第11話 湊川の戦い
建武三年(一三三六年)四月、金剛山は目にまぶしい青葉に
楠木本城(上赤坂城)への登り口にある館に、数え七歳の虎夜刃丸、その隣に次兄の持王丸、長兄の
そこに、久子が両手にたくさん、紙のようなものを抱えて現れる。
「御覧あれ。もう自分の名も書けるようになったのですよ」
持ってきたのは、虎夜刃丸が書き貯めた
これを、正成は一枚一枚手に取って、丁寧に目を通す。
「ううむ、虎夜刃丸、なかなか上手いではないか」
左利き特有の癖字であったが、
「武芸はわしが教えておる。近頃は馬にも乗れるようになった」
次兄の持王丸も、自慢げに父に訴えた。
「ほう、馬にも乗れたか。偉いぞ虎夜刃丸。持王丸もご苦労であった。この先も兄として、しっかりと虎夜刃丸の面倒をみるのじゃぞ」
「はい、任せてくだされ」
いつになく父は優しかった。
一方、
「多聞兄者、わしの書はどうじゃ」
「書……ああ、上手じゃぞ。虎夜刃丸」
我に返った
その不自然な態度に、虎夜刃丸は父に目を向ける。
「やっぱり戦となるのか……」
幼子が不用意に、皆が避けていた話題を口にした。
九州では足利尊氏が、菊池
虎夜刃丸の言葉に、久子と持王丸は顔を強張らせる。そして、
しかし、正成だけは、落ちついた表情で向き合う。
「虎夜刃丸は覚えておるか。かつて、わしが下赤坂の城で、そなたらに話したことを」
「……」
首を傾げる虎夜刃丸に代わって、持王丸が口を開く。
「わしは覚えておるぞ」
それは、元弘の折。正成が帝(後醍醐天皇)の求めに応じて挙兵を準備をしていた最初の赤坂城(下赤坂城)での事であった。
「出陣に際して父上は言われた。長い戦いとなっても、河内を必ず元の平穏な野山に戻すと。それと……」
「それと、何ですか」
「それと、万が一、父上が果たせなければ、我らの手で、平穏な野山を取り戻せと」
幼かった虎夜刃丸は話の中身までは覚えていない。しかし、その時の父の
「持王丸、虎夜刃丸。わしはあの時の気持ちと同じじゃ。帝の
訴えるような瞳で、虎夜刃丸が正成を見つめる。
「勝てるよね……」
「うむ、策はある。されど、もし、わしが果たせなかったときには、そなたたちが帝を御護りし、平和な世を取り戻すのじゃ。よいな」
これに、持王丸が戸惑った表情を浮かべる。
「そ、そんな……父上の策が通用しないことなどありましょうや。それに、父上の策で勝てぬなら、我らが勝てようはずはありませぬ」
「戦に勝つ事だけが帝を御護りすることではない。持王丸には持王丸の、虎夜刃丸には虎夜刃丸の策を見つけ、平和な世を取り戻せばよいのじゃ」
父の言葉に、虎夜刃丸と持王丸は神妙な顔で頷く。その隣で
そんな息子たちを、久子は、ただ静かに見守ることしかできなかった。
五月五日、足利尊氏が大船団を率いて
「わしはこの地で持明院の君(
「こちらこそ、我らの求めに応じて出立を早めてもらい助かりましてございます。この大船団を見れば、父もさぞ喜びましょう」
潮風を受けながら、船上で尊氏が語りかけたのは、赤松円心が三男、赤松
新田義貞に包囲された播磨の白旗城は堅牢な城である。だが、それでも日が経つに連れて、赤松党は厳しい状況にさらされた。円心は、尊氏に早期の上洛を
「さて、我らは
「ならば、このまま海路、播磨までお連れください」
その足利
「我らはこれより陸路、東へと向かう。我らは上げ潮ぞ。抗う
「うぉぉ」
威勢を上げた兵たちを率い、
刻一刻と深刻になる西国の状況は、早馬によって朝廷へ報告され、公家たちの顔を青ざめさせた。
この事態に、楠木正成が急遽、
黒雲のような不安に覆われた御殿に、硬い表情の
「
以前、正成の上奏を棄却した
これに、正成が下座からゆっくりと顔を上げる。
「恐れながら、この河内(正成)が兵庫に出向いても勝てませぬ。足利尊氏は九州で菊池殿(武敏)らを破り、西国の武士たちは次々に尊氏の元に参じている
その
「必ず我らが敗れるというのか」
「尋常な戦をしていては、まず勝ち目はございませぬ。唯一、勝つためには、足利が大軍であることを利用するしかありませぬ」
「というと」
「新田中将殿(義貞)を兵庫から呼び戻し、
「うむ、それで」
「まずは足利軍を京に引き入れて、
「前回と同様か」
「
「なるほど……」
「そして、そのときを待って、新田中将殿とそれがしが、名和殿、
すると、
「ううむ、さすがは河内守じゃ」
「まこと、戦のことは武士に任せるべきじゃな」
左大臣の
「ただ、中将殿(新田義貞)は、意地を貫き一戦交える御覚悟でしょう。
正成の話には多くの
しかし、正成主導で話が進むことに顔をしかめる者もいた。参議の
「河内守の申すこと、いちいちもっともな事じゃ。されど、朝敵討伐の官軍が一戦もしないうちに都を捨てるというのは、いかがなものであろう。朝廷の体面を失わせることになるのではなかろうか。何よりも、わずか数か月のうちに二度までも
「されど、戦は勝ってこそでございます」
珍しく、正成が語尾を強めた。
「まさにそこじゃ。武士は戦を単に勝てばよいと思うておる。されど、戦とて
どうじゃと言わんばかりに、清忠は正成に、
「恐れながら、人心の掌握はこれから先、いくらでも機会はございます。正月の戦で足利を追い払うことができたのも、策を
「確かに尊氏めを打ち破ることができた。されど、まことに武士の軍略が優れていたからか。いや、ひとえに
清忠の発言は、結果に自信と責任を持っているようには見えなかった。正成には、ただこの場を自分の発言で仕切ることに陶酔しているだけのように映った。
事実、この場にはいない
しかし、清忠の発言で
とうとう、沈黙を守っていた帝が、
「河内守の献策はよう判った。されど、坊門
「されど……」
「いや、民の暮らしを守ってやることも
帝の勅裁には、さすがに正成も言い返すことはできない。
長い息を無音で吐き終えた正成が、今度は、覚悟を決めて息を吸い込む。
「
異存をぐっと腹の中に収め、一言だけ意気地を貫き、頭を下げた。
曇天は雨を支えきれず、ぽつりぽつりと
四条
上座に腰を下ろした正成が、硬い表情で一同を見回す。
「
その言葉に、舎弟の楠木
一門の
「殿、足利は二万を越える軍勢で押し寄せて来ていると聞きますぞ。兵庫に
「そうじゃ、ここは、再度、奥州軍を待って力を借りましょうぞ」
与力として加わっていた湯浅
ざわつく武将たちを前にして、
「
与力衆の一人、
「正成殿、朝廷は我らのことをどう思うておるのであろう。結局、戦うのは我ら武士。奏上を無視する朝廷に、はたして義理立てする必要がありましょうや」
家臣や一門では言いにくい事を、外様の範高が指摘した。皆、口に出さないまでも、頷く者は多かった。
「一同、殿は……」
しかし、正成が片手で制しながら苦しそうに胸のうちを吐露する。
「皆の気持ちはわかる。このまま兵庫に出陣しても厳しい戦になろう。じゃがわしは、兵庫に出陣する事を決した。名もなき土豪の楠木を、河内・和泉・摂津の太守として扱ってくれた帝に対する恩義がある。それに、何を阿呆なと言われてしまいそうじゃが……」
少しうつむき、苦笑いをみせる。
「……帝には人を引き付ける不思議な力がある。これは接した者でなければわからぬことじゃ。この御方のためであればと、不思議と思えてくる。実は、今攻め来る足利尊氏とて、帝に魅了された一人なのじゃ。されど尊氏は、同じくらい征夷大将軍というものに魅了されておる……」
意外な言葉に、一同は沈黙して耳を傾けた。
「……
これに、すぐさま
「何を仰せです。我ら一門、生きるも死ぬも棟梁と一緒じゃ。何で帰ることができましょうや」
外様の範高も頷く。
「それがしとて、同じじゃ。正成殿が帝に対する私恩があると言うのなら、それがしも正成殿に対する私恩があり申す。我が津田党は最後まで従う所存じゃ」
「それを言うならわしもじゃ」
範高に続き定仏も声を上げた。さらに、他の諸将も、正成と生死をともにする覚悟を訴えた。
「皆……かたじけない……」
正成は思わず声を詰まらせる。そして、続く言葉に代えて深々と頭を下げた。
そんな父の姿に、
戦評定の後、楠木正成は広間に、楠木
雨がいつもより夕暮れを急がせ、徐々に互いの顔が見えにくくなる。満一が
最初に正成が範高に頭を下げる。
「
「頼み……とは」
「津田殿には、兵庫への出陣ではなく、別の形でわしを助けて欲しいのじゃ」
その意味がわからず、範高は
「頼みというのは虎夜刃丸のことじゃ。虎夜刃丸を津田殿の
「何と……急に何を……」
「
「楠木の名……」
「うむ、楠木本家はわしの祖父、
その言葉に、
「兄者の言う通りじゃ。赤坂に万が一のことがあった時のために、楠木の血を受け継ぐ者を、別の地で生かしておく必要がある。わしの子、
「後は虎夜刃丸じゃ。津田殿を見込んで、
正成は範高の目をじっと見据えた。
この頃、畿内の小豪族の間では、同盟を組むために、他家に
範高は戸惑いの表情を浮かべる。
「それは恐れ多いことじゃ。されど、なぜ、それがしに」
親族も多い楠木なら、預け先には事足らないはずであった。
「楠木の縁者でない津田殿であれば、世の
だが、正成の話はそれだけではなかった。
「満一、実はそなたにも頼みがある。これは
突然話を振られた満一は、何事かと顔を上げる。
正成は、
静まり返った広間で、満一は一筋の涙を流す。そして、ただその場に平伏するのみであった。
陸路、山陽道を東に進む足利
新田義貞は、赤松円心(則村)が籠る白旗城攻めに手こずっていた。そこで、自身に代わり舎弟の
「ぐぬぬ、この大軍……このまま、御舎弟殿(義助)の元に行かせてなるものか」
背後の
果敢に打って出た
かろうじて、
一方、足利
五月十六日、梅雨の谷間となったこの日、ついに、楠木三郎正成は出陣の日を迎える。明け方の、凛とした清気の中、楠木の京屋敷には続々と兵が集まった。
楠木太郎
庭先では、楠木七郎
「澄子、我らが出立したら、ただちにここを出て
「承知しました。私と
「出陣じゃ」
楠木屋敷を発った正成は、近隣から参じた兵を加えながら京を離れた。
同じ頃、楠木本城(上赤坂城)の西にある龍泉寺城は、朝早くから馬の嘶き、鎧の擦れる音、兵たちの声で雑然としていた。参集したのは、和田
河内
集まった兵を見回して、虎夜刃丸が正氏を見上げる。
「五郎叔父(正氏)、兵はこれだけか……」
「およそ五百といったところか。こんな兵で足利尊氏に勝てるのか」
持王丸も弟に続けて疑問を投げ掛けた。
「ああ、
笑って言葉を返す正氏だが、もちろん、こどもらを気遣った答えである。
楠木正成は、自分たちと一緒に最後まで
正氏の妻、
「これ、父上(正氏)の出陣の邪魔をしてはなりませんよ」
いつまでも正氏に
いつもは
「こどもらを頼む」
「御武運をお祈りします」
頷く良子は、心なしか目を
「では
無理をして笑顔を見せようとする久子を、正氏は気遣った。
「では、悔いの残らぬように戦ってくだされと……」
「わかり申した。お前たち、
「吉報をお待ちしております」
勝利を託す持王丸の隣で、虎夜刃丸も顔を上げる。
「五郎叔父、わしは……わしは戦は嫌いじゃ。でも、わしは武士の子じゃから……父上に、今度、戦を教えてくれるようにと伝えて」
頬を緩めた正氏は、片膝を付き虎夜刃丸の頭に手を添えると、がっと自らの胸に押し当てる。
「承知した」
そう、短い言葉を残して出陣した。
京の屋敷を出立した楠木正成は、西国街道を下り桜井の
馬を降りた正成のもとに、
「三郎兄者(正成)、西国より早馬があった。備前の
「そうか」
特に慌てる様子もなく短い言葉を返し、正成はここ桜井に陣を敷くように命じた。そして、
「皆、聞いてくれ。陸路、東上する足利
そう言ってから、正成は皆の顔を見渡す。
「……さりながら、
正成の悲壮な
「な、何を言われる。すでに我らは正成殿に従う覚悟を決めて出陣したのじゃ」
その言葉に、多くの与力たちが声を上げる。
「そうじゃ」
「わしらは楠木殿への恩義がある」
「無論じゃ」
そんな中、突然、津田範高が立ち上がる。
「正成殿は……正成殿は、この戦で
範高は声を震わせて訴えた。
兵庫まで従うと言っていた範高が目を潤ませる姿に、定仏ら諸将は唖然として言葉を失う。
静かになったそのときを待っていたかのように、正成が隣の
「太郎、これに」
自らの前を指し示し、息子を座らせ直させる。
「太郎、そなたもこれより満一とともに、河内に帰るのじゃ」
「河内へ帰れと」
振り向くと、恩地満一が苦渋の顔つきでうつむいていた。
恐る恐る父に向けて顔を戻す。
「……どういうことにございますか」
「残念なことではあるが、
「わかっておりまする。であればこそ父上の御供を。それがしが初陣を望んだのもそのためにござる」
息子の訴えに、正成はゆっくりと首を横に振る。
「そなたを河内に帰すのは、戦の後も考えてのこと。わしが死ねば、持王丸や虎夜刃丸、一族を率いる者が必要となる。お前は一族郎党、皆の
「されど、父上……」
意見を述べようとする息子を制するように、正成は腰に差した長短、二振りの刀を鞘ごと抜く。
「これは帝より
正成は息子の前に長刀を置き、菊水の紋様が入った短刀を片手に握って、目の前に差し出した。
「それがしに……父上の代わりなど……務まりませぬ」
息子は目を落とし、
真面目で責任感の強い少年であった。幼い時から傑出した父の姿を見て育った
そんな息子の胸のうちを、正成は見抜いていた。
「一人で抱える必要はない。お前には弟がおるではないか。抱える
そう言って、もう一度、短刀を差し出した。
居合わせた諸将は、そんな
河内から兵を率いた美木多正氏が到着すると、正成は、ここから国元に帰る与力衆らを差し引き、およそ七百を率いて兵庫に向かう。
涙を
五月十八日、足利尊氏を載せた船団は、
船を下りた尊氏は、再びこの地の
足利船団の到着に伴い、白旗城を囲っていた新田義貞は、
すると、赤松円心は囲みが解かれた白旗城を出て、さっそく
さほど大きくはない
境内で、笑みを湛えた尊氏が、
「円心殿、お待たせした」
「足利殿、いや足利将軍、よう上洛されました。船団が到着し、我らは命拾いし申した。これより我らは足利将軍のもとで戦う所存にござる」
「こちらこそ、円心殿の献策で、持明院の君(光厳上皇)から
「父上(円心)、足利将軍はこれより兵庫に出陣し、新田義貞との決戦に向かわれます。我ら赤松党には陸路東征する御舎弟、
「承知つかまつった。我らが睨みを効かせる限り
顔をぎらつかせながら、円心は胸を叩いた。
五月二十四日、楠木正成は播磨の白旗城攻めから引き揚げてきた新田義貞と兵庫で合流する。
意を決した出陣とはいえ、正成にとっては足取りの重い道程あった。京を出立して八日も経っていたのは、この時期に降る長雨のせいばかりではなかったかもしれない。
正成・
挨拶も早々に、正成が、置き盾で
「新田殿、敵は海路東上する足利尊氏と、陸路東上する足利
上陸しそうな地点を、正成が閉じた扇の先で指し示した。
これに、義貞が大きく頷く。
「うむ、足利の船団に東を取られれば、我らは東と西からの挟み撃ちということじゃな」
「左様でござる。さらに東を取られれば、尊氏の軍勢は京へ向かい、これを新田殿が追いかけることになる。つまり、
腕を組んだ義貞が、相槌を打つ。
「あい判った。して楠木殿はいかがされる」
「我らはあれに見える
これに、脇屋義助が
「されど、楠木殿の兵は千にも満たないご様子」
「左様、我が軍を追って勢い付く
被せて心配する義貞に、正成はふっと口元を緩めて笑顔を返す。
「お忘れですかな、新田殿。我らは千早城、赤坂城で敵を寄せ付けなかった楠木党ですぞ」
「もちろんわかっており申す。が、
掌を前に突き出し、正成が義貞の言葉を制す。
「無粋なことはお止めくだされ。西の足利
「楠木殿……」
決心を見抜いた義貞は、伏し目がちに沈黙した。
その様子に、正成が神妙な表情を見せる。
「少し、中将殿(義貞)と二人きりにしてもらえぬであろうか」
すると義貞が頷き、義助と重広に目を配った。
二人が
「それがしは新田殿に謝らなければならぬことがあり申す」
「どうされた、楠木殿」
「わしは四条卿(
告白に、義貞は目を
「足利と和睦じゃと……なぜ、そのような」
「尊氏が九州に落ちたとき、負けた尊氏に、続々と武士が付き従った。これを見て、それがしは、足利が必ず復活し、大軍を
「
義貞の言うことは、疑うべくもない正論であった。
「されど、ただ一つ……」
大きく息を吸い、正成が言葉を続ける。
「……ただ一つ方法がござる。それは
深く頭を下げる正成だが、悔いているのではない。ただ、義貞を人柱としたことへの負い目からであった。
あまりのことに義貞は、ただ唖然と正成を見つめる。両者ともに言葉を無くし、しばし沈黙が続いた。
「なぜ戦が始まろうとする今になって、このわしに言うのじゃ」
義貞の問いで、やっと正成が頭を上げる。
「今でなければもう二度と、それがしの口から伝えることができぬやも知れぬからです」
「まったく……我ら二人の処分など安いものか……」
ふうと息を吐いた義貞が、口元の力を抜く。
「……
「いや、そのような格好のよいものではござらん。やれるだけのことはやろうと、ただそれだけのことでござる。和睦が成らなかったからには、新田殿には生きて京に戻り、帝を御支えいただかねばならん。それがしの分まで、新田殿に託します」
正成が喋り終わると、義貞がその手を取る。
「楠木殿、死んではなりませぬぞ。
その手と口より、義貞の人柄が、温もりとして伝わった。正成の胸の奥から、不用意に熱いものが込み上げた。
楠木正成は、新田義貞の陣を離れると、軍を率いて
正成の表情は、梅雨明けの空と同様に晴れていた。気付けば足取りも軽い。新田義貞に打ち明けたことで、重い
舎弟の楠木
「三郎兄者、新田殿(義貞)は気づいておられたな。千早のようにはいかぬことを」
末弟の言葉に、正成が可笑しそうに口元を緩める。
「それはそうであろう。いくら再現したくとも、
「兄者、笑うところではなかろう、わっはは」
そう言って正氏が代わって笑った。
「すまぬのう、七郎(
「何を今更。わしらは三郎兄者(正成)が帝(後醍醐天皇)のために挙兵すると腹を決めたときから、
「もちろんじゃ」
楠木軍は新田本陣から北に進んで
山頂に登った楠木正成が、周囲を見渡す。
「少々、見晴らしが悪いな。八郎、周囲の木を切り倒して視界を確保せよ」
「承知」
橋本八郎
ここに強固な砦を造れば、少しは戦況を変えることができたかもしれない。しかし、天は正成にその時間を与えなかった。
五月二十五日午前、和田岬の沖合。穏やかな海を割って足利方の船団が現れる。
新田方の兵が足利の軍船を遠矢で牽制する中、経が
「来たぞ、者ども、掛かれ」
新田軍の副将、脇屋義助の
一方、湊川を背にした新田本軍に挑むは、九州から従軍した武将、
対して義貞は、万を越える軍勢で迎え撃ち、これを押し戻した。
緒戦、劣勢の足利方は、海からの和田岬への上陸を
新田義貞の脳裏に、正成の言葉がよみがえる。
「東に上陸を許せば、我らは挟み撃ち。京の
すぐに湊川西岸の陣を払い、川を越えて
しかし、足利尊氏が一枚
後方から、尊氏を載せた本軍の船団がゆうゆうと和田岬の沖に姿を見せる。
「それ、西の浜ががら空きじゃ。あそこへ上陸せよ」
尊氏の脇で、執事の
足利軍は幾艘もの小舟を出して、守り手のいない
これで、新田軍とも離ればなれの楠木軍は、大海に浮かぶ孤島のように、敵の中で孤立した。
その楠木軍が布陣する
山頂から手をかざし、足利尊氏の上陸を見ていた美木多正氏が、あきれたような表情を楠木正成に向ける。
「兄者、新田殿は初めの軍船に釣られましたな。今、西の浜へ悠々と上陸してきたのが尊氏であろう」
「ああ、そうじゃな。されど、新田殿を責めまいぞ。誉めるべきは足利じゃ。さすがは尊氏というべきか」
自身の危機を二の次にして、正成は、新田軍が挟み撃ちになるという最悪の事態に
「三郎兄者、こっちもすごい軍勢じゃぞ」
西に目を向けていた楠木
「ふふ、わずか七百余騎の我らに対し、足利がこれだけの軍勢を充ててくるとは……まったく
正成は、振り向いた
五万とも言われる軍勢で陸路、東上した足利
楠木軍を目の前にした
従兄弟で側近でもある
「攻め込まぬのですか」
「うむ、戦上手の正成のこと。この山も、また何かの仕掛けがあるやもしれん」
楠木軍が到着したばかりということを、
その頃、虎夜刃丸らの姿は、楠木の
一同は、本尊の
(観音様、どうか父上の
虎夜刃丸は心の中で繰り返し念じる。こんなにも御仏を身近に感じたのは初めてのことであった。
楠木軍と対峙した足利
楠木正成は、これを待っていた。
「よし、頃合いじゃな。いよいよ覚悟の時ぞ。目指すは
「我ら一丸となって敵の大将目掛けて突き進むのみ」
「者ども、我ら兄弟について参れ。いざ」
楠木
「承知っ」
「いざっ」
「おうっ」
諸将が口々に声を上げた。
そして、正氏の騎馬を先頭に、楠木軍がいっせいに駆け降りた。
「ご、御舎弟殿(
「ちっ、自ら山を下りてくるとは……いつもの楠木とは異なるな。正成はいったい何を考えておる。されど、もっけの幸いじゃ。楠木に山に籠られては戦いにくい」
そう言うと、
「敵が山から降りたら包み込んで殲滅するぞ。兵を集めよ」
命じると、
楠木軍は三隊に分かれて
楠木正成、楠木
楠木の三兄弟は騎馬を駆って、それぞれが西に東に、南に北にと縦横無尽に走り回り、守り手をかく乱した。
これが正成の、命を
そのころ東に進んだ新田義貞は、上陸した細川
苦々しそうに、義助が兄、義貞に進言する。
「楠木とはあまりにも離れてしもうた。楠木が敵を引き付けている間に、我らはいったん京に退却し、名和殿や
「じゃが、河内守殿(楠木正成)が心配じゃ」
「河内守殿は畿内の土豪。我ら、東国武士のように名を惜しんで討死することもありますまい。きっと、
「うむ……」
義貞は、義助に
上陸した足利尊氏の元に、
息を切らした
「申し上げます……河内守の騎馬は小勢ながら……その勢いすさまじく……御味方勢をかき乱し、敵味方ともに
「うむ、さすがは正成じゃ。我らも
下船した強兵たちを率いた尊氏は、楠木軍を背後から挟み込んだ。
こうなると多勢に無勢。勝敗は明らかであった。ここで楠木軍は撤退するのが戦の定石である。しかし、楠木正成、
十六回目の突入を行った正成が、別方向から突入した
「三郎兄者」
「おお、七郎」
双方の兵を合わせた正成は、最後の力を振り絞って足利軍の囲みを突破する。
「三郎兄者、向こうに五郎兄者が……」
その声で、正成は舎弟の正氏に向けて馬を駆った。
「五郎、無事であったか」
「兄者こそ」
三兄弟は馬を降りて手を取り合った。
「五郎、残ったのはどのくらいじゃ」
「ざっと百余騎かと」
あたりを見渡し、正氏が応じた。
皆、肩で大きく息をしている。負傷していない者はいないありさまであった。
「五郎、お前には辛い役目を頼まねばならん」
不意な正成の言葉に、正氏が振り返る。
「辛い役目……この
「
正氏は足に矢傷を受けているが、
「五郎兄者、そうしてくれ。わしも三郎兄者も、この傷では足手まといじゃ」
「何じゃと。このわしに落ち延びよと言うのか。兄者、それはないであろう。わしも縁あって弟になった。死ぬときは一緒じゃ」
大の大人の正氏が泣きそうな顔で抗うが、正成は首を縦に振らない。
「いずれ足利は河内をも攻めるであろう。
「そ、そんな……」
「頼む。お前にしか頼めぬことじゃ」
頭を下げる正成に、正氏は大粒の涙をこぼした。
正成は、
「……終わったな……」
小さくなっていく正氏たちの後ろ姿を見ながら、正成は誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
そして、その姿が見えなくなると、
足利尊氏のもとに、再び
「申し上げます。楠木軍は総崩れとなり、河内守(楠木正成)とおぼしき者が三十人ほど連れて川向こうの百姓家に逃れました」
尊氏の隣で、執事の
「ついに力尽きたようじゃな。追い打ちをかけて討ち取ってしまえ」
「いや、追うな。楠木に追い討ちをかけてはならん」
険しい表情で尊氏が
「
しかし、尊氏は首を横に振って
「その百姓家を遠巻きにしておればよい。手を出すことは相成らぬ。
「はっ、承知」
百姓家には楠木党の二十八名が入った。一門の和田
皆、
上座に腰を下ろした正成が、諸将を見渡して頭を下げる。
「皆、よう戦ってくれた。ここまで付き合わせてしまい、申し訳のう思う」
「何の殿、わしらはわしらの思いでここまで従ったまでのこと。殿が何を謝ることがございましょうや」
「皆、心おきなく戦えたようじゃな」
「ほんに精一杯、戦いましたぞ。これ以上の戦はできませぬ」
「それは何よりじゃ。では潔く腹を
正成の言葉に、皆、神妙な顔で短刀を手に取った。
「人は死ぬ間際の一念により、仏界からまた九界の世に生まれ変わるという。九界とは地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界、
「もとより、人間界じゃ。七度までも人として生まれ、朝敵を滅ぼさん」
「ふふ、恐ろしきことを言いよる。じゃが、わしも人として今一度、生を受け、御還幸のお迎えからやり直したい。次は国造りをお支えするのじゃ。今度は失敗せぬようにな」
そう言って笑ったあと、正成は落ちついた表情で
「朝敵か……目の前に見えたものばかりではなかったやも知れぬな」
そう言いながら、正成はゆっくりと短刀を抜いた。そして、
「今生の別れじゃ、七郎」
「では三郎兄者、来世で」
―― ずっぶっ ――
うめき声を漏らすことなく、二人は重なり合って倒れた。
続いて義兄の和田
「先に参る」
「では、それがしも」
橋本
「さらばじゃ」
「御免」
楠木の諸将は次々に声を上げて自害して果てた。
最後に、神宮寺
「では、参る」
―― ずっ ――
うっと小さな声を上げた
勧心寺で
『虎夜刃丸、わしはそろそろ行かねばならん』
一面立ち込めるもやの中、楠木正成は虎夜刃丸を残して馬に跨った。
『父上、どこに行かれるのですか……』
しかし、正成は振り向くことなく馬を進ませる。
『父上っ……虎を、虎を置いて行ってはなりませぬ』
『楠木を頼むぞ』
背中を向けたまま、正成は最後の言葉を残して濃いもやの中へと消えていった。
すると、虎夜刃丸は現実の世界で突然、立ち上がる。
「父上、戻って来てくだされ。お願いじゃ」
その声に一同は驚き、
久子は、そんな息子の姿に、自然と涙が
足利尊氏の元に
「申し上げます。楠木河内守(正成)は御舎弟
「そうか……惜しい男を亡くした……」
尊氏は力なく息を吐くと、その百姓家の方角に向かって両手を合わせた。
と、その時、慌ただしく、別の
「申し上げます。新田の本軍が
「何じゃと、義貞が……」
「では、それがしが参りましょう」
一人になった尊氏は、拳を強く握る。
「義貞、なぜ、もっと早う返して、楠木を助けてやらなんだ……」
昇天する正成を見送るかのように、尊氏は天を仰いだ。
生田の森での足利軍と新田軍の総力戦は、これ以上にない激しいものとなった。しかし、時が経つにつれて、優劣は明確になる。片翼になるはずの楠木軍は最早いない。もともと兵の数で劣る新田軍の不利は補い難く、義貞は兵を率いて京へ撤退するしかなかった。
「正成殿……」
経机の上で目を閉じる正成の首に、尊氏は沈痛な面持ちで手を合わせた。
「
「世の
「はっ、承知しました」
執事の
「さて、その後のことじゃが……」
尊氏は
翌日、南河内の楠木館は、兵庫の戦況が入るのを待っていた。
「奥方様(久子)、五郎殿(美木多正氏)が、五郎殿が戻られましたぞ」
楠木の
男たちは、
虎夜刃丸も久子も、取るものも取り敢えず、館の外に駆けだした。
庭には正氏らおよそ四十人が倒れ込むように座り、肩で大きく息をしていた。皆、怪我を負い、中には、いまだ
すでに楠木
正氏は、館から飛び出してきた久子に気づくと、姿勢を正してその場に
「
「殿(楠木正成)は……七郎殿(楠木
ひざを付いた久子が、座り込んで頭を下げた正氏の肩を揺さ振る。その様子を、虎夜刃丸も息を呑んで見守った。
「足利の進軍を止めることは叶わなかった。兄者はわしに、身体が動く者を連れて、河内に帰るように命じた。その後のことはわからん。ただ兄者も七郎も
正氏の話に、久子は力が抜けたようにその場に座り込んだ。
帰還した者たちの中から橋本九郎
「奥方様、どうか、
「ええ……わかっておりますよ」
涙を
その隣では、持王丸が力なくその場に座り込んでいた。
「父上は死んだのか。父上は死んだのか」
虎夜刃丸は泣きながら、
虎夜刃丸らは観心寺に出向き、金堂で
そこへ観心寺の小僧が、蒼い顔をして久子の元に歩み寄る。
「奥方様、足利の使いと申す者が表に来ております。奥方様にお会いしたいとのことですが……」
一同は一瞬、自らの耳を疑って、小僧に視線を注いだ。
「足利じゃと……」
久子は自身に言い聞かせるように、胸に手を当る。
「わかりました。お会いしましょう」
「母上……」
龍覚の計らいで観心寺の
二人の使者は、
持王丸は思わず目を背ける。だが、幼い虎夜刃丸は、それが何だかわからず、ただ見つめていた。
使者の一人が、いったん平伏してから、伏し目がちに顔を上げる。
「我が主、足利尊氏は、河内守殿(正成)を尊敬する御仁と申し、こうして敵味方として戦わざるを得なかったこと、たいへん後悔しておりました。このような
使者の
「
思わず目を
「確かに、父、正成の
周囲の郎党、
「我が主は、戦さえなければよき御味方になったであろうと申しておりました。こうして亡くなられたからには、もはや敵ではなく、丁重に扱うのが道理じゃと申し、慣習を破り、お届けに参った次第にございます」
二人の使者が、緊張した面持ちで頭を低く下げた。
「遠いところをご苦労であった。足利殿の恩情、楠木一門を代表して礼を申す」
涙をこらえ、
足利の使者が帰った後の観心寺
虎夜刃丸は、母、久子のひざに顔を
一方、持王丸は目に涙を
「こんな姿になりおって……」
美木多正氏は、怒りに任せ、拳で床を叩いた。
その隣では
放心状態で桶をながめていた楠木
「太郎(
「少し……外の風に当たって参ります」
母にそう応じて、
楠木
その前に座った
「父上……」
何者かの手が介添えられたかのように、短刀を
真似だけである。真似だけのはずであった。しかし、ぎらりと光を返した切っ先が喉に触れる。にじんだ血が、一向に離れようとしない刃先に伝わった。
「太郎、何をしているのですか」
あとを追ってきた久子が、甲高い声をあげた。
はっと我に返った
「母上……」
手に持つ短刀に自身も戸惑いつつ、言葉を
「ち、違いまする……父上は、どの様なお心持ちであったのかと思い、つい……」
苦しい言い訳を口にした。実際、
「太郎……父上の御遺言を忘れてはなりませぬ。父上はなぜにあなたを河内に返したのですか。なぜに五郎殿(正氏)を兵庫から戻したのですか……」
自らの悲しみは胸のうちにしまい込み、久子は毅然とした態度で接する。
「……五郎殿の方が、よほど腹を
「……」
母の言葉が
「多聞兄者(
久子を追ってきた虎夜刃丸が、その脇を抜けて
「死んでは駄目じゃ……」
涙で顔をくしゃくしゃにした虎夜刃丸が、泣き声の中から絞り出して懇願する。
「……お願いじゃから死なんでくれ」
「太郎、幼い虎夜刃丸にとって、今やお前は単なる兄ではないのです。頼るべき父でもあるのですよ」
母の諫言に、
「虎夜刃丸、もう泣くな……もうこのような真似はせぬ。この兄が悪かった」
―― ひっ、ひっく ――
虎夜刃丸はしゃくりあげながら頷いた。
取り憑いた得体の知れないものを振り払い、
「母上、楠木の棟梁として……自分が何をすべきか、よう考えてみます」
憑き物が落ちた息子の姿に、久子は安堵の表情を返した。
虎夜刃丸も落ち着きを取り戻し、
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