坊門清忠は終始、下を向いて、自分には関係のないことと、素知らぬ態度を通していた。
「四条中納言、もうよいでしょう。さて、
「うっ……」
冬教に退出を命じられた
それは、この場の者たちには突然の出来事に見えた。だが、すでに帝と四条
「河内守(正成)、話が折れてすまなかった。足利討伐の続きを聞こうぞ」
何事もなかったかのように四条
楠木正成は御殿の上の争いに少し戸惑ったものの、背後の事情を察して話を元に戻す。
「では、あらためまして……」
振り出しに戻って丁寧に戦略を説明した。面子や常識にとらわれない、正成らしい奇策であった。
千種忠顕の
「何とたわけた策じゃ。河内守は主上を、この都を、何と心得ておるのか」
しかし、
ちらっと
「麿も河内守(正成)の策は正気の沙汰とは思えぬ。さりながら、その狂気が、元弘の折、鎌倉の幕府を滅ぼしたのじゃ。河内守(正成)の策は、堂々とした合戦を重んじる
「されど、四条様……」
「
食い下がろうとする清忠を無視して、
朝議で決すると、楠木正成は
「殿、お待ちしておりました」
「父上、多聞兄者、お帰りなさい」
「お帰りなさいませ」
早馬で知らせを受けていた久子が、緊張した面持ちで、虎夜刃丸と持王丸を連れて館の外で迎えた。
馬から下りた正成が、口を真一文字にして久子に歩み寄る。
「うむ、すでに聞いておろうが、五郎に続き、明日、後発隊を率いて出陣する。慌ただしくてすまぬな」
舎弟の美木多正氏は、正成と入れ替わるように、すでに先発隊を率いて楠木本城(上赤坂城)を出立していた。
「承知しております。和泉の和田
「そうか」
久子に応じながら、虎夜刃丸と持王丸、そして一緒に戻った多聞丸らとともに館に入った。
広間では
正成は
すると、その時を待っていたかのように、多聞丸が思いつめた様子で正成の前に進み出る。
「父上、お願いの儀があります」
あらたまった息子の態度に、正成は一瞬、小首を傾げ、久子に目をやってから、再び多聞丸を見据える。
「いったい何じゃ」
「明日の出陣、私めも連れて行っていただきとうございます。それがしに初陣をお許しください」
一瞬、驚いた正成だが、すぐに険しい表情を返す。
「駄目じゃ。戦の相手は足利ぞ。生き死にをかけた厳しいものになるであろう。お前が初陣を飾るような戦ではない」
「前から考えておったのです。それがしもこの正月がくれば十四歳。初陣を飾っても、おかしくない歳です」
「駄目じゃ。まだ早い」
父の態度は
母はそれだけ、今度の戦が厳しいものだと理解した。
子どもながら、虎夜刃丸も空気を察する。
「父上、今度の戦は負けるのですか」
幼子ゆえの明け透けな言葉に、正成は困り顔を浮かべる。
「楠木は負ける戦はせぬ。勝てるように策は考えておる。されど、相手は足利じゃ。簡単にはいかぬ」
重苦しい雰囲気の中、久子が顔を上げる。
「勝つ見込みがあるのならば……いえ、勝てないまでも負けぬのであれば、多聞丸を連れて行ってやっていただけませぬか」
「お前まで何を言うのじゃ」
「足利殿との戦は厳しいものとなりましょう。なればこそ、今のうちに殿の戦振りを多聞丸に見せてやりとうございます」
母としての心情は複雑であった。最悪のことも頭をよぎる。しかし……だからこそ、武家の女として、多聞丸に父の戦を見せておかなければと思った。
「母上、ありがとうございます」
多聞丸は申し訳なさそうに頭を下げると、改めて正成に向き直す。
「父上、再度、お願い申し上げます」
正成は難しい顔を崩さず考え込んだ。
すると、持王丸と虎夜刃丸も前に進み出る。
「父上、わしからもお願い申す」
「お願いじゃ。多聞兄者を連れていってくだされ」
頭によぎる
「まずは元服が先じゃ。時はない。すぐにこの場に用意せい」
「あ、ありがとうございます」
多聞丸は、ほっと胸を撫で下ろし、頭を下げた。
虎夜刃丸は持王丸と手を取り合って、自分のことのように喜ぶ。
そして久子も、不安を心の奥に隠し、ひたすら笑顔を
恩地満一ら家臣たちと、
虎夜刃丸は、久子と持王丸、家臣の満一らと一緒に、多聞丸の儀式を見守った。
菊水の紋が染め抜かれた濃い
満一の父で
「それがしが
突然のことで、名のある人物はおろか、楠木
「いや、左近。幼き頃よりわしを見守ってくれたそなたに
「若様……」
思いやりのある多聞丸の言葉に、老いた左近は、その乾いた目を
正成が、
「多聞丸、今日からそなたは楠木太郎
「
多聞丸改め太郎
久子は目頭を押さえる。
「太郎、おめでとう。立派な姿です」
「多聞兄者、おめでとう」
「いや、今から太郎兄者じゃ。おめでとうございます」
虎夜刃丸と持王丸も、その顔に笑みを
「皆、ありがとう。初陣で
決意を口にする息子に、父は厳しい顔を向ける。
「お前は
正成は、
先発隊を率いて出陣した美木多正氏が宇治に到着した。
迎えるは、末弟の楠木
「五郎兄者(正氏)、待ちかねたぞ。三郎兄者(正成)より、ここに大急ぎで砦を築くように命ぜられた」
「こんなところに砦じゃと。まったく兄者の考えることは……」
「まったくじゃ。三郎兄者の頭の中はどうなっておるのであろうのう」
「ふふ」
「ははは」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
翌日、楠木正成が率いる楠木の後発隊が、楠木本城(上赤坂城)から出立した。従うは嫡男の
龍泉寺城の館の前には、手を振って楠木軍を見送る虎夜刃丸の姿があった。母の久子、兄の持王丸、
隣に立つ持王丸に、虎夜刃丸が不安げな表情を向ける。
「持王兄者、父上は勝てるのであろうか」
「もちろんじゃ。父上が負けるわけがなかろう」
そう言って、虎夜刃丸の肩を軽く叩いた。能天気な素振りは、幼い弟を気遣ってのことであった。
足利軍に対する京の守りは、東の
正成は、足利軍が守備の堅い京の東を避けて、南から
朝廷方に緊張が走る中、足利軍に追われた討伐軍が名和長年が陣を張る
新田義貞は、ここで一息ついて軍の体制を整えた。そして、
建武三年(一三三六年)正月一日、冬雲に覆われた灰色の宇治に足利軍が現れる。足利尊氏は宇治でいったん兵馬を休め、宇治橋を渡って京に入ろうとしていた。
しかし、到着した尊氏は、馬上で息を呑む。
「な、何じゃ、これは……」
南岸は、見る影もない焼け野原。宇治の象徴である平等院も焼け落ち、わずかに
馬を並べる足利
「これでは、寝所はおろか、兵糧や武具も調達できぬぞ」
「われらをここに留め置かないようにするためであろう。こんなことを
尊氏は
自ら馬を駆って
「
「そうか……やはり、楠木が守るところに出くわしたか」
尊氏は楠木との戦いを避けたいと思っていた。それは楠木軍が手強いだけでなく、正成と敵対したくないからである。
「兄者、考えている暇はなかろう。相手が誰であろうが、邪魔立てする奴は討つだけじゃ」
宇治川南岸を焼野にしたのは、足利軍をここに留めないようにするための正成の策である。ただ、それは予想だにしない広がりをみせてしまう。火は折からの風にあおられて平等院にまで類焼し、鳳凰堂のみ残して燃え落ちたのであった。
北風が小休止すると同時に戦が始まる。先に仕掛けたのは足利軍であった。
「皆の者、川の中を進め」
と、
「何をしておる。我が
あまりの迫力に、兵馬がいっせいに川を渡りはじめた。
「うわ」
川中を先駆けした騎馬兵が、馬ごともんどり打つ。続く兵馬も次々によろけ、川中で足利軍が立ち往生した。
「どうした、いったい何が起こっておる」
南岸から、この様子を見ていた足利
「申し上げます。川中には綱が張ってあり、兵馬のゆく手を阻んでおります」
先発した兵が戻って、足利尊氏と
これに対し、足利の兵たちは馬を降りて、宇治川をそろり渡りはじめる。そして、何とか宇治川の北岸にたどり着くと、楠木の砦に攻め掛かった。
その砦は、宇治川沿いの少し高くなった丘の上に造られていた。河内で作ってから運び入れた
足利の兵は、宇治川を渡った者から順次、この砦に向けて矢を射かける。しかし、急ごしらえの塀は存外に堅牢で、付け入る隙はなかった。
砦の中からは、楠木正成、
「相手は少数じゃ。よく狙えよ。よし、今じゃ」
「父上、敵が川下から宇治川を渡っております」
その声に正氏が進み出る。
「よし、わしが行こう。そんなことではここを突破できぬという事を、思い知らせてやる」
そう言うと正氏は馬を駆り、兵を率いて川下に走った。
やっとの思いで川を渡った足利の兵たちであったが、正氏が率いる楠木の兵に切り込まれ、川中に押し戻された。
再び吹き始めた北風を頬に受けながら、しばらく両軍の戦いを見守っていた足利尊氏は、舎弟の足利
「楠木正成、やはり簡単には通してくれぬか。
尊氏は
「兄者、いかがするつもりじゃ」
その場を離れる
「楠木に睨みを利かせるために
「なぜじゃ。兵の数は圧倒的に我らが勝る。千早と違い、落とせない砦でもあるまい」
「いや、ここでもたもたしておれば、楠木軍とともに、上洛してくる奥州軍をも相手にせねばならなくなる」
「なるほど……」
「それに、戦の出口も探らねばならん。このまま楠木と北畠(奥州軍)を相手にここで戦えば、我らは
尊氏は、いまだ朝敵になる事を恐れていた。
翌朝、楠木
一月の風は冷たい。
しばらくして足利軍が動いた。
「敵が西へ移動しております」
大声で
正成は宇治川の対岸に目を向ける。
「うむ、やはり、そうきたか」
「奥州軍の到着まで、この砦を攻め続けてくれることを期待しましたが、さすがは足利尊氏でございますな」
楠木
すぐさま、正成は恩地満一を呼び寄せる。
「足利の狙いは新田じゃ。義貞殿に知らせよ」
「承知つかまつりました」
満一は足利軍よりも早く、新田の陣まで馬を走らせた。
正月九日、男山の北、
一方、淀川を挟んで北の山崎に布陣した舎弟の脇屋義助は、西から進軍してきた細川
これに加勢するのが、朝廷に不満を持って播磨国
一方、
正月十一日、新田の防衛線を破った足利尊氏が京に入る。朝廷方の諸将は多少
足利軍は悠々と
「新田の屋敷を焼き払え」
「手向かう者は容赦をするな」
尊氏は、加茂の河原近くに陣を敷く。
「ここで、
「あとは兄者(足利尊氏)が和睦の条件として、征夷大将軍を要求するだけじゃ。これで幕府が開ける。我らの願いがやっと叶った」
感慨深げに
尊氏らは、京さえ押さえれば、帝は必ず和を乞うてくると信じて疑わなかった。
朝廷側の主だった武将は、兵を率いて
「武蔵守殿(尊氏)にお伝えあれ。もはや勝敗は決し申した。それがしは降参し、足利殿の軍門に下る所存にござる。どうか、足利殿に御取り次ぎを」
郎党を連れた
降参の申し出は、陣中の尊氏・
「そうか、結城殿が参じてくれたか。これで我が意を
尊氏は、帝のお気に入りである三木一草、
しかし、
「兄者、待たれよ。帝に親しい結城が、真っ先に我らの元に参じるというのは少々
寛大でお人好しの尊氏に対し、
未だ、兜に
顔をよく知る貞載は、表情をやわらげて
「結城殿、よくぞ、足利殿の元に参じられた」
「尊氏殿は……」
「いろいろと忙しいようで、御舎弟殿より、それがしが応対を仰せつかった」
「来られぬのか……」
直接、尊氏に会えないことが、如何にも残念といった顔であった。
「
そう言って貞載は笑みを
「……戦も終わった。さ、兜をお脱ぎあれ」
貞載が近付いて手を差し伸べた時であった。
「朝敵め。大友の裏切り、許すまじ」
―― ざぐっ ――
「う、うぅ……」
貞載は首を切られ、その場にひざを付いた。
それを合図に、
「何事か」
騒ぎを聞き付け、尊氏・
しかし、尊氏の声に反応したのか、突っ伏していた
「……朝敵尊氏と刺し違えられなかったのが……一生の不覚じゃ」
そう言うと、睨み付けたまま絶命した。
今更ながら尊氏は、自身が朝敵として扱われていることに、呆然自失に立ちすくんだ。
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