第 3 話 千早城
元弘三年(一三三三年)一月二十二日、寒風吹きすさぶ中、宇都宮
「今日こそは、楠木正成が
馬上から
命を受けた宇都宮の兵たちは、躊躇なく家々に火を放つ。すると折からの風に
烈火が去ると、焼け野原の中にぽつんと寺だけ残される。同時に、焼け出された人々は住む場所を失った。
だが、
「者ども、寺を取り巻いて、矢を射かけよ」
例え、聖徳太子が建立した古刹であろうが容赦はない。
しかし、返し矢はない。
その
「
「なにっ」
楠木軍は
拍子抜けした
「楠木め。矢を交えることもなく撤退していたとは。舐めた真似を」
寒々とした
だが、隣の男は安堵の表情を浮かべている。
「楠木は
「いや、これはおかしい。何かの罠かもしれん」
いぶかしがる
「武装は解くな。敵襲に備えるのじゃ」
「承知っ」
ついと相づちを打った近臣は、
その日から、四天王寺を占領した
幾日が経ち、宇都宮
「
「
敵が攻めて来ないと見極めた
「……このまま、我らが調子に乗って敵の城を攻めれば、きっと手痛いめに遭うたことでしょう」
「されど、結果として四天王寺から楠木はおらんようになった……」
「いえ、敵は四天王寺に
さすがに
「くっ、ではどうせよと申すのか」
達観したもの言いに、不機嫌そうに仲時が聞き返した。
「楠木は思うたより手強い。このまま楠木を放っておけば、幕府に大きな
「とすると南河内……赤坂城か」
「もはや六波羅の面子に
「うぐぐ……」
深遠な意見に、仲時は顔を
進言は的確であった。しかし、赤坂城は囮で、その後ろに千早城が控えていることまでは、さすがの
その千早城に、山陰から戻って摂津の戦を見聞した
「楠木軍が十倍の六波羅軍を破ったという話は、今や、京や摂津で知らぬ者はいないほどです」
「ほう、それほどまでに」
「京の四条河原には、誰の仕業か、楠木の勝ち戦を詠んだ
「落書……ですか。何とあったのですか」
『渡辺の水いかばかり早ければ 高橋落ちて隅田流るらん』
六波羅軍を率いて渡辺橋で敗れた
「まあ、何と面白きかな」
良子は、
「すごいのう、父上は。幕府を相手に、いっこうに引けをとらん」
「わしも
しかし、一人、虎夜刃丸は嬉しがる風でもなく、母、久子に顔を向ける。
「もう戦は終わったの」
年が明け、虎夜刃丸は数えの四歳。しっかりと疑問も伝えられるようになっていた。
「終わってはおりませぬ。本当の戦はこれからです」
久子の言葉に虎夜刃丸は曖昧な表情で首を傾げる。勝ったというのに戦は終わっていない。さらに戦はこれからだと言う。幼子には理解できなかった。
だが、虎夜刃丸の疑問はこの戦の本質である。討幕を目指して挙兵した戦は、一度や二度の勝利で決着するものではない。幕府が滅びるか、自分たち討幕派が滅びるまで続く。投げられた
小さな腕を組んで首を傾げる虎夜刃丸の姿に、
「治郎殿(元成)、
「それで、晶子殿はどちらでお生みになるのですか」
続けて、
「伊賀国のそれがしの実家に身を寄せています。このままそこで生むことになりましょう」
応じた元成に、久子は申し訳なさそうに顔を曇らす。
「本来ならば、
「
「されど、伊賀の家にはくれぐれもよろしくお伝えくだされ。それに、晶子殿には、河内が平穏に戻れば、子を連れて遊びにくるように伝えてくだされ……」
少し気を晴らした久子は虎夜刃丸に目を移す。
「……この子たちも喜ぶでしょう」
「
元成も虎夜刃丸に目を落し、穏和な面持ちで頷いた。
二人の話に、澄子が祈るように両手を合わせる。
「そのためにも、
「そうですね。されど、勝てば勝つほどに、幕府は大軍をこの千早城に送ってくることでしょう。これからが正念場です」
自らに言い聞かせるように久子は胸に手を当てた。
「その通りです。いくら
元成の言葉に、一同は口元を引き締めて頷いた。
その
そして、
親王は
薄暗く、
「宮様、正成殿より繋ぎがございました。楠木軍は摂津で六波羅の大軍を破った後、宇都宮
「そうか、頼もしき奴よのう。我らも続こうぞ」
「
「ついに起つか。赤松一門の働き、頼もしく思うぞ」
「は、お
頭を低くする
家臣の居ない
【赤松円心や村上
円心が
「三郎(赤松
そう言うと、嫡男の
意を汲んだ
「者ども、
「えい、おうっ」
「えい、おうっ」
一族郎党の気勢が
赤松円心は、手はじめに同じ播磨国の
知らせを聞いた六波羅
目論み通り円心は、山陽道の幕府勢を引き付けることに成功した。
千早城では、虎夜刃丸が従弟の明王丸とじゃれあいながら、母、久子の元に駆け込む。そこでは、叔母の良子と澄子、侍女の
気になった虎夜刃丸が、明王丸とともに、久子の脇に座る。
「母上、何しているの」
「虎夜刃丸、明王丸、これが我が楠木の新たな旗印、菊水じゃ。よく覚えておくのですよ」
女衆は、戦で用いる
「何で上と下で違うの」
「上は菊、下は水です。菊は帝から
「ふうん」
興味深そうに虎夜刃丸は、菊水の
「それと、もう一つの旗印」
そう言って久子は、
「ほほほ、そなたたちにはちと早いのう」
そう言って、久子は微笑を浮かべた。
楠木正成はこの千早城で、四天王寺に残してきた
「
「
久子はにこりと笑って良子に応じた。
すると、澄子が
「
「本当にそうじゃ。
昔から二人は、物知りで、何でもてきぱきとこなし、おまけにいつも明るく振る舞う久子を尊敬していた。
「いえ、私だって殿に教えてもろうたのです。
二人の
そこに虎夜刃丸ら以上に慌ただしい足音で男が駆け込んだ。楠木家の
「お、奥方様、ついに幕府軍がやって来ましたぞ。
「左近殿、泣いても笑うても、成るようにしかなりませぬよ。我らは殿を信じるだけです」
左近の慌て振りとは対照的に、久子は努めて冷静である。覚悟を決めた女たちは強かった。
明王丸を追いかけていた虎夜刃丸は、左近の様子を見て立ち止まる。幼いながらも、何か大事があることを肌で感じ、身震いした。
楠木正成を討つべく河内街道を進む幕府軍の中に、丸に
「小次郎よ、鎌倉は
馬上で泰然と声を発したのは幕府の御家人、
「宮様(
そう言って、
「いや、楠木は
「ふん、それはそれで面白いがのう。我らは亡き
新田氏は足利氏と並ぶ
「小次郎、立場をわきまえよ。我らも幕府の御家人ぞ」
「されど兄者……」
「お主の気持ちはわからんではない。じゃがのう小次郎、大志はいざという時までとっておけ」
これに義助は少々、不満顔で口を
六波羅軍を破って十分に幕府の気を引いた楠木正成は、赤坂城に戻って幕府の出方を探った。その赤坂城の城将には、推挙した
この日、陣屋の広間で、正成と重吉が上座に座り、諸将を集めて評定を開いていた。
鼻息荒く、重吉が口火を切る。
「赤坂城はそれがしが守備するとして、正成殿はいかがするのじゃ」
「兄は千早城で幕府を迎える
正成に代わって舎弟、楠木
「そ、それでは
重吉は頬を引きつらせ、一同の顔色を
その様子に隣から正成が言葉を足す。
「いや、大丈夫でござる。以前に増して守りを固め、赤坂城から千早城へ抜ける抜け道も造ってある」
「されど、城将はわしじゃ。幕府軍の狙いはわしになるのであろう。わざわざここに幕府を引き付けなくとも、初めから千早城が幕府を引き付ければよい。そうじゃ、そうすればわしらが千早へ向かう幕府軍を背後から襲える。なあ、よい策であろう」
尻込みする重吉に、
「平野殿、この赤坂城に敵を引き込み、抵抗した挙句にこの城が落城するからこそ、敵は勢いに乗じて千早城を攻めようとするのじゃ。そうしなければ、金剛山の
「いや、されど……」
腹を
「平野殿が納得なされぬのなら、わしが代わって城将に成って進ぜよう。もちろん
「あ、い、いや、結構でござる。正成殿の策はようわかり申した」
慌てて承諾する重吉に、定仏は正成に目配せして笑いを誘った。
平野重吉と楠木
千早城は女こどもも含め、およそ千人が
虎夜刃丸も久子の隣で兵たちにむすびを配る。
「はい、どうぞ」
幼子が配るむすびは人気で、男たちが列を作った。
そこに、
「これは、虎夜刃丸殿、母上の手伝いか。感心じゃ」
「うん」
範高は虎夜刃丸からむすびを受け取ると、もう片方の浅黒い手で頭を
二月、ついに幕府軍は赤坂城を取り囲む。城には城将の平野
対する幕府はおよそ七千余。総大将に北条一門の若き
その治時を支える参謀として、北条得宗家の
「この城には、一度手痛い目に合うておる。正面から力で攻めることなく、城の側面に回り込んで矢を射かけよ」
長崎高貞は幾重にも弓矢を射かけ、
「水が呑めなければ
「はっ。承知つかまつりました」
近習は、高貞の沈着冷静な
さすがに
その赤坂城は
「御舎弟殿(
騙されたと言わんばかりの勢いで、重吉が
「わかっており申す。今、兄者に使いを出した。千早城からの助けを受けて一気に撤退を開始致す」
重吉がちっと舌を鳴らす。
「すでに千早城へも鎌倉方が兵を進めたと聞く。策士、策に溺れるとはこのことじゃな」
そう言って重吉は
翌日、平野重吉は本丸(主郭)の陣屋に、自らの郎党だけを集める。
「
これに、平野の郎党たちは驚いて顔を見合わせる。そこにはやましさがあった。
しかし、重吉にとって郎党の同意など大したことではない。さっそく使者を、
次の日も赤坂城では、昨日までと変わる事なく、城の兵たちと、
南北に長い赤坂城は、北の
「何、幕府軍が……総攻めに出たのか」
「いや、それにしては、兵の数が少ないようじゃ」
「ぐぐ、重吉め、敵に投降しおったか……」
しかし、血を逆流させた
「……ん、あれは」
赤坂城の
「平野
「おのれ謀ったな。長崎はどこじゃ。約束が違うではないか」
怒り心頭の重吉は、郎党たちとともに幕府の兵を前に息巻いた。
―― ざぐっ ――
隣に目をやると、郎党の一人が
「どうせ、お前たちは斬首される身よ」
「ま、待て。待ってくれ。手向かいはせぬ。命だけは助けてくれ」
恐れおののき、ひざを付いて命乞いをはじめた。
城の
「よし、この混乱に乗じて逃げるぞ。囲みを突破する。者ども、ついて参れ」
「おう」
「承知」
後詰めの千早城は、すでに北条一門の
その幕府軍に包囲された千早城に、
虎夜刃丸ら女こどもが、強張った表情で、本丸に建つ陣屋の奥間に集まる。
「旦那様はご無事でしょうか」
夫、楠木
「大丈夫ですとも。きっと逃げおおしていることでしょう」
その言葉に、澄子は自分を納得させるべく頷いた。
「叔母上、これ……」
虎夜刃丸が澄子に差し出したのは木切れである。
「……観音様じゃ」
虎夜刃丸に言われ凝視すると、木の窪みが目や口のようでもあり、観音立像に見えない事もない。
澄子は虎夜刃丸の頭を
「ありがとう。虎夜刃丸殿」
「澄子殿、皆で、この観音様に祈りましょう」
久子は虎夜刃丸の観音像を壁際に安置し、手を合わせた。すると、虎夜刃丸も隣に座り、久子を真似て手を合わせる。
「むにゃむにゃむにゃ……」
その様子に、澄子は穏やかな表情を取り戻し、虎夜刃丸ととも観音像に手を合わせた。
続いて、良子、
この重苦しい状況を変えたのは、またも、恩地左近である。
「七郎殿が帰って来られましたぞ」
大声に、澄子の頬に赤みが戻る。
「虎夜刃丸殿、ありがとう。そなたの観音様のお陰じゃ」
そう言って虎夜刃丸に抱き付くと、すぐに立ち上がり、小走りで奥間から出て行った。
澄子の後姿から視線を戻した虎夜刃丸は、自慢気に、母の久子に向けてかわいい鼻を高くした。
楠木
安堵の表情を浮かべた楠木正成と美木多正氏が
「七郎、よう無事に千早城にたどり着いた」
そう言って、正氏が弟の肩を叩いた。
「何のこれしき。ただ平野
これには、申し訳けなさそうに正成が顔を
「そうか、平野
「いや、あやつなど、
気にする素振りも見せず、
「お前様、よくぞご無事で……」
澄子が息を切らせて駆け付けた。
「心配をかけた。もう、大丈夫じゃ」
「叔父上」
澄子の跡を追うように、虎夜刃丸が久子の手を引いて駆け付けた。その後ろから、多聞丸と持王丸、満仁王丸と明王丸も駆け付けて叔父の生還を喜ぶ。
これで千早城には、赤坂城から合流した
一方、千早城を取り囲む幕府軍は、赤坂城攻めの軍勢が合流し、総勢五万となっていた。
「よいか、者ども、城を取り囲み、時を同じくして一気に押し上がれ」
事実上の指揮官である長崎高貞が激を飛ばした。七千の兵で千早城の三方を取り囲み、昼前から兵を一気に千早城へと押し上げた。
城の周囲は一部を除いて
しかし、幕府軍は楠木軍の裏をかくように、この急峻な崖に
前線を指揮する侍大将が、その大顔に似合わずに口をすぼめる。
「よいか、者ども、声を上げずに静かに進めよ」
身振りを交えて周囲の兵に注意を
急峻な崖下は城の中からは死角である。そこに、驚くほどにびっちりと人が張り付いた。
しかし、城内からはまったく反撃がない。
「よし、もう少し。拙者が一番乗りじゃ」
先駆けの兵がもう一息で城に達しようとしたその時である。
―― ぐわん、ごわん、がらがら ――
けたたましい轟音が耳に入る。
「なんじゃ、この音は」
一人の兵が顔を上げると、上から落ちてきた岩が目の前に迫る。次の瞬間、その岩を抱いて崖下に転がり落ちて行った。
崖に張り付いていた他の兵らもいっせいに顔を上げた。大小幾つも岩が、自分たち目掛けて転がり落ちて来ていた。
「うわあ」
「ぎゃあ」
「助けてくれ」
あちらこちらで戦慄の悲鳴があがる。さらに、無数の岩が兵たちを巻き込んで落ちていく。
一瞬の出来事であった。崖下の土煙が治まると、そこに現れたのは地獄絵図である。多くの兵が岩の下敷きになり、あちらこちらが血で染まり、兵たちの口々から、苦しそうなうめき声が上がっていた。
千早城の上からは、楠木正成・
正氏が満足げに笑う。
「わはは、
「むごいことではあるが、致し方ない。成仏するがよい」
正成は幕府軍の死傷者に手を合わせた。
「千早城へ北から攻め上った御味方、千余が全滅致しました」
「南から攻めた名越殿の郎党、千が全滅です」
「西から三手に分かれて登っていた御味方、死者多数、動けるものはわずかです」
次々に報がもたらされた。いずれも悲惨な内容ばかりである。
「な、何と、七千もの攻め手が一瞬でほぼ全滅ではないか。このようなことがあろうか……」
高貞は呆然として千早城を見上げた。
この日の幕府軍の死傷者は数知れず。記録の役人十人が、三日かかっても終わらないほどであった。
大将の一人、名越
「殿、力技ではこちらがどのような被害を受けるやもしれませぬ。多少時は掛かりますれども、ここは赤坂攻めと同じく水を絶つことかと存じます」
側近の献策に、
「城の周囲は三方が川であったな。いずれかの川から水を汲んでいるのであろうか」
「はい、すでに調べは付いております。南北と西には幕府方の兵が隙間もないほどに陣を布いておりますので、水を汲むとすれば、東側の山の
「そうか、よう調べてくれたのう。よし、その
「承知つかまつりました」
早速、側近は兵を引き連れて風呂谷に向かった。
千早城の本丸に建つ陣屋の
「これ、虎夜刃丸。大事な水です。こぼさずに飲みなさい」
母の声で足下を見ると水がこぼれている。虎夜刃丸は慌てて土間に染み込んだ水に手をやる。
「これ、水は元には戻りませぬよ。手が汚れるから、止めなさい」
その言葉に虎夜刃丸は汚れた手を服で
久子は、その服に目をやり、我ながら、余計な事を言ってしまったと額に手を当てた。
「ごめんなさい」
虎夜刃丸は、久子のお説教に、しょんぼりと頭を下げた。
「まあまあ、
「な、虎夜刃丸。こうやって飲めば水はこぼれぬであろう」
そう言って、虎夜刃丸に
遠慮がちに母の顔を一瞥した虎夜刃丸は、
「偉いぞ、虎夜刃丸。今度はこぼれなかったな」
「七郎殿、水は本当に大丈夫なのですか」
「大丈夫。赤坂城と同じ
幕府軍の名越勢が、風呂谷の見張りに付いてから三日が経った。
千早城の本丸に建つ陣屋の外では、楠木正成と美木多正氏が手頃な石に腰かけて、幕府軍の出方を話し合っていた。
そこに恩地左近の息子、満一が駆け寄り、片ひざを付く。
「風呂谷の敵兵ですが、いまだに
「もう三日か。
焦る事もなく、正成は平然としていた。それもそのはずで、千早城は谷水に頼らなくても、掘り当てた井戸だけで十分に足りていた。
正氏は風呂谷の方角を
「まったく能のない奴らじゃ。同じことでこの城が落ちると思うなよ」
「五郎(正氏)、そろそろ、幕府の兵たちも退屈しておるころであろう。期待に応えて水汲みに行ってやってはどうか」
「ん、兄者、ということは……」
「
「おお、待っておった。鎌倉武士に我らが武勇を見せてやろう」
正氏は、
さっそく正氏は満一とともに、百人の精鋭を引き連れて風呂谷へと下った。そして、幕府の兵たちが目に入るところまで降りて、岩陰に潜む。
「よいか、日頃鍛えたお主らの腕前を見せる時がきたぞ。
正氏の合図で楠木党の百人が力を入れて、きりきりと弓を引き、狙いを定めていっせいに矢を放った。
―― ひゅん ――
いきなり十人程度が矢を受けて倒れた。名越の兵たちは驚き、木蔭に隠れて矢を射返した。
矢合わせでは、崖の上から下に向けて放つ楠木勢の矢が、名越勢のそれを凌駕する。楠木の矢は相手に届くが、相手の矢は届かなかった。あらかじめ矢が届かない間合いを、戦に先立って計っていたからこそである。
さらに浮足立った名越勢を、今度は和田
数に勝る名越勢ではあったが、崩れ出した体制を立て直すのは難しい。いったん退却とのかけ声が響く。慌てた名越の者たちは、あちらこちらに
翌日の千早城。撤退した名越の陣に一番近い四の丸に、たくさんの旗が掲げられた。楠木の菊水や
「名越殿、この通り忘れ物をお預かりしておる。名越の御紋が付いておりますゆえ、我らでは使い物にならず困っており申す……」
美木多正氏が四の丸の
「……仕方がないので、我らはこれで、
大将、名越
「旗を奪われしは我が家の恥。何として取り返えすのじゃ」
激昂した
急斜面ではあるが、風呂谷付近の切り立った崖に比べれば緩く、捕まるための草木も生える斜面である。
それだけに、楠木軍とてここの守備は強固である。正氏は兵を集めて雨のように矢を放った。
名越軍はゆく手を阻む
しかし、先頭の兵が顔を引きつらせる。
「な、なんじゃ」
名越軍の前に現れたのは、ここでも丸太の大群であった。たくさんの丸太が五千の兵を目掛けて転がり落ちる。多くの兵が丸太とともに谷底へ飲み込まれた。
頭に血が上って猪武者のように突進していた名越勢であったが、この丸太の勢いに、一気に血の気が引いてしまう。
「うぐぐ……楠木め。姑息なことばかり。武士ならば正々堂々と戦え」
大将の
名越勢が大敗を喫したことは、すぐに幕府軍の総大将、阿蘇治時にもたらされた。若い治時に代わり、幕府軍を実質、差配する
「ええい、力攻めしてもこっちの被害が増えるばかりじゃ。城を完全に取り囲み、兵糧攻めにせよ。さすれば奴らも城から出て来て戦わざるを得ないであろう」
高貞は総大将、治時の名で、各大将の陣に触れを出した。さっそく幕府軍の兵は、全方位から千早城を二重三重に取り囲んだ。
千早城の本丸の
「三郎兄者、幕府軍の配置が変わったぞ」
「うむ、兵糧攻めであろう、赤坂城の攻略と同じじゃな」
特に深く問い返すことなく、正成は言い当てた。
「まったくじゃ。水責めの次に兵糧攻めとは。攻め手の大将も能がないことじゃ。我らがそのくらい用意せずにおると思うてか」
つまらなそうに、
かくして、幕府軍が兵糧攻めをはじめて
千早城にある本丸の陣屋の中、楠木正成は美木多正氏を呼び寄せる。
「五郎(正氏)、敵も退屈している頃合いであろう。退屈しのぎに敵の策に乗ってやろう」
「ほほう、敵の策に乗るとは」
興味深そうに正氏が前のめりになって言葉を返した。
「うむ、よく聞け、五郎……」
そう言って、策を詳細に正氏に説明する。正成らしい奇抜な策であった。
幕府の本陣。
「ご注進申し上げます。千早城の出丸(四の丸)のさらに麓に、突如として砦が現われました」
「何、突然砦が現われただと。夜のうちに造ったのか」
「それはわかりませぬが、新たな砦は百を超える楠木の兵が守備している模様。城から討って出るのではないかと思われます」
「そうか、ついに兵糧攻めの効果が出てきたということじゃな……」
高貞はふうと、重荷を降ろした時のように息を吐いた。
「……よし、この時を待っておった。千の兵を与える。砦の兵を討ち取ってしまえ」
間髪置かず、高貞は側近に出陣を命じた。
幕府軍は千の兵を砦の麓に移動させて矢合わせを仕掛けるが、楠木方からは、時折、ひゅんと間を開けて散発的な返し矢があるのみであった。
これを見て、
「敵は、腹を空かせて、矢さえ放つことができぬようじゃ。者ども、わしに続け。一気に蹴散らすぞ」
幕府軍の千が、新たな砦を目掛けて一気に攻め込む。
「やああぁ」
先ほどから一歩も引かずに砦を死守する楠木の兵に対して、幕府の兵たちは正面から切り込む。
―― ずばっ ――
土煙が収まり切らない中、勇猛果敢な侍大将が楠木の守備兵に
「ううん」
その刀からは人を切ったような感触が何も伝わってこない。
「なんじゃ、これは」
目を凝らすと、切り倒した楠木の兵は、
「何という恥辱じゃ。楠木め、ふざけおって。ただではおかんぞ」
怒り心頭、血が沸騰寸前の侍大将であったが、次の瞬間、一瞬にして身体が凍り付く。
「い、岩が落ちてくるぞ。逃げよ」
侍大将は、その声を最後に、岩とともに転がり落ちる。幕府軍は、またもや楠木の術中に
幕府軍の本陣。その陣幕の中では、総大将の阿蘇治時と
「誰か楠木を攻めるよい策を持ってはおらぬか。このままでは幕府の威厳が地に落ちる」
若い総大将の治時は、
「誰か意見はないのか。何でもよいぞ。新田殿はどうじゃ」
高貞が、痺れを切らして、義貞に話を振った。
「楠木は
消極的な義貞の意見に、
「何と臆病な意見じゃ。後方の守備固めだけしておると、そうなるのじゃな」
しかし、家時の嫌味にも、義貞は動じない。
「別に、慌てて城を落さなくとも、この山奥に楠木を釘付けにしておけば、害にはならぬのではありませぬか。取り囲むだけなら、このように多くの兵は必要ありますまい」
ここ千早城の動向が諸国の反幕勢力にどのような影響を与えるか、義貞は見極めたいと思っていた。そのため、今、千早城が落ちることを望んではいなかった。
「新田殿、もうよい。他に意見はないのか。誰でもよいぞ」
高貞は、後ろ向きな義貞に
大将たちから、これといった意見が出ない中、後ろに控えていた郎党の一人が進み出る。
「突拍子もない策ですが、このようなことはいかがでしょう」
「何じゃ、申してみよ」
「あのぉ、千早城と、金剛山から伸びる東の支脈の間には深い谷があり、金剛山から千早城に取付くことは難しいかと存じます」
「そのようなことはそちに言われるまでもなくわかっておるわ」
「で、その谷ですが、深さの割に距離は短く、これなら橋を架けられます」
「何、橋か。じゃが敵は、のんびり橋など架ける暇を与えてはくれまい」
期待外れの意見に、高貞はため息をついた。
「いえ、そこで、金剛山側の橋のたもとで、五重塔のように高い
総大将の治時が、この郎党の進言に目を輝かす。
「ほう、面白き策じゃな。楠木に対するには、こちらも奇策を
歳若い治時は、この突飛な策を気に入り、
「確かに、やってみる価値はあるかと……よし、都から大工をかき集めて参れ。巨大な
居丈高な高貞の
「ふふ、楠木の慌てる顔が見てみたいものじゃ」
治時は独り言のように呟き、その顔に、にやにやと笑みを
兵糧攻めを受けている最中にもかかわらず、千早城では平穏な日々が続いていた。それもそのはずで、城の井戸は渇れることなく、兵糧庫の蓄えも充分。おまけに城で育てた穀物や野菜も収穫できるようになっていた。
年長の多聞丸は、弟の持王丸と従兄の満仁王丸に弓矢の
「えいっ」
「とうっ」
まだ、数えて三歳と幼い虎夜刃丸でさえも、陣屋の外に出て、従弟の明王丸と剣術の真似事をしていた。はたから見ると、遊んでいるようにしか見えない。だが、幼い二人でさえも、大人たちと同様に戦っていた。
虎夜刃丸が、ふと、手を止める。
「ん……」
「おい、虎っ」
手が止まった虎夜刃丸に、明王丸は立ち合いの続きを
「明王、あれ」
虎夜刃丸が指差す向こうには、巨大な柱がそそり立っていた。天をも突くほどに高い柱である。何であろうと二人でしばらく眺めていると、大人たちも異変に気づいて騒ぎだした。
これに美木多正氏が、楠木
「どうした、明王」
「父上(正氏)、あれは」
不思議そうな表情で、明王丸が正氏の手を引いた。
「な、何じゃ、あれは」
「何と奇怪な」
正氏も、さらにその隣の
そこに、楠木正成までもが騒ぎを聞き付けて現れる。
「どうした」
「父上(正成)、あれじゃ」
虎夜刃丸は指を動かし、正成の視線を巨大な柱へと
ふうむと柱を見据える正成に、
「三郎兄者(正成)、何やら幕府方がはじめたようじゃが、あれはいったい……」
「なるほどのう。わっはは」
巨大な柱を見て、正成は楽しそうに笑う。虎夜刃丸はそんな父の顔を不思議そうに見上げた。
柱を注視したまま、正氏が正成に問う。
「兄者は、あれの見当がつくのか」
「橋じゃ、あそこからあの柱をこちらに倒して、この城に橋を架けようとしておるのじゃ」
「ああ、なるほど……」
その答えに、二人の弟は得心する。
「うむ、幕府も知恵を絞ったようじゃな」
正成は感心した風ではあるが、特段焦る様子もない。
「兄者、笑い事ではないぞ。橋が架かればまずいであろう」
「うむ、まずいのう。いやはや、敵ながらあっぱれ。されど、五郎(正氏)、大丈夫じゃ。敵はこの城に取付くことすらできぬわ」
皆の心配をよそに、正成は意味ありげに笑い、その場から立ち去った。
二人の弟は顔を見合わせて、首を傾げる。
「何で大丈夫なのであろう」
正氏が腕組みして独り言のように呟くと、虎夜刃丸もそれを真似て、その場で目を閉じ、腕組みをする。
「おお、虎夜刃丸も考えてくれるのか」
しゃがみ込んだ
すると、何かひらめいたかのように、虎夜刃丸が目を開く。
「あのね……」
両手を
これに
「おお、虎夜刃丸。そう、それじゃ。なるほどのう」
「何じゃ。わかったのか。わしにも教えてくれ」
虎夜刃丸の答えに感心する
「五郎兄者(正氏)は駄目じゃ。自分で考えてもらおう。なあ、虎夜刃丸」
おどける
「意地悪じゃのう」
正氏が追いかける素振りを見せると、虎夜刃丸は明王丸を伴って、きゃっきゃとはしゃいで走り去った。
幕府の渡し橋の計画は大詰めを迎えていた。
「よし、綱を切れ。橋をかけろ」
―― ずずず、どうぉんっ ――
「よし、一気にこの橋を進んで敵の本丸を落すのじゃ」
大勢の兵がこの橋に群がり、城を目掛けて橋を渡った。
先頭の兵が橋の中央まできた時である。城側の橋のたもとに楠木の兵たちが集まってくる。
「敵は守備兵を集めて、我らを阻止するつもりじゃ」
「い、いや、あやつら何かをしておるぞ」
「ん、水をかけているようじゃが」
橋を進む先頭の兵たちは首を傾げるた。すると、一人の兵が、風に乗って漂ってきた臭いに気づく。
「これは水ではないぞ。この臭いは油じゃ」
「何、油じゃと。ということは……」
次の瞬間、火の付いた
「うわ、火じゃ」
「も、戻れ。早く」
兵たちは目の前の出来事に、慌てて引き返そうとする。だが、後ろからは蟻の行列が進むように兵が押し寄せ、引き返そうにも引き返せない。そのうちに、火はどんどんと橋の中央あたりにまで燃え移った。
そこからは阿鼻叫喚の光景である。火が燃え移って苦しむ兵。火を恐れて自ら谷底へ飛び込む兵。橋を渡っていた二百余の兵は、生きる術を失った。
千早城の本丸では、渡し橋の成りゆきを見ようと、虎夜刃丸らこどもたちが
真っ先に持王丸が塀によじ登る。
「うわ、燃えておる」
塀を跨いで腰かけた持王丸が、驚きの声を放った。次に塀に登った満仁王丸が、明王丸の手を引っ張って、塀によじ登らせた。
「虎も見る、虎も見る」
一人、塀を登れないで置いてきぼりを喰らった虎夜刃丸は、焦って兄たちに訴える。
「よし、虎。わしの肩に捕まれ」
少し遅れてやってきた多聞丸が、虎夜刃丸を背に担いで塀に上った。
兄の肩越しに、幼い瞳が地獄の光景を捕える。あまりに残酷なありさまに、虎夜刃丸は思わず目を背けた。しかし、脳裏には、この光景が強烈に焼き付く。戦とは何と
炎を纏ったその橋は、幼子の心に深い傷を残したまま、敵兵たちと谷底へと消えていった。
吉野山の
その
その隙に吉野山を脱出した
「
悲痛な表情の
先を歩んでいた四条
「宮様、
「されど……」
親王は多くの兵を亡くしたことに、心を痛め
赤松
「宮様、千早城では楠木正成が幕府軍を引き付け、いっこうに落ちる気配がないとのこと。
「そうです。宮様には今後も諸国の志ある者に
その言葉に親王がぐっと顔を上げる。
「正成か……そうであったな。
「もちろんでございます。我が
「この
固い絆で結ばれた主従であった。
その時、
「幕府の追手か……」
四条|隆貞の言葉で一同に緊張が走った。
取り囲んだ兵たちを
「恐れ多きことなれど、
これに親王が、赤松
「そうか、まだ、
「
一行に生気が戻る。
河内では、吉野山を落した幕府軍が千早攻めに合流する。その結果、ついに十万を超える大軍が千早城を取り囲むこととなった。
幕府の
しかし、正成の備えは高貞の考えを越えていた。
水は、城の中に掘られた複数の井戸のお陰で困ることはなかった。金剛山に繋がる水脈の存在を、修験者や山の民たちから聞いて知っていたからである。
そして、食い物も十分にあった。事前に兵糧を蓄えていたこともあるが、城の中では女こどもが畑を耕し、計画的に里芋や
さらに立てこもる千人を超える人々の
そして、その盛忠が
赤坂城の中では、楠木
そこに楠木正成も登ってくる。
「どうじゃ」
「三郎兄者か……吉野山が落ちてから、取り囲む敵の数は倍になったぞ」
「されど、それが返って幕府軍に災いをもたらすことになる」
ゆっくりと
「というと」
「奴らの兵糧を絶ってやればよい。
「なるほど……では、さっそく五郎兄者(正氏)と相談して、皆へ協力を触れ回ろう」
「うむ、戦に勝った
正成の術策で、幕府軍へ運び入れられる兵糧は、日増しに少なくなっていった。
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