第 5 話 還幸

 元弘三年(一三三三年)五月も終わりの頃、千早城は、青葉に取って代わった濃い緑に包まれていた。季節の変り目に降る大雨が、一気に時を進ませたようである。

 その本丸(主郭)に建つ陣屋の奥の間。楠木正成が妻、久子の手を借りて、真新しい青藍せいらん直垂ひたたれに袖を通し、その上に黒韋威くろかわおどし胴丸どうまるよろい)を付けようとしていた。

 これを、不思議そうに虎夜刃丸が見上げている。

「また戦なの」

 幕府が滅びたというのに、なぜまた武具を付けているのか、理解できないからであった。

伯耆ほうきの帝(後醍醐天皇)が船上山せんじょうざんを出立されて、京へ御還幸ごかんこうされる。我ら楠木党は、帝をお迎えに摂津に向かうのじゃ」

 きらり、虎夜刃丸の目が輝く。

「帝に会うのか」

「お会いできるかどうかは行ってみないとわからん」

 そう言って、虎夜刃丸の頭をくしゃっとつかむように手でなでた。

「三郎兄者(正成)、こっちは支度したくができたぞ。そろそろ参ろう」

 同じく胴丸どうまるを着込んだ楠木正季まさすえが、虎夜刃丸らの前に現れた。直垂ひたたれの首元から見える白い小袖の襟がすがすがしい。

 そこに、どたばたと先を競って現れたのは多聞丸と持王丸。

「父上、それがしも一緒にお連れくだされ」

「わしも行きたい」

 せがむ兄たちを見て、虎夜刃丸も父の足にすがる。

「わしも、わしも」

「これ、父上を困らせてはなりませぬ。虎夜刃丸まで行きたがるではありませぬか」

 兄たちをたしなめる久子の後ろから、正成のもう一人の舎弟、美木多正氏が、平素の格好で現われる。

「こどもたちはわしと留守番じゃ」

「え、五郎叔父は行かぬのですか」

「帝に拝謁したくはないのですか」

 多聞丸と持王丸が、矢継ぎ早に正氏に振り返った。

「わしとて帝に拝謁したいが、留守役も必要じゃ。それにやることもあるしな」

 頷きながら、正成が言葉を加える。

「うむ、此度こたびは帝に供奉ぐぶして京へ上洛することになろう。しばらくは帰れぬかも知れぬ。皆で出向くわけにもいかんのじゃ。五郎(正氏)には悪いが、よろしく頼むぞ」

「うむ、承知した。多聞丸・持王丸、そういうわけじゃ」

「……」

 居残る正氏に、二人はそれ以上何も言えなくなった。

「お前たちは五郎に付いて、城の縄張なわばりをよく見ておくのじゃ」

縄張なわばり……」

 父の言葉を、持王丸が繰り返した。

「そうじゃ。縄張なわばりとは城の境であるくるわ、つまり、へい虎口門こぐちもんやぐらの位置などを決めること。城の良し悪しを決める大事な仕事じゃ」

 すると、年嵩としかさの多聞丸が首を傾げる。

「新たに城を造るのでございますか」

「そうじゃ。この千早城は、守りの砦としては有能じゃが、この山深い地をいつまでも我らの根城にはできぬ。それに、焼け落ちた楠木館も建て替えなければならん。よいな」

 気を切り替えて、多聞丸が頷く。

「父上、承知しました。五郎叔父に付いて、縄張なわばりをよく見ておきます」

 すると虎夜刃丸も、うんっと大きく頷く。

「虎も承知しました」

「おお、虎も縄張なわばりをやってくれるのか」

 喜色満面で目を細める正成につられ、一同も微笑みを注いだ。


 正成・正季まさすえ兄弟は、楠木党や与力衆など七百余騎を引き連れて河内国を発ち、摂津国を西に向かった。


 五月三十日、伯耆国ほうきのくにから京へ向かう還幸かんこうの行列は、兵庫にある巨鼈山こごうさん福厳寺ふくごんじに入った。

 楠木正成が兵庫に向かっているとの報に接した帝(後醍醐天皇)は、ここで楠木党を待つことにしたためである。


 そして、六月二日。その正成が兵を率いて福厳寺ふくごんじに到着する。

 正成は舎弟、楠木正季まさすえを連れ立って、寺の山門さんもんくぐった。

「これは正成殿、待っておったぞ」

「おお、円心えんしん殿、久しぶりでござる」

 馴れ馴れしく出迎えたのは、播磨の豪族、赤松円心。正成の親族が円心の弟に嫁いでいたために、互いに顔を見知っている。円心は五百余騎を率い、一足早く帝の出迎えに馳せ参じていた。

此度こたびの正成殿の御活躍、おおいに我らを奮い立たせ、六波羅ろくはらを討つことができ申した。まことに感謝しておりますぞ」

「いや、円心殿の御活躍も聞きおよんでおります。お互い、大儀が果たせ、何よりでござる」

 二人は、肩を叩き合って互いの労をねぎらった。

「楠木殿、お久しゅうござる。赤坂城以来でございますな」

 振り向くと、円心の三男、赤松則祐そくゆうの親しみを込めた顔があった。

「おお、これは則祐そくゆう殿。よくぞ、大塔宮おおとうのみや様(護良もりよし親王)を御護りされました。御苦労が報われましたな」

「はい……ただ残念なのは、村上義日よしてる殿をはじめ、大勢の仲間を失ったことです」

 正成は、則祐そくゆうの想いを汲んで頷いてみせた。

 その、しんみりとした話を円心が変える。

「そうじゃ、先にわしは帝に拝謁を済ませたぞ。ことのほか上機嫌であられ、『天下草創そうそうこうは、ひとえになんじら忠臣の戦にある。恩賞はおのおのの望みに任そう』と仰せであった」

 直接声をかけられたことを、満足げに話した。

「円心殿は、早くから三郎殿(則祐そくゆう)を大塔宮おおとうのみや様の元に送り、この時を待ち望んでおられた。積年の思いが実り、さぞ感慨無量であられよう」

「うむ、話も尽きぬが、まずは帝に御拝謁されよ。正成殿の到着を、まだかまだかと首を長うしてお待ちであった」

 円心にうながされ、正成は正季まさすえと共に足早に帝が待つ食堂じきどうへと向かった。


 その手前で、男盛りも晩年とおぼしき者が待ち受けていた。

「それがし、名和なわ又太郎長年ながとしでござる。此度こたび御還幸ごかんこう、楠木殿のご活躍があればこそ。千早城は幕府の大軍を前にびくともせずに持ちこたえた。その報を聞くたびに、我らも勇気づけられましたぞ」

 そう言って正成の手を取ると、何度も頷いた。

 その、人のよさそうな田舎武士の風情に、正成が愁眉しゅうびを開く。

「名和殿こそ、よう帝をお護りなされた。我らが千早城で幕府を相手に戦えたのも、帝がご安泰なればこそ。こちらこそ、礼を申し上げなければなりませぬ」

 長年は長年で、河内の悪党とも讒言ざんげんされる正成の謹厚な振る舞いに、意外な思いで安堵の表情を浮かべた。

 さっそく長年は正成を、行在所あんざいしょとした食堂じきどうに案内する。

 殿上てんじょうには蔵人頭くろうどのとうの一条行房ゆきふさと、京から駆け付けた数名の大覚寺統の公家たちが座る。そして、少し奥まった暗がりには、御簾みすが垂らされていた。

 両ひざを付いた長年が、殿上てんじょうに向け取次ぎを行う。すると、御簾みすの手前に座した行房が声を張る。

「そのほうが楠木左兵衛少尉さひょうえのしょうじょう正成であるか。御上おかみも貴公に会えるのを、首を長うしてお待ちであった」

「はっ」

 身を固くして、正成はひれ伏した。正季まさすえもその後ろで同様に控える。そして、取次ぎをした長年はさらに後ろに控え直していた。

 御簾みすの向こうから低くおごそかな声が響く。

「正成であるか」

「楠木左兵衛尉さひょうえのじょう直答じきとうを許すぞ。御上おかみにお答えするがよい」

 伝奏役の行房が正成に言葉を求めた。

「はっ。楠木左兵衛尉さひょうえのじょう正成にございまする。主上しゅじょうにおかれましては、此度こたび御還幸ごかんこう、祝着至極に存じたてまつります」

 正成は、よりいっそう頭を低くして答えた。

御簾みすを上げよ。早う正成に会いたい」

 急かされて、行房が慌てて御簾みすを巻き上げた。

「正成、笠置かさぎ以来であるのう。あの時、そちはちんに言うた。一時の勝ち負けは気にせぬよう。この正成、生きてこの世にありと聞こえせば、必ずちんのもとに聖運開けるものと思うようにとな。ちんは、そちが言うたその言葉を、ずっと励みに生きて参ったぞ」

 下を向いたまま、正成は微かに顔を赤くする。

「は、覚えておりまする。恐縮に存じます」

「頭を上げよ。ちんに顔を見せよ」

「はっ」

 正成がゆっくりと目線を上げる。久方ぶりに拝謁する尊顔そんがんであった。笠置山で対面してから二年近くが経つ。伸びた口髭くちひげ顎鬚あごひげを蓄えているが、変わることのない切れ長の目に、柔和にゅうわな笑みをたたえていた。

 その穏やかな瞳に正成の顔を映した帝が、こくりと頷く。

「うむ、ちんはそちの顔を一時も忘れたことはなかった。此度こたびの大願、ひとえにそちのおかげぞ。そちが幕府の大軍に持ちこたえてくれたおかげじゃ」

「もったいなきお言葉、この正成には身にあまりまする。それがしはこの日がくることを信じ、もう一度、主上しゅじょうにお会いするために、生きてまいりました」

「うむ」

 幾度も頷く帝のまなこは微かにうるみ、食堂じきどうに差し込む光をきらきらと映していた。

「これより京への道、この正成に……楠木一党に先陣を命じる」

 思いがけない帝のめいに、正成の後ろで顔を伏せていた正季まさすえが恐悦し、上目遣いに帝の尊顔そんがんを目に写した。

 かつての征夷大将軍、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろをはじめ、敵を討って京に凱旋した武将は数多い。しかし、帝の凱旋はかつてないことである。その先陣を務めることは、武門にとってこの上もない名誉となる。

「は、ありがたき幸せ。慎んでその大役、務めまする」

 正成は、身が引き締まる思いで拝命した。


 その頃、虎夜刃丸たちは山深い千早城を出て、いったん赤坂城へ入っていた。

 その本丸にある仮造りの陣屋の外。虎夜刃丸は、満仁王丸まにおうまるを行司に、明王丸と組み合っている。

「えいっ」

 気合を入れて明王丸が腕を引くと、虎夜刃丸がころりと転んだ。

 あきれたように満仁王丸が声を上げる。

「虎は弱いのう。十回続けて明王丸の勝ちじゃ」

「明王、もう一回」

 それでも、飽きもせずに立ち上がる。だが、悔しがっているわけではない。何度も首を傾げながら、手足を動かして組み方を考えていた。

「えぇぇ、もういいよ、飽きた」

 勝った明王丸の方が、虎夜刃丸のあまりのしつこさに根を上げた。

 そこへ、美木多正氏が、多聞丸と持王丸を連れて戻ってくる。

「お前たち、よい子にしておったか」

「父上(正氏)はどこに行っておったのじゃ」

「新たな館と城の場所を検分しておった」

 目を輝かせた満仁王丸が、じゃれるように父の腕をつかむ。

「館と城……わしも見たい」

「明王も見る」

 明王丸も正氏の腕にしがみついた。

「虎も見たい」

 同様に虎夜刃丸は、長兄、多聞丸の腕をつかんでせがんだ。

 すると、次兄の持王丸が虎夜刃丸に振り返って大人ぶる。

「駄目じゃ駄目じゃ。わしらはまだ仕事がある。お前たちと遊んでやる暇はないのじゃ」

「うむ、お前たちも、また今度な」

 正氏も二人の息子を軽くあしらって陣屋に向かった。


 その広間では、美木多正氏の妻、良子よしこが、幼い倫子ともこを抱いて、ひざまずいて出迎える。

「旦那様、お帰りなさいませ」

 久子も、楠木正季まさすえの妻、澄子すみこを連れ立って座っている。

「五郎殿(正氏)、今日はどこに見分に行かれたのですか」

「兄者(正成)とは、あらかじめ幾つか候補を決めておったのじゃが、今日は本命の桐山きりやまを見て来ました」

 久子の問いに答えながら、正氏は城代じょうだいとして上座に腰を据えた。

「桐山……土居砦があるところですね」

 先の戦で使った土居砦は、久子らも何度か行ったことがあった。桐山は千早城から燃え落ちた楠木館の方へ向かって伸びる金剛山の支脈にある。その北端が土居砦である。

「そう、その桐山です。そうじゃ、義姉上あねうえも虎夜刃丸を連れて一度、見分に行ってはいかがか。こどもらも連れて行けとうるさいですし。義姉上あねうえが行かれるのであれば、大助かりです」

「そうは言っても、千早から赤坂城に入ったばかりですから、女たちはやることがたくさんあります……でも、そうですね。一段落すれば、こどもたちを連れていってやりましょう」

 そう言うと、久子は外のこどもらに伝えるべく、立ち上がった。


 京の都では、帝(後醍醐天皇)が戻ってくるということで、公家も武家も町人まちびとも、皆が高揚していた。

伯耆ほうきの帝が山崎を越えたそうな。もう直お戻りになられる」

「大そうな行列だそうじゃ。京を落ちられる時とは大違いじゃ」

「何でも、わざわざ京を出て、御還幸ごかんこうに加わろうとする御公家様も、一人や二人ではないそうな」

「何とも虫のよいお方たちじゃな。京を落ちられる時に随行されたのは、一条様と千種ちぐさ様だけだったと聞くぞ」

 あちらこちらで、口さがない京童きょうわらべ物見ものみ高く騒がしい京の若者)たちが、前代未聞の帝の凱旋を話の種としていた。

「行列の先陣は楠木じゃと」

「おお、千早城で幕府を翻弄ほんろうした、あの楠木か」

「帝も思い切ったことをなさる。いくら活躍したとはいえ、一介の土豪じゃ」

「いや、いわゆる悪党であろう」

 これに、隣の他人までもが首を突っ込む。

「いやいや、何でも祖先は、源頼朝公の上洛に随行した関東の御家人と聞いたが……」

「わしは、かつて、観心寺の得宗領につかわされた北条の代官であったと聞いたぞ」

「いや、河内の出じゃ。太子御廟の近くの石切り場は、昔から楠木というあざじゃと誰かが言うておったぞ」

 彼らのもっぱらの注目は楠木正成であった。


 町人まちびとらの噂話を聞きながら、丸にふたきのもんをあしらった直垂ひたたれ姿で京の町を歩く男たちがいた。足利高氏とその舎弟、足利直義ただよしである。

「兄者、楠木の人気はすごいようじゃな。六波羅を討ったのは、われら足利じゃというのに」

「ははは。兵馬も少なく、名もない者じゃからよいのであろう。いつの世でも、意外な活躍をしたものが話題となる」

 もちろん、直義ただよしもそのくらいのことはわかっている。だが、この楠木人気に少しは言い返したくもなる。

「古来、朝敵を討伐して京へ凱旋したものは多い。我らが祖先、八幡太郎義家や、その父で前九年の役の英雄、源頼義もそうじゃ。されど、此度こたびの凱旋は異なる。帝の凱旋じゃ。その先陣が土豪の楠木とは、口惜しい」

直義ただよしはそのように考えておったか。わしはその正成に会うのが楽しみなのじゃ。あれだけの大軍を寄せ付けなんだとは、どのような男なのか」

「ふふ、兄者は京童きょうわらべと同じじゃな」

京童きょうわらべか。こやつ言いよるわい。わはは」

 高氏は声を上げてたのしげに笑った。

「さ、兄者。我らも帝のお出迎えをせねばなりませぬ。急ぎ六波羅に戻りましょう」

 足利軍は、幕府の六波羅ろくはら探題たんだいを討伐した後、その探題たんだい館に宿営していた。直義ただよしうながされ、高氏はその六波羅へと急いだ。


 足利高氏・直義ただよし兄弟は、軍勢およそ二千を従えて、京の南で帝(後醍醐天皇)を迎える。大路の向こうに還幸かんこうの先頭が見えはじめると、高氏は馬を降り両ひざついた。

 その前に行列がやってくる。菊水と非理法権天ひりほうけんてんの旗を掲げた一党が先陣であった。

「あれが楠木党か。非理法権天ひりほうけんてんとはどういう意味じゃ」

かなわず、ほうかなわず、ほうけんかなわず、そしてけんてんかなわず。天道には何者もあらがえないという儒教の教えよ。楠木正成、なかなかに学がある男のようじゃ」

 兄の素直な疑問に、博覧強記な弟が応じた。

「なるほど、天が定めし道を歩む者か……あの兜、大鍬形おおくわがたに剣の前立てが施されている兜。あれがきっと正成じゃな」

 高氏はじっと正成を見つめた。


 一方、行列の楠木正成らも足利高氏に気がつく。

 丸にふたもんの旗印に気づいた楠木正季まさすえが、正成の隣に馬を付ける。

「兄者、あの真ん中の武者、あれが足利高氏殿か」

「うむ、その隣が御舎弟、足利直義ただよし殿であろう」

 行列を正季まさすえに任せ、正成は馬を端に寄せ、両ひざ付いた高氏の前で立ち止まる。そして馬を下りて片ひざ付き、軽く頭を下げる。

「楠木三郎正成でござる」

「足利又太郎高氏でござる」

 名乗り合うと、どちらともなく互いに口元の力を抜いた。

「足利殿、お会いできるのを楽しみにしておりましたぞ。こうして拙者が生きておりますのも、足利殿が六波羅を討ったおかげ」

「いや、それがしの方こそ、楠木殿にお会いするのを楽しみにしておった。赤坂城、千早城と大軍を凌いだ貴殿のお手並み、おおいに感じ入り申した」

「拙者は賭けたのです。籠城ろうじょうだけでは勝てぬもの。必ず我らが持ちこたえれば、幕府の中から我らにお味方いただける方が出てくるであろうと。それがしの中で、その一番手は足利殿であった」

「楠木殿、何やら貴殿とは気が合いそうじゃ。今後ともよしなに」

 その言葉に、正成は礼に代えて微笑みを返す。と、再び馬に跨り、行列の先頭に戻った。

「兄者、高氏殿はどうであった」

「うむ、りんとしたさま、そこにいるだけで大きく見える。八幡太郎の末裔、清和源氏棟梁の血統かのう」

 正成にとって高氏は、思った通りの男であった。


 六月四日、京へ凱旋した帝(後醍醐天皇)の行列は、ひとまず東寺とうじに入った。

 京に戻ってまず最初に、討幕の武力を背景に、鎌倉幕府が打ち立てた持明院統の帝(光厳こうごん天皇)を一方的に廃した。帝(後醍醐天皇)は隠岐おき配流はいるとなっている間も一貫して皇位にあったとして、持明院統の帝(光厳天皇)の、即位そのものを否定したのであった。


 還幸かんこうの翌日、帝(後醍醐天皇)は討幕に貢献した者たちを東寺に呼び寄せる。臨時の除目じもくを披露……つまり、新たな官位官職を与えるためであった。

 寺の食堂じきどうが仮の廟堂びょうどう殿上てんじょうには千種ちぐさ忠顕と一条行房。さらには、いったん京を出て、途中で帝を出迎えた坊門ぼうもん清忠や洞院とういん実世さねよといった公卿くぎょうたちも居並ぶ。そして、中央には垂れた御簾みすがあり、その奥に、姿を隠して帝が鎮座していた。

 楠木正成は、直垂ひたたれ侍烏帽子さむらいえぼしのまま、食堂じきどうの前に座る。急なことで、束帯と冠が用意出来なかったからであった。

橘朝臣たちばなのあそん正成、これに」

「ははっ」

 橘朝臣たちばなのあそんとしたのは、自らを敏達びたつ天皇の四世王で、臣籍降下した左大臣、橘諸兄たちばなのもろえの末裔と自認していたからである。

 仰々しく、行房が綸旨りんじを掲げて読み上げる。

従五位下じゅごいのげ河内守かわちのかみ(河内国の国守こくしゅ)および摂津守せっつのかみ(摂津国の国守こくしゅ)とする。また、河内と摂津国住吉郡、加えて和泉の守護しゅごに任じる」

 あまりのことに、正成は息を飲み込む。それは、はるかに期待を越えるものであった。

 鎌倉時代も末期になると、守護は地頭を配下に組み込むなど領主化を進め、国司の形骸化が進行していた。帝はこれを良しとせず、国司に、租税の徴収を含む行政全般の権限を復活させたいと念じていた。つまり廷臣、主たるは公家の力を高め、律令国家(中央集権国家)に戻そうということである。そのためには、武士によって強大化した守護の権限を縮小させて、本来の治安と軍事のみに専念させる構想を描いていた。

 にもかかわらず、一介の土豪であった正成を、守護ばかりか二か国の国守(国司の長)とした。帝がどれほどの恩義を感じていたかを示すものであった。

 律令国りつりょうこくには格式がある。上から大国、上国、中国、下国とし、正成が国守兼守護となった河内国は大国で、摂津国は上国、和泉国は下国である。左兵衛少尉さひょうえのしょうじょうでしかなかった正成が、大国河内と上国摂津の国守、加えて守護としては和泉という朝廷の膝元三か国の太守と成るのは、前代未聞の破格の待遇であった。

「行房、御簾みすを上げよ。ちんは正成と話がしたい」

 すると行房が御簾みすを巻き上げて、正成に直答の許しを与えた。

 顔を見せた帝は、ゆるゆると口元をほどいて語りかける。

「正成、此度こたびの殊勲第一は、護良もりよしとともにそちじゃ」

 直に掛けられた労いの言葉に、正成は大きく息を吸い込む。

「ははっ、まことにありがたき幸せに存じます……されど……」

 帝の言葉を打ち消す正成に、公卿くぎょうらが顔を強張せる。が、正成は泰然と続ける。

「……それがしはこうして生きております。義兵を挙げども志を遂げられず、討たれた者も数多あまたおります。その者たちを差し置き、何でそれがしが殊勲第一と言えましょう」

 一瞬、気を揉んだ公卿くぎょうたちであったが、その殊勝な言葉に胸を撫で下ろした。

 謙虚な正成に、帝はこうべを垂れるほどに大きく頷く。

「なるほど、そちは武勇に優れ、知略に長けるだけでなく、とくも備えた武士のようじゃ。これからも、ちんを支えてくれ」

「はっ。もったいなきお言葉。それがしの生涯の宝と致します」

 身に余る恩賜おんしに、正成は、只々、恐縮するしかない。一方で、独善的と見られかねない裁断は、反発も大きかろうと、これからの帝の立場を思ひ量った。


 他の除目じもくであるが、名和長年も伯耆守ほうきのかみ因幡守いなばのかみに加え両国の守護に任じられた。正成同様に破格の待遇。こののち、京の市場を取り締まる東市正ひがしのいちのかみにも任じられる。船上山での命を張った働きで、帝の信任を勝ち得たからである。さらには、千種ちぐさ忠顕・一条行房・阿野廉子かどこらと深い絆で結ばれたことも、叙任を後押しした。

 足利高氏はこの時、従四位下じゅしいのげ鎮守府ちんじゅふ将軍および左兵衛督さひょうえのかみに任じられる。こちらは正成以上の厚遇であった。が、もともとの官位も高く清和源氏の棟梁として諸国の武士に強い影響力を持つ高氏が、正成より厚遇されるのは当たり前のことであった。

 鎌倉攻めの立役者、新田義貞は遠く鎌倉の地。叙任は先の話となる。

 その鎌倉攻めで一翼を担った結城ゆうき宗広むねひろの次男で、自らも六波羅攻めで武功を立てた結城ゆうき親光ちかみつ従五位下じゅごいのげを与えられた。のちに設けられる窪所くぼどころ(帝の軍事顧問ぐんじこもん御親兵ごしんぺい組織)の番衆ばんしゅうにも任ぜられる。

 そして、赤松円心は、この度の除目じもくを待たずして、自らほうじた護良もりよし親王を迎えるために京を離れていた。


 ところは変わり南河内。虎夜刃丸の姿は焼失した楠木館から少し南に行った小高い丘の上にあった。そこは、刈った端から伸びようとする雑草の、生命力あふれる匂いに満ちていた。

 同行したのは母の久子と叔母の良子。従兄弟の満仁王丸まにおうまると明王丸。そして、家宰かさいの恩地左近である。

 丘の真ん中で、虎夜刃丸がぐるりと周囲を見渡す。北は掘のような川を挟んで旧館跡へと視線が抜ける。南は青々と茂る木々を重そうに抱える桐山が、ついそこに迫っていた。

「ここに館を建てるの」

「そうですね……」

 問われた久子もわからない。つい、左近の顔に目が行った。

「奥方様、我が子、満一が桐山に入っておりますので、ここに呼んで話を聞きましょう」

「左近殿、どうぞ、お構いなく」

 満一に申し訳ないと左近を留めた。だが、左近は久子に対してお構いなく・・・・・、桐山に入っていった。


 半刻が過ぎ、恩地左近が息子の満一を連れて、虎夜刃丸らの前に戻ってくる。すでに満仁王丸と明王丸は待ちくたびれて、母、良子の手を引いて、どこかに消えていた。

 辛抱強く待っていた虎夜刃丸だが、我慢の限界とばかりに満一に駆け寄る。

「ここに館を建てるのか」

「満一殿、忙しいところ申し訳ありませぬ。館の縄張なわばりはどうなるのですか」

 後ろから久子も歩み寄り、恐縮しきりに言葉を被せた。

「はい。館はこの丘の上に造ります。されど、それだけではありませぬぞ。桐山の上に城を築きます。新しき赤坂城(上赤坂城)です」

「赤坂城の場所を変える……ということですか」

 疑問を浮かべる久子に、隣から左近が口を挟む。

「今の赤坂城は二度も落城しております。兵糧ひょうろうの運び込みが難しく、水の確保も水路を押えられればついえますゆえ」

 満一が頷き、話を引き取る。

「新たな楠木館と新たな赤坂城は、一本の道を繋げて一体の城塞じょうさいと致します。こうすれば、いざ戦になったときには館を捨てて、城に籠ることができまする」

「戦……」

「左様、奥方様。この城からは四方を見渡すことができ、金剛山から続く水脈で、水に困ることもありませぬ。戦となれば今の赤坂城(下赤坂城)より、よほど役に立ちます」

 この後も、満一は館と城の縄張なわばりについて説明した。しかし、戦という言葉を聞いてから、久子はうわの空になっていた。

 不安げな表情を隠しきれないまま、久子は満一に問いかける。

「殿は、まだ戦が続くと思われておるのですか」

「さあ、それはそれがしにもわかりませぬ。ただ、他にも城を幾つか造るように命ぜられました。龍泉寺りゅうせんじがある嶽山だけやま金胎寺こんたいじ山、烏帽子形山えぼしがたやまなど十数カ所を物色しております」

「されど、鎌倉の幕府が滅び、帝が京に戻られるというのに、赤坂城の場所を変え、他にも新たな城を造るとは……」

 久子は、夫、正成が、乱世を予言しているようで怖かった。

 左近が、眉を曇らす久子に気遣う。

「万が一の備えでしょう。楠木は有名になりました。一介の土豪の備えというわけにはいかぬのです」

「そうですか……でも、いったい殿には、何が見えているのでしょう。ねえ、虎夜刃丸」

 そう言って久子は視線を落とす。その不安げな母の顔を、虎夜刃丸は首をひねって見上げた。

 そこに、満一が笑顔を見せて、しゃがみ込む。

「では、虎夜刃丸様、新たな城の場所を案内あない致しましょう」

「う、うん」

 その表情に釣られて、虎夜刃丸に笑顔が戻る。

 ところが、久子がすかさず首を横に振る。

「いえ、殿方とのがたたちの仕事の邪魔になります。遠慮することに致しましょう」

「えぇ、行かないの」

 顔をゆがめた虎夜刃丸を、久子が優しくさとす。

「満一殿たちは、忙しいのです。我らが行っては仕事の邪魔。それに良子殿らもどこかに行ったきり。またの機会と致しましょう」

「えぇぇ」

 不満げな声に続けて、ぷうっと頬を膨らませた。

 その様子に満一は目を細めながら、立ち上がる。

「奥方様、お気遣い痛み入ります。では、お言葉に甘え、それがしは仕事に戻りましょう」

 桐山へ戻る満一の背中に向けて、左近が声をかける。

「よいか満一、殿が京よりお戻りになられる前に、城造りの段取りを整えるのじゃぞ。この地を検分し、必要となる石や木材、人足にんそくなどを算段するのじゃ」

 ふうぅと息を吐き、満一が振り返る。

「父上、わかっており申す。我らにお任せを。赤坂・千早の城造りで要領は得ております。父上はもう御歳ゆえ、ゆっくりと我らの手並みをお見守りくだされ。では、奥方様、失礼します」

 そう言って桐山に戻っていった。

 立ち去る息子の背中を目で追いながら、左近は顔を赤くする。

「満一め、わしを年寄り扱いしおって。まだまだわしは若い者には負けぬぞ」

「よいではありませぬか。満一殿にお任せしましょう。殿もこのところ、大そう頼りにしているご様子。左近殿はほんによき跡継ぎに恵まれましたな」

「いやはや、愚息ぐそくでございますれど……奥方様にそのように言われると、何やら、さほど愚息ぐそくでもないような……」

「まあ、左近殿」

 照れ笑いを浮かべて頭をく左近に、久子が口元を押さえ、くすくすと声を漏らした。すると左近も釣られ、その大口から溢れんばかりの笑い声を上げた。


 そこに満仁王丸・明王丸兄弟が、母、良子の手をひいて戻ってくる。

「虎、満一殿はまだか」

「遅いよ、満仁王まにおう。桐山に戻っちゃった」

「桐山……」

「うん、城の縄張なわばりだって」

「えぇぇ」

 満仁王丸は明王丸と顔を見合わせ、意気いきを落とす。

「じゃあ、母上、われらだけで行ってもよいか」

 良子は、いったん久子の表情をうかがってから、首を横に振る。

「桐山の向こうには神奈備かんなびさんがあります。神奈備かんなびさんには神様がおられる。もし、誤って勝手に入り込んだら、神様におこられますよ」

神奈備かんなびさん……」

 虎夜刃丸も聞いたことのある名であった。

 神奈備かんなびとは神が宿るところという意味であり、昔から神の山と言い伝えられる不本見ふもとみ山の俗称であった。

「そうですよ、神奈備かんなびさんに連れて行かれますよ」

 久子にも脅かされ、幼い虎夜刃丸と明王丸は顔を強張らせて帰路に着いた。一方、年上の満仁王丸は、皆の背中と反対側にある桐山、交互に目を配り、ちぇっと口を尖らせ、皆の跡を追った。


 この頃、護良もりよし親王はいまだ京への帰路にはついておらず、奈良の南西にある信貴山しぎさんにあった。親王は幕府が滅びる前に軍勢を率いて高野を離れていた。そして、この山の朝護孫子寺ちょうごそんしじにある毘沙門堂びしゃもんどうを本営としていた。

 昼でも薄暗い御堂の中で、赤松則祐そくゆう小具足こぐそくを身に付けたまま平伏している。今しがた、信貴山しぎさんに駆け付けたところであった。

此度こたびの赤松の働き、大儀であった。楠木にも劣らぬものじゃ」

 労いの言葉をかけられ、則祐そくゆうは恐縮する。

「は、ありがたき幸せ。父、円心もこちらに向かっております」

「左様か。で、京の様子はどうじゃ」

「は、それですが、足利高氏が京の治安を守るという名目の元、六波羅が落ちた直後から私設の奉行所を開いております」

「奉行所とな」

殿法印とののほういん殿配下の僧兵も、狼藉をしでかしたとかで捕縛ほばくされてしまったよし

「捕縛じゃと……」

 殿法印とののほういんとは良忠りょうちゅうという親王に伺候しこうする摂関家せっかんけ出身の僧で、僧兵を率いて六波羅攻めに加わっていた。

 護良もりよし親王は、手に持つ扇の一段目を、ぱたぱたと開いては閉じるを繰り返しながら、則祐そくゆうの話に耳を傾けた。

「足利高氏は、六波羅攻めに際し、足利の名で各地の武士に出陣をうながす書状を送っておりました。帝より御綸旨ごりんじたまわった足利にくみすれば、恩賞はこの高氏が保証すると書き添えて。その結果、多くの武士が地位の保証や恩賞を求め、足利の奉行所へ集っております」

 苛立いらだちを覚えた親王は、扇の先を則祐そくゆうの目線に合わす。

「その書状とは、まるで、北条幕府が御家人に与えた御教書みぎょうしょではないか。御上おかみ(後醍醐天皇)やの許しもないまま、高氏にどのような権限があってそのようなことを」

「御意、足利は幕府を成す重鎮でした。油断はなりませぬ……」

 父、円心から、足利への警戒心を解かぬようさとされていた則祐そくゆうは、ここぞとあおる。

「……鎌倉の幕府亡き今、武家の筆頭は、何といっても源頼朝公と同じ八幡太郎義家の血筋である足利です。幕府を開いても、何の不思議もございませぬ」

「むぅ、足利は第二の頼朝になるつもりか。幕府の象徴である六波羅を牛耳られたのは失敗であった。しばらくはここで足利を牽制してみるか」

 護良もりよし親王は、いまだ会ったこともない高氏へ、不信感を募らせていった。


 虎夜刃丸らが、新たな館の縄張なわばりを検分した翌日のことである。小波多こはた座の竹生大夫ちくぶだゆうこと服部はっとり元成もとなりが、赤坂城(下赤坂城)にやって来る。

「治郎殿じゃ」

 明王丸と剣術の真似事をしていた虎夜刃丸は、木刀代わりの木切れを投げ捨て、走り寄った。

「虎夜刃丸殿、少し見ぬ間に大きくなりましたな……」

 そう言って虎夜刃丸の頭をでる。

「……御母上や正氏殿はどちらかな」

「こっちじゃ。虎が案内あないする」

「明王も案内あないする」

 二人に手を引かれ、元成は陣屋へ入る。

 広間では、恩地左近を傍らに、美木多正氏がおおっと大声を上げ、元成を迎えた。

 その声で久子が、良子や多聞丸らを連れて顔を出す。

「治郎殿、晶子あきこ殿はいかがですか」

 身重の義妹ぎまいが気掛かりであった。

「はい、お陰様で無事にこどもらが生まれました」

「こどもら……」

「双子が生まれたのです。元気な男子おのこたちです」

 その言葉に、一同がほぉと感嘆の声を上げた。

 正氏が、丸く大きな目を細める。

「それは、めでたさも倍じゃな」

 大人の会話に虎夜刃丸が首をかしげ、久子の小袖を引く。

「母上、双子って何」

「赤子が二人いっぺんに生まれたのです」

 そんなことがあるのかと、虎夜刃丸は目を白黒させる。

 長兄の多聞丸が、そんな末弟の姿に笑顔をこぼしながら、話の続きを促す。

「それで、名は何と」

観世丸かんぜまる聞世丸もんぜまるです。て、くという具合です。落ちついたらここにも連れて参りましょう。仲よくしてやってくだされ」

「もちろんじゃ。任せてくれ」

 頼もしげに、次兄の持王丸が胸を叩いた。

 はたと元成が周囲を見回す。

「ときに、澄子殿の姿が見えませぬな」

「ええ、いま、澄子殿は寝床で伏せております」

 気にする素振りも見せず、良子が応じた。

「お加減がよくないのですか」

 心配する元成に、久子は口元を緩めて首を横に振る。

「こちらも、おめでたです。つわりが酷くて……横になるように申し付けております」

「あ、なるほど。ついに七郎殿(楠木正季まさすえ)も父親ですか。いや、めでたい」

 一門にとっては、厳冬を耐え忍んだ後、一斉に芽吹く新芽のごとき慶事であった。

 さらに、元成の手元の書状が彩りを添える。

「京につかわした一座の者が、義兄上あにうえ(楠木正成)の便りを預かって参りました。これを」

 そう言って、城代の正氏に書状を渡した。

 正氏はこれを勢いよく広げて目を落とす。そして、読み終えるや否や、目をいて顔を上げる。

「な、何と、兄者が河内国と摂津国の国守に。さらに、両国と和泉いずみの守護に任じられたとのことじゃ」

「殿が国守と守護に……」

 書状を回された久子であったが、目を落す間もなく絶句する。こどもたちも、すぐには事態を飲み込めず呆然としていた。

 虎夜刃丸が、ほわっとした顔で正氏に視線を合わせる。

「こくしゅって何。しゅごって何」

「ううむ、お前の父は河内の中で一番偉い人になったのじゃ」

「えぇっ、なぜ父上はそんなに偉くなったのか……」

「この日の本で一番偉い帝から、河内と摂津と和泉を預けられたのじゃ」

 叔父の説明にも、虎夜刃丸は釈然としない。身近な父が急に偉くなったことが、不思議で仕方がなかった。ただ、帝はとてつもない力を持っていると理解したのはこの時であった。

「京におった一座の者は、帝の御還幸ごかんこうも見物したようです。義兄上あにうえは見事、幾千を越える行列の先陣を務められました。馬上の義兄上あにうえはとても凛々りりしく、京の町人まちびとたちも、楠木正成を持てはやしておったそうにございます」

 皆が身を乗り出す中、虎夜刃丸が、今度は多聞丸の袖を引く。

「父上は、大事なお務めをされたのか」

「おお、そうじゃ。都への凱旋というと、八幡太郎(源義家みなもとのよしいえ)や平清盛など名だたる武将ばかりじゃ」

「へえ……父上はすごいのう」

 そう言って、父が馬に跨って行列を率いる姿を頭に描いてにやついた。


 京では、楠木正成が朝廷より四条猪熊いのくま坊門ぼうもんに屋敷をたまわる。

「兄者、なかなかよい屋敷よのう」

「うむ。内裏だいりまでもそう遠くない」

 舎弟、楠木正季まさすえと屋敷の中を一通り見終えた正成は、広間にどがっと座り込む。

「七郎(正季まさすえ)、わしは京に留まることが多くなるであろう。そなたはわしの右腕として、この京でわしを支えて欲しい」

「もちろんじゃ。承知した」

 慣れない京で苦労するであろう兄の力になることに、正季まさすえは誇りをもって頷いた。

「さすれば、此度こたびたまわった所領には代官を置かねばならん」

 うむと頷いた正季まさすえが、指を折る。

「守護国としては河内国、和泉国、摂津国の住吉郡、さらに所領としては、河内国新開荘しんかいのしょう宇礼志荘うれしのしょう、摂津国昆陽野こやの大島荘おおしまのしょう山本荘やまもとのしょう……遠国えんごくもあるぞ。常陸国ひたちのくに那珂郡なかぐん瓜連うりづら出羽国でわのくに屋代荘やしろのしょう……」

「河内は五郎(美木多正氏)に任せることとして、問題は他の所領じゃ。摂津の分国は七郎、お前に任せたい。京とのかけ持ちで忙しくなるであろうが、ここは親しいものでなければならん。よろしく頼むぞ」

「なあに、兄者。わしに遠慮はいらぬわい。で、和泉はどうする。やはり高遠たかとお殿か」

「うむ、下国とは言え、堺浦さかいうらようする和泉国は重要じゃ。この地は高遠たかとお殿をおいて他にあるまい」

 高遠たかとおの和田家は正成の父、楠木正遠まさはるの出自である。さらに、正成の長姉ちょうしが嫁いだため、高遠たかとおは正成の義兄でもあり、心許こころゆるせる身内であった。

「兄者、東国の那珂なかには、いったい誰を送るのじゃ」

「うむ、新太郎をと考えておる」

 新太郎とは、その高遠たかとおと正成の姉の間に生まれた子、和田高家のことである。当初から高遠たかとおと一緒に正成の挙兵に従っていた。

 正季まさすえも頷くが、気掛かりがないわけではない。

「確かに新太郎は見込みある男じゃ。とはいえ、まだ若い。奴の名で那珂なかを従えることができようか」

「うむ、そこで、楠木を名乗らせてはどうかと思うておる。奴とて、楠木の血を引いておるのじゃからな」

「なるほど、この戦で楠木は有名になった。それはよい考えじゃ」

「後は追々、決めるとしよう。ああ、そうじゃ……」

 ついで思い立ち、正成がひざを叩く。

「……久子やこどもらを呼んで、一度京を見せてやるか」

「ならいっそ、姉上たちをここに住ませればよかろう」

「いや、久子には河内で子を育ててもらわねばならん。わしらの拠点はやはり河内よ。の地の国人らを従えるためには、こどもらは河内に根を張って育たなければならん」

 まだ北条の残党も畿内や各地で力を持っており、平和な世は一筋縄ではいかない状況であった。

「わしも澄子を呼んでやりたいが、今は身重じゃ」

 正季まさすえにとっては初の子であり、腫れ物に触るように妻、澄子を気遣っていた。

「そうじゃな。今は大事な時期じゃ。子が生まれるまでは、甲斐庄かいのしょうの実家に戻してやるがよかろう」

 兄の言葉に正季まさすえは、子を抱く妻の姿を想像し、思わず顔をほころばせた。


 後に、甥の和田高家は楠木正成の猶子ゆうしとなり、正の字の偏諱へんきを受け、楠木正家となって常陸国ひたちのくに那珂なか郡に下る。

 その父、和田高遠たかとおや、一門の橋本成員しげかずも、楠木一族として領国を従わせやすいよう、正の字の偏諱へんきを受け、和田正遠まさとお、橋本正員まさかずに改めるのであった。


 翌日のこと。虎夜刃丸と満仁王丸まにおうまる明王丸みょうおうまるは、緑林の桐山に分け入っていた。先日、新たな城の縄張りを見れなかったためである。だが、虎夜刃丸たちだけでは城の場所は分からない。そこで、次兄の持王丸じおうまるに同行してもらっていた。

「持王の兄者、城はまだなのか」

 満仁王丸が不満顔で持王丸にたずねた。かれこれ一刻は歩いていた。虎夜刃丸と明王丸も疲れ顔でとぼとぼと後に従っていた。

「ううん、おかしいな……確かこの道であっていたはずじゃが……」

「え、迷ったのか」

「何じゃとっ……」

 先頭を切る持王丸が、満仁王丸の言葉に顔を赤くして振り向く。

「……お前たちがどうしてもというから、案内あないしてやってるのに。文句を言うな」

 声を荒げる持王丸に、満仁王丸はあきらめ顔で肩をすくめた。

「兄者、疲れた」

「わしも……」

 まだ四歳の虎夜刃丸と明王丸には、酷な山道であった。

「ちょっと待っておれ」

 苛立いらだつ持王丸の言葉に、満仁王丸はうなだれ、幼い二人はめそめそと目をうるませた。


 しばらく歩くと、四人の前に開けた土地が広がった。

 精も根も尽き果てた虎夜刃丸が、虚ろに顔を上げる。

「おやしろ……」

 こどもたちは、神社の横手から境内に抜け出ていた。

「ああ、そうか、ここは不本見ふもとみ神社じゃ」

 一人得心する持王丸に、満仁王丸の腰がくだける。

「ということは、神奈備かんなびさんまで来たのか」

 神奈備かんなびさんと呼ばれる不本見ふもとみ山は、目指す桐山のさらに南にある。こどもたちは優に倍を超える距離を歩いていた。

一先ひとまずよかった。迷い子にならずに……」

 歳頭としがしらの持王丸が、ほっと息を吐く。

 だが、神奈備かんなびさんと聞いて、虎夜刃丸と明王丸はひきつった表情を見せていた。

「何じゃ、怖いのか。神奈備かんなびさんは迷信じゃ」

 恐れを知らぬ満仁王丸が、野放図に二人を笑い飛ばした。


 ここがどこかが判れば、帰るのはもう大丈夫である。一息ついて、すっかり安心したこどもらは、広い境内けいだいで相撲をとった。

 山の上にある不本見ふもとみ神社は、いつもは人が居ないところ。誰に気兼ねすることなく、わあわあと声を上げて組み合った。

「虎、負けるな。明王を投げ飛ばしてみよ」

「何の明王、虎を押し倒せ」

 幼い二人の取り組みを、双方の兄が応援した。

「えいっ」

 気合とともに、またも明王丸が虎夜刃丸を転がした。

 毎度負け続けの虎夜刃丸は泥だらけ。しかし、あらかじめ二人は着物を脱ぎ、腹掛だけで相撲を取っていた。

 本殿のきざはしに無造作に脱ぎ散らかした二人の着物を隣にして、持王丸が腰を降ろす。

「虎は何度やっても勝てぬのう」

 ふうと息を吐いて、竹筒の水を口に含んだ。

 虎夜刃丸は、満仁王丸に手を引っぱられて立ち上がる。

「何でわしは勝てないんじゃ」

「お前は身体が小さいからじゃ。もう少し大きくなったら勝てるぞ」

 尻の汚れを払いながら、満仁王丸が虎夜刃丸をなぐさめた。

「わしも大きくなるから、いつまでも虎は勝てぬぞ」

 へへんと明王丸が鼻を高くする。すると満仁王丸は、うぅんと唸って頭をいた。

 その時である。一陣の風が境内けいだいに流れ込み、こどもらを巻く。

 ―― やあぁほ ――

 神社を囲むひのきの上から、かん高い声が聞こえた。

 虎夜刃丸が声の主を探して顔を上げる。

「だ、だれ、だれかいるの」

 皆も、ぐるっとあたりを見回す。

 ―― はははっ ――

 今度は別の木の上からである。高らかな笑い声に、こどもらは互いに顔を見合わせた。

 ―― やあぁほ ――

 もう一度、声が聞こえた。もう、空耳では済まされない。持王丸までも顔をあおくする。

「『やあぁほ』じゃと……これが神様の声なのか」

 不本見ふもとみ山は一夜のうちにできあがったと言い伝えられる神の山である。

「と、とりあえず……にげろっ」

 持王丸の声に、虎夜刃丸らはいっせいに参道を駆け降りていった。


 こどもらが立ち去った後、不本見ふもとみ神社の境内けいだいへ、女とこどもが現れる。

「確か、こちらの方から聞こえましたが……」

「かあ助っ、かあ助っ」

 かたわらの幼子が口に手を添え、誰かを探すように叫んだ。

 すると、一羽のからすが舞い降りる。

 ―― かあぁ かあぁ ――

「母上、かあ助じゃ」

 幼子がそう言ってからすに駆け寄った。

吉祥丸きちじょうまる、本当にかあ助ですか」

「うん」

 見た目、普通のからすだが、吉祥丸きちじょうまるという幼子は、疑う素振りを見せなかった。

 からすが、吉祥丸きちじょうまるにくちばしを向ける。

 ―― やあぁほ ――

 からすとは思えぬ鳴き声に、吉祥丸きちじょうまるは、高くした鼻を母に見せる。

「ほらね、わしが教えた言葉じゃ」

「本当に、かあ助のようですね。それにしても、言葉をしゃべるようになろうとは、何だか……」

 からすが言葉を口にする度、母親はぞぞっと背中を伸ばした。

 母子は楠木党の武士の妻子であった。

 楠木正成が千早に籠城ろうじょうする前のこと。ここで、人を恐れず近付いたからすに、吉祥丸きちじょうまるが、かあ助と名付け、参拝の度に餌付けをした。頭がよかったのであろう。かあ助はなつくにつれ、幾つかの言葉を喋るようになった。

 千早の戦が始まると、母子は親戚を頼ってこの地を離れていた。しかし、戦が終わり、戻ってきて早々、二人で神社に登ってきたという次第である。

 母親が、神社のきざはしに、ふと目を向ける。

「こんなところにわらべの着物が……」

 あたりを見回すが、もちろん誰もいない。

「……忘れたのかしら」

 そう言いながら、社殿へと歩み寄り、服をたたんで縁に置いた。

 ―― かえる ――

 からすが、またもおかしな鳴き声を上げて、飛び立った。

「またね」

 吉祥丸きちじょうまるは大きく手を振って、かあ助を見送った。


 吉祥丸きちじょうまる親子が居なくなった不本見ふもとみ神社。入れ替わるように虎夜刃丸たちが、久子と良子を伴って戻ってくる。腹掛けのまま一目散に参道を駆け降りた虎夜刃丸であったが、久子にしっかり服を着せられていた。

 境内けいだいを囲う木々の上を持王丸が指を差す。

「母上、あのあたりじゃ」

「どこですか」

「あそこ」

 虎夜刃丸も、背伸びしながら指先を伸ばした。

 しかし、久子と良子がいくら目を凝らし、耳を傾けても『やあぁほ』という声の主は見つからない。

「何も見えませんねえ……」

 残念そうに久子が答えた。少しは期待していた顔である。

「……あなたたちの聞き間違いではないのですか」

「いや、伯母上、わしら全員で聞いたのじゃ」

 満仁王丸も必死に、久子に訴えた。

「母上、わしの着物が」

 明王丸が指を差し、良子の視線を神社の本殿に向ける。その縁側には、きれいにたたまれた虎夜刃丸と明王丸の着物があった。

 良子が首を傾げる。

「着物がどうかしましたか」

「わしらはきざはしに着物を脱ぎ捨てたまま、逃げてきたのじゃ。それがほら、あのように、きれいにたたまれておる」

 持王丸の言葉を受けて、久子が虎夜刃丸に目線を落とす。

「そうなのですか」

「うん」

 すると良子が恐々と周囲を見回す。

「あ、義姉上あねうえ様、やはり、神様の仕業でしょうか。こどもらが騒いだので、神奈備かんなびさんが怒ったのではありますまいか」

 これに虎夜刃丸が顔を強張らせた。

 我が子の様子に久子が微笑み、しゃがんで目線を合わす。

「大丈夫です。神奈備かんなびさんはそんなことでは怒りませぬ。きっと、あなたたちの相撲を見たくて、おいでになられたのでしょう」

「ほんとに」

「本当ですとも。古来より、相撲は神様にお見せする神事です。きっと、あなたたちの相撲を喜ばれたのでしょう」

 ぱあっと虎夜刃丸の顔に赤みが戻る。

「じゃあ、ここで相撲をとっても、大丈夫だね」

「ええ、村のこどもたちにも声をかけてあげなさい」

 にこりと頷く久子に、怖気おぞけを晴らした虎夜刃丸が笑顔をこぼした。


 ところは変わって京の都。四条猪熊いのくま坊門ぼうもんの楠木屋敷を、とある客人が訪ねて来ていた。

 楠木正成は客人を上座に上げると、下座で頭を低くする。

「中納言様、お久しゅうございます」

「久し振りであるな、正成」

 訪ねてきたのは公卿くぎょうで、万里小路までのこうじ藤房ふじふさという。帝(後醍醐天皇)の側近であり、元弘の折は付き従って笠置山かさぎやまに入り、討幕の兵を挙げた。最初に正成を頼ろうと言い出したのは、観心寺の龍覚りゅうかくを通じて見知っていたこの藤房である。自ら水分すいぶんの楠木館を訪ね、正成に挙兵をうながした。

 笠置山が落ちた時は、帝と第四皇子の宗良むねよし親王を守って赤坂城(下赤坂城)を目指した。しかし、有王山ありおうざんで道に迷っているところを幕府方に見つかり捕縛ほばくされる。そして、帝が隠岐に送られると、藤房は常陸国ひたちのくに配流はいるとなっていた。

 しかし、この度、鎌倉幕府が滅亡したことで帰京を果たし、中納言に復職したところである。

 本来、武士の屋敷を、中納言が一人で訪ねてくる事などあり得ないことである。だが、御輿みこしも牛車も使わず、供も付けずにふらっと訪ねてくるあたりに、藤房の人柄ひとがらと、度量の大きさがにじみ出ていた。

「正成、よう御上おかみ御還幸ごかんこうを実現された。やはり、そなたを頼ってよかった」

「中納言様、もったいなきお言葉。痛み入ります」

 しみじみと言う藤房に、正成は一礼で応じた。

「正成、京の屋敷はいかがか」

「このような立派な御屋敷、田舎育ちのそれがしには何やら落ち着きませぬ。されど、落ち着かぬ原因がもう一つ」

「はて、何を気にしておる」

 不思議そうな顔で、藤房は目を向けた。

信貴山しぎさんにおられる大塔宮おおとうのみや様(護良もりよし親王)のことにございます。帝が京に戻られてから、はや七日。いまだ京へお戻りになる気配がございませぬ」

「むう、宮様に何かお考えがあるということか」

「おそらく足利殿の動きを気にされておられるのでしょう」

「宮様は足利を信用していないということか……」

 藤房は一度目を閉じ、困り顔を正成に返した。

御意ぎょい。足利殿が警護のためと、六波羅に奉行所を開いたことを、警戒されておられるのでしょう。されど、宮様が足利殿を敵視すれば、足利殿も宮様を敵視します。足利殿は血筋、人柄ひとがらといい、武士に信望がございます。早く宮様を京へお戻しすることが、要らぬ争いを生じさせないことかと存じます」

「なるほど、そうであるな。麿から御上おかみに奏上してみよう」

 藤房は、正成の献言を素直に聞き入れる。身分の上下を気にせず、武士に対しても対等に付き合おうとする藤房は、公卿くぎょうにしては珍しい人物であった。


 万里小路までのこうじ藤房からの奏上を受けた帝(後醍醐天皇)は、ただちに近臣の坊門ぼうもん清忠きよただ信貴山しぎさんつかわした。

 討幕の挙兵前、清忠は帝の側近として参議さんぎにまで栄達していた。だが、帝が笠置山に動座した際は、これに同行することはなかった。笠置が落ちた後は自ら参議を辞して配流はいるを免れた。しかし、幕府が滅び、還幸かんこうの行列が京に近付くと、いったん京を出て洛外らくがいで帝を出迎える。そして、ちゃっかり、行列の一員として京に凱旋していた。この度、帝より親政を助けるように命じられ、再び参議に復したところであった。

 その清忠が信貴山しぎさん朝護孫子寺ちょうごそんしじに入ると、毘沙門堂びしゃもんどうに腰を据える護良もりよし親王の前に通される。かたわらには中納言の四条隆資たかすけと、その息子で左少将の四条隆貞たかさだ、さらに赤松円心の三男、赤松則祐そくゆうらを従えていた。

「宮様、いまだに御上洛の運びとなられない旨、いかなる理由がありましょうや。御上おかみは痛くご心配のご様子でございます」

 頭を低くした清忠は、おずおずと、上目使いに親王の様子をうかがった。

「そちは存じておるのか。六波羅が落ちた直後、御上おかみ(後醍醐天皇)が京へ御戻りになられる前から、足利が奉行所を開いていることを」

 それは、まるで清忠を詰問するかのような口振りであった。

「そのことなれば京の治安を守るため。六波羅が落ちて以降、京では盗賊が町屋を襲い、人々が難儀しております。見かねた足利が奉行所と番所を置いて、京の安寧を守っておるだけのこと。御上おかみもお喜びになられておられます」

 親王の近臣、殿法印とののほういん良忠りょうちゅうの僧兵二十人も、町屋に強盗に入ったため、捕まって首を刎ねられていた。

 これに対して、親王は首を横に振る。

が言いたいのはそのことではない。奉行と称して、武士どもから軍忠状ぐんちゅうじょう(武功の申告書)を受け、恩賞を与える手形を与えているそうじゃな。いつから足利に、そのような権限が与えられたのじゃ。恩賞の配分は足利が決めることではない」

「あ、いえ……もちろんそれは御上おかみも許されますまい。さりながら宮様、足利が行っているのは、御上おかみの御指図を受けるまでの間の、単なる記録所でございましょう。朝廷の……御上おかみの沙汰がない限り、足利は何の恩賞も与えることはできませぬ」

 すると親王の目がかっと開く。

「誰が御上おかみの沙汰を武士に伝えるのじゃ。足利が武士の軍忠を受けて奏上し、御上おかみ(後醍醐天皇)の沙汰を足利が武士に伝えるならば、それこそが足利の狙い通り。奉行所がいずれ幕府となろう」

 その指摘に清忠は顔を引きつらせる。

「み、宮様は、足利が北条に成り代わり幕府を開こうとしていると……」

「そうじゃ。此度こたび、幕府を裏切って六波羅を攻めたのも、きっと、帝の世を創るのが目的ではない。単に北条を倒すよい機会と思うてのことじゃ。次は征夷大将軍を求めてくるであろう。その野望をくじくまで、はこの山を降りぬ」

 親王の強固な姿勢に、清忠は困惑の表情を浮かべる。

「宮様、ではどのように致せば、京へお戻りいただけましょうや」

「うむ、征夷大将軍が空位では、足利の野望は収まるまい。ひとまず、を征夷大将軍に任じるよう御上おかみに奏上致せ。高氏の野望を押えるには今が肝要じゃ」

「……」

 清忠は表情を曇らせて絶句した。ひとまず護良もりよし親王の要望を預かって、信貴山しぎさんを降りるしかなかった。


 一方、六波羅に奉行所を開いた足利高氏にも言い分があった。

 京は、護良もりよし親王が諸国の武士に討幕の令旨りょうじを乱発していたため、恩賞を求める武士で混乱し、これを放置することはできなかったからである。

 私設の奉行所は、このような者たちであふれていた。

御館おやかた様、毎日毎日、奉行所に人々が押し寄せ、とてもまかないきれませぬぞ」

 足利家の執事、高師直こうのもろなおが、頭を抱えながら、高氏に不満を漏らした。

「では、六波羅の北の館も使え。とにかく記録所を増やし、人を増やして対応するのじゃ。佐々木道誉にも手伝いの者を寄越すよう申せ」

 高氏が師直もろなおに命じているところに、舎弟、足利直義ただよしが現われる。

「兄者、単に人を増やしただけでは問題は片付かんぞ。帝の御綸旨ごりんじと、宮様方の御令旨ごりょうじ、特に大塔宮おおとうのみや様(護良もりよし親王)の御令旨ごりょうじは、討幕のために乱発されておる。いずれも、幕府滅亡のあかつきには、どこどこの荘を与えるというものじゃ。たとえ領国が倍あってもまかない切れぬ」

 無責任な綸旨と令旨りょうじに、直義ただよしあきれていた。奉行所を訪れる者は恩賞を求める武士だけではなかった。

「御舎弟殿(直義ただよし)の言われることに加え、大塔宮おおとうのみや様の御令旨ごりょうじを盾に、他人の土地を力付くで横領する武士が続発しておるようです。奉行所は、横領された側の者たちでもあふれかえっております」

 師直もろなおはそう言いながら、人の多さを両手で拡げてみせた。

「うむ、確かに直義ただよしが言う通り、このままでは収集が付かぬな。せめて、大塔宮おおとうのみや様の御令旨ごりょうじだけでもなかったことにしてもらわねば……機会をみて、わしから帝に奏上してみよう」

 高氏は重い溜息をついて、まぶたの上から軽く目を押さえた。


 信貴山しぎさんから京に戻った坊門清忠は、帝(後醍醐天皇)に仔細を報告するため、内裏だいり参内さんだいする。そのかたわらには、千種ちぐさ忠顕が当然のような顔をして控えていた。

 帝の機嫌をうかがいながら、言葉を選ぶ清忠の首に、つぅっと冷たい汗が流れる。

「……以上の次第でございます」

 報告を聞き終えた帝が、眉間を指でつかむようにして、ふうと小さく息を漏らす。

「宮(護良もりよし親王)はそのように申しておったか……されど、何の証拠もなく高氏(足利高氏)を疑うわけにもいかぬ。まずは平穏な世を取り戻すことが先決じゃ。いかにしても宮を、信貴山しぎさんから戻さなければならん。さもなければ、この長い戦は終わりを迎えたことにはならぬ」

「それでは……」

 清忠は帝の言葉を待った。

「うむ、やむをえん。ひとまず宮を征夷大将軍に任じよう」

「はっ、承知つかまつりました」

 勅命ちょくめいに清忠はかしこまった。

「それにしても、土地の所有を主張する武士が、大挙、京へ押しかけておるそうじゃな。討幕のためとはいえ、宮(護良もりよし親王)の令旨りょうじには困ったものじゃ。なんとかせねばならんのう」

 すると、千種ちぐさ忠顕が帝に身体を向けて頭を下げる。

「全ては大塔宮おおとうのみや様が、京へお戻りあそばしてからかと存じます」

「うむ……宮の顔をつぶすような真似はしたくはないのじゃがな……」

 帝は、悶々とした感情をぶつけるが如く、手にした扇をばちんと閉じた。


 南河内の赤坂城(下赤坂城)では、虎夜刃丸が兄、多聞丸に付いて、やぐら登りを練習していた。

 何度か梯子はしごを登ってみるが、どうしても脚がすくむ。途中で止まるたびに兄に助けを求めた。そして、同じ歳の従弟、明王丸がすでにやぐらを登れることに、生まれて初めて悔しさを噛み締めていた。

 そんな虎夜刃丸の両肩に、多聞丸がそっと手を置く。

「虎、なぜ、そなたがやぐらを登れぬかわかるか」

 もちろん、虎夜刃丸にはわからない。ぶるぶると首を横に振った。

「それはな、虎がこの梯子はしごを、高くて恐いと思うておるからじゃ」

「兄者は違うのか」

「わしとて恐いぞ。下を見ると脚がすくんでしまう。されど、わしが梯子はしごを登るときは、梯子はしごの高さを忘れることにしておる」

「どうやったら忘れることができるのじゃ」

「虎よ。梯子はしごを登るには目的があるはずじゃ。館の中で梯子はしごを使う時は屋根裏に上がる時じゃ。屋根裏に上がるのは、荷物を取りにいく時じゃ。では、やぐら梯子はしごを登る目的は何じゃ」

「えっと……やぐらの上に登るため」

 素っ頓狂な虎夜刃丸の答えに、多聞丸は、ぷぅっと吹き出す。

「あはは、そうじゃ。それで、やぐらに登ってから何をするのじゃ。敵を見張るためであろう。敵はどちらの方から来ておるのか、どのくらいの人数か、さまざまな事を調べなければならん」

「うん……」

「早く敵のことを調べて、味方に伝えなければならん。遅れれば、敵は攻めてくるのじゃぞ。虎、今度は、向こうから敵が来ているかも知れぬと思って、もう一度、登ってみよ」

「うん、判った、兄者」

 梯子はしごに手をかけると、しっかりと足で梯子はしごの横木を踏みしめる。

(えぇっと、敵はあっちからくるんだっけ……でも、陣屋が邪魔で向こうは見えない……もう少し上に行ったら見えそうだ……あ、だんだん見えてきたぞ。反対側からも敵が来ているかも……)

 虎夜刃丸は呟きながら、梯子はしごを一段一段上った。

「あっ」

 思わず虎夜刃丸は声を上げた。右手がやぐらの床板に届いたのだ。

 梯子はしごを登り切った虎夜刃丸は、やぐらの上に座り込んだ。

「兄者、登ったよ」

 笑みを浮かべて、やぐらの上から叫んだ。

「やったな、虎」

 すぐに多聞丸がやぐらの上に顔を出した。虎夜刃丸にもしものことがないよう、すぐ後ろを追って梯子はしごを登って来ていたのであった。

 多聞丸がやぐらの上に虎夜刃丸を立たせる。

「なあ、虎。自分がやらねばならん事を考えておれば、足元を見る暇はなかったであろう」

「うん、陣屋の向こうが気になっていたから……」

 弟の言葉に、多聞丸は嬉しげに目を細める。

「見てみよ、この河内の山々を。父上はここから日の本を変えたのじゃ。我らの父はすごい人じゃ。わしも父上のようになりたい。時折、このやぐらに登り、わしには何ができるだろうと考えるのじゃ」

 そう言って多聞丸が連々と重なる山々に目をやる。

 その横顔は、いつか赤坂城で見た父の横顔に似ていると思う虎夜刃丸であった。

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