第 5 話 還幸
元弘三年(一三三三年)五月も終わりの頃、千早城は、青葉に取って代わった濃い緑に包まれていた。季節の変り目に降る大雨が、一気に時を進ませたようである。
その本丸(主郭)に建つ陣屋の奥の間。楠木正成が妻、久子の手を借りて、真新しい
これを、不思議そうに虎夜刃丸が見上げている。
「また戦なの」
幕府が滅びたというのに、なぜまた武具を付けているのか、理解できないからであった。
「
きらり、虎夜刃丸の目が輝く。
「帝に会うのか」
「お会いできるかどうかは行ってみないとわからん」
そう言って、虎夜刃丸の頭をくしゃっとつかむように手でなでた。
「三郎兄者(正成)、こっちは
同じく
そこに、どたばたと先を競って現れたのは多聞丸と持王丸。
「父上、それがしも一緒にお連れくだされ」
「わしも行きたい」
せがむ兄たちを見て、虎夜刃丸も父の足にすがる。
「わしも、わしも」
「これ、父上を困らせてはなりませぬ。虎夜刃丸まで行きたがるではありませぬか」
兄たちを
「こどもたちはわしと留守番じゃ」
「え、五郎叔父は行かぬのですか」
「帝に拝謁したくはないのですか」
多聞丸と持王丸が、矢継ぎ早に正氏に振り返った。
「わしとて帝に拝謁したいが、留守役も必要じゃ。それにやることもあるしな」
頷きながら、正成が言葉を加える。
「うむ、
「うむ、承知した。多聞丸・持王丸、そういうわけじゃ」
「……」
居残る正氏に、二人はそれ以上何も言えなくなった。
「お前たちは五郎に付いて、城の
「
父の言葉を、持王丸が繰り返した。
「そうじゃ。
すると、
「新たに城を造るのでございますか」
「そうじゃ。この千早城は、守りの砦としては有能じゃが、この山深い地をいつまでも我らの根城にはできぬ。それに、焼け落ちた楠木館も建て替えなければならん。よいな」
気を切り替えて、多聞丸が頷く。
「父上、承知しました。五郎叔父に付いて、
すると虎夜刃丸も、うんっと大きく頷く。
「虎も承知しました」
「おお、虎も
喜色満面で目を細める正成につられ、一同も微笑みを注いだ。
正成・
五月三十日、
楠木正成が兵庫に向かっているとの報に接した帝(後醍醐天皇)は、ここで楠木党を待つことにしたためである。
そして、六月二日。その正成が兵を率いて
正成は舎弟、楠木
「これは正成殿、待っておったぞ」
「おお、
馴れ馴れしく出迎えたのは、播磨の豪族、赤松円心。正成の親族が円心の弟に嫁いでいたために、互いに顔を見知っている。円心は五百余騎を率い、一足早く帝の出迎えに馳せ参じていた。
「
「いや、円心殿の御活躍も聞きおよんでおります。お互い、大儀が果たせ、何よりでござる」
二人は、肩を叩き合って互いの労をねぎらった。
「楠木殿、お久しゅうござる。赤坂城以来でございますな」
振り向くと、円心の三男、赤松
「おお、これは
「はい……ただ残念なのは、村上
正成は、
その、しんみりとした話を円心が変える。
「そうじゃ、先にわしは帝に拝謁を済ませたぞ。
直接声をかけられたことを、満足げに話した。
「円心殿は、早くから三郎殿(
「うむ、話も尽きぬが、まずは帝に御拝謁されよ。正成殿の到着を、まだかまだかと首を長うしてお待ちであった」
円心に
その手前で、男盛りも晩年とおぼしき者が待ち受けていた。
「それがし、
そう言って正成の手を取ると、何度も頷いた。
その、人のよさそうな田舎武士の風情に、正成が
「名和殿こそ、よう帝をお護りなされた。我らが千早城で幕府を相手に戦えたのも、帝がご安泰なればこそ。こちらこそ、礼を申し上げなければなりませぬ」
長年は長年で、河内の悪党とも
さっそく長年は正成を、
両ひざを付いた長年が、
「その
「はっ」
身を固くして、正成はひれ伏した。
「正成であるか」
「楠木
伝奏役の行房が正成に言葉を求めた。
「はっ。楠木
正成は、よりいっそう頭を低くして答えた。
「
急かされて、行房が慌てて
「正成、
下を向いたまま、正成は微かに顔を赤くする。
「は、覚えておりまする。恐縮に存じます」
「頭を上げよ。
「はっ」
正成がゆっくりと目線を上げる。久方ぶりに拝謁する
その穏やかな瞳に正成の顔を映した帝が、こくりと頷く。
「うむ、
「もったいなきお言葉、この正成には身にあまりまする。それがしはこの日がくることを信じ、もう一度、
「うむ」
幾度も頷く帝の
「これより京への道、この正成に……楠木一党に先陣を命じる」
思いがけない帝の
かつての征夷大将軍、
「は、ありがたき幸せ。慎んでその大役、務めまする」
正成は、身が引き締まる思いで拝命した。
その頃、虎夜刃丸たちは山深い千早城を出て、いったん赤坂城へ入っていた。
その本丸にある仮造りの陣屋の外。虎夜刃丸は、
「えいっ」
気合を入れて明王丸が腕を引くと、虎夜刃丸がころりと転んだ。
あきれたように満仁王丸が声を上げる。
「虎は弱いのう。十回続けて明王丸の勝ちじゃ」
「明王、もう一回」
それでも、飽きもせずに立ち上がる。だが、悔しがっているわけではない。何度も首を傾げながら、手足を動かして組み方を考えていた。
「えぇぇ、もういいよ、飽きた」
勝った明王丸の方が、虎夜刃丸のあまりのしつこさに根を上げた。
そこへ、美木多正氏が、多聞丸と持王丸を連れて戻ってくる。
「お前たち、よい子にしておったか」
「父上(正氏)はどこに行っておったのじゃ」
「新たな館と城の場所を検分しておった」
目を輝かせた満仁王丸が、じゃれるように父の腕を
「館と城……わしも見たい」
「明王も見る」
明王丸も正氏の腕にしがみついた。
「虎も見たい」
同様に虎夜刃丸は、長兄、多聞丸の腕を
すると、次兄の持王丸が虎夜刃丸に振り返って大人ぶる。
「駄目じゃ駄目じゃ。わしらはまだ仕事がある。お前たちと遊んでやる暇はないのじゃ」
「うむ、お前たちも、また今度な」
正氏も二人の息子を軽くあしらって陣屋に向かった。
その広間では、美木多正氏の妻、
「旦那様、お帰りなさいませ」
久子も、楠木
「五郎殿(正氏)、今日はどこに見分に行かれたのですか」
「兄者(正成)とは、あらかじめ幾つか候補を決めておったのじゃが、今日は本命の
久子の問いに答えながら、正氏は
「桐山……土居砦があるところですね」
先の戦で使った土居砦は、久子らも何度か行ったことがあった。桐山は千早城から燃え落ちた楠木館の方へ向かって伸びる金剛山の支脈にある。その北端が土居砦である。
「そう、その桐山です。そうじゃ、
「そうは言っても、千早から赤坂城に入ったばかりですから、女たちはやることがたくさんあります……でも、そうですね。一段落すれば、こどもたちを連れていってやりましょう」
そう言うと、久子は外のこどもらに伝えるべく、立ち上がった。
京の都では、帝(後醍醐天皇)が戻ってくるということで、公家も武家も
「
「大そうな行列だそうじゃ。京を落ちられる時とは大違いじゃ」
「何でも、わざわざ京を出て、
「何とも虫のよいお方たちじゃな。京を落ちられる時に随行されたのは、一条様と
あちらこちらで、口さがない
「行列の先陣は楠木じゃと」
「おお、千早城で幕府を
「帝も思い切ったことをなさる。いくら活躍したとはいえ、一介の土豪じゃ」
「いや、いわゆる悪党であろう」
これに、隣の他人までもが首を突っ込む。
「いやいや、何でも祖先は、源頼朝公の上洛に随行した関東の御家人と聞いたが……」
「わしは、かつて、観心寺の得宗領に
「いや、河内の出じゃ。太子御廟の近くの石切り場は、昔から楠木という
彼らのもっぱらの注目は楠木正成であった。
「兄者、楠木の人気はすごいようじゃな。六波羅を討ったのは、われら足利じゃというのに」
「ははは。兵馬も少なく、名もない者じゃからよいのであろう。いつの世でも、意外な活躍をしたものが話題となる」
もちろん、
「古来、朝敵を討伐して京へ凱旋したものは多い。我らが祖先、八幡太郎義家や、その父で前九年の役の英雄、源頼義もそうじゃ。されど、
「
「ふふ、兄者は
「
高氏は声を上げて
「さ、兄者。我らも帝のお出迎えをせねばなりませぬ。急ぎ六波羅に戻りましょう」
足利軍は、幕府の
足利高氏・
その前に行列がやってくる。菊水と
「あれが楠木党か。
「
兄の素直な疑問に、博覧強記な弟が応じた。
「なるほど、天が定めし道を歩む者か……あの兜、
高氏はじっと正成を見つめた。
一方、行列の楠木正成らも足利高氏に気がつく。
丸に
「兄者、あの真ん中の武者、あれが足利高氏殿か」
「うむ、その隣が御舎弟、足利
行列を
「楠木三郎正成でござる」
「足利又太郎高氏でござる」
名乗り合うと、どちらともなく互いに口元の力を抜いた。
「足利殿、お会いできるのを楽しみにしておりましたぞ。こうして拙者が生きておりますのも、足利殿が六波羅を討ったおかげ」
「いや、それがしの方こそ、楠木殿にお会いするのを楽しみにしておった。赤坂城、千早城と大軍を凌いだ貴殿のお手並み、おおいに感じ入り申した」
「拙者は賭けたのです。
「楠木殿、何やら貴殿とは気が合いそうじゃ。今後ともよしなに」
その言葉に、正成は礼に代えて微笑みを返す。と、再び馬に跨り、行列の先頭に戻った。
「兄者、高氏殿はどうであった」
「うむ、
正成にとって高氏は、思った通りの男であった。
六月四日、京へ凱旋した帝(後醍醐天皇)の行列は、ひとまず
京に戻ってまず最初に、討幕の武力を背景に、鎌倉幕府が打ち立てた持明院統の帝(
寺の
楠木正成は、
「
「ははっ」
仰々しく、行房が
「
あまりのことに、正成は息を飲み込む。それは、はるかに期待を越えるものであった。
鎌倉時代も末期になると、守護は地頭を配下に組み込むなど領主化を進め、国司の形骸化が進行していた。帝はこれを良しとせず、国司に、租税の徴収を含む行政全般の権限を復活させたいと念じていた。つまり廷臣、主たるは公家の力を高め、律令国家(中央集権国家)に戻そうということである。そのためには、武士によって強大化した守護の権限を縮小させて、本来の治安と軍事のみに専念させる構想を描いていた。
にもかかわらず、一介の土豪であった正成を、守護ばかりか二か国の国守(国司の長)とした。帝がどれほどの恩義を感じていたかを示すものであった。
「行房、
すると行房が
顔を見せた帝は、ゆるゆると口元を
「正成、
直に掛けられた労いの言葉に、正成は大きく息を吸い込む。
「ははっ、まことにありがたき幸せに存じます……されど……」
帝の言葉を打ち消す正成に、
「……それがしはこうして生きております。義兵を挙げども志を遂げられず、討たれた者も
一瞬、気を揉んだ
謙虚な正成に、帝は
「なるほど、そちは武勇に優れ、知略に長けるだけでなく、
「はっ。もったいなきお言葉。それがしの生涯の宝と致します」
身に余る
他の
足利高氏はこの時、
鎌倉攻めの立役者、新田義貞は遠く鎌倉の地。叙任は先の話となる。
その鎌倉攻めで一翼を担った
そして、赤松円心は、この度の
ところは変わり南河内。虎夜刃丸の姿は焼失した楠木館から少し南に行った小高い丘の上にあった。そこは、刈った端から伸びようとする雑草の、生命力あふれる匂いに満ちていた。
同行したのは母の久子と叔母の良子。従兄弟の
丘の真ん中で、虎夜刃丸がぐるりと周囲を見渡す。北は掘のような川を挟んで旧館跡へと視線が抜ける。南は青々と茂る木々を重そうに抱える桐山が、ついそこに迫っていた。
「ここに館を建てるの」
「そうですね……」
問われた久子もわからない。つい、左近の顔に目が行った。
「奥方様、我が子、満一が桐山に入っておりますので、ここに呼んで話を聞きましょう」
「左近殿、どうぞ、お構いなく」
満一に申し訳ないと左近を留めた。だが、左近は久子に対して
半刻が過ぎ、恩地左近が息子の満一を連れて、虎夜刃丸らの前に戻ってくる。すでに満仁王丸と明王丸は待ちくたびれて、母、良子の手を引いて、どこかに消えていた。
辛抱強く待っていた虎夜刃丸だが、我慢の限界とばかりに満一に駆け寄る。
「ここに館を建てるのか」
「満一殿、忙しいところ申し訳ありませぬ。館の
後ろから久子も歩み寄り、恐縮しきりに言葉を被せた。
「はい。館はこの丘の上に造ります。されど、それだけではありませぬぞ。桐山の上に城を築きます。新しき赤坂城(上赤坂城)です」
「赤坂城の場所を変える……ということですか」
疑問を浮かべる久子に、隣から左近が口を挟む。
「今の赤坂城は二度も落城しております。
満一が頷き、話を引き取る。
「新たな楠木館と新たな赤坂城は、一本の道を繋げて一体の
「戦……」
「左様、奥方様。この城からは四方を見渡すことができ、金剛山から続く水脈で、水に困ることもありませぬ。戦となれば今の赤坂城(下赤坂城)より、よほど役に立ちます」
この後も、満一は館と城の
不安げな表情を隠しきれないまま、久子は満一に問いかける。
「殿は、まだ戦が続くと思われておるのですか」
「さあ、それはそれがしにもわかりませぬ。ただ、他にも城を幾つか造るように命ぜられました。
「されど、鎌倉の幕府が滅び、帝が京に戻られるというのに、赤坂城の場所を変え、他にも新たな城を造るとは……」
久子は、夫、正成が、乱世を予言しているようで怖かった。
左近が、眉を曇らす久子に気遣う。
「万が一の備えでしょう。楠木は有名になりました。一介の土豪の備えというわけにはいかぬのです」
「そうですか……でも、いったい殿には、何が見えているのでしょう。ねえ、虎夜刃丸」
そう言って久子は視線を落とす。その不安げな母の顔を、虎夜刃丸は首をひねって見上げた。
そこに、満一が笑顔を見せて、しゃがみ込む。
「では、虎夜刃丸様、新たな城の場所を
「う、うん」
その表情に釣られて、虎夜刃丸に笑顔が戻る。
ところが、久子がすかさず首を横に振る。
「いえ、
「えぇ、行かないの」
顔を
「満一殿たちは、忙しいのです。我らが行っては仕事の邪魔。それに良子殿らもどこかに行ったきり。またの機会と致しましょう」
「えぇぇ」
不満げな声に続けて、ぷうっと頬を膨らませた。
その様子に満一は目を細めながら、立ち上がる。
「奥方様、お気遣い痛み入ります。では、お言葉に甘え、それがしは仕事に戻りましょう」
桐山へ戻る満一の背中に向けて、左近が声をかける。
「よいか満一、殿が京よりお戻りになられる前に、城造りの段取りを整えるのじゃぞ。この地を検分し、必要となる石や木材、
ふうぅと息を吐き、満一が振り返る。
「父上、わかっており申す。我らにお任せを。赤坂・千早の城造りで要領は得ております。父上はもう御歳ゆえ、ゆっくりと我らの手並みをお見守りくだされ。では、奥方様、失礼します」
そう言って桐山に戻っていった。
立ち去る息子の背中を目で追いながら、左近は顔を赤くする。
「満一め、わしを年寄り扱いしおって。まだまだわしは若い者には負けぬぞ」
「よいではありませぬか。満一殿にお任せしましょう。殿もこのところ、大そう頼りにしているご様子。左近殿はほんによき跡継ぎに恵まれましたな」
「いやはや、
「まあ、左近殿」
照れ笑いを浮かべて頭を
そこに満仁王丸・明王丸兄弟が、母、良子の手をひいて戻ってくる。
「虎、満一殿はまだか」
「遅いよ、
「桐山……」
「うん、城の
「えぇぇ」
満仁王丸は明王丸と顔を見合わせ、
「じゃあ、母上、われらだけで行ってもよいか」
良子は、いったん久子の表情を
「桐山の向こうには
「
虎夜刃丸も聞いたことのある名であった。
「そうですよ、
久子にも脅かされ、幼い虎夜刃丸と明王丸は顔を強張らせて帰路に着いた。一方、年上の満仁王丸は、皆の背中と反対側にある桐山、交互に目を配り、ちぇっと口を尖らせ、皆の跡を追った。
この頃、
昼でも薄暗い御堂の中で、赤松
「
労いの言葉をかけられ、
「は、ありがたき幸せ。父、円心もこちらに向かっております」
「左様か。で、京の様子はどうじゃ」
「は、それですが、足利高氏が京の治安を守るという名目の元、六波羅が落ちた直後から私設の奉行所を開いております」
「奉行所とな」
「
「捕縛じゃと……」
「足利高氏は、六波羅攻めに際し、足利の名で各地の武士に出陣を
「その書状とは、まるで、北条幕府が御家人に与えた
「御意、足利は幕府を成す重鎮でした。油断はなりませぬ……」
父、円心から、足利への警戒心を解かぬよう
「……鎌倉の幕府亡き今、武家の筆頭は、何といっても源頼朝公と同じ八幡太郎義家の血筋である足利です。幕府を開いても、何の不思議もございませぬ」
「むぅ、足利は第二の頼朝になるつもりか。幕府の象徴である六波羅を牛耳られたのは失敗であった。しばらくはここで足利を牽制してみるか」
虎夜刃丸らが、新たな館の
「治郎殿じゃ」
明王丸と剣術の真似事をしていた虎夜刃丸は、木刀代わりの木切れを投げ捨て、走り寄った。
「虎夜刃丸殿、少し見ぬ間に大きくなりましたな……」
そう言って虎夜刃丸の頭を
「……御母上や正氏殿はどちらかな」
「こっちじゃ。虎が
「明王も
二人に手を引かれ、元成は陣屋へ入る。
広間では、恩地左近を傍らに、美木多正氏がおおっと大声を上げ、元成を迎えた。
その声で久子が、良子や多聞丸らを連れて顔を出す。
「治郎殿、
身重の
「はい、お陰様で無事にこどもらが生まれました」
「こどもら……」
「双子が生まれたのです。元気な
その言葉に、一同がほぉと感嘆の声を上げた。
正氏が、丸く大きな目を細める。
「それは、めでたさも倍じゃな」
大人の会話に虎夜刃丸が首をかしげ、久子の小袖を引く。
「母上、双子って何」
「赤子が二人いっぺんに生まれたのです」
そんなことがあるのかと、虎夜刃丸は目を白黒させる。
長兄の多聞丸が、そんな末弟の姿に笑顔をこぼしながら、話の続きを促す。
「それで、名は何と」
「
「もちろんじゃ。任せてくれ」
頼もしげに、次兄の持王丸が胸を叩いた。
はたと元成が周囲を見回す。
「ときに、澄子殿の姿が見えませぬな」
「ええ、いま、澄子殿は寝床で伏せております」
気にする素振りも見せず、良子が応じた。
「お加減がよくないのですか」
心配する元成に、久子は口元を緩めて首を横に振る。
「こちらも、おめでたです。つわりが酷くて……横になるように申し付けております」
「あ、なるほど。ついに七郎殿(楠木
一門にとっては、厳冬を耐え忍んだ後、一斉に芽吹く新芽のごとき慶事であった。
さらに、元成の手元の書状が彩りを添える。
「京に
そう言って、城代の正氏に書状を渡した。
正氏はこれを勢いよく広げて目を落とす。そして、読み終えるや否や、目を
「な、何と、兄者が河内国と摂津国の国守に。さらに、両国と
「殿が国守と守護に……」
書状を回された久子であったが、目を落す間もなく絶句する。こどもたちも、すぐには事態を飲み込めず呆然としていた。
虎夜刃丸が、ほわっとした顔で正氏に視線を合わせる。
「こくしゅって何。しゅごって何」
「ううむ、お前の父は河内の中で一番偉い人になったのじゃ」
「えぇっ、なぜ父上はそんなに偉くなったのか……」
「この日の本で一番偉い帝から、河内と摂津と和泉を預けられたのじゃ」
叔父の説明にも、虎夜刃丸は釈然としない。身近な父が急に偉くなったことが、不思議で仕方がなかった。ただ、帝はとてつもない力を持っていると理解したのはこの時であった。
「京におった一座の者は、帝の
皆が身を乗り出す中、虎夜刃丸が、今度は多聞丸の袖を引く。
「父上は、大事なお務めをされたのか」
「おお、そうじゃ。都への凱旋というと、八幡太郎(
「へえ……父上はすごいのう」
そう言って、父が馬に跨って行列を率いる姿を頭に描いてにやついた。
京では、楠木正成が朝廷より四条
「兄者、なかなかよい屋敷よのう」
「うむ。
舎弟、楠木
「七郎(
「もちろんじゃ。承知した」
慣れない京で苦労するであろう兄の力になることに、
「さすれば、
うむと頷いた
「守護国としては河内国、和泉国、摂津国の住吉郡、さらに所領としては、河内国
「河内は五郎(美木多正氏)に任せることとして、問題は他の所領じゃ。摂津の分国は七郎、お前に任せたい。京とのかけ持ちで忙しくなるであろうが、ここは親しいものでなければならん。よろしく頼むぞ」
「なあに、兄者。わしに遠慮はいらぬわい。で、和泉はどうする。やはり
「うむ、下国とは言え、
「兄者、東国の
「うむ、新太郎をと考えておる」
新太郎とは、その
「確かに新太郎は見込みある男じゃ。とはいえ、まだ若い。奴の名で
「うむ、そこで、楠木を名乗らせてはどうかと思うておる。奴とて、楠木の血を引いておるのじゃからな」
「なるほど、この戦で楠木は有名になった。それはよい考えじゃ」
「後は追々、決めるとしよう。ああ、そうじゃ……」
ついで思い立ち、正成がひざを叩く。
「……久子やこどもらを呼んで、一度京を見せてやるか」
「ならいっそ、姉上たちをここに住ませればよかろう」
「いや、久子には河内で子を育ててもらわねばならん。わしらの拠点はやはり河内よ。
まだ北条の残党も畿内や各地で力を持っており、平和な世は一筋縄ではいかない状況であった。
「わしも澄子を呼んでやりたいが、今は身重じゃ」
「そうじゃな。今は大事な時期じゃ。子が生まれるまでは、
兄の言葉に
後に、甥の和田高家は楠木正成の
その父、和田
翌日のこと。虎夜刃丸と
「持王の兄者、城はまだなのか」
満仁王丸が不満顔で持王丸にたずねた。かれこれ一刻は歩いていた。虎夜刃丸と明王丸も疲れ顔でとぼとぼと後に従っていた。
「ううん、おかしいな……確かこの道であっていたはずじゃが……」
「え、迷ったのか」
「何じゃとっ……」
先頭を切る持王丸が、満仁王丸の言葉に顔を赤くして振り向く。
「……お前たちがどうしてもというから、
声を荒げる持王丸に、満仁王丸はあきらめ顔で肩をすくめた。
「兄者、疲れた」
「わしも……」
まだ四歳の虎夜刃丸と明王丸には、酷な山道であった。
「ちょっと待っておれ」
しばらく歩くと、四人の前に開けた土地が広がった。
精も根も尽き果てた虎夜刃丸が、虚ろに顔を上げる。
「お
こどもたちは、神社の横手から境内に抜け出ていた。
「ああ、そうか、ここは
一人得心する持王丸に、満仁王丸の腰がくだける。
「ということは、
「
だが、
「何じゃ、怖いのか。
恐れを知らぬ満仁王丸が、野放図に二人を笑い飛ばした。
ここがどこかが判れば、帰るのはもう大丈夫である。一息ついて、すっかり安心したこどもらは、広い
山の上にある
「虎、負けるな。明王を投げ飛ばしてみよ」
「何の明王、虎を押し倒せ」
幼い二人の取り組みを、双方の兄が応援した。
「えいっ」
気合とともに、またも明王丸が虎夜刃丸を転がした。
毎度負け続けの虎夜刃丸は泥だらけ。しかし、あらかじめ二人は着物を脱ぎ、腹掛だけで相撲を取っていた。
本殿の
「虎は何度やっても勝てぬのう」
ふうと息を吐いて、竹筒の水を口に含んだ。
虎夜刃丸は、満仁王丸に手を引っぱられて立ち上がる。
「何でわしは勝てないんじゃ」
「お前は身体が小さいからじゃ。もう少し大きくなったら勝てるぞ」
尻の汚れを払いながら、満仁王丸が虎夜刃丸を
「わしも大きくなるから、いつまでも虎は勝てぬぞ」
へへんと明王丸が鼻を高くする。すると満仁王丸は、うぅんと唸って頭を
その時である。一陣の風が
―― やあぁほ ――
神社を囲む
虎夜刃丸が声の主を探して顔を上げる。
「だ、だれ、だれかいるの」
皆も、ぐるっとあたりを見回す。
―― はははっ ――
今度は別の木の上からである。高らかな笑い声に、こどもらは互いに顔を見合わせた。
―― やあぁほ ――
もう一度、声が聞こえた。もう、空耳では済まされない。持王丸までも顔を
「『やあぁほ』じゃと……これが神様の声なのか」
「と、とりあえず……にげろっ」
持王丸の声に、虎夜刃丸らはいっせいに参道を駆け降りていった。
こどもらが立ち去った後、
「確か、こちらの方から聞こえましたが……」
「かあ助っ、かあ助っ」
すると、一羽の
―― かあぁ かあぁ ――
「母上、かあ助じゃ」
幼子がそう言って
「
「うん」
見た目、普通の
―― やあぁほ ――
「ほらね、わしが教えた言葉じゃ」
「本当に、かあ助のようですね。それにしても、言葉をしゃべるようになろうとは、何だか……」
母子は楠木党の武士の妻子であった。
楠木正成が千早に
千早の戦が始まると、母子は親戚を頼ってこの地を離れていた。しかし、戦が終わり、戻ってきて早々、二人で神社に登ってきたという次第である。
母親が、神社の
「こんなところに
あたりを見回すが、もちろん誰もいない。
「……忘れたのかしら」
そう言いながら、社殿へと歩み寄り、服をたたんで縁に置いた。
―― かえる ――
「またね」
「母上、あのあたりじゃ」
「どこですか」
「あそこ」
虎夜刃丸も、背伸びしながら指先を伸ばした。
しかし、久子と良子がいくら目を凝らし、耳を傾けても『やあぁほ』という声の主は見つからない。
「何も見えませんねえ……」
残念そうに久子が答えた。少しは期待していた顔である。
「……あなたたちの聞き間違いではないのですか」
「いや、伯母上、わしら全員で聞いたのじゃ」
満仁王丸も必死に、久子に訴えた。
「母上、わしの着物が」
明王丸が指を差し、良子の視線を神社の本殿に向ける。その縁側には、きれいにたたまれた虎夜刃丸と明王丸の着物があった。
良子が首を傾げる。
「着物がどうかしましたか」
「わしらは
持王丸の言葉を受けて、久子が虎夜刃丸に目線を落とす。
「そうなのですか」
「うん」
すると良子が恐々と周囲を見回す。
「あ、
これに虎夜刃丸が顔を強張らせた。
我が子の様子に久子が微笑み、しゃがんで目線を合わす。
「大丈夫です。
「ほんとに」
「本当ですとも。古来より、相撲は神様にお見せする神事です。きっと、あなたたちの相撲を喜ばれたのでしょう」
ぱあっと虎夜刃丸の顔に赤みが戻る。
「じゃあ、ここで相撲をとっても、大丈夫だね」
「ええ、村のこどもたちにも声をかけてあげなさい」
にこりと頷く久子に、
ところは変わって京の都。四条
楠木正成は客人を上座に上げると、下座で頭を低くする。
「中納言様、お久しゅうございます」
「久し振りであるな、正成」
訪ねてきたのは
笠置山が落ちた時は、帝と第四皇子の
しかし、この度、鎌倉幕府が滅亡したことで帰京を果たし、中納言に復職したところである。
本来、武士の屋敷を、中納言が一人で訪ねてくる事などあり得ないことである。だが、
「正成、よう
「中納言様、もったいなきお言葉。痛み入ります」
しみじみと言う藤房に、正成は一礼で応じた。
「正成、京の屋敷はいかがか」
「このような立派な御屋敷、田舎育ちのそれがしには何やら落ち着きませぬ。されど、落ち着かぬ原因がもう一つ」
「はて、何を気にしておる」
不思議そうな顔で、藤房は目を向けた。
「
「むう、宮様に何かお考えがあるということか」
「おそらく足利殿の動きを気にされておられるのでしょう」
「宮様は足利を信用していないということか……」
藤房は一度目を閉じ、困り顔を正成に返した。
「
「なるほど、そうであるな。麿から
藤房は、正成の献言を素直に聞き入れる。身分の上下を気にせず、武士に対しても対等に付き合おうとする藤房は、
討幕の挙兵前、清忠は帝の側近として
その清忠が
「宮様、いまだに御上洛の運びとなられない旨、いかなる理由がありましょうや。
頭を低くした清忠は、おずおずと、上目使いに親王の様子を
「そちは存じておるのか。六波羅が落ちた直後、
それは、まるで清忠を詰問するかのような口振りであった。
「そのことなれば京の治安を守るため。六波羅が落ちて以降、京では盗賊が町屋を襲い、人々が難儀しております。見かねた足利が奉行所と番所を置いて、京の安寧を守っておるだけのこと。
親王の近臣、
これに対して、親王は首を横に振る。
「
「あ、いえ……もちろんそれは
すると親王の目がかっと開く。
「誰が
その指摘に清忠は顔を引きつらせる。
「み、宮様は、足利が北条に成り代わり幕府を開こうとしていると……」
「そうじゃ。
親王の強固な姿勢に、清忠は困惑の表情を浮かべる。
「宮様、ではどのように致せば、京へお戻りいただけましょうや」
「うむ、征夷大将軍が空位では、足利の野望は収まるまい。ひとまず、
「……」
清忠は表情を曇らせて絶句した。ひとまず
一方、六波羅に奉行所を開いた足利高氏にも言い分があった。
京は、
私設の奉行所は、このような者たちで
「
足利家の執事、
「では、六波羅の北の館も使え。とにかく記録所を増やし、人を増やして対応するのじゃ。佐々木道誉にも手伝いの者を寄越すよう申せ」
高氏が
「兄者、単に人を増やしただけでは問題は片付かんぞ。帝の
無責任な綸旨と
「御舎弟殿(
「うむ、確かに
高氏は重い溜息をついて、まぶたの上から軽く目を押さえた。
帝の機嫌をうかがいながら、言葉を選ぶ清忠の首に、つぅっと冷たい汗が流れる。
「……以上の次第でございます」
報告を聞き終えた帝が、眉間を指でつかむようにして、ふうと小さく息を漏らす。
「宮(
「それでは……」
清忠は帝の言葉を待った。
「うむ、やむをえん。ひとまず宮を征夷大将軍に任じよう」
「はっ、承知つかまつりました」
「それにしても、土地の所有を主張する武士が、大挙、京へ押しかけておるそうじゃな。討幕のためとはいえ、宮(
すると、
「全ては
「うむ……宮の顔を
帝は、悶々とした感情をぶつけるが如く、手にした扇をばちんと閉じた。
南河内の赤坂城(下赤坂城)では、虎夜刃丸が兄、多聞丸に付いて、
何度か
そんな虎夜刃丸の両肩に、多聞丸がそっと手を置く。
「虎、なぜ、そなたが
もちろん、虎夜刃丸にはわからない。ぶるぶると首を横に振った。
「それはな、虎がこの
「兄者は違うのか」
「わしとて恐いぞ。下を見ると脚がすくんでしまう。されど、わしが
「どうやったら忘れることができるのじゃ」
「虎よ。
「えっと……
素っ頓狂な虎夜刃丸の答えに、多聞丸は、ぷぅっと吹き出す。
「あはは、そうじゃ。それで、
「うん……」
「早く敵のことを調べて、味方に伝えなければならん。遅れれば、敵は攻めてくるのじゃぞ。虎、今度は、向こうから敵が来ているかも知れぬと思って、もう一度、登ってみよ」
「うん、判った、兄者」
(えぇっと、敵はあっちからくるんだっけ……でも、陣屋が邪魔で向こうは見えない……もう少し上に行ったら見えそうだ……あ、だんだん見えてきたぞ。反対側からも敵が来ているかも……)
虎夜刃丸は呟きながら、
「あっ」
思わず虎夜刃丸は声を上げた。右手が
「兄者、登ったよ」
笑みを浮かべて、
「やったな、虎」
すぐに多聞丸が
多聞丸が
「なあ、虎。自分がやらねばならん事を考えておれば、足元を見る暇はなかったであろう」
「うん、陣屋の向こうが気になっていたから……」
弟の言葉に、多聞丸は嬉しげに目を細める。
「見てみよ、この河内の山々を。父上はここから日の本を変えたのじゃ。我らの父はすごい人じゃ。わしも父上のようになりたい。時折、この
そう言って多聞丸が連々と重なる山々に目をやる。
その横顔は、いつか赤坂城で見た父の横顔に似ていると思う虎夜刃丸であった。
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