第24話 足利尊氏
正平九年(一三五四年)十月、南河内の野山では、色鮮やかだった紅葉が、枯れ色に押されはじめる。
季節が変わるように、帝(後村上天皇)の
自然と、正儀の和睦への期待は膨らんだ。しかし、その期待は、思わぬところから裏切られる。
同月、南朝より
当時、
南朝は、この直後に
この度、京への侵攻を画策したのは山陰の
時氏は考えた。南朝の公家大将では、諸国の武士たちの旗印にはなり得ない。武士には、武士の棟梁たる尊氏や義詮に対抗すべき旗印が必要であると。
この
足利
「
「六条様もお出ででありましたか」
「六条卿は
「河内守、麿とて朝廷のありさまを憂う者の一人じゃ。よしなに」
正儀には、
「六条様、こちらこそ、よしなにお願いします。して、中納言様(
「実は足利
正儀にとっても初耳であった。
「何と言って来られましたか」
「総大将を仕立てて、京へ進軍するように奏上してきた」
「すでに帝(後村上天皇)の耳には入っているのですか」
残念そうな表情で
「
「
正儀の意見に
「
「主導権は己らが持ったままに……ですな」
「その通りにございます。
正儀は
「それがしは、この戦、様子見をしたいと存じます。どちらが勝とうが、将来、我らは戦をせねばならない可能性がございます。ここで宮方が兵を損じることは避けなければなりませぬ」
「うむ、もっともなことじゃ。されど、朝議では軍を送ることになろう。前回に続いて四条中納言(隆俊)が
眉間に皴を寄せた
正儀には、ひとつ気掛かりがある。
「北畠中納言(
「あの事件以来、北畠家自体が、帝(後村上天皇)の信頼を失っておる。よほどのことがなければ、帝は北畠卿の出陣を許すまい」
帝の勘気をこうむったのは、
「では、紀伊勢とともに我ら楠木党が軍の中心となりましょう。それがしの指図の元、我らが戦の前面に出ることのないよう動きます。それゆえ朝廷の中においては、阿野中納言様、六条
「相わかった」
「ではよしなに」
正儀は、
赤坂の楠木館に戻った正儀は、広間に重臣たちを集めた。
「なるほど、三郎兄者(正儀)。ということは、我らは
上座に腰を据えた正儀に、正近が
「形は朝廷の軍じゃ。成りゆきによっては我らも戦はやむをえん。されど、わしはこの戦で兵を失いたくはない」
「兄者(正儀)、わしはそれで構わんが、
正澄の指摘は、皆も懸念するところであった。
「新九郎(正武)殿には、出陣した後に、追々、わしから話をしよう。ではさっそく出陣の
「はっ。
武信、正友らは立ち上がり、ただちに兵の招集、兵糧の準備に取り掛かった。
京の幕府は、この
この頃、将軍の足利尊氏は病に伏せることが多くなり、跡継ぎの足利
早速、駆け付けた清氏に、上座から義詮が問う。
「相模守(清氏)よ、
「坊門様(義詮)、それがしもそれがよろしいと思いまする。
自らの策に清氏が同意したことで、義詮は少し気をよくする。
「うむ、では、道誉にも出陣を命じよう」
「入道殿ですか……」
清氏は少し
「相模守、どうした。道誉では不服か」
「いえ、決してそのような……よきご判断と存じまする」
「そうか。では、すぐに出陣の
そう言って義詮は、尊氏の居る二条
陣を敷いた寺の
「さて、義詮の奴は討って出てくるであろうか」
「左様にございますな。すでに
「では、山陽道に
「
「弾正(時氏)よ、我らはここで兵を無駄に失うべきではない。幕府軍が摂津に入れば、我らはただちに丹波を目指して進軍し、丹波口から京へ突入する」
「なるほど、京を空にしたところで我らが京を占領するわけですな」
時氏は、
「その通りじゃ。南軍には男山から京へ突入させる。我らが到着する日を決めて南軍に渡りをつけるのじゃ。ところで、南軍は誰が率いるのか」
「それはしかとわかりませぬが、やはり主力は楠木でしょう」
時氏は
「そうか。楠木か。楠木の棟梁は何と言うたかな。父や兄に似て戦上手と聞いておるが」
「はい、正儀です。公家が差配する南軍では、やはり一番信頼のおける者と思われます」
「そうか、何といっても楠木正成の息子じゃ。京で会うのが楽しみじゃな」
「叔父上、行ってらっしゃいませ」
養子となった多聞丸だが、なかなか正儀のことを父とは呼べなかった。数えで二十五と若い正儀に対しては、仕方がないことであった。
「殿、御武運をお祈り致しております」
徳子は
「うむ、心配をかけるが、城の者どもをよろしく頼むぞ」
「あら、心配をしているように見えましたか」
徳子はにこりと微笑む。
「いや、まったく……」
正儀も笑う。
宮中に居たとはいえ、やはり、武士の娘である。表向きはまったく動じる風はない。
「何かあれば、九郎殿(橋本
「承知つかまつりました」
頷く徳子の横に
「殿、御安堵召されませ」
舎弟の楠木正澄が正儀に声をかける。
「兄者、そろそろ参ろうか」
「うむ、では参ろう」
正儀は馬に乗り、兵たちに
徳子は胸の前で両手を合わせて見送る。やはり、心中は穏やかではなかった。
出陣した正儀は龍泉寺城で和泉の和田正武・橋本正高の軍勢と合流して、
金剛寺では
その
「楠木河内(正儀)、これより楠木、和田、橋本の兵を率いて出立し、足利
真意はさておき、杓子定規な挨拶を行った。
「うむ、河内守(正儀)はすぐに出立し幕府を討伐せよ。麿は紀伊と十津川・
「はっ」
大将、隆俊の
「者ども、これより出陣ぞ。我ら楠木党の力を思う存分に発揮致せ」
「おおっ」
「おおっ」
兵たちの気勢がこだまのように重なった。
楠木軍は、京に向けて出陣した。
道すがら、正儀は和田正武の隣に馬を付ける。
「
「何と申される。
思った通りの反応であった。
「その肝心の
正武は顔をしかめる。
「じゃとしても、これは好機ではござらんか。
「新九郎(正武)殿、諸国の諸将は幕府を望んでおるのではあるまいか。我らが将軍を討伐しても、次の将軍が担がれる。結局、幕府は続くのではないかと思う。建武の御世にはもう戻らん。わしらは果てなく将軍と、いや幕府と戦わなければならんぞ」
「三郎殿(正儀)は考え過ぎじゃ……」
正武はそう言ってから、正儀から視線を外す。
「……じゃが、和田も含めた一党の棟梁はそなたじゃ。わしは納得せぬが、棟梁の指図には従おう」
「かたじけない」
「ただし、戦が始まれば、理屈では割りきれぬことも起きる。そのときには動く。我らが生きるためじゃ」
正武は正儀に目を合わせようとはしない。
「わかりもうした」
正儀のその言葉だけ聞くと、正武は
正儀はこれまでと同様に男山の麓の寺に陣を敷いた。唯一異なるのは、京に討ち入ろうとは考えていないことであった。
金堂で
「殿、山名殿(時氏)から再三、京への討ち入りについて、確約を求めてきております。どうされますか」
「兄者、四条中納言様(隆俊)からも、ご自身が入洛される時機をたずねてきておる。こちらもいかがする」
河野辺正友と楠木
正儀は、
「又次郎(正友)は山名殿にこう伝えよ。我らは足利義詮が無傷で西にいるなど想定外。播磨から引き返してくる足利義詮を京に入れぬよう、西に対峙せねばならん。ここは山名殿をはじめとする
「なるほど……
正友は納得顔で承知した。
「四郎(正澄)は、山名殿にそう伝えた事を四条中納言様に御知らせし、我ら朝軍(南軍)は、敵の攻撃があるまで、ここにに留まると言上せよ」
「わかった。それがしが直接、四条卿(隆俊)にお会いしよう」
すっかり頼もしくなった正澄は、難しい役目を二つ返事で引き受けた。
南朝勢が京を
僧侶たちの読経に手を合わせる尊氏の元に走り込んできたのは、将軍家執事の
「山陰勢が丹波口に迫って来ております。男山の南軍も直に入洛することでしょう。諸将には出陣の
「今は法要の最中。控えるのじゃ」
「されど、敵はそこまで迫っております」
「
焦る
しばらくして、別間で苛立つ
「
「戦わずに逃げるのでございますか」
「そうじゃ。義詮が軍を引き連れて出ている以上、京で迎え撃っても勝ち目はない。無理をして戦う必要はない。義詮が戻ってくれば奪い返すのは容易じゃ」
そう言って尊氏は、さっさと広間を出ていく。
「そうじゃ。
「は、
正平十年(一三五五年)一月十六日、山名勢が主体の足利
山名時氏は正儀の言い分に納得した訳ではない。しかし、義詮が率いる大軍が居ない間に京を押さえるには、ゆっくり南軍と協議を重ねている暇はなかった。
一方、南軍が駐留する男山には、赤松
氏範は腕に覚えのある荒武者であった。いつまでも出陣せずに男山に留まる南軍に痺れを切らせ、楠木の陣に
「楠木殿(正儀)、なぜ討って出られんのじゃ。すでに山名らの山陰勢は京へ攻め入っておるぞ。みるところ、いつでも出陣できるではないか」
氏範は威圧的に迫った。
「赤松殿、貴侯の考えはあろうが、ここはそれがしの指図に従っていただきとう存ずる」
正儀はぴしゃりと釘を刺した。
「楠木殿は何を考えておいでじゃ。それがしにはさっぱりわからん」
「京は
「楠木殿が動かぬなら、それがしにも考えがある。南軍の総大将は楠木殿ではあるまい。御免っ」
不満を
河野辺正友があきれ顔を向ける。
「四条卿(隆俊)にお許しを得に行ったのでしょうな。聞きしに勝る猪武者。とにかく戦をしたくて仕方がないという感じでございますな」
「赤松殿(氏範)が南軍から離れるのは損失じゃが、赤松殿に事情を話すことはできぬ。仕方あるまい」
正儀は
この後、氏範は兵を率いて足利
足利
一方、正儀と和田正武らの南軍は、入洛せず男山に留まったまま、動こうとはしなかった。しかし、京を占領した
待ち構えていたのは、
「その
諸将の中から、時氏が正儀にぎろっと目を向ける。
「南軍は我らとともに京に入るおつもりはないのか。そなたらは友軍ではないのか。それともただの傍観者であったか」
傍観者だったことは事実である。やっと正儀が口を開く。
「山名殿(時氏)、これはしたり。戦は大局を観ることが肝要。我らは東から折って返す義詮の軍勢を抑えなければならん。それと京は手薄ゆえ山陰勢だけで十分と判断したまでじゃ」
正儀は南軍の面子が立つ反論を行った。すると沈黙していた
「初めてお目にかかる。それがしが足利
「この戦に関しては四条中納言様(四条隆俊)が我らの大将。それがしが
わざと強い口調で正儀は言い返した。ここで少々揉めておけば、楠木を当てにされることはなくなるであろうとの算段であった。
案の定、赤松氏範が激怒する。
「河内守殿(正儀)、そもそも四条中納言様はなぜ来ぬのじゃ。そなたでは話にならんではないか」
「四条様には四条様の都合があり申す。ここはそれがしに任されておる」
正儀の言うことは嘘である。四条中納言には東寺に行くことは伝えていなかった。全ては、将軍家の内輪争いともいえる戦に、南軍が巻き込まれないようにするための苦心である。
のらりくらりと言い訳をしてから、正儀は
正儀は京に入るに際し、ひとつの懸念があった。それは兵糧である。男山に陣を敷けば、河内国からの補給路を確保できるが、入洛して四方の兵糧口を押さえられると、すぐに
正儀の予想通り、将軍、足利尊氏は
従弟の
「三郎様(正儀)、四方の兵糧口を押さえられ、京に駐留する山陰勢に兵糧が届かなくなっております。いずれ兵糧は底を突きます」
「京の人々への影響はどうじゃ」
正儀にとって民衆の動向は重要であった。南軍が京に留まるには、京の公家や庶民の支持があってのことと考えていた。
「それが、よくないことが起きております。山名の兵がまたも
「はや兵糧に
正儀は事態が予想より早いことに
「いえ、先の戦で略奪の味を占めた兵が、他の兵をそそのかしている
「ううむ、
苦々しい顔で正儀は呟いた。その目には、早くも勝敗は明らかであった。
「……幾度、同じことをくり返すのか」
庶民、武士、公家。人々の支持を得られない戦は、いくら粘ってみても出口がないことを、正儀はよく知っていた。むしろこれ以上、南軍が京に留まることの方を恐れた。
二月に入ると、播磨から足利義詮が引き返してくる。従うは佐々木京極道誉、赤松
兵力に劣る男山の南軍は、態度を迫られていた。男山に
一人、正儀は悩んだ。策を労すれば何とか互角に持ち込めるかもしれない。だが、その後が続かなかった。ならば、撤退するのが最善と考えたが、戦に
陣を敷いた寺の中で、正儀は楠木党の諸将を前にしていた。
「三郎殿(正儀)、ここは討って出ましょうぞ」
正武に
「又次郎(河野辺正友)、京の足利
正儀は、播磨から攻め上ってきた義詮の軍勢を食い止めるために、津熊義行ら配下の諸将に
二月六日、京から山名時氏・
対する義詮は、時氏の動きを見て、細川頼之を先駆けとして押し出した。義詮に
正儀は兵を二手に分けて、頼之の讃岐勢の側面に回る。
「今じゃ。者ども、かかれ」
正儀の
山陰勢を率いる時氏・
「おお、あれに見えるは佐々木京極の旗印。我らが南朝に転じたのも、元はといえば京極道誉の無礼に始まったこと。あの旗目掛けて突き進め。者ども、道誉の首を取るのじゃ」
時氏が声を荒げた。
「父上、お任せあれ」
嫡男の山名
一方の道誉も、突入が山名勢だと気づく。
「あれは山名か。返り討ちにしてくれようぞ。矢を射かけろ」
山名勢は激しく責め立てるが、京極軍は相変わらず雨あられのごとく矢を射かけた。
「ぐ……」
京極の兵が放った矢が、
「もはやこれまで」
その時、家臣の河村
「まだ、負けたわけではござらん。大殿(時氏)のもとに戻って兵に
弾正は配下の福間三郎に命じて
「ちっ」
舌を打ち鳴らした
「わしをどこに連れて行こうとしておるのじゃ。わしは敵陣に向かうぞ。馬を向けよ」
「若殿、正に我らは敵に向こうておりまする」
福間は気転を効かせて
山名軍は京極軍の弓矢に手こずっていた。時氏は、嫡男の
山名軍の撤退は、楠木軍が敵陣で孤立することを意味していた。
河野辺正友が声を上げる。
「殿(正儀)、山名が撤退しますぞ」
「是非もない。我らも撤退するぞ。諸将に伝えよ」
「承知しました」
正儀はこの無益な戦で無理をしたくなかった。
しかし、その思いは必ずしも皆、同じではない。和田正武は撤退の
「三郎殿(正儀)、まだ我らはまともに敵と戦っておらん。山名の兵が引いても大内(
息を荒らして正武が正儀に訴えた。
「新九郎(正武)殿、ここは無理をするところではない。ここで兵を失ってはならんのじゃ。和田の兵を
正武の
二月八日、摂津国三島で楠木軍や山名軍らの防衛線を突破した足利義詮が京に迫る。そして、足利
ついに
「坊門様(義詮)に阿波勢の力をお見せせよ。者ども、進め」
義詮の側近、細川清氏は敵軍を目掛けて斬り込んで行った。これに対峙したのは
しかし、清氏の猛将振りは凄まじく、
一方、男山に戻った正儀は、南軍を率いる四条隆俊に詰問されていた。陣中で
「河内守(正儀)、臆病風に吹かれたか。なぜ、麿の
「四条中納言様、京で起きている戦は我らが戦にあらず。
「なぜ、そうだといえる。そなたに何がわかるというのじゃ」
隆俊は、こと正儀が相手だと冷静さを失った。
『くわんかうと、鳴くや吉野の山がらす、かしらも白き面白の子や』
はぐらかすように、正儀が狂歌を詠んだ。突然の正儀の態度に、隆俊は
「おのれ、麿を
「中納言様、これは足利
正儀はいたって平静に言葉を返した。
「なに……
「それがしは京に
その言葉に隆俊は血の気を失い、正儀を見つめた。
「……義詮がこのまま将軍に成るのか、
冷静な正儀の判断に、隆俊は複雑な顔をして
「この場は、我らは男山に布陣したままで、
隆俊は顔を
その隆俊に、正儀は静かに頭を下げて、本陣を下がっていった。
三月十二日、近江の
これを受けて足利
男山に到着した
「なぜ南軍は動かぬのじゃ。はじめから手助けするつもりはないという事か」
「出陣をせなんだは、そこの河内守(正儀)の考え。麿は
あからさまに不機嫌に応じる総大将の隆俊に、
「河内守殿(正儀)、どういう事じゃ。説明してもらおう」
「
その言葉は、
「そこまで判った風に言うのであれば、なぜ別の手立てを打とうとされなんだ。結果からあげつらうだけなら誰でもできるぞ」
「
正儀は冷静に
「もう、よい」
三月二十八日、正儀らも、これを受けて河内へ引き上げる。またもや南軍による京の占領は、五十日あまりで終わった。
さりとて、南朝はこの四年間で、三回も京を奪還したことは事実である。世間は
正儀が京を撤退してから百日あまりが経った七月十三日。東条では、徳子が初産を迎えようとしていた。すでに父母を亡くしていた徳子は、侍女の
徳子が産気づいたという知らせを受けた正儀は、敗鏡尼の元を訪れ、
「叔父上、まだか」
声の方に目を向けると、舎弟、楠木
「おう、来たか。なかなか時がかかるものよのう」
「叔父上(正儀)、わしは
多聞丸は待ち遠しそうに言った。
それは、弟の誕生を待つ無邪気な兄の姿である。しかし、気難しい少年でもあった。多聞丸が楠木館で暮らすようになり一年が経つ。だが、結局、正儀と徳子を父、母とは呼ぶことはなかった。周囲はそんな状況を気遣ったが、正儀と徳子は特に気にすることはなかった。
―― んぎゃ、んぎゃ ――
しばらくして、甲高い産声が聞こえた。中から敗鏡尼の侍女、
「三郎様(正儀)、
「おお、そうか。でかした」
正澄が正儀の肩を叩く。
「兄者(正儀)、おめでとうござる。これで二人の父じゃな」
そう言って正澄は多聞丸に目をやった。
「そうじゃな。多聞丸、今日からそなたは兄ぞ。弟の面倒をしかとみるのじゃ」
「まかしてくれ、叔父上」
多聞丸は嬉しそうに応えた。
「三郎殿(正儀)、ごらんあれ。元気な
産着に包まれた赤子が、敗鏡尼から正儀に託される。
「おお、ほんに元気な、玉のような子じゃ」
目を細めた正儀が、今度は徳子に目を落す。
「よう頑張ったな。これで楠木家は、ますます安泰じゃぞ」
「はい。元気な
精根を使い果たした徳子だが、笑顔を作って正儀に見せた。
敗鏡尼が正儀に目をやる。
「名前を付けねばなりませんね」
「
「持国丸……持国天からですね。よい名です」
持国天も、多聞丸のゆえんになった多聞天(
「そなたの名は持国丸じゃぞ」
敗鏡尼は、正儀から返された持国丸に語りかけて、徳子の隣にそっと寝かせてやった。
「持国丸」
徳子は隣に寝る我が子を見つめながら、感慨深く呼びかけた。正儀に束の間の平和が訪れた。
正平十二年(一三五七年)、年が明けて正儀は、河内守と兼務して
この年の二月十八日、正儀は南朝にとらわれの身となっていた三人の北朝
四
それでも南朝が四
正儀は北畠親房ら強硬派のこの策を、非現実的だと思っていた。北朝と幕府が二度までも同じ手にかかるとは思えなかった。正儀は、一昨年の
三
馬から降りた正儀が、行列の先達として南大門を
正儀は
「楠木殿でござるか。それがしは佐々木京極道誉でござる」
「楠木河内守正儀にござる。京極殿、お出迎えご苦労にござる」
正儀は立ったまま頭を下げた。
「なるほど、楠木正儀とはそのような顔をしておったのか。わしをいつも手痛い目に合わせ、わしの息子たちを死に追いやった者が、どのような男か、今日はじっくり見に参った」
道誉は口元に苦々しい笑みを浮かべていた。道誉の次男、秀宗は正平三年に。嫡男の秀綱は正平八年に、それぞれ正儀ら南軍に討ち取られていた。
「それがしは入道殿にお会いするのを楽しみにしておりました」
正儀は敵対心の
「ほう、なぜじゃ」
「それがしは父から道誉殿のことは聞かされておりました。ああ見えて義理堅い男じゃと。
道誉が豪快に笑う。
「がっはは、わしが義理堅いじゃと。正成もおかしなことを言うたものよ」
「いえ、それがしもそう思うております。道誉殿は、離合集散の幕府の中で、足利尊氏殿に対しては、いまだ裏切りを見せておりませぬ。きっと惚れ込んだお方には、忠義を尽くされるのだろうと」
「ふん、若造が判ったようなことを」
「これは失礼を致しました。お許しくだされ。敵味方と別れていなければ、一度、じっくりとお話を聞いてみとうございました」
「わしと話をしたいか。またそういう機会があれば話をしようぞ」
気負いを
その後、三
「楠木正儀……正成の息子だけあって、やはりなかなかの男よのう」
道誉は去っていく正儀の一行を目で追いながら呟いた。
この年の冬、正儀の従弟、
正月の興行に向けて、神社仏閣と話し合いを持った帰りのことである。宇治橋の上、音も立てずに観世の後ろに男が立った。
「
観世は振り向かず、迷うこともなかった。双子の間にだけ通じる不思議な気脈である。
「久し振りじゃな。田楽は面白いか」
「ああ、猿楽とは違った魅力がある」
振り向いた観世は、口元に笑みを蓄えていた。
「猿楽を捨てるつもりか」
「捨てはせぬ。猿楽を越えるのじゃ。猿楽でもなく田楽でもない。そんなものを目指しておる」
聞世も笑みで応じる。
「お主らしいのう」
通り掛かりの人が振り返るほど、二人の笑った顔は似ていた。
「ところで聞世、何しに来た」
「足利尊氏が病に
すると、観世は聞世に背を向ける。
「もう、そのようなことには関りを持ちとうはない」
「観世なら、そう言うと思うた。されど、我らにはおおいに関係がある。殿(正儀)は
「それで……」
「うむ、そこで、殿(正儀)は京極入道(道誉)と気脈を通じておきたいと仰せじゃ。京極入道は田楽の一忠を気に入っておる。田楽の本座なら入道と会う機会もあろう。お前に京極入道との繋ぎ役となって欲しいのじゃ」
これを聞き、ふうと溜息をついた観世が、睨むように聞世に向き合う。
「わしは楠木党ではない。三郎殿(正儀)には悪いが、わしの仕事場を汚して欲しくないのじゃ」
「汚すじゃと……我らがやっていることは、お前がやろうとすることより、もっと大きな事なのじゃ。
熱く語る聞世に、観世は再び背を向けた。
「悪いが頼みは聞けぬ。三郎殿(正儀)には謝っておいてくれ」
強い意志を
聞世(服部成次)の頼みを断った観世(服部清次)であったが、さっそく佐々木京極道誉と会う機会が訪れる。一忠が率いる本座によって、宇治の平等院で年越しの田楽が奉納された。ここに道誉が見物に現れたのだ。
道誉は一忠の洗練された田楽に満足した後、観世の舞も見物する。
ふんと道誉が鼻を鳴らす。
「その
「はい。
道誉は差すように視線を向ける。
「忘れるものか。わしに、猿楽を田楽を越える芸能にすると言うた。それが今は田楽師か。大口を叩いただけに終わったものよのう」
道誉は観世を
「いえ、私めはあくまで猿楽師。田楽を越えるためには、まず田楽を知らねばなりませぬ。いずれ殿様にも、我が猿楽をお目にかけとうございます」
「わっはっはっは。面白き奴よのう。では賭けをせぬか。お主が田楽を越えれば、何なりと褒美を
「それは……」
「ふん、所詮、そんなものか。もうよい。下がってよいぞ」
道誉は手の甲を振って、観世を追い払おうとした。
「わかりました。御約束しましょう」
「おお、そうあるべきじゃ。わしの楽しみが一つ増えた」
にやりと道誉は口元を緩めた。
観世に自信があったわけではない。観世は聞世(服部成次)の依頼を思い出し、咄嗟に、道誉の関心を引こうとしたのである。
「あの、私めからも一つ、よろしいでしょうか……」
「何じゃ。申してみよ」
「く、くす……いや、何でもございませぬ。失礼致しました」
交換条件として、正儀の名を切り出そうとした。しかし、
一方の道誉は一瞬、不審な表情を浮かべるものの、すぐに戻す。
翌、正平十三年(一三五八年)は、幕府にとって節目の年となる。
四月、征夷大将軍の足利尊氏は、二条
尊氏は背中の腫瘍に悩まされていた。戦で負った傷が元でできた肉腫である。いわば、征夷大将軍が背負った
病床には嫡男、足利義詮が付き添う。
「父上、お気を確かに」
そう言って、背中の瘤を
「南の帝(後村上天皇)と和睦して……京へ……お戻しするのじゃ」
途切れ途切れの弱々しい声で、尊氏は義詮に話しかけた。
「もはやその議は……南の帝は我らが敵でございますぞ」
「わしは……後醍醐の帝が好きであった……帝に
「その
義詮に制されても、尊氏はなおも話を続ける。
「後醍醐の帝と
「父上……」
「頼む、南の帝と和睦して、この京にお戻しするのじゃ……頼む」
そこには、これまで義詮が見たこともない、後悔に
「父上、承知しました。この義詮、父上の願いを必ずや実現させてみせまする」
「ああ、頼んだぞ……」
尊氏は安堵したかのように目を閉じる。
「……
「楠木正成でございますか」
「そうじゃ……あの男は……敵にしたくはなかった……四国をやると申したが……断りよった」
「父上は、その正成にも勝ったではありませぬか」
「正成とともに……幕府を作りたかったのじゃ……迷い子の
「虎夜刃丸……」
「うむ、
「父上……」
「……
次の日、尊氏は眠るように静かに息を引き取った。正平十三年(一三五八年)四月三十日のこと。享年五十四歳であった。
赤坂の楠木館。正儀はその書院で軍忠状に目を通していた。
背後の気配に気づく。
「聞世(服部成次)か」
「はい。足利尊氏が亡くなりました。昨日のことです」
知らせに正儀は息を呑んだ。
「そうか、ご苦労であった。今日は館でゆっくりしていくがよい」
「かたじけのうござる」
聞世は正儀を残して下がっていった。
一人になった正儀は、立ち上がって戸棚を開き、中から笛を取り出した。そして、これを持って庭に出る。
「尊氏殿、覚えておいでですか。それがしに、この
そう言って、
久しぶりに
「殿(正儀)、ここにおいででございましたか」
振り返ると、縁に徳子が座っていた。
「何だ、そこに
「御邪魔をしてはと思いまして」
「うむ、どうした」
「聞世殿からお聞きました。足利尊氏殿が亡くなったと。お祝いの宴の
「ああ。わしは幼き日に、この笛を尊氏殿にもらい、今の調べを教えてもろうたのじゃ。尊氏殿と我が父は、敵でもあったが心を同じくする友でもあった」
「そうでございましたか」
「なあ伊賀(徳子)よ、わしが尊氏殿の冥福を祈ってこれを吹くのは、いけないことであろうか」
徳子が微笑む。
「いえ。殿は殿のお心のままになされませ。私はいつでも殿の味方でございますよ」
「そうか、すまぬな」
正儀は、徳子の前で
宴席の向こうでは、この時、左大臣に昇進していた
「尊氏が死んだ。これで幕府は崩壊じゃ」
「我らが京に帰れる日も近いでありましょう」
幕府に対する強硬派の面々は、口々に尊氏の死を喜び、無礼講とばかりに、武士たちも交えて酒を飲んで騒いだ。浮かれる輪の中には、いつの間にか正武の姿もあった。
対して、正儀の心は冷めていた。酒を口に運んでも酔わない。一人、縁に出て風に吹かれていると、中納言の阿野
「河内守(正儀)、このようなところにおられたか。どうされた、あまり酒が進んでいないようじゃな」
「阿野様、それがしは、足利尊氏が生きていたからこそ、我らを滅ぼさずにいたのではないか……そんな気が致しまする」
思わぬ言葉に、
「なぜ、そう思われる」
「いや、特に根拠などはありませぬ。お気になされませぬよう」
正儀はそう言ってから、幼い時に見た屈託ない尊氏の表情を思い出そうとした。
時代は着実に変わっていく。それから
八月十九日、足利尊氏の死で浮かれていた左大臣の
名門、
同月二十二日、幕府では足利義詮の側室、
「おお、玉のような
笑みを
「すでに名は考えてある。
その名に、良子は微笑んだ。
義詮には正室、渋川
「きっとこの子は我が父(足利尊氏)の生まれ変わりじゃ。いずれ大将軍に成るであろう」
義詮は男児の誕生を大そう喜んだ。
十二月八日、その足利義詮は京の帝(
将軍となった義詮は、近臣として信頼を勝ち得ていた細川清氏を、
ひとつの時代が終わったと言える。当世を主導したのは北朝の足利尊氏であり、南朝の北畠親房であった。
二人の指導者が居なくなった南北朝時代は、新たな世代による新たな時代に突入する。担い手は北朝の足利義詮であり、また、南朝の楠木正儀である。時代は、二人の予測をはるかに越えて、混沌とした争乱に突入する。
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