第10話 君臣和睦
建武三年(一三三六年)の正月。この日は、金剛山から赤坂に向かって吹き降ろす風に、時折、小雪が混じっていた。ごうごうと音を立てるその風は、知らず知らずに、みなの心に不安を駆りたてていく。
「母上……父上は勝ったのであろうか」
年が明けて虎夜刃丸は数えの七歳。風の音に耐えきれず、つい、不安が口をついた。
「きっと、大丈夫ですよ」
心配する末っ子に、久子が繕い物をしながら応じた。
一見、普段と変わらぬ母だが、今日は何度も誤って針を指に刺し、痛いと言っては繕いの手が止まっていた。
いまだ、京の様子は赤坂へは伝わっていない。正成のみならず、初陣へと送り出した
そこにばたばたと、次兄の持王丸が、
「京からの早馬じゃ。足利尊氏が新田義貞殿を破って京に入ったと」
「え、父上は……」
驚いて虎夜刃丸が立ち上がった。
心配する弟に、持王丸がゆっくりと頷く。
「御無事じゃ。
その言葉に、隣の母とともに、ほっと息を
しかし、戦の結果がよくわからない。
「では、父上は負けたのか」
息を呑む虎夜刃丸に、今度は左近が首を横に振る。
「殿の戦はこれからにございます」
「これから……」
幼い虎夜刃丸には、まだ、その意味はわからなかった。
正月も十一日、京を占領した足利尊氏は、
まず、しびれを切らせたのは、舎弟の
「朝廷は、我らが頭を下げて
白い息を吐きながら、ぴりぴりと気を散らした。
「それでことが収まるのなら、それでもよいではないか。何れにせよ、
この期に及んで帝を立てる尊氏に、
「兄者、弁明は後じゃ。我らが先に頭を下げては、征夷大将軍は叶わぬ。是が非でも、朝廷が頭を下げて、我らの元に勅使を送ってくるようにせねば」
「大変じゃ、兄者。
「誰も
「それが、下働きの者を捕まえて問いただしたところ、帝は
「何、我らは、
尊氏は天を見上げた。これでは、この戦を足利と新田の私戦として朝廷に認めさせることは不可能であった。
さらに尊氏は、次なる試練に見舞われる。
これに、執事の
「
「どういうことじゃ」
「
楠木と聞いて、尊氏ははっと気がつく。
「しまった。宇治を焼き払ったのも、そういう事か」
「どういうことにございますか」
「正成は、我らが入洛するのを前提に策を立てておったのじゃ。まずは、宇治で我らの兵糧調達を阻止しておき、
「は、はあ……」
「さらに
「な、なるほど」
話を聞いて
正月十四日、足利尊氏が京を占領してから三日後のことである。ついに、北畠
近江には、奥州軍に抗ずるためにと、足利軍から分かれた佐々木
しかし、顕家は
近江で奥州軍を迎え撃つはずであった佐々木道誉は、結局、自軍を動かすことはなく、ただこれを見送るのみであった。
春先の
「
馬から下りる北畠親子に、正成が深く頭を下げた。
奥州統治は、父、親房の深謀遠慮な計略の上に、若い顕家の行動力が成しえたものであった。
「楠木か。今はどのような状況か」
その隣では、長征の疲れを溜め込んだ親房が、生気なき目を正成に向ける。
「そうか、
学者でもある親房は、
「足利尊氏に入洛を赦してしまいましたが、これも策のうち。
朝廷の
だが、その顕家は、正成に向けて大きく頷く。
「よし、
息子は父より、よほど柔軟であった。
その日から楠木正成は、北畠顕家、新田義貞、名和長年らの諸将と、
しかし足利尊氏は、兵糧も底を尽きかけている不利な状況にもかかわらず、宮方の軍勢を押し戻す。足利軍は、新田義貞の
対する楠木軍は、
足利と戦った楠木
「ううむ、
「ならば、あれを使おう」
何かをひらめいた正成は、美木多正氏も呼び寄せて、弟たちに策を授けた。
再び、歩兵を率いて
「父上、大丈夫でございましょうか」
「太郎、まあ、見ているがよい」
そう言って、正成は隣で心配する嫡男、楠木
二人の弟が指揮する歩兵は、手に手に身の丈を越えるほどの大きな楯を持っていた。
その兵たちに向けて、正氏が怒声を張る。
「足利の騎馬がくるぞ。盾を持った兵を前に押し出せ」
「よし、盾を繋げるのじゃ」
続く
「よし、敵の騎馬に。矢を放て」
正氏のかけ声で、後ろの兵に肩車をされた二列目の兵が、足利の騎馬武者を目掛けて散々に矢を射かけた。
東国の騎馬武者たちは、突如出現した城壁に驚き、
楠木正成に触発されたのか、新田義貞も奇策を持って足利に立ち向かった。
新田の兵たちは少数に分かれて足利軍に潜入する。そして、大将の尊氏に近づくと、頃合いを見計って新田の
すると、足利方は大混乱に
朝廷方が足利相手に攻勢をかける中、楠木正成は新田義貞や北畠顕家ら宮方の諸将に使いを送った。
奥州軍の陣には、伝言を託された恩地満一が入る。
「申し上げます。我が主、河内守(正成)からの
これに、北畠顕家も頷く。
「まさにそうじゃ。では、河内守(正成)はどうせよという」
「ここは、いったん兵を
「策とはどのようなものか」
若く好奇心旺盛の顕家は、満一の話を身を乗り出して聞いた。
顕家のみならず、新田義貞や名和長年なども、正成の策に同意し、その日のうちに
二月初め、梅の花が舞う楠木館に、
「
館の
すると、奥からは虎夜刃丸が飛び出してくる。
「父上は勝ったのか」
「そうですよ、虎夜刃丸殿。勝ったのですよ」
晶子のうれしそうな表情に、虎夜刃丸は飛び上がって喜んだ。
虎夜刃丸が、晶子と元成らを広間に連れて行く間に、久子、持王丸、恩地左近らがぞくぞくと集まる。
「皆、御無事でしょうか」
「兄上も太郎殿も、満一殿も、みんな無事です」
答える晶子の笑顔に、久子の不安げな表情が和らいだ。
一同が安堵したところで、左近が元成にひざを詰める。
「それで、戦はどのように勝ったのでござるか」
「はい、楠木軍への繋ぎとして同行させた一座の者の話では、
息継ぎもせず、元成が続ける。
「……そして、
「父上(楠木正成)は、赤坂城の時と同じように、死んだと見せかけたのか」
なるほどと持王丸は腕を組んで感心した。
しかし、虎夜刃丸には、それがどんな意味を持っているのか、まだ理解できていない。息を呑んで話の続きを待った。
「比叡山に陣を動かした
「兵が東に逃げて行くように見せかけたのですね」
「その通りです、
軍勢を指揮して追討に向かったのは足利
虎夜刃丸が待ち切れずに身を乗り出す。
「それで、どうなったの」
「はい、足利の大軍が釣られて
「それで、賊軍は負けたということですね」
安堵の表情で久子が問い返した。
「はい、
得意満面の元成に、感心した左近が大きく頷く。
「なるほど、死んだはずの殿が生きていたとなれば、足利方に動揺が走るということですな。それで、足利方は」
「叡山を東に向かった足利の軍勢も、騙されたとわかって慌てて引き返してきましたが、時すでに遅し。足利の本軍からは敗走する兵が出はじめ、最後は丹波口から逃げていきました」
勝ち戦に、久子と侍女の
一同が浮かれる中、虎夜刃丸には気掛かりがあった。
「それで、尊氏殿は……」
恐る恐る元成にたずねた。皆が逆賊と呼ぶ尊氏のことを密かに気に掛けていた。
「それが、残念ながら取り逃がしました」
「生きているのか。
吐き捨てるように、持王丸が口にした。
しかし、虎夜刃丸は小さく安堵する。が、幼いながらもその場の空気を察し、心のうちを皆に悟られないようにした。
足利の残党狩りを行う楠木軍は、いまだ一乗寺の陣を解いていなかった。
本陣とした
「父上の策が、次々に的を射て、怖いくらいです」
「太郎(
「
「世の動きをよく
「それがしにもできますでしょうか」
「それはわからん。世情を集めることはできても、それを読み解くには力が必要じゃ。その力は持って生まれた才と日々の心掛けが半々じゃ」
父の言葉に、
「もし、それがしに、その才がなければ……」
「読み解く力がなくば、才ある者、何事にも目ざとい者を探し、手元に置くことじゃ。じゃが、信頼足りうる者でなければならん」
「信頼できて目ざとい者……」
なぜか
京を追われた足利尊氏は、
飾り気のない板間で、舎弟の足利
「すまなかった。兄者に
「今更、お前を責めても元に戻るわけではない。
尊氏も楠木正成同様に
「
「京には向かわぬ。兵庫に出て円心入道(赤松円心)と合流しよう。そこで我が軍を立て直す。入道殿に使いを送ろう」
この後、尊氏はこの地の
足利尊氏が敗走したことで、帝(後醍醐天皇)は比叡山を下り、
しかし、顕家に伴って奥州から勝手に京に舞い戻った
「そなたたちの活躍で、逆賊を京から追い払うことができた。あっぱれであった」
「ははっ、お誉めの言葉を
縁側からは、官位の高い新田義貞が代表して応じた。
「ほほほ、
これに、
「まずは兵たちも疲れておることであろう。休ませてやるがよい」
「
上機嫌な清忠は、今度は口を隠さずに笑った。
「恐れながらが申し上げます。兵を休ませたいはやまやまなれど、今は休息をとっているときにあらず。足利を討伐するのであれば、今を持って他にはありませぬ。尊氏に味方する者は多く、放っておけば直に軍勢を立て直すことでしょう」
「ふっ、やはり、武士は戦が好きよのう」
せっかくの労いの言葉を無視された
しかし、
武士だけではない。顕家が冷たい視線を投げてから、床に手を突く。
「申し上げます。麿は河内守(正成)の申し出は的を射ておると思うております。軍勢に余力があれば、ただちに追討すべきと存じます。ただ、我が奥州軍に限っては、休む間もなく奥州から馳せ参じ、馬も兵も、束の間の休養が必要でございます」
顕家の奏上を聞いた義貞も両手をつく。
「我が軍勢も、
「されど……」
主力を率いる二人に、正成が説得を試みようと口を開いた。
しかし、四条
「河内守の申すことは最もなことじゃ。されど、
縁側に座る一同は、
足利尊氏は摂津国兵庫にて、播磨国
尊氏は、舎弟の足利
「入道殿(円心)、よう来てくだされた」
「足利殿、戦は時の運もございますれば、決して気を落とす事なく、ここで再起を御図りくだされ」
円心は利害で動いていた。たとえ自らが
しかしこれには、
「入道殿、かたじけない。されど、新田義貞との私戦になるはずであったこの戦は、この足利が朝敵として覆せないありさまとなってしもうた」
「将が弱気になっては勝てるものも勝てませぬぞ。されど、確かに、足利殿が朝敵となれば、御味方する諸将に戸惑いが生じましょう。ならば、足利殿も朝廷の
その申し出に、尊氏は一瞬思考が固まる。
「朝廷の
「
「なるほど……入道殿、よいことをお教えいただいた。確かに妙案じゃ。なあ兄者(尊氏)」
円心の申し出に、舎弟の
しかし、朝敵とされた当の尊氏は戸惑いの表情を浮かべていた。尊氏にとっての帝とは、やはり
そんな尊氏の心情に
「兄者、今は目の前の窮地を脱する手立てを講じる時じゃ。兄者は、家臣や与力として馳せ参じてくれた多くの者の
「ううむ……そうじゃな。入道殿、その通りに致そう。
さすがに
尊氏は、
「さて、今後にございますが、いったん我が白旗城へ引いて、
「いや、円心殿。今、わしが
今度は打って変わり、尊氏は自信あり気に一同を見渡した。
すると、待ってましたとばかりに、執事の
「続々と山陽道の諸将が我らの元に進軍しております。それに、
尊氏の強気の策を補完するように援軍の状況を説明した。特に海からの戦略を図れる船団の加勢は頼もしかった。
二月十日、二万の軍勢に立て直した足利尊氏は、兵庫を出立して京への進軍を開始する。舎弟、足利
早くも桜の花弁がぽつぽつと開く街道に、突如、季節外れの菊の花、菊水の旗が
「く、楠木じゃ」
突如として目に前に現れたのは楠木軍三千騎であった。京で散々に楠木正成の計略に
楠木の兵は足利の先陣目掛けて、いっせいに矢を放ち、
「なぜここに楠木が……
声を張り上げた
一方、足利
手の甲で冷や汗を
「足利は我らに何かあると
「このまま、足利が力づくで押してくれば、危ないところであった」
正成もほっと胸をなで
「これも、父上の頭の中では、想定の内でございましたか」
質問を投げ掛ける
「こうなる事を描いて動いておるが、最後は賭けじゃ。何事も理屈通りにはならんものじゃからな」
「では父上、この後はいかに」
「うむ、
そう言って正成が険しい表情で足利軍に目をやる。
その顔に、
翌日、いらだちを募らせる足利の陣中である。
「
「楠木正成はこれを待っていたのか……やはり、やりにくい相手よ。
足利本軍は
「押せ、押すのじゃ」
尊氏は目の前の戦を指揮しながらも、正成のことを気にしていた。
「南に気を付けるのじゃ。楠木の動きを見張れ」
楠木軍に注意を払うよう伝令に命じて諸将の元に送り出した。
その直後、思わぬところから、うおぉと奇声が上がった。
「お、
呆然として
南から攻め上って来るはずの楠木軍が、回り込んで北から襲い掛かってきたのである。
戦況を変えたのはまたもや正成であった。がら空きの背面を突かれた足利軍二万は後ろから崩れ、正面から猛攻をかける新田軍、奥州軍の攻撃に耐えきれなくなる。互角で戦っていた足利軍から離脱する諸将が出てくると、もはや尊氏に勝ち目はなかった。
「く、これまでか……」
尊氏はがっくりと肩を落とす。ついに、足利軍の敗走が始まった。
勝った宮方であったが、楠木正成は焦っていた。追撃する気配を見せない新田義貞に業を煮やし、恩地満一を連れて自ら新田の陣に馬を乗り付ける。
「
「河内守殿(正成)、貴殿が言わんとされていることは承知しておる。じゃが、こうして兵庫に出陣したのも、我らとしてはぎりぎりのこと。箱根・
「されど、ここで足利尊氏を取り逃がすことは、野に虎を放つようなもの」
馬を降りて食い下がる正成に、義貞は首を横に振る。
「我らが追っても、足利軍が西に逃げれば、際限なく我らは追い続けなければならん。兵は休むことができぬのじゃ。されど、我らとて無策ではござらん。西に向けて敗走する賊軍を迎え撃つよう、すでに
「足利が陸路を西に敗走されるとお思いか。大内や大友がおるのじゃ。きっと、播磨国あたりで船に乗って西国へ下ることでしょう。今、我らの追撃は何れにせよ、そこまでなのですぞ」
拳に力を入れて正成が詰め寄った。
すると義貞は、はたと気が付いたように一瞬、目を見開いたものの、すぐに平常心を取り戻す。
「播磨国で船に乗るかも知れぬが、違うかも知れぬ。世の中、理屈通りには動かぬものじゃ。海路、西国に向かうのであれば、
義貞は、これ以上は正成と言い争う素振りを見せなかった。
新田軍が追撃しなければ、小軍の楠木だけで追うことは不可能である。正成は諦めざるを得なかった。
足利尊氏は、
執事の
「またしても、楠木正成に……」
「兄者、ここは入道殿(赤松円心)が申されるよう、播磨の白旗城に籠り、九州、山陽道から参じる諸将を待ってはどうじゃ」
舎弟、足利
「播磨の城では、このまま朝廷の大軍が進軍して取り囲むであろう」
尊氏は、正成の意見と同様に、宮方が時を置かずに西に進軍するであろうと読んでいた。千早城の
腕組みをして唸る尊氏の様子に、船を降りて、陸路で足利軍に従っていた大内長弘が進み出る。
「どうせなら、九州の
「なるほど……うむ、まだ、持明院の君の
尊氏は、光厳上皇の後ろ楯が得られるまでは慎重であった。
長弘の言葉に赤松円心も大きく頷く。
「ちょうど大内殿、
「白旗城に……よし、必ず九州の地で軍勢を立て直し、
苦戦を承知で、白旗城に籠るという円心の言葉は頼もしかった。
そんな円心に、尊氏が歩み寄って膝を付く。
「円心殿、厳しい戦となろうが、それまで持ちこたえてくだされ」
そう言って円心の手をしっかりと握った。
足利尊氏を追い落とした楠木正成は、嫡男の
一方、美木多正氏は、南河内や和泉の諸将を率いて、河内の楠木本城(上赤坂城)に戻る。早馬で正氏らの帰還を知った城では、女こどもたちが握り飯と水を用意して、総出で兵たちを迎えた。
馬を降りた正氏を、妻の
「
「父上(正氏)、おめでとうございます」
「おお、お前たちにも心配をかけたな。敵を追い払ってやったぞ」
土ぼこりでくすんだ顔に笑みを
虎夜刃丸も久子らと一緒に、握り飯を載せた盆を持って出迎えていた。
「
「五郎殿(正氏)、大勝利、おめでとうございました」
「叔父上、おめでとうございます」
「うむ、勝ったぞ」
そう言って、正氏は虎夜刃丸の頭をぐしゃっと掴むように撫でた。
難敵足利を駆逐したことは、皆を満面の笑みにさせた。父と兄も無事と聞いて笑顔する虎夜刃丸だが、内心、尊氏の命が救われたことにも、小さな胸をなでおろしていた。
「おお、これは若様、かたじけのうござる」
見知った兵は、顔をくしゃくしゃにしながら、虎夜刃丸が手に持つ盆から、握り飯を取ってうまそうに頬張った。
河内
「皆、御苦労であった。兄、正成に成り代わり礼を申す」
上座に座った正氏が頭を低くすると、諸将もいっせいに頭を下げた。
義兄の和田
「勝ったとはいえ、足利尊氏を取り逃がしたことは痛恨の極み」
「うむ、まったく……じゃが、さすがは足利。新田だけでは危なかった」
その強さに、正氏は舌を巻いた。
一門の橋本
「もし、尊氏が西国で軍勢を立て直し、奥州軍が
「うむ、それだけに、今のうちに追討軍を送らねばならんのじゃが……」
「されど、三郎殿(正成)の説得にも応じず、新田は京へ引き返してしもうた。新田は本当に頼りになるのであろうか」
心配する正氏の後に続けて、
柱の陰から、虎夜刃丸が大人たちの様子を
「足利め」
その隣では、持王丸が憎しみを膨らませていた。
二月十四日、足利勢は、播磨国
「あれは何だ、船がこちらに近づいてくるぞ」
足利一門の細川
「あれは御味方じゃ。船を止めよ」
執事の弟、
「いや、待て。もしや楠木の計略ではあるまいか」
「御舎弟殿(
慎重な意見の
「忘れたのか。我らは楠木に散々に騙され、痛い目に会うてきておるのじゃぞ。用心に越したことはないではないか」
「そ、そうでござるな」
顕氏らは慌てて
別の船に乗っていた足利尊氏も、自分たちに近付いてくる軍船に気づいていた。執事の
「船の上で
潮風香る
小松寺は平清盛の嫡男で、小松殿と呼ばれた平重盛が
光厳上皇の
「源(新田)義貞に
これに尊氏は
「ははっ。この尊氏、君命に従い賊を討伐する所存にございます」
後ろ姿が見えなくなると、
「兄者、これで我らも宮方じゃ」
「
しかし、喜ぶ二人とは反対に、尊氏は複雑な表情を見せた。
「兄者、いかがした」
「うむ、朝敵の汚名を晴らせたことには安堵はしたが……」
「
見透かしたように言う
「相変わらずじゃな。兄者は」
その頃、京の
祝盃に先立ち、帝(後醍醐天皇)は新田義貞を手元に呼び寄せる。
「義貞こそ武家において第一の功をあげし者じゃ。これをそちに
「はは、ありがたき幸せに存じます。尊氏めを追い払うことができたのも、
殊勝な義貞に、帝は口元を少し緩め、満足そうに頷いた。
酒宴の席になると、坊門清忠が
「武家の功第一が新田ならば、公家の功第一は北畠様(顕家)でござりましょう」
隠岐派の
そしてもう一人、冷めた面持ちで末席に控えていたのが楠木正成である。嬉しそうに公家どもと酒を酌み交わす義貞を
(尊氏は必ず兵を立て直し、大軍を
そう、心の中で自問していた。
「酒が進んでおらんようじゃの」
後ろから声をかけてきたのは北畠親房であった。
嫡男、顕家とともに奥州から京に戻ったが、
居住まいを正した正成が、前に座った親房の盃に酒を注ぐ。
「これは北畠大納言様、
息子の顕家は、京から足利尊氏を追い払った
「奥州はちと遠すぎてな。
親房の嫌味に目くじらを立てる正成ではない。しかし、足利尊氏と異なり大軍を動員できない自らの毛並みに、一理あるとも考える。
「北畠様、尊氏をどうみられますか」
「ん、いったい何が聞きたい」
問いかけに、親房は正成の顔を真っすぐ見据えた。
「我らは足利尊氏を西国に追い払いました。されど、その逃げる尊氏に従う武士は
すると、聡い親房がにやりと口元を緩める。
「武士には武士の棟梁が必要と思うておるのか。確かに源頼朝は武士をよく
そう言って親房が正成の盃に酒を注いだ。恐縮して一礼した正成が、これを一気に飲み干す。
「されど、乱世に武家の力は必要ではありませぬか」
正成が酒を注ぎ返すと、親房も一気に酒を飲みほす。
「古代
親房の話を、正成は黙って聞く。
「……地方で大規模な乱が起こった時、軍団を持たない朝廷は、武力を持った地方の豪族の力を借りた。そして、朝廷から乞われて力を持つようになった
「はっ」
「古代の我が国のように、今も朝廷が直接に軍団を抱えたままであれば、この世はどうなっておったであろうか」
言わんとすることは理解できた。しかし正成は、それは現状を無視した親房らしい学者の理想だと思った。
「足利尊氏は鎌倉の御家人たちにとっては希望であろうが、御親政にとっては邪魔な存在よ。
そう言って席を立つ親房に、正成は無言で会釈を返した。
数日後、楠木正成と嫡男の
久子と持王丸の挨拶に続き、虎夜刃丸も床に両手を付く。
「父上、兄上、御味方の大勝利、おめでとうございます」
「うむ、殊勝な挨拶ができるようになったのじゃな。虎夜刃丸も息災で何よりじゃ」
「虎夜刃丸、少し見ぬうちに立派になったな」
二人は、虎夜刃丸のしっかりとした態度に目を細めた。
その夜、楠木館では皆を集めて酒宴が催された。
宴の後、正成は縁に出て腰を下ろし、冷たい夜風にあたって酔いを覚ました。
はらはらと散りゆく花弁に目を留める正成に、虎夜刃丸が背中から歩み寄る。
「父上、いつまで館におれますか」
「五日後に京へ戻らねばならん。足利尊氏の動向も気になるからな」
尊氏の名に、虎夜刃丸は顔を曇らせて隣に座る。
「五郎叔父(正氏)は、また尊氏殿と戦になると言うておった。どうしても戦わねばならぬのですか」
「そうか、そんな話をしておったか。虎夜刃丸は足利尊氏とは戦いたくないか」
「
愛息の純真な答えは、正成にとって辛いものであった。
「わしとて尊氏殿と戦いたくない。されど、尊氏殿は幕府を開き、武士の世を目指しておる。これを放置するわけにもいかぬ」
「父上、我らも武士ではありませぬか。なぜ武士同士で戦うのじゃ。帝の元で、皆、仲よくすればよいではありませぬか」
その言い分に、正成は苦笑する。それは正成自身も自問自答していることであった。
「皆、仲よく……
「くんしんわぼく……」
「うむ、
決意を固めた正成は、まっすぐ自分の顔を見つめる虎夜刃丸に、ゆっくりと頷いてみせた。
二月二十九日、朝廷は凶事を断ち切るため、元号を
「四条様(
「いかにも。いつまでも
「恐れながら申し上げます。足利尊氏は近いうちに、必ずや大軍を
申し出に、坊門清忠が顔をしかめる。
「河内守(正成)は心配性じゃのう。そうかも知れぬというだけで物事を決めておっては、兵の数などいくらあっても足りぬではないか。北畠卿(顕家)の帰任はすでに決まったことじゃ」
だが、公卿らの返答は折り込み済みである。正成は、虎夜刃丸の顔を思い浮かべると、息を飲み込み、本題に入る。
「では、足利と戦わずともよい道を御探りいただけぬかと存じます」
「どういうことじゃ」
不思議そうな顔で
「
「何、尊氏と和睦せよとな。
武士にも理解のある
「それがしは、京、そして
勝ち戦の余韻を引きずる公卿たちが苦笑いするなか、
「河内守、今更、和睦などできようはずもない。いったい、どうやって和睦を成すのじゃ。それは朝廷が尊氏に
「いえ、朝廷が
その提案に一同は息を呑んだ。
目を見開いた
「そ、それは新田中将(義貞)を切り捨てよという事か」
「
これに、
「新田中将に何の罪があるというのか」
「元より新田殿に罪などあろうはずもございませぬ。されど、足利尊氏と和睦するためには、義貞殿に人柱になっていただくしか、他に方法はございませぬ。最悪、
正成は冷静かつ冷徹であった。
「そ、そのようなこと……義貞一人に罪を被せて、
「一人ではございませぬ。足利と刃を交えしそれがしも、嫡男に家督を譲り、朝廷の職を辞して謹慎致します。それがしと義貞殿が引くことで、この騒乱が治まるのなら安いものでございます。九州に
その覚悟に
「そちの覚悟はよく判った。麿から
「……されど、伝えるだけじゃ。そちの申し出は、この戦を任された
「されど、勝てる見込みも立ちませぬ」
「いいや、ここで新田中将を裏切ることは、新田の者だけにあらず、多くの者を裏切ることになる。それはひいては
ここに
三月二日、朝廷で
「
「圧倒的な差があるのう。楠木正成の気持ちがわかるようじゃ」
「
「ここで負ければ腹を切るだけじゃ。勝つか負けるかは天命。天がこの先、わしを必要とするならば、この戦、勝たせてくれるであろう」
戦における尊氏は、いつも生に対する執着心が希薄だった。
先陣同士の矢合わせで、合戦が始まる。
戦況を注視していた
「
時が経つにつれて足利軍の敗戦は濃厚となっていった。
「もはやこれまでか……」
一人尊氏は、腹を切る事を覚悟した。
そこに郎党が駆け寄る。
「
「何、
「はっ、
郎党が涙を
「形見のつもりか」
その片袖を、尊氏はぎゅっと
その時である。足利方は、その背後から宮方に向けて吹き起った突風に包み込まれた。春の風向は変わりやすい。薄目を開けた尊氏が風下の菊池勢に目を向けると、敵兵たちが正面からの風を受けて目を開けられない状況に
「天は我を見捨てておらなんだ。今じゃ。全軍で菊池を突け」
尊氏自ら馬に乗って先陣を駆った。
足利軍の一点に
山も野も新緑に置き換わった三月三十日、帝(後醍醐天皇)から足利討伐を命ぜられていた
すでに
しかし、自らの名代として、すでに
播磨に入った義貞の元に、その
「申し上げます。我ら先陣はいまだ白旗城を落とすことが
先陣を率いた
「そうか、白旗城はそんなにも手強いか」
「兄者、白旗城は
舎弟の
「いや、元はといえば、わしが命じた事。二人に任せて我らだけで進軍するのは薄情というもの。本軍で白旗城を一気に攻め落としてから西国に向かおう。重広、全軍に触れて参れ」
「はっ、承知つかまつった」
重臣の篠塚重広は頷き、後方へと消えていった。
義貞には、白旗城の円心を討伐しなければならない理由があった。
新田本軍が白旗城を囲むと、すぐに円心は次男の赤松
その貞範が平身低頭で訴える。
「我ら赤松党がこうして抗うのも、帝に播磨国の守護を召し上げられたため。朝廷が守護に任じてくれるのであれば、我らは抗う意味はなくなります。
貞範の申し出に、義貞は損得併せて考える。頭を下げたとはいえ、円心を赦すことは、今後の播磨経営に懸念を残すことになる。しかし、今は一刻も早く征西に向かわなければならない。義貞は考えた挙げ句、その懸念を先へ送ることとする。
「あいわかった。我が軍門に下ろうという者を討っては、末代までの恥となろう。赤松殿の願いは、この義貞が叶えようぞ」
さっそく義貞は、京の朝廷へ使者を送り、自らが持つ播磨の守護職を、円心に与えることを願い出た。
十日後、帝(後醍醐天皇)から、赤松円心の播磨
「求めに応じて朝廷の
山を登った重広らは、白旗城に入ろうと
しかし、城に通じる門は固く閉ざされ、開く気配はなかった。もう一度、重広が声を張り上げると、門の上に造られた
「
「円心入道殿への播磨
「すでに播磨守護は大将軍より頂戴した。すぐに掌を返すような帝の
豹変した円心の態度に、重広は面食らい、
「大将軍じゃと……」
「足利尊氏殿に決まっておろう。帰って義貞に伝えるがよい。西国に下りたければ、この白旗城を落としてみよと。
その悪態に、重広はぎりっと歯ぎしりをその場に残して新田の本軍に戻った。
仔細を聞いた新田義貞は、思わず立ち上がって怒りをたぎらせる。
「おのれ、円心め。必ずやこの城を攻め落し、その首、討ち取ってくれよう」
青筋を立てた義貞は、舎弟の脇屋義助と篠塚重広に、白旗城への総攻撃を命じた。
一方、白旗城の陣屋の中。赤松円心は次男の貞範から押し寄せる新田軍の様子を
「よし、義貞め。まんまと引っ掛かったな」
一人、円心はほくそ
全て
足利尊氏に軍を立て直す猶予を与えるためには、新田軍に白旗城を素通りされないようにしなければならない。
そうとも知らぬ新田義貞は、白旗城の総攻めに掛かる。だが、城の守りは想像以上に固い。円心は、播磨守護を召し上げられて本国
一日、二日で落とせると思った赤松の城は、堅牢な地形と、十分な水と兵糧で、
仕方なく義貞は、白旗城に釘付けになった新田本軍に代わり、舎弟の脇屋義助に、
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