第 4 話 鎌倉幕府
元弘三年(一三三三年)三月、
その麓に陣を布くのが幕府軍。楠木正成の知略によって有効な攻め手を失い、
取次ぎの近習が、強張った顔で本陣に走り込む。
「ご、御注進。
「な、何じゃと」
がたっと音を立てて、高貞が
「いったい何があった」
「そ、それが、陣中で朝から酒を喰らい、
「な、何と、馬鹿な……」
高貞は
長引く戦は兵たちの
幕府軍とは逆に、千早城に籠る楠木軍の士気は高かった。大挙して押し寄せる幕府軍を、幾度となく追い払ったことが、自信となってあらわれていた。それは、幼いこどもらの士気までも上げる。
本丸(主郭)の裏手では、
虎夜刃丸の前には、木の枝から吊り下げられた木切れがある。これを目掛けて、小さな木刀を降り下ろす。
「えい」
降り下ろした木刀は、吊り下げられた木切れに当たるが、それはあらぬ方向に飛んでいく。虎夜刃丸はそのつど、兄、多聞丸の顔色を
「違うぞ、虎。もっと真ん中を狙うのじゃ。明王丸を見よ」
隣では、明王丸も木切れを撃っている。木刀を木切れに当てると、吊り下げられた木切れは、こん、と小気味よい音を鳴らして手元から遠ざかり、再び目の前に戻ってくる。それを明王丸は、えいっと再び木刀で撃ち据えた。
虎夜刃丸は首を傾げる。自分も真ん中を撃っている。それでも明王丸のようにはいかない。同い年の従弟にできて、自分にできないことが不思議であった。
手を止めて、じっくりと明王丸の剣先を観察する。そして、はっと顔を上げる。
「よおし、もう一回」
そう声を上げ、再び、木切れに向かう。今度は、木切れが自分に向かって水平に向いた時を狙い、その真ん中を打ち据える。すると、こん、という音とともに、木切れは虎夜刃丸の元から遠ざかった。そして、真っすぐ戻ってきた木切れに向かって木刀を降り下ろす。もう一度、こん、という響きのよい音が鳴った。
虎夜刃丸は慎重な子である。理屈より先に身体が動く明王丸とは正反対。兎に角、よく観察して、よく考える子であった。
「よし、虎。よくやった」
兄に誉められた虎夜刃丸は、木刀を下ろし、にんまりと頬っぺたを揺らした。
「おお、虎夜刃丸殿は剣術の稽古か。結構なことじゃ」
その声に皆が振り返る。そこには
えっと小声を漏らし、多聞丸が目をこする。
「元成殿ではありませぬか。幕府が取り囲む中、どうやってここへ……」
「なあに、
それは、兵糧を運び入れるために掘られた金剛山へと繋がる抜け穴のことであった。
「ところで、御父上(楠木正成)はどこにおられる。火急の用なのじゃが」
「叔父上たちと二の丸(二郭)に
多聞丸は虎夜刃丸らをそっちのけで、元成を父の元へと連れていく。残された虎夜刃丸と明王丸は、えぇーと、つまらなそうに顔を見合わせた。
楠木正成は、美木多正氏・楠木
「元成ではないか。どうしたのじゃ」
「父上、大変なことが起きたみたいじゃ」
元成より早く、多聞丸がせわしげに応じた。
はっと息を呑み、正氏が
「幕府軍の動きに何かあったか」
「いや、
「何、本当か」
驚きの声を上げた正成は、二人の弟と顔を見合わせる。膠着状態のこの戦に、初めて出口の光を見る思いであった。
服部元成は楠木正成らに仔細を説明した後、多聞丸に連れられて本丸の陣屋に入った。その広間で、外界の世情に飢えた久子たちに取り囲まれる。今しがた、虎夜刃丸らも陣屋に戻ってきたところであった。
興奮気味に久子が元成に詰め寄る。
「本当に、
「はい、出雲に留め置いた、それがしの一座の者が、今朝、知らせて参りました。
名和とは、海運で財を蓄えた
「それで、帝は今はどのように」
「
「ごりんじ……」
知らない言葉に、虎夜刃丸が皆の顔をぐるっと見渡す。母や兄たちの顔からして、よいことがあったということだけは判った。
「
面倒見のよい多聞丸が説明するが、虎夜刃丸に仔細はわからない。首を傾げるその姿をよそに
「それで、幕府はどうしたのですか。帝を逃がしてしまったのでは、
「いかにも。守護の佐々木清高は、船上山にすぐに兵を差し向けました……」
元成も興奮気味に話を続けた。
時は、少し遡った
先帝(後醍醐天皇)の住まいは黒木御所と呼ばれ、製材していない木の皮がついたままの黒木で組まれた粗末な建物であった。
夜、その御所の前では
黒木御所から、酒の
「
「これは
監視役の一人が、にこやかに
本来は敵味方のはずであるが、絶海の孤島という特殊な環境の中で、馴れ合いが生じていた。
「
そう言って御所を一瞥する。
「……今日の
「それはようございました。ではありがたく頂戴つかまつる」
「うむ、ごゆるりとなさるがよろしかろう」
忠顕は、見張りの兵たちに背を向けてから、不敵な笑いを浮かべた。
月が高く昇った頃、監視役の侍一人を残し、他の四人は酒を喰らって寝込んでしまった。
「ふん、よう寝ておるわ」
一人
「
影のように現れた
「これは
義綱は監視役として先帝と接するうちに、その不思議な魅力に取り付かれた一人である。自らが当番の日を選んで、先帝を逃がす手筈を整えていた。
「
そう言って義綱の肩に手を添えると、すぐさま、黒木御所に駆け戻った。
千種忠顕は御所の中に入ると、先帝の元でひざまづく。
「見張りの兵たちは眠っております。
「うむ」
頷いた先帝は、もう一人の側近である一条
黒々とした大海を前にして、一条行房が不安に駆られる。
「
「ううむ……あそこの家を頼りましょう」
表情を固くして、忠顕は近くに見える粗末な漁師の小屋に走った。
そして、すぐに漁師を連れて戻ってくる。
「
その隣で、弥平という名の漁師が、地面に額を擦り付ける。島の者たちは、尊い帝を直視すると、目が
「お、お、恐れながら、三太郎の舟はここではねえですだ。少し離れたところです。あ、あ、
先帝にどう接すればよいかわからず、弥平はとにかく精一杯の礼を尽くそうと、背負うことを申し出た。
しかし、先帝を名もなき漁師の背に載せるわけにもいかない。忠顕と行房はううむと腕を組んだ。
「うむ、よしなに頼むぞ」
二人の公家をよそに、先帝は、自ら進んでその背に負われる。忠顕と行房は顔を見合わせ、どちらともなく、まあよいかと頷き、後に続いた。
弥平の案内で、何とか一行は、船頭の三太郎が待つ
「その
先帝は
「……
「わ、わしにですか。へっ、へへえぇ」
弥平は先帝から明王像を受け取ると、両手で高く掲げたまま後ずさりして、そのままひれ伏した。
一先ず、最初の憂慮から解放された一行が、安堵の表情で舟に乗り込もうとする。しかし、ここでも問題が起こる。
「何、三人しか乗れぬじゃと……」
船頭の三太郎から話を聞いた千種忠顕が、新たな失態に表情を凍らせた。
すると、一条行房が、きっと口元を引き締めて進み出る。
「
そう言って、無理に笑顔を繕った。
「すまん、行房。必ず後で会おうぞ」
先帝は、自らの生気を分け与えるかのように、力強く行房の手を握った。
一行を載せた
阿野
突如、三太郎が叫ぶ。
「
雲が満月を隠し、あたりを暗闇が支配する。
「……これから舟が揺れますだ。皆で舟の中ほどに」
風の強まりとともに三太郎の声は徐々に大きくなった。
舟先の
先帝は
「
「
そう言って、
風が強くなり小雨も混じる。
すると、三太郎が悲壮な声を上げる。
「
「三太郎、無理というのはどういうことじゃ」
「はあ……出雲の
一行は出雲
ちなみに、その出雲大社で、猿楽の興行を行ったのが小波多座である。
「こうなっては、出雲の東、
「出雲国ではなく
「神仏にお祈りくだせえ」
黒々としたこの海と同じくらい不安げな忠顕に、帆の
雨風はますます強くなる。舟は大河に落ちた木の葉のように翻弄された。
都育ちの三人は生きた心地がしない。溜まりかねて、先帝が声を上げる。
「生き長らえるためには、生きる希望を持つことぞ。お前たちの願いは何じゃ。唱えてみよ。この先の願いを持っておれば、必ずや
「麿は……麿は万の大軍を率いる将に成りとうございます」
「わはは、腕白な忠顕の願いよのう。
「わらわは……」
言いかけて、
「何じゃ、言えぬのか。お前は生きとうないのか。願いを持たぬ者は生き抜くことができぬぞ」
先帝の厳しい言葉に、
「我が
一瞬、先帝と忠顕は沈黙する。
「そ、それは、口にしてはならぬこと」
忠顕が慌てるのも無理はなかった。
「忠顕、
先帝の思いやりに、
先帝(後醍醐天皇)らの願いが通じたのか、
しかし、上陸したのは見知らぬ土地。ひとまず、三太郎が漁師小屋を見つけ、一行は身を隠した。
誰を頼ってよいかもわからない。誰彼なく名乗りを上げれば、幕府の役人に捕まる恐れがあった。
そうこうするうちに一日が過ぎ、幕府の探索が始まる。忠顕は一か八か、この地の豪族、
さっそく一行は名和の館を訪ねた。
まずは千種忠顕が三太郎を供に館の中に入る。都合良く、法事のために一族が集まっていた。
ずけずけと上がり込んだ忠顕は、ざわつく一同を前に、いきなり先帝への忠義を説く。この男は、歳若いが人並み外れた度胸を持ち合わせていた。
よれよれの
正に晴天の
「そちが名和であるか。大儀である」
奥の座敷で先帝から直接声をかけられた名和長年は、ははっとひれ伏し、額を床に擦りつけた。
「長年。朕はそちしか頼りにする者がおらぬ。朕を助けてくれまいか」
先帝が我が名を口にしたことに、長年は高揚し、柄にもなく忠義の念が口を突く。
「こ、この長年、
「
「はっ」
腹を括った長年は、法事で集まっていた一門一党に、兵を集めるよう命じた。
続いて、先帝の前に男たちを連れて来る。
「戦となればここは危のうございます。これより船上山に御動座いただきとう存じます。されど、急なことなれば、
言いながら、連れてきた男たちに目配せする。
「……どうか、我が弟たちの背を
弟たちが、背中を見せて片膝を付いた。
船上山に登った先帝は、その山頂にあった神社の
帝(後醍醐天皇)が隠岐を脱出したことは、隠岐国の守護、佐々木清高を青ざめさせた。
そして、名和党が兵を集めていると知り、守護館に一族郎党を集める。
「ええい、このままでは鎌倉に申し開きができぬ。何としても当家の力だけで、この失態を挽回するのじゃ」
隠岐佐々木勢は嵐の中を討って出て、船上山に立て籠る名和勢を激しく攻め立てた。
船上山には、未だ帝の援軍は集まっていなかった。麓から攻め上がる佐々木軍の気勢は、山頂の
「敵の様子はどうなのじゃ」
「はっ、およそ二百余ですが、続々と増えております。対して、名和の手勢はわずか五十。このままでは……」
「やっと、隠岐を抜け出たというに、このようなことに……
「
帝の人並外れた気力は、
名和長年が、その瞳を輝かせ、
「
さらに、名和の郎党たちが次々に駆け込み、
「御注進。
「申し上げます、佐々木一族の
次々に持ち込まれる報に、帝は拳に力が入る。
そして、長年の弟によって最後の報がもたらされる。
「さ、佐々木勢が撤退をはじめました」
帝とその
三月、千早城攻めの一角を成す幕府御家人、
「兄者、首尾はどうじゃった」
「うむ。小次郎、これを見ろ」
義助は手渡された書状を、立ったままに目を落とす。
「ま、まさに
「今しがた高野から戻った
隣には新田家執事の船田義昌と、重臣の
「我らが願い、叶いましたな。して兄者、どのようにしてここを離れるか」
一人、腕を組む義助に、義貞はふっと口元を緩める。
「なあに、病気と称して帰ればよい」
「されど、兄者一人が病気になったぐらいで、関東に帰るというのは通りますまい」
「小次郎、もうわしらは幕府を気にする必要はない。怪しむのなら怪しむがよかろう。わしらがここで撤退しても、
悠々とした兄の口振りに、義助は
「よいか、小次郎。
「なるほど。どうせ近いうちには我らの考えは露見する。確かに気にする必要はありませぬな」
納得する弟を尻目に、義貞が立ち上がる。
「重広、皆に撤退の
「
家臣の重広は、軽く頭を下げると、高揚した顔で陣を出ていった。
新田軍は素早く
船上山の勝利が千早城にもたらされる。これを受けて、楠木正成は本丸の陣屋に諸将を集めた。
景気よい出来事に、
「船上山で隠岐守護が敗れたとなると、次はどうなりましょうや。千早城を囲っている幕府軍にも動きが出るのではありますまいか」
正成に代わって、美木多正氏がううむと頷く。
「素直に考えれば千早城の幕府軍を
「兵糧があるとはいえ、あまりに長い
正成の義兄、和田
しかし、棟梁の正成は、皆の期待を裏切る。
「残念じゃが幕府の囲みは減らん。いや、減らぬように我らは動かねばならん」
「正成殿、それはどういうことでござるか」
与力衆の
「帝(後醍醐天皇)の願いは討幕じゃ。その討幕は、幕府の大軍をいかにこの千早に引き付けることができるかで成否が決する。我らが幕府の大軍を引き付ければ引き付けるほどに、他に回す幕府の軍勢が手薄になるというもの。この千早から幕府軍が撤退せぬように、明日から揺さぶりをかける」
兄の話に、楠木
「揺さぶりとはどのような」
「城から討って出て、寄手を攪乱して城へ引き返す。幕府軍に、ここが
これに、正氏がにやりと口角を上げる。
「ちょうど身体が鈍ってきておったところじゃ。よし、
「では、明日はそれがしが参ろう」
範高も自ら出陣を申し出た。
この日の軍議は、日替わりで諸将が城から討って出ることで決した。
その日の夜、美木多正氏は百の兵を率いて、静かに千早城の麓へと降りる。
「よし、皆、矢先を燃やせ。火を喰らわせて幕府の者どもを驚かせてやるのじゃ」
闇夜に轟く正氏の
すると、ぱっと空が明るくなり、
「うわ、楠木の夜襲じゃ」
中で寝ていた武将たちが驚いて飛び起きる。
「者ども、出合え、出合え」
将たちは、慌てて
「城の麓に
一隊を指揮する侍大将は、あかりに向けて兵を進ませた。しかし、反撃はまったくない。兵たちはその火を取り囲んで息を飲む。
「誰も
楠木の兵たちはすでに撤退した後で、赤々と燃える
その日から、楠木勢は城に立てこもるばかりでなく、昼に夜に、さまざまな手段を講じて、果敢に
鎌倉の幕府は、船上山の戦いで隠岐守護の佐々木清高が敗れた事を受け、大軍を
総大将に選ばれたのは北条一族の
東国を発った足利高氏は京の手前、
冷気漂う
「
高氏は、
源頼朝の
「兄者、まだ大事なことがあるぞ。六波羅攻めの一人として足利が加わるだけでは駄目じゃ。足利の指図の元、六波羅を滅ぼさなければ我らの大志は得られぬ」
度量の高氏に対して弟の
「うむ、ではどうする」
「それにはこれが必要なのじゃ」
そう言って
「兄者の名で、近隣諸国の反幕の豪族どもに密書を送りつけるのじゃ。帝より
「されど、
何事にも素直な高氏は、
「兄者、戦を知らぬ朝廷が、討幕に動いた諸国の武士を本当に遇することができると思うておるのか。武士というても名のある一門から悪党に至るまで
「なるほど。さすればこの足利の名と相まって、わしの元に武士が集まるということか。うむ、
「承知した、兄者。ではさっそく諸国の武士共に密書を送ろう」
山陰の
帝は、いまだ船上山の山頂にある小さな神社にあった。名和党の郎党たちが守備する
続々と集まる武士たちに気をよくした帝が、手繰り寄せるように、忠顕を近くに招く。
「そちは将に成りたいと申したな。ならば
「ま、麿が……でございますか」
上ずった声で忠顕が顔を上げた。
「不服であるか」
「いえ、滅相もございませぬ。この上もなく光栄なこと。必ずや
「うむ、期待しておるぞ。それと、行房は
「は、謹んでお受け致します。
足利高氏の密書の一つが播磨国の豪族、赤松円心入道の元にも届けられていた。円心はすでに
陣屋の中で密書に目を通した円心は、不機嫌そうに顔を上げ、嫡男の赤松
「足利が寝返り、帝(後醍醐天皇)の元に参じるそうじゃ」
にこりともせず応じる円心の元には、
「父上、それはまことにござるか。足利殿がこちら側につけば一気に流れが変わりまするな。高野山の宮様も、さぞお喜びになられることでしょう」
無邪気に喜ぶ
「お前もこれを見てみよ」
兄から渡された密書に目を通した
「こ、これは、我らにも足利の指図に従えと申しているようなもの」
「左様。他の武士ならいざ知らず、早くからその
円心は、息子たちの視線から顔を反らし、にくにくしそうに、ちっと舌を打った。
「ううむ、確かに足利は
「三郎、我らが事を成しても、足利には用心せねばならん。宮様にも用心
「わかり申した。で、父上はこれから
「うむ、我らはこのまま山陽道を上洛し、諸将と謀って京の六波羅を討たんと思う。まずはこちらに向かう幕府軍の先陣を叩く」
「では、それがしもお供つかまつります」
赤松軍は、
「一番乗りは我が赤松党じゃ。者ども、続け」
馬上で張り上げた赤松円心の
しかし、兵力に勝る幕府軍に駆逐され、赤松軍は
手負いの赤松党は、男山の麓に建つ寺に、一先ず腰を落ち着かせる。
「父上、さすがに我らの軍勢だけでは六波羅は落ちませぬ」
戦上手の円心ではあったが、所詮は播磨の田舎武士。統率のとれた武士団を
すると、三男の赤松
「ここは、
「むうぅ、それしかなさそうじゃ。うかうかしておれば、足利高氏に
焦る円心は、
赤松円心の書状は使者を介して、
「中将様、播磨の赤松殿より書状にございます」
「何、円心からの書状じゃと」
馬を降りた忠顕が、書状を受け取り目を通す。すると、
「いかがなされましたか」
問いかけに、忠顕は憮然とした表情を返す。
「単独で六波羅に攻め込んでも勝てぬから、九日正午に時を合わせて攻め込もうと申してきた」
「よいお話ではありませぬか」
「何がよい話じゃ。播磨の悪党風情が麿に指図するとは何事じゃ。すでに我らは万を超える大軍となっておる。赤松の合力などなくとも、六波羅を落としてみせよう。円心は、ただ我らに頭を下げて加わればよいのじゃ」
高眉を歪ませて、忠顕はふんと鼻を鳴らした。
四月八日、丹波口から京に突入した
「中将様、先陣と
「
「いえ、戦の布陣をどのように致しましょうか」
「布陣など関係ない。皆で六波羅を取り囲んで、北条の
戦をやったことのない者に、
「者ども、麿に着いてくるがよい」
恐れ知らずの忠顕は、馬の歩みを速めた。
その無策振りに
数の多い近衛軍ではあったが、まともな布陣をとることもなく、勢いだけで六波羅に攻め込んでは、勝てるはずもない。やはり、ものの見事に六波羅軍に追い払われる。
この結果に
近衛軍は桂川を渡って、命からがら赤松円心の山崎の陣に逃げ込んだ。にもかかわらず
その姿に気づいた円心は、息子たちに目配せし、頭を下げて上座を譲る。すると、忠顕は当たり前のように、その
「
「うむ」
頭を低くしてたずねる円心に、忠顕は言葉少なで顔を背けた。そこには、負け戦の気まずさもあった。
「あの……
円心の念押しは、忠顕を
「そうじゃ、苦しゅうない」
「
円心は、戦を知らない若い公家をたしなめた。
すると忠顕は、目を吊り上げて激昂する。
「麿に指図するのか。麿は
「いや、力任せに押し込んでも勝てませぬ。これまで戦をされたことがござるのか。
権威を恐れぬ円心は、頭から厳しい言葉を浴びせた。
これに忠顕は、顔を真っ赤にして立ち上がる。
「おのれ、悪党風情が何と申した……このことは決して忘れんぞ」
忠顕は
そして、山崎を離れ、桂川を挟んで目と鼻の先、円心が初めに陣を敷いた男山八幡に布陣する。
他にも反乱勢力の鎮圧で上洛していた
六波羅攻めの軍勢は着実に数を増やしていく。しかし、その軍勢には求心力というものが欠如していた。統率を欠いた諸将は、てんでばらばらに六波羅を攻めようとしていた。
一方、幕府の六波羅
高氏はすでに討幕の意思を固めていた。だが、山陽道を任された高家の軍勢が京を離れる機会を待つため、
四月二十七日、幕府軍の総大将、名越高家が京の六波羅を発った。対して赤松円心は、山崎の陣を引き払い、
敵の足を封じた円心だが、兵力は名越軍が比べるまでもなく圧倒している。策を
父、円心のもとで弓矢をとって戦っていた三男、赤松
「見よ、あの赤い出で立ちは総大将に相違ない。皆の者、あやつを射るのじゃ」
範家の一隊は他の武将には目もくれず、いっせいに総大将の名越高家に向け、雨のように矢を射かけた。
すると高家が馬上からぐらりと落ちる。その眉間には一本の矢が突き刺さっていた。
幕府軍にとってはまさかの事態である。大軍を率いる北条一門の総大将が、たかが播磨の一土豪に討ち取られたのであった。
この知らせは、すぐに京の
「何と、早々に名越殿が
六波羅の面々は仰天した。しかし、仲時にとって本当の大仰天はこれからであった。
四月二十九日、北条仲時の
「皆の者、
足利家の執事、
高氏が社殿に上がり、手にした書状を両手で
「見よ、
高氏の話に、何も聞かされていなかった兵たちは、雑然として互いの顔を見合わせた。
足利の分国、
「何の、北条に恩義を持つ者など、ここに居ようはずはありませぬ。何があろうと我ら家臣は、
これを合図に一同が口を開く。
「北条討伐じゃ」
「源氏の力を見せる時じゃ」
高氏の寝返りは、六波羅を恐怖に
所は変わり、ここは虎夜刃丸らが立て籠る千早城の本丸。同じ年の従兄弟、明王丸が、
「虎っ。大丈夫か」
「明王……」
その声は震えている。
明王丸は何事にも
「虎、母者を呼んでくる」
明王丸は、血相を変えて本丸の陣屋に入り、二人の母、久子と良子の手を引いた。これに、何事かと母たちは急いで外に飛び出した。
久子の目に留まったのは、
「と、虎夜刃丸。ゆっくりと……ゆっくりと降りてくるのです」
驚かさないよう、至って平常なもの言いで、言葉をかけた。しかし、虎夜刃丸は小刻みに震えながら首を横に振るばかり。とても、自力で降りてくる様子はない。
「母上、わしに任せて」
言うや否や、騒ぎに駆け付けた多聞丸が、
幼い弟は
「虎、母上が心配しておるぞ。何をしておったのじゃ」
「だって……ばくふの顔を見たかったから……」
「幕府の顔を……幕府に顔があると思うておったのか」
背を向けたまま、虎夜刃丸はこくりと小さく頷いた。幕府を化け猫か何かの類いだと思っていた。
これを聞いて多聞丸はくすっと笑う。
「よし、なら、わしと一緒に、幕府の顔を見に行こう」
多聞丸は弟を
すると、虎夜刃丸は強張った表情で頷き、横木を握る手に力を入れた。
「わしがこうしておれば下は見えぬであろう。下を見ずに、上だけ見て登るのじゃ。ほれ、こっちの手、そっちの足、そっちの手、こっちの足。そうじゃ、ゆっくりと上るのじゃ」
声をかけられながら、ついに
「兄者っ、うえぇーん……」
虎夜刃丸は多聞丸に抱き付き、それまで我慢していた分を合わせて泣きだした。
「虎。幕府の顔を見るのであろう。ほら、あそこじゃ」
ひっくひっくと息を詰まらせながら、虎夜刃丸は顔を上げ、兄が指さす方に目を向ける。そこには、米粒ほどに小さい人影が、米櫃からこぼれたように散らばっていた。
「ばくふはいっぱい
「虎、あの者どもは、我らと同じ人なのじゃ。人がいっぱい集まって、幕府と名乗っておる。だから、幕府に顔はない。顔があるのは一人ひとりの人よ」
「ばくふは悪者でしょ。じゃあ、あの人たちは悪い人なの」
幼子の単刀直入な問いに、多聞丸は苦笑する。
「ううむ、それはわしもわからんが……幕府は敵じゃが、一人ひとりはきっと我らと変わらぬと思うぞ」
虎夜刃丸には理解できなかった。ただ、善か悪かは曖昧なものということだけ、心に深く残った。
「兄者、幕府はなぜ帰っておるのか」
「帰る……」
指差す方向に目をやる。飛び込んだのは、後方から撤退を始める敵兵たちの姿であった。
「ほんとじゃ。なぜ幕府軍は撤退をはじめたのじゃ」
そのありさまを、多聞丸は勃然と見つめた。
幕府軍の撤退は、二の丸の楠木正成・
「三郎兄者、なぜ幕府は撤退をはじめたのじゃ」
「うむ、あの浮足立った様子、もしかすると、京の六波羅で何かあったのかも知れん」
「何かというと……六波羅を守るため、軍を京に移すという事か」
「いや、もしかすると、すでに六波羅は落ちたのやも知れぬ」
「六波羅が落ちたと……まさか」
大胆な兄の予測に、
しかし、楠木正成の予想は当たっていた。
遡ること数日前、丹波国の
幕府の有力御家人で、清和源氏の筆頭ともいえる高氏は、悪党とも陰口を叩かれる小豪族の赤松円心とは異なる。筋目のよい高氏の元には、丹波、
五月七日、
討幕の軍勢が四方から京へ攻め込むが、さすがに幕府にとって京の要である六波羅軍を、簡単に打ち破ることはできない。
しかし、時が経つと、勝敗は徐々に見えてくる。高氏ら
馬上から指揮を採る足利高氏が、執事の
「道誉に使いを出せ。六波羅軍が東へ逃げられるよう、近江口を開けるようにと」
「逃がすのですか……
不可解な面持ちで、
「六波羅軍はこれが最後の戦と必死じゃ。これを殲滅せんと討ち入れば、こちらも被害は免れぬ。東に口を開けておけば、逃げ出す奴も出てくる。さらに残った者もそれを見て戦意が落ちよう。さ、早う使いを出せ」
「承知つかまつった。それがしが使いになり申す」
「うむ、任せたぞ、
足利高氏の狙いは的を射ていた。六波羅軍からは近江口へ逃げる者が続出し、一気に戦意を喪失する。
ついに
両
しかし、京を逃れて早々、落ち目の六波羅軍に
その翌日、
そして、五月九日。もはやこれまでと観念した仲時は意を決する。一緒に連れて逃げた持明院統の帝と上皇の
そして、自らは近江国、
ここに、幕府の京の要である六波羅は滅亡する。
その前日の五月八日。関東でも一大事が起きていた。千早城攻めから抜け出して関東に戻った新田義貞が、
利根川を渡って
使者は下馬して、馬上の義貞に片ひざ付いて礼を尽くす。
「新田殿、我らは足利
「おお、足利殿の御嫡男か。これは心強いのう」
義貞も馬を降り、使者を労って千寿王の元に戻した。
その後姿を見送りながら、舎弟の脇屋義助がふふっと表情を緩める。
「兄者、千寿王殿を従えて、鎌倉に勝てば、我らこそが源氏の棟梁と世に知らしめることができまするな」
「うむ、小次郎の言う通りじゃ。今は少しでも我が方に加わる御味方がほしいところ。これが弾みとなって、武蔵でも大勢が加わることを祈ろうぞ」
義貞が率いる討幕軍は、武蔵国
しかし、
五月二十一日、勢いに乗じた新田義貞は、討幕で参集した軍勢を率いて鎌倉に討ち入った。三方から鎌倉へ突入する討幕軍であったが、さすがに幕府の拠点、鎌倉は容易に侵入を許さない。結局、討幕軍は、三方いずれの防衛線をも突破することはできなかった。
その日の夕刻、新田義貞が率いる軍勢は鎌倉の西、
義貞は七里ヶ浜の側から、海に突き出る稲村ヶ崎の切り立つ崖を、恨めしそうに見つめる。
「沖には幕府の船団がおる。海を渡ることは難しい。陸路、
思案する義貞の隣で、執事の船田義昌が異議を唱える。
「
「うむ、わかっておる。されど、浜に設けられた
少しでも可能性を探る義貞に、重臣の篠塚重広が、申し訳なさそうに進み出る。
「地元の者の話では今が大潮。潮が最も引くのは
万策尽きた感で、義貞が
「ふうぅ、そうか……何でもよい、何か他に聞けたことはないか」
「はい……あの……」
言いかけて、重広が口ごもる。
「遠慮は要らぬ。何でも言うがよい」
「はっ。
「それは真か」
「い、いや、それがどうも、信じるに値しない話かと。その
興味を示す義貞に、重広は申し訳なさそうに目を伏せた。
「いや、会うてみよう。馬に載せて連れて参れ」
「よろしいので……はっ、ではただちに」
恐縮至極も、重広は馬を走らせた。
半刻の後、篠塚重広は一人の老人を連れて新田義貞の元に戻ってきた。すでに日は沈み、討幕軍の焚火が点々と浜を照らしている。
みすぼらしい
色黒い顔が焚火で赤々と照らされる。
「急に連れて来て申し訳ない。聞きたいことがある。今日はいつもの潮の流れと違うというのは本当か」
「ああ。別に信じてもらおうと思うて言うたのではねえ。言えというから思うたことを言うただけじゃ」
ふてくされた態度で老人は答えた。
「いつもとどう違うのじゃ」
「いつもの大潮より潮の引きが速かった。こういう時は干潟も多く現れる」
「なぜ、そのようなことが言えるのじゃ」
「長く生きておれば、いろんなことを見て来ておる。月の満ち欠けを無視して潮が寄せ引きすることもある。大地が震えた後などは特にそうじゃ」
老人の言葉に義貞の目が輝く。最近、地震が続いていることを思い出したからであった。
義貞は腹を
「駄目であったら別の手立てを考えればよいだけじゃ。わしは、爺さんの言う事を信じることにしよう」
「
執事の船田義昌は信用できないと言わんばかりである。
「一か八かじゃ。重広、兵たちに出陣の用意をさせよ。未明には出陣する。よいな」
「はっ」
重広は頭を下げて兵たちの元へ走った。
「爺さん、ありがとう。正直、半信半疑じゃがな」
老人がふんと横を向く中、義貞はすくっと立ち上がり、満月を見上げた。
その日の未明、兵たちは出陣の用意を整えてその時を待った。
新田義貞は、船田義昌や篠塚重広をはじめとする家臣らを背に、一人、波打ち際の岩場によじ登った。そして、腰の
「
そう唱えてから海に投げ入れた。
太刀は海の闇に消えていく。
「この
そう言ってから、海に向かって義貞は手を合わせた。
大潮の時刻を過ぎ、新田義貞と郎党たちは息を呑んで海を見つめた。
「潮が引いているのではないか……」
重広が声を上げた。老人の言うことは本当であった。
「奇跡じゃ……これこそ、天が我らに味方している証じゃ。我らが負けることはありえぬぞ。この浜を進み、一気に鎌倉を落とすのじゃ」
潮が引いた浜から義貞が率いる討幕軍は鎌倉へ攻め入った。
鎌倉の幕府軍は、海岸線からの敵の侵攻に、慌てて兵を集めて防戦する。だが、逆に山手の防戦が手薄になり、今度は義貞の舎弟、脇屋義助が率いる軍勢が鎌倉への侵入に成功した。
翌、二十二日、防戦する幕府方は、かつての赤坂城攻めの総大将、
他にも
「目指すは高時の首ぞ、いざ」
新田義貞は兵を鼓舞して北条の本陣へ迫った。
目指す
実権のない
幕府最高権力者の高時であるが、その高時でさえも、
その高時と
その勢いに、北条一門と家臣、合わせて千余人は、
五月二十三日、京の
着の身、着のままに隠岐を脱出した帝であった。だが、
帝や
この長年の忠義に、帝は大そう喜んだ。
「お、
すでに行房の声は震えていた。
帝は
「いかがした、行房」
「去る五月二十二日のことでございます。東国の源氏、新田義貞が率いた軍勢が鎌倉に侵攻し、鎌倉を制圧したとのことにございます」
「鎌倉が落ちたというのか……高時はいかがした」
「
東勝寺で自害して果てたのは、高時、
そして、名目だけとはいえ征夷大将軍であった
行房の報告に、帝は
「……そうか、大儀じゃ……」
言葉少なに
帝位に着き、幕府討伐を決意してから、すでに十五年の歳月が過ぎていた。二度の討幕計画の発覚と笠置山への出奔。そして挙兵するものの敗北し、とうとう隠岐に
帝は記憶を
千早城の本丸(主郭)に建つ陣屋。虎夜刃丸らの前に、楠木正成が小波多座の服部元成を伴って現れた。
いつになく穏やかな顔をしている。
その表情に、久子の鼓動は高まる。
「何かございましたか……」
「ついに鎌倉の得宗、北条高時が自害したそうじゃ」
「そ、それは、もしや……」
「そうじゃ、幕府は滅んだ」
正成の言葉に、久子はわっと両手で顔を押さえた。
この時がくることを願いつつ、それは夢のようなものだと思っていた。ただ、夫の言葉のみを信じて今日があった。
多聞丸と持王丸は、父の話に目を丸くして顔を見合わせる。
「あ、兄者、やったぞ」
「ああ、やった……ついに、この時が」
二人は夢見心地に手を取り合った。
その隣では、従兄弟の
虎夜刃丸も、兄たちに釣られて喜びが湧き上がり、明王丸の後に付いて飛び跳ねた。ただ幕府に勝つというのは、具体的にはどういうことかはわからない。兄の多聞丸が言ったように、人が集まって幕府があるのなら、なくなっても、また人が集まれば幕府になるのではないか。小さな疑問が心の中に渦巻いていた。
翌日、虎夜刃丸ら三兄弟は、父、楠木正成に連れられて、幕府軍の陣跡に一番近い四の丸(四郭)に来ていた。すでに千早城を取り巻く
「ここで大勢の者が亡くなった。身方も多く者を亡くし、
「はい、肝に命じます」
多聞丸と持王丸は、声を揃えて力強く返事をした。
「わしもわかった」
虎夜刃丸も兄たちに続いて大きな声を上げた。
「亡くなった者たちは、敵も味方も丁重に
正成が麓の陣跡に向けて手を合わせると、多聞丸、持王丸、そして虎夜刃丸の三人も、静かに手を合わせた。
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