第32話 新帝
正平二十三年(一三六八年)三月十五日、摂津国住吉の
「関白様、
強硬派の大納言、四条隆俊と北畠
「うむ、承知しております。月のうちにはとり行いましょうぞ。されど、四条卿らを
間を空けた提案に、正儀は少し不安を覚えた。だが、
「関白様、それで結構でございます。されど、四条卿らが一の宮様であることを理由に
「もちろんわかっております。何なら誓紙でも書きましょうかな」
「あ、いや、それは……」
苦笑いを浮かべて、
「ほほほ。それでは、日取りについては、早ければ明後日にも麿からお知らせ致します。よろしいかな」
「承知致しました。それではよしなに。お取り計らい願います」
その不安は、すぐに現実のものとなる。
その日の午後のことである。強硬派の四条隆俊と北畠
大勢の
翌々日、関白、二条
「和睦が成らなんだ今、幕府と相対していくには、若い
四条隆俊は、関白の
これに対して、すかさず阿野
「待たれよ、四条卿。そもそも、このようなことを朝議に
「いえ、古代の
悪びれずに隆俊は応じた。
これには、さすがに
「いったい、いつの時代の話をされておられるのか。このような朝議をしようと、次の帝は、
もう一人の強硬派の
「阿野様、何か勘違いされておられぬか。いくら
だが、
「たとえ
「
「何、我らが嘘をついておると申されるか。聞き伝なりませぬな」
いつもはおとなしい
「それならば、麿は
「今更、
感情的になった
「六条卿の申されようは、
「北畠卿は
すかさず言い返す
「
四人の
「待たれよ、おのおの方。議論はいつまで行っても交わることはないであろう……」
朝議を開いた
「……麿に一任いただきたく存ずる。結論は軽々に申すことはできませぬが、やはり、
その言葉に、
朝議の後、正儀らは阿野
「結論は関白様(二条
紛糾した朝議を制し、
しかし、なおも正儀は険しい表情を緩めない。
「大納言様(
これに
「強硬じゃと……兵を用いるとでも河内守は考えておるのか」
「それがしの知るところでは、四条大納言様は手勢を紀伊から百騎ばかり呼び寄せております。北畠大納言様の動きはつかめておりませぬが。
「うむ、まさかとは思うが、念には念を入れた方がよいか……河内守(正儀)、
「兵を集めることは容易ですが、それがしが郎党を集めたとなると……」
和睦派と強硬派によって内戦状態になるのを恐れていた。
「それがしが兵を出しましょう」
声の主は和泉守、和田正武であった。
「我が和田党であれば、楠木の郎党より、目の敵とされる恐れは少ないでしょう。それに、和泉の我が館であれば東条に比べて近うございます。すぐに兵を集められます」
提案は合理的であった。
「和泉守、それはよい提案じゃ。さっそく兵を呼び寄せて
手を
「承知しました。新九郎(正武)殿、よしなにお願い申す」
目を向ける正儀に、正武は無表情に頷いた。
とある屋敷から、次の
「殿、大変でございます」
嫌な予感が走る。
「いかがしたのじゃ」
「殿、和田党によって、我らは
「な、なんじゃと」
かっと正儀は目を見開いた。
仔細を聞いた正儀は、正友を伴って急ぎ
馬上から正友が声を張る。
「こちらは、楠木河内守様なるぞ。殿を通すのじゃ。門を開けよ」
上気する正友に対しても、和田の兵は戸惑いながらも開門には応じず、そろりと、
そんな兵を押し分け、奥から一人の男が進み出る。
「河内守様、申し訳なき事なれど、ゆえあって、ここをお通しするわけには参りませぬ」
男は和田正武の嫡子、
「これは、御父上の命か」
一門の棟梁である正儀の問いにも、正頼は苦渋の表情を浮かべるだけで、返事を返すことはなかった。
その頃、
人のよい
「
「手荒い事をして申しわけございませぬ。されど、このようにせねば、関白様の身に、大事が起きていたやも知れませぬ」
頭を上げた
「どういうことじゃ」
「関白様、それがしから説明致しましょう……」
隆俊も顔を上げる。
「……河内守(正儀)が阿野大納言らと謀って、
不審がる
「それがしは、確かに河内守殿より、
これに隆俊が補足する。
「河内守の狙いは、北畠卿と麿でございましょう。和泉守の機転がなければ、我らは討たれておったやも知れませぬ。いや、関白様さえも被害を被っていたやも」
「まさか、そのような事、信じられぬ……」
和睦派の大納言、阿野
激高した
「この裏切り者めが」
しかし正武は、目線を合わせようとはせず、ただ黙って敷居近くでひざを付き、一礼した。
一方、隆俊と顕能は、立ったまま、勝ち誇ったように、
「六条殿、和泉守(正武)を責めるのは筋違いであろう。和泉守は、ただただ
にやりと口元を緩めた隆俊に、
「何を心得違いしているのかは知らぬが、麿が河内守に命じたのは、
「阿野殿、抗弁は朝議が終わってからにされるがよい。今しがた、関白様(二条
冷たく言い放った
さっそくその日の午後、朝議が開かれる。
関白、二条
「さりながら、
さっそく朝議の結果は、
「そのような事、認めてなるものか」
河野辺正友が郎党とともに激昂した。しかし、正儀が制する。
「
「されど、殿……」
怒りで肩を震わせる正友に対して、正儀はゆっくりと首を左右に振る。
「我らが
そう言うと正儀は馬に跨った。表面上は冷静な対応である。しかし、心の中は誰よりも怒りに震えていた。
正友を始めとする家臣たちも、悔しさを胃の腑に落として従った。
正平二十三年(一三六八年)三月末、
後日、和田党が守備する
本来なら、たくさんの旗が掲げられ、揃いの白装束を着た近衛兵が整列する中、
しかし、この度の即位の礼では
同時に
即位と同時に
さらに、
赦免された
武家も大勢列席していたが、正儀の姿はなかった。隆俊は正儀を許さなかった。
一つは、父、四条
もう一つは、正儀が朝廷の兵馬を掌握することを恐れていたからである。隆俊は和田正武を
とにかく、正儀は朝廷での立場を失った。だが、即位の礼に
正儀は流れを読むことに長けている。自らの正義を主張し、訴えれば訴えるほど、敵が増えると悟っていた。今はただ流れが変わるのを待とうと思った。
この年、新帝(長慶天皇)の即位が実現したことで、帝の叔父にあたる北畠
四月十五日、幕府においては、足利
これより十日前、頼之は武蔵守に任じられていた。かつて、鎌倉幕府に於ける執権北条氏、建武の新政時の足利尊氏、そして、足利幕府を開いた後には将軍家執事の
元服式は頼之が
「御所様、元服の儀、祝着至極にございます」
儀式を終えて、頼之が笑みを見せた。
「武蔵守(頼之)、段取り、ご苦労であった。これからもよしなに頼むぞ」
「ははっ」
十歳を少し超えたばかりの少年、義満に、頼之は
「で、
「御所様、将軍
問い掛け応じたのは、
正室の渋川
このこともあり義満は、公なことは頼之を父として頼り、内々のことはこの照禅を父として頼っている。
五月、正儀の姿は、自身が
この菩薩に向かって手を合わせる正儀の背後が急に明るくなる。その光に向けて、正儀が振り返った。
「正儀殿、拙僧が御呼び出てしたにも係わらず、お待たせして申し訳ありませぬ」
そこには、
「いや、心静かに手を合わせるのに、ちょうどよい一時でございました。で、そちらの方が……」
すると、男がその場に座って頭を下げる。
「幕府
「楠木
居住まいを正し、正儀も頭を下げた。
「拙僧が
これまでも
軽く笑みを浮かべた
「わざわざの御運び、痛み入り申す」
「いや、何の。楠木殿、和睦を進めるために、それがしは貴殿に会わなければと思うておりました。
その言葉に正儀は、申し訳なさそうに視線を落とす。
「それがしも思いは同じでございます。されど、少々間が悪うございました。住吉では新しい帝(長慶天皇)が御即位されました」
「聞いております。てっきり、
正儀が顔を曇らせる。
「新しい帝は、先帝(後村上天皇)とは異なるお考えをお持ちです」
「異なる考え……新帝は和睦を願うておられぬと言われるか」
「難しいことになるでしょう」
申し訳なさそうに正儀は頷いた。
すると頼之は、ううむと唸って目を
「
空気を察して、
これに、正儀が苦笑いで応える。
「それがしは
無念な表情の正儀に、頼之は首を横に振る。
「では、別の手立てを考えましょう。お見受けするところ、楠木殿の朝廷(南朝)での御立場は苦しいものと察しまする。楠木殿さえ、よければ、将軍の元に参じていただけぬであろうか」
突然の申し出であったが、正儀はさほど驚きもせずに
「正儀殿、拙僧もそれがよいと存ずる。よくご検討されるがよい」
「山名
二人はすでに頼之によって、南朝方から幕府へ寝返っていた。
正儀は静かに首を横に振る。
「お会いする前から、細川殿からそのようなお話が出るであろうことは承知しておりました。おそらく
「楠木殿、それをわかっていて、ではなぜ、この場に来られた。和睦も奏上できぬ、幕府に付くこともできぬでは、それがしと会う意味がないではないか」
そう言って、頼之は正儀の顔を窺った。
「まったく仰せの通りじゃ。されど、それがしは細川殿に一度、会うてみたかった。どのような男なのかこの目で見たかった。ただそれだけなのです」
偽らざる胸のうちであった。
「ふふふ、ははは、これは愉快じゃ……」
頼之は
「……楠木殿、それがしも同じでござる。貴殿と一度会うてみたかった。なるほど、楠木殿とは気が合いそうじゃ。
その言葉に、
結局、この日、頼之は、これ以上、和睦を協議するわけでもなく、正儀の寝返りを求めるわけでもなかった。
その頃、大和国
「いつ観ても、そなたの舞は美しい」
「観世殿、来られていたのですか……」
舞台の袖で待っていた観世に、
「……少しお待ちくだされ。すぐに片付けますので」
美男である観世の誘いに、
暇さえあれば、観世はその
『芸能は目で観て耳で聞くものじゃ。その両方が調和すれば倍にも十倍にもなるであろう……』
この京極道誉の言葉が、頭から離れることはなかった。
観世が
大和に戻った観世は、試行錯誤の末、
「入道様(道誉)、私はついに答えを見つけましたぞ」
観世は天を仰いで高らかに笑った。
この年の十月、河内国の楠木館へ、幕府より使者が訪れた。細川頼元と赤松
頼元は幕府
一方の
二人は広間に通されると、正儀の前で下座に腰を降ろす。
「幕府
そう言って頼元が書状を差し出した。淡々と交渉に入る頼元に対し、
(わしを試しておるのか……)
正儀は、頼之の真意を計りかねていた。すでに、和睦の奏上ができる立場でないことは承知しているはずである。
心の中で自問しながら、正儀は二人の顔を見る。
「もとより、和睦はそれがしの思うところ。
二人を前に、正儀は正直に話した。
あらかじめ言い含められていたからか、頼元はそれで結構と言葉を返した。
接見が終わった正儀は、細川頼元と赤松
馬上で
「楠木殿、まだ着かぬのか。一体、何処に連れて行こうというのか」
「御足労をおかけし申し訳ない。あれに見えるが
そう言って、小高いところに建つ建物を指差した。
「楠木殿自らの
遠くへと連れ回されたにもかかわらず、頼元は礼節ある態度をみせた。一方、
「いや、ついでに、赤松殿(
「それがしに……」
それまで視線を逸らしていた
そんな二人を連れて、正儀が寺の
「赤松の殿(
「く、熊王なのか、楠木殿(正儀)、これはいったい……」
驚く
「熊王丸は出家の道を選んだのです。積もる話もございましょう。二人でごゆるりと話をされるがよろしい。では、細川殿はこちらに」
仔細が
その場に残された赤松
「熊王丸、達者であったか。ずいぶんと心配したのじゃ。生きておれば、便りの一つでも誰かに託せなかったのか」
「私は殿(
「楠木の父上とは……いったい、これまでの間、何があったのじゃ」
さっぱり腑に落ちない
「あれからわたしは……河内東条に
そう言って、ぽつりぽつりとこれまでのことを語り始めた。
楠木館に招かれた
聞き終えた
「そうであったか……わしが
「殿様、滅相もございませぬ。全てはわたしの責任でございます。それに、出家して思ったのは、赤松の殿と楠木の父、二人にお会いできたことこそが、私の生涯の宝となっているのでございます」
「そうか……正儀という男は、それほどまでに心優しき者か……」
そう言って
幕府の使者、細川頼元と赤松
しかし、
神妙に頭を下げる正儀に、
「河内守、麿から
新帝が即位したことで、
「いえ、大納言様。それがしは直接、四条大納言(隆俊)に話をしてみるつもりです。それを阿野様にお伝えしておきたかったのでございます」
「そうか……そういうことであるか。そなたがそう思うのであれば、悔いの残らぬようにな」
そう言って、
その日、住吉大社の宿坊に泊まることにした正儀は、河野辺正友を四条隆俊の屋敷へと使わせる。隆俊が無視する懸念もあったが、意外にも会うとの返事を正友は持ち帰った。
翌日、正儀は
その場の空気が張り詰める。
「河内守が麿に会いたいとは珍しいことじゃ。今更、何用じゃ」
平伏の姿勢から、正儀はゆっくりと顔を上げる。
「幕府からそれがしの元へ和睦の使者が参りました。書状を預かっております……」
そして、隆俊に渡すようにと正武に書状を差し出す。
「……ぜひ四条大納言様より、朝議にお
睨むように正儀へ視線を向けたまま、隆俊は正武から受け取った書状をゆっくりと開く。
「河内守、なぜにそなたが和睦の取り次ぎをやっておるのか。誰の許しでやっておるのか」
「仰せ、ごもっともなれども、朝廷(南朝)の事情を知らぬ幕府の使者が、それがしの元に参り、和睦の取り次ぎを頼みました。それがしのところで放っておく訳にも参らず、こうして、住吉にまかり越しました。朝廷で朝議に御
そう言って、隆俊の叱責をかわした。言い分は至極真っ当で、隆俊もそれ以上は、苦言を呈することはできなかった。
「
怒りを抑えて書状に目を落とす隆俊に、正儀は言葉を足した。
目を通し終えた隆俊が、正武に見せることもせず、正儀に向けて書状を投げ返した。
「先般の和睦と条件は何も変わっておらぬではないか。このようなものを奏上せよと申すか」
冷たく言い放つ隆俊を前に、正儀は目の前に
「和睦の条件は同じですが、新帝が即位され、将軍も変わりました。和睦の交渉は振り出しに戻ったということでございます。幕府としては条件を最初の時のように自分たちに都合よく書くこともできたでしょう。されど、同じ内容で和睦を求めてきたのは、今後の交渉として幸先よきことにございます」
「条件をまったく変えようとしない和睦を幸先よきものじゃと。その
だんだんと隆俊の声が荒立ってくる。
「大納言様、和睦を呑めないとしても、和睦の交渉を引き続き行う事こそが肝要でございます。住吉の、ここ数年の安寧は、和睦の交渉が続いておればこそでございます。和睦を打ち切れば、幕府は兵を挙げることでしょう。さすれば……」
「和睦をする気もないのに、交渉をせよと申すか。やはり、卑怯な河内守よ」
遮って隆俊は暴言を浴びせた。
「な、何と」
腹に据えかねた正友が言い返そうとするのを、正儀は後ろ手で制する。そして、大きく息を吐いて意を決っする。
「大納言様、それがしを御父君の
「ふん、まるで他人事よのう」
「お聞きください。大納言様がそれがしに
不審な表情を隆俊が浮かべる。
「いったい何が言いたいのじゃ」
「それがしがなぜ男山に
「何、理由じゃと」
「それがしは先帝より密命を受けておりました。あの時、先帝は死を覚悟されておられました。それがしに三種の神器を託し、男山からの下山を命ぜられたのでございます。先帝に万が一のことあらば、楠木党で
隆俊ばかりか、同席していた正武も目を
「何を突拍子のないことを。三種の神器は確か、男山から総撤退の折、阿野卿(
「四条様は箱の中に入った神器を見られましたか。箱の中には神器はなかったのです。それがしと従弟の美木多五郎(正忠)が抱えて、男山を抜け出し、
「そ、そちが男山に戻って来なかったのは、我が父君の考えじゃと言うのか」
隆俊の顔が上気する。明らかに動揺していた。しかし、その動揺を隠そうとするかのように、刺すような視線を正儀に向ける。
「よくもそのような
「それがしは東条で悶々と日々を過ごしました。このまま東条に留まれば先帝のお
その目は薄っすらと
「麿がそのような話、信じると思うてか。断じて信用せぬ。この
目を吊り上げた隆俊は、立ち上がると、正儀に歩み寄り、閉じた扇をその肩に振り下ろす。
―― ばしっ ――
乾いた音が部屋に響いた。そして、正儀を睨みつけ、
残された和田正武は、ふうぅと溜息をついて、四条隆俊が置いていった和睦の書状を
「三郎殿(正儀)、これはそれがしが預かっておこう。四条様とて、一存で和睦を跳ねのけるわけにはいかぬ。いずれにせよ、朝議にお
そして、和睦の書状を手に取って立ち上がる。
「……わしは三郎殿の話を信じよう。もしかすると、四条様とて、信じたやも知れぬ。されど、わしはどうしても和睦は受け入れられん。お主とわしの考えは、もう交わることはないであろう。すでに
正武は正儀の背中越しに声をかけ、そのまま部屋を後にした。
後ろに控えていた正友は、かける言葉が見つからず、一礼をして外へと向かう。残された正儀は、時が止まっているかのように、その場に一人
結局、幕府からの和睦の申し入れは、大納言、四条隆俊から朝議に
朝議の結果を受けて、正儀は
「であれば、楠木殿だけでも幕府に来られてはいかがじゃ。熊王(
態度を変えた
しかし、正儀は首を縦には振らない。
「それがしはあくまで南(南朝)の者です。帝(長慶天皇)を御護りしなければなりませぬ」
「されど、このままでは……」
首を横に振る正儀に、
「楠木殿……本当に残念です……本当に」
頼元が
すくった水が指の間から消えて行くように、またもや、正儀の目の前で和睦が消えていく。
悔しさを噛み殺し、正儀は
それから
京に忍ばせていた聞世(服部成次)の配下が、楠木館の正儀の元に
和睦の交渉が破断になれば、いずれ幕府は軍を動かすであろうことは正儀も予測していた。しかし、動きは正儀の予想より
この幕府の動きに、正儀は急遽、軍議を開いた。
舎弟の楠木正澄が悲壮な表情を浮かべる。
「兄者、
「こんなときに、美木多助氏殿がおればのう」
従弟の楠木正近がそう言ってちっと舌を鳴らした。
「父上、ここは先手必勝。討って出て、幕府軍の出鼻を
「
勇ましく進言する
黙って皆の意見を聞いていた正儀が、やっと口を開く。
「
「兄者、八年前の畠山国清の侵攻では、幕府は用意周到に南河内に押し寄せてきた。その折も、先だって和睦を求めてきた。そのときと同じというのか」
眉をしかめて正澄が問いかけた。
「あの時は、武力を背景に和睦を求めてきた。それならわかり易い。されど、
一同は重苦しい
軍議の席に、聞世(服部成次)が遅れて現れる。装束は諜報で使う黒衣ではなく、
「遅くなり申した。幕府軍の様子が入りました。男山から
「何、狙いはこの館……」
唖然として正澄が声を漏らした。
一方で正儀は、なるほどと頷く。
「そうか、これは楠木への脅しであったか。わしに、幕府に参じるか、戦って滅亡を選ぶか。二つに一つを選べということじゃ」
無念な表情で、正友が呟く。
「狙いが楠木とわかれば、住吉の朝廷は、援軍を寄越さないのではありますまいか」
「兄者、どうする」
この正澄の言葉で、一同が一斉に正儀の発言に注目した。
「よし、幕府の狙いが住吉ではなく我らじゃとすれば、この地で踏ん張る理由がなくなった。幕府に参じる事もなく、戦って滅亡する事もない、第三の道が我らに開けた」
怪訝な表情を浮かべる正澄が、正近と顔を見合わせてから、首をひねる。
「……とすると、どうするのじゃ、兄者」
「逃げるのよ」
「では千早城……」
正澄の言葉に、正儀は首を左右に振る。
「いや、国見城としよう」
「国見……金剛山の山頂の……」
自身なさげに言う正近に向け、またもや正儀が首を横に振る。
「いや、その国見ではない。
不思議そうに正澄が首を傾げる。
「兄者、なぜ千早ではなく国見城なのじゃ」
「千早では、幕府軍が取って返して住吉に向かった時、我らの参陣が間に合わぬ。国見であれば、敵を河内の奥に誘い込むと同時に、万が一、幕府軍が住吉に向かったときには、和泉を抜けて住吉に馳せ参じることができる。それと、和田の軍勢とで挟み撃ちもできよう」
深慮な正儀の策に、一同は納得した。
その頃、幕府が挙兵したことに、
大納言の四条隆俊は、和泉守、和田正武を呼び寄せ、挙兵を
以前であれば、真っ先に正儀が召し出され、隆俊らの顔を立てつつ、正儀が南軍の戦略を決めていくのが常であった。しかし、この度は正儀を召し出すことはなかった。これは、隆俊が正武に全軍の戦略を委ね、楠木をその下に置こうとしたためである。
だが、和睦派の
真っすぐ南河内に向けて進軍してきた幕府軍は、手はじめに八尾城を攻略し、これを落とした。
「
「ええ、奥方様(徳子)。承知致しております」
楠木館では、正儀の
そこに持国丸が、
「母上(徳子)、
「もう、出られます。父上(正儀)に伝えなさい」
母の言葉に持国丸は頷き、すぐに正儀の元へ走った。
こうして楠木軍は女こどもまでを連れて、慌ただしく国見城へと撤退した。
幕府の細川頼元と赤松
この度、正儀は
所は変わり、京の三条坊門第。先の将軍、足利義詮が亡くなって一年が経っていた。幕府は、義詮の喪が明けたことで、足利義満の将軍
数えで十一歳の義満を上座に据えて、幕府
その頼之の元へ、東条に進軍させていた舎弟の細川頼元より知らせが届く。
頼之は、使いの武者を御所の庭に引き入れ、義満からも見えるように障子を開け放った。そして、自身は縁に座って使いを迎える。その武者は片ひざ付いて、東条の様子を
すると、頼之の表情が変わる。
「まさか、赤坂城がもぬけの空とは……一矢も
口を
考える暇を正儀に与えさせず、楠木が幕府へ参じるしかないようにしたつもりであった。しかし、頼之の予想を超えて、正儀は逃げることでこれをかわしたのである。
「どこに逃げたのかわからぬのか」
「初め千早城かと思いましたが、楠木軍が逃げた方角を百姓らに問い詰めると、天野山金剛寺の方に向かったとのこと。あのあたりには
「ううむ、千早城と違い、攻め落とせぬ城でもなさそうじゃが……幕府軍を河内の奥に誘い込み、何をしようというのか……」
国見城へ退いた正儀の真意を、頼之は量りかねた。
その頼之の背中越しに、部屋の奥から義満が問う。
「武蔵守(頼之)、そなたの策はうまくいかなかったのか」
「御所様、面目次第もございませぬ。楠木正儀、思うていた以上に賢い男のようです。さすがに楠木正成の息子だけのことはあります」
そう言って頼之は義満に謝罪するが、深刻な顔ではない。心なしか楽し気な表情を浮かべている。
「御所様、ますます、楠木を味方に付けたくなりました。
「うむ、武蔵守(頼之)、そなたに任せようぞ」
「ははっ」
薄く笑みを湛えたまま、頼之は手を着いた。
殿上の成り行きに、庭先の使者がそろりと顔を上げる。
「
「うむ……まもなく将軍
「ははっ。承知致しました」
使いの武者は、一礼して立ち上がると、
その後姿を目で追いながら、照禅が
「
「いや、照禅殿、考えがあります」
頼之は脇に控えていた細川家の家臣を呼び寄せる。
「楠木が幕府に帰参することを承知したとの噂を、住吉の帝(長慶天皇)の耳に届くように流布せよ」
「ははっ、承知致しました」
家臣はそう言うと、義満にも頭を下げて、すぐに御前から下がっていった。
「なるほど、楠木がいつまでも
照禅はにやりと頬を緩めた。
楠木党は、天野山金剛寺の南にある国見城に
楠木の
「殿(正儀)、幕府軍が撤退しました。東条には一人の兵も残っておりませぬ」
「それで幕府軍の進路は」
「はい、竹内峠へ向かっております」
「うむ、ご苦労であった。ゆっくりと休んでくれ」
労いの言葉に、
「竹内峠ということは大和を経由して京へ戻るということじゃな。やはり、兄者が言うとおり、楠木が狙いであったか。
脇で聞いていた楠木正澄は、胸をなでおろした。
「四郎(正澄)、幕府軍が京へ戻ったら、我らも東条へ戻るぞ。女たちに教えてやれ」
「承知した。皆、喜びましょうぞ」
ひとまず、正儀は試練を乗り越えたのであった。
その頃、
大納言の四条隆俊は、和田
「和泉守よ、河内守(正儀)は幕府と通じておるのではあるまいか」
隆俊は
「それがしは、幼き頃から河内守殿(正儀)を存じ上げております。策に長けた男ではありますが、断じて御味方を裏切るような男ではありませぬ」
正武は武骨な男であった。いくら、正儀と
しかし、
「河内守は、
疑問を呈す
そこへ、北畠家の家人が頭を下げて入ってくる。
「
「何、本当か」
「やれやれ、これで一安心じゃ」
隆俊は
体をねじる様にして正武がその家人に振り向く。
「楠木河内守殿はいかがされましたか」
「いまだ国見城に留まっておるようです……されど……」
報告をもたらした家人が口ごもった。すると、
「いかがしたのじゃ。申してみよ」
「幕府軍が撤退するのは、楠木河内守殿が幕府軍に降参したからじゃと……近隣の土豪らが、噂しておるそうにございます」
「なに、本当か」
思わず隆俊が腰を浮かした。すると家臣は、自身の言葉に対して、申し訳なさそうに頭を低くする。
「いえ、あくまで噂でございます。噂の出所がよくわかりませぬ」
「まさか、河内守殿に限ってそのようなことはありますまい。そもそも降参したからと言って、楠木軍をそのままにして幕府軍が引き上げる事など、常識としてあり得ませぬ」
さすがに正武は、これを一笑に付した。
しかし、隆俊はその楽観的な態度に目を吊り上げる。
「いや、策士の楠木に、常識などというものが通用しようか。あり得ることではないか」
「いや、されど……」
「もし、河内守が裏切ったとなると、この住吉の地は、北からは幕府軍に、南からは楠木軍に挟まれることになる」
正武の発言を制して、
結局、
十二月、大和国
「これは京極入道様(道誉)。遠路はるばるのお越し、まことに痛み入ります」
「わしを呼び寄せたということは、お前の
「左様にございます。私はそれを
「
福田神社の
演目は
一座の
もはや、誰に見せるでもなく、観世は
演じ終わった観世は我に戻り、道誉が口を開くのをひたすら待った。
「ううむ……確かにお前の
田楽を越えてみせると観世が道誉に誓ってから、すでに十二年の歳月が過ぎていた。
「約束じゃ。お前の願いを何でも申してみよ。わしでできることなら、何でも叶えてやろう」
「ありがたき幸せなれども、私めは
「何と、これは愉快じゃ……」
声を上げて道誉は笑う。
「……本当に何もないのか」
改めて道誉が聞くと、観世は少し考えてから顔を上げる。
「京に一座を構えてみたいと思います。京の地であれば、今まで以上に、多くの方に見ていただくことができまする」
その言葉に道誉の顔が曇る。
「わしも、お前を京に連れて行ってやりたいのじゃが……一つ大きな問題がある。それはお前が楠木の縁者、楠木正儀の従弟ということじゃ。お前も知っておろう。幕府と南の朝廷との和睦は成らなんだ。楠木一族は、いま幕府にとって一番の敵なのじゃ」
「私めは、服部清次から
「ううむ、そうは見えぬから困るのじゃ。そう見えておれば、とっくにその首を
道誉の言葉で、またしても観世は大きな壁にぶつかったのであった。
十二月二十四日、和田正武が
正儀の楠木党にも注意を払い、河内は通らず、そのまま南下して紀伊に入る。そこからさらに西に進んで
帝や
帝(長慶天皇)は脇に関白、二条
「河内守(正儀)が朝廷を見限り、幕府に降参したのであれば、
「げにも。河内守の行いは前代未聞の裏切りである。放っておけば悪しき前例になる。
帝は隆俊と
しかし、
「北畠卿、河内守が朝廷を見限ったとか、幕府に降参したとかは、全てが噂の範疇を出ないことであろう。まずは、その真偽を確認すべきが肝要ではないか。
「ううむ……確かに、二条関白のいうことはもっともなことじゃ。四条大納言、さっそく
「は……
渋い顔で隆俊は
だが、隆俊が
翌日、
いったい何事かと、正儀は
「河内守(正儀)、
思いもせぬ
その後ろに控えた舎弟の楠木正澄もいきり立つ。
「な、何を申される」
思わず感情的に口走った弟を、正儀が手で制して自ら口を開く。
「まず、
「されど、敵はその東条から取って返し、住吉に進軍したなら、どうするつもりであったのじゃ」
信用ならんといった態度で、
「それについても、心配はございません。この城であれば、いざとなれば和泉を抜けて住吉に参じることができまする。それに、和泉守(和田正武)殿と挟み撃ちを行うことも可能でございます」
「ううむ、河内守の申すことは全て言い訳でないのか。終わった後であれば、好きなようにも言えよう」
そんな
「うぉっほん……」
場の気配を感じ取った
「……河内守が幕府に降参したとの風聞もある。真偽のほどはいかに」
「それがしが……いえ、決してそのような……そもそも、降参するのであれば、東条から退かずに、降参しております。どうか、疑いを御晴らしいただきますように」
心当たりがないことを説明することほど、難しいことはなかった。
「では、河内守の申し開きは
一年半前には幕府との和睦、南北両朝の合一は、もはや相成ったものと思われていた。しかし、和睦は決裂し、一年を待たずして将軍、足利
さらに、期待に反して
先帝の崩御から、わずか
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