第41話 河内平尾の戦い
弘和二年(一三八二年)
この日、幕府
義満に
「雨山城ですが、
「ううむ、正勝は
「
雨山土丸城を襲った山名氏清は、正儀が和睦の仲介に動こうとしたこと、さらには、正儀ごと討ち取ろうとしたことなど、
「御所様、このまま奴らを放置すれば、いずれまた不意を突いて城を奪いにくるでしょう。東条を攻略し、奴らの息の根を止めねばなりませぬ」
「ううむ、じゃが、東条となると、河内守(正儀)が黙っておるまい。何とかして止めようとするであろう」
慎重な義満に向けて、それまで沈黙していた照禅が口を挟む。
「御所様(義満)、ここは河内守の腹積もりを計るよい機会かと存じまする。もともと幕府に参じたのも、楠木の策であったやも知れませぬ」
「されど、父上(足利
東条攻めについて、義満は消極的であった。
しかし
「御所様、ここまで
ここぞとばかりに、
一方、義満は、南朝との和睦には、正儀の力が必要だと考えていた。しかし、そのことのみを考えて、
「では、東条へ兵を送ってみるがよい。河内守がどのように出るか、見てやろう」
「はっ、承知致しました。されど、もし、河内守が兵を挙げた場合は、討伐しても構いませぬか」
「ううむ、致し方あるまい」
結局、義満はしぶしぶながら、
さっそく翌日には、管領
平尾城にも、京に潜伏していた聞世(服部成次)の嫡男、服部
館の中は急に騒がしくなる。正儀は、
「ううむ、困ったことになったな」
「殿(正儀)、いかがなされますか」
二人は話しながら広間に入り、腰を落とした。
「まずは、本城(上赤坂城)の小太郎(楠木正勝)や仁王山城の四郎(楠木
「承知致しました。すぐに使いを送りましょう」
聞世が返事を返す間にも、
「
「承知致しました」
頷く正友に対して、その隣で津熊義行が顔を
「されど、この
「わかっておる。少しでも時を稼ぐのじゃ。山名の陣へも使いを出す。
「わかり申した。されば、山名へはそれがしが使いになりましょう」
難しい役目を、義行は進んで申し出た。
次に正儀は、新たに家臣とした
「
「この城を出て……でございますか。平尾城も戦に巻き込まれるということにございますか」
「成りゆきによっては致し方なしじゃ」
正儀の答えに、一同はどよめいた。聞世が正儀の顔を
「殿、それは、幕府との戦も辞さぬということにございますか」
「そうじゃ。二郎(篠崎正久)、六郎(津田正信)、一族にも声をかけて急いで兵を集めよ」
「承知」
二人は声を合わせた。皆はおのおのの務めに向けて、立ち上がった。その中でも、聞世は
河野辺正友は供を連れて、翌日には幕府
「楠木河内守(正儀)の名代として参った河野辺
正友は、屋敷の門番に取次を依頼して門の外で待った。
しばらくして、
「
「何、ここで待てと……」
供の郎党が目を吊り上げて、身を乗り出した。しかし、正友はこれを制して、
「では、これを」
正儀から預かった書状を門番に手渡した。
「仔細は、それがしの口からお伝え致します。
「承知致しました。今しばらくお待ちを」
近臣は正友を屋敷の中に入れることなく、北風が吹く外で待たせた。守護大名の名代を、屋敷の中に通さず、門の外で待たせるというのは、あり得ない仕打ちであった。
「
「あの、
「ふん、ほっておけ。そのうち、帰るであろう」
「本当によろしいのでございましょうか。河内守様の名代と言われておりましたが……」
「構わん。明日からは敵方じゃ。
一方、聞世(服部成次)は、正儀に無断で京に入り、ある男の元を訪ねていた。いつもの黒装束姿で男の仕事場に忍び込み、一人、舞台に立つ男の背後から歩み寄った。
「聞世か」
「ああそうじゃ。久し振りじゃ」
振り返ることなく、名を言い当てたのは観阿弥である。幾つになっても双子ゆえの不思議な気脈は通じていた。
観阿弥は振り向いて、聞世に向き合う。
「何にしに来たのじゃ」
「楠木の窮地じゃ。頼む。助けてくれぬか」
「楠木の窮地……」
「そうじゃ。幕府軍が楠木討伐に動く。至急、将軍(足利義満)に会うて、東条攻めを思い留まらせてくれ。頼む」
聞世は頭を下げた。
「幕府で三郎殿(正儀)の御立場が悪くなっていることは聞いておったが……されど、わしは服部清次の名を捨てた、ただの猿楽師じゃ。もう楠木の力にはなれぬ」
観阿弥は冷たく言い放った。
「観世(観阿弥)よ。お前は殿を……楠木を……そしてわしをも見捨てるつもりか」
「見捨てるとは……わしは猿楽の跡を継ぎ、お前は武士として楠木に仕えた。その時から、互いに交わりのない世界は覚悟していたはずじゃ。そもそも、三郎殿が望んでいることなのか」
聞世は、観阿弥の顔から視線を外す。
「いや……されど、もう他に手がないのじゃ。将軍の覚えめでたい観世と、寵愛を受ける
それでも、観阿弥は首を横に振る。
「御所様(義満)は、一度口にしたことは決して撤回はせぬ。機嫌を損なわせば、観世座は二度と京で
観阿弥の冷たい態度に、聞世がぎっと睨みつける。
「お前が京で成功したのは、お前の才と努力、京極入道(道誉)の援助、そして将軍の後ろ盾があったからじゃ。じゃが、陰に隠れて殿の力もあったのじゃぞ。お前が京に出て来てからも、楠木との繋がりが露見すればやりにくいであろうと、家臣たちに観世との血の繋がりを口外せぬよう命ぜられた。京極入道の勧めでも、お前の
聞世の言葉に、観阿弥も驚く。
「そ、そうであったのか……されど、だからと言って、わしが三郎殿にできることはない。悪いが、もう帰ってくれ」
「くっ……そうか」
観阿弥は、その場に立ち尽くす聞世を残し、舞台の袖へ消えて行った。
まだ宵の口である。観阿弥に断られた聞世(服部成次)は、花の御所に向かって急いだ。その手には観阿弥の元からくすねてきた衣と
「
「御所様(足利義満)の急なお呼び出しに、急ぎ参上致しました」
緊張しつつも、表面上は平静を保って答えた。
「そうか、そなたも大変じゃな」
門番は怪しむことなく御所の中へと通した。
聞世は胸を
(何とか将軍の側近を探さねば……)
前から歩いてくる若い
「もし、御所様に呼ばれて参ったのですが、どちらに
「
屋敷内の要領が
「いっ、いえ、御所様が来られないものですから、執事様であれば、何か御存知かと……」
咄嗟に言い訳が口を付いた。
そこに、
「いかがされましたか」
問い掛ける禅尼の隣には、運悪く、その
「いったい、このようなところで何をしておる」
「あ、あの……御所様に呼ばれまして、
「義満殿に呼ばれたとな。このような
取り繕う聞世を、大方禅尼が不審がった。
しかし、あまりにも瓜二つな聞世の顔に、照禅は観阿弥と信じ込んで語りかける。
「わしには心当たりはないのう。お忘れであるかも知れぬ。その
そう言って、目の前の
一方、得心のいかない大方禅尼は、聞世の顔に視線を合わす。
「
そう言って禅尼が、
楠木を
その時、花の御所の
一人の
「こっ、ここにも観阿弥殿が……執事様(照禅)、門前にもう一人、観阿弥殿が来られています。いったいどういうことか……」
照禅がぱちくりと、二、三度まばたきする。
「もう一人の観阿弥が……どういうことじゃ、観阿弥」
「さ、さあ……わたくしにはさっぱり……」
詰問されても、聞世は押し通すしかなかった。
「とにかく、その
あわてた照禅が、大方禅尼に軽く頭を下げてから、聞世を連れ立ち、本物の観阿弥の元へ向かおうとする。
「もはやこれまで。失礼つかまつる」
突然、聞世が回廊から庭に飛び降りて
回廊の上であっけにとられる禅尼らの前に、入れ替わるようにして、本物の観阿弥が現われる。
「執事様、大方様までも……もう一人の私めが現われたとか」
たずねる観阿弥を、照禅が舐めるように見る。
「そ、そなた、本当に観阿弥か……では、先ほどの者はいったい……それにしても……」
不思議そうに照禅が、聞世が飛び越えた塀を見つめた。
庭から門番が駆け付ける。
「執事様、塀の外に、これが……」
そう言って、脱ぎ捨てられていた観阿弥の服を手で掲げた。
これを見た観阿弥は、聞世が無事に逃げおおしたことを理解し、心の中で安堵する。
「ところで、そなたは、何をしに参ったのじゃ」
「御所様にお願いの議があって参りましたところこの騒動。今はそれどころではございませぬゆえ、私めは後日としたいと存じます」
一刻前、観阿弥は聞世と会った後、自身の衣がなくなっていることに気づいた。聞世の考えを悟り、思い留まらせるために、跡を追って花の御所に参上したという次第である。
観阿弥は、大方禅尼の質問をはぐらかし、急いでその場を後にした。
翌日、津熊義行が正儀の名代として和泉国の守護館に入る。
山名氏清は、紀伊の南軍への備えとして、雨山土丸城に二千からなる守備兵を残していた。そして自身は、出雲・
城の広間、
「我が主、河内守(正儀)の代官、河野辺
氏清は正儀の書状に目を通すと、眉間に
「わしは
そう言って書状を丸めて投げ捨てた。義行は顔を上げて転がる書状に目をやった後、再び氏清に目線を戻す。
「いえ、出陣を取りやめるのではなく、代官の駿河守と
今はもう、例え
しかし、その正友は、再三取次を頼めど、ついに
氏清は義行の言葉を鼻で笑う。
「ふん、同じことじゃ。
義行に対して氏清は豪快に笑ってみせた。すでに正儀を幕府方の武将とは思っていないようであった。
もう、正儀に奥の手はない。幕府軍による東条への侵攻を止めるためには、平尾城から討って出るしかなかった。
ついに正儀は、幕府軍に対して
ここで、正儀は氏清の元へ津田正信を使いに送る。正儀は最後の最後まで、君臣和睦の道を模索していた。
取り合われない可能性もあったが、氏清は正信を自陣に入れる。楠木の知略を警戒し、慎重に事を図ろうとしているかのようであった。
氏清に会った正信が、正儀の言葉を伝える。
「それがしは楠木河内守(正儀)の
「そう言って、どのくらいの時を費やしたのだ。そうするうちに、第二の橋本
「滅相もございません。ここで引いてくださるのであれば、我らとて抗うつもりはありませぬ。河内守は南の帝と幕府の君臣和睦を願い、ただただ戦のなき世を目指しているのでございます」
正信は、正儀が苦労して君臣和睦を成し遂げようとしていることを語った。
「武士が戦のなき世を説くとは片腹痛い。武士は戦で
「いえ、武士であればこそ、河内国を預かる守護であればこそでございます。この乱世を終わらせねばならぬと考えているのでございます」
しつこく食い下がる正信に対し、氏清はうんざりといった表情を浮かべる。
「乱世を終わらせるには
「む、無念でござる。しかと、その言葉、河内守にお伝え申す」
そう言って奥歯を噛みしめた正信は、馬に飛び乗って楠木の陣に戻っていった。
「馬鹿な奴じゃ。今更、
土ぼこりを立てて小さくなっていく正信を見ながら、氏清は呟いた。
楠木軍に戻った津田正信より、山名氏清の伝言を聞いた正儀は、もはやこれまでと、皆の前に立って大きく息を吸う。
「これより我らは山名軍の侵攻を止める。山名に向かって討って出るぞ」
「承知。者ども、いざ」
「おお」
篠崎正久が気勢を上げると、郎党たちが
正儀は城から討って出る。ただ籠城しても、山名軍の進軍を留めることは出来ないからであった。
楠木軍は、
対する山名軍は、当世最強と言われる山陰勢を主体とする五千余騎で、まともにぶつかっては勝てる見込みはなかった。楠木軍の得意とする戦は、用意周到に策と罠を仕掛けて敵を
正儀は勝つことは
一方、津田正信は、二百の騎馬隊を率いる。
「では父上、参ります。者ども、我に続け」
騎馬の上から正儀に
「何をしている。みっともない。それでも山名の兵か。楠木の兵など押し返せ」
氏清に鼓舞された山名の先兵は、態勢を整え、正信が率いる楠木軍に矢を射かけ、さらに騎馬隊が押し出して応戦した。結果、この最初の突撃で、楠木軍はおよそ三十騎が討ち取られる。
「者ども、撤退じゃ」
「引け、引くのじゃ」
この状況に正信は撤退を命じ、これを兵らが復唱して伝令した。ただちに楠木軍は反転し、必死に馬を駆った。急いで逃げれば、それだけ相手も必死で追いかける。気がつけば山名の隊列は間延びしていた。
―― びびゅん ――
突如、その山名の隊列目掛けて一本の
「者ども、続けて矢を放て」
矢を放ち終えた篠崎正久が振り返り、大声で命じた。すると、
遅れて馬を走らせた本軍の氏清は、味方の騎馬兵が次々に倒れる状況を
「くそ、楠木の策に
腰から
「よし、全軍で迎え撃て」
すでに正儀には、戦って勝つしか道は残されていない。しかし、その腰には、氏清の
騎馬同士の接近戦となり、正儀自身も敵兵の刃を槍で払うという肉弾戦となった。しかし、多勢に無勢である。こうなると楠木軍に勝ち目はない。正儀を守る周りの騎馬兵たちも次々に討ち取られた。
正儀に向けて、背後から敵の
「危ない」
誰かが叫び、敵の騎馬と正儀の間に馬を入れた。次の瞬間、敵兵と刺し違えて男が落馬する。そこには、
正儀はすぐに馬から飛び下りて、義行を抱き抱える。
「三郎(義行)、死んではならん」
叫ぶ正儀に対して、義行が最後の力を振り絞って口を開く。
「殿……お、お逃げください。逃げて、君臣和睦を……」
「三郎、三郎っ」
声を荒げる正儀であったが、楠木の郎党たちによって、瀕死の義行から
「楠木正安殿、御討死」
「
撤退する正儀の元に次々と悲報が届く。正儀は色を失った。
聞世(服部成次)と息子の服部
「
「父上(聞世)はいかがされます」
「わしは配下の
「ならば、それがしもお供致します」
「駄目じゃ。わしが
「父上……」
父、聞世の死を悟った
涙を
「さあ、我らも参るぞ。目指すは山名氏清の首一つ。いざ」
聞世と
しかし、聞世とその一隊が、生きて再び正儀の元に戻ることはなかった。
楠木軍はあちらこちらで苦戦する。篠崎正久は
もはやこれまで、と思われたときであった。楠木軍の背後から新手の一軍が押し寄せる。
「父上を助けよ」
声を上げたのは正儀の嫡男、楠木正勝である。
正勝は、山名の後続軍に矢を射かけて分断させる。そして、正頼が率いる和田の騎馬隊が果敢に突入して山名の兵を
しかし、今の楠木にとって形成を逆転できるような相手ではない。山名軍が落ち着きを取り戻す前が千載一遇の機会であった。
正勝が馬を駆って正儀の前に現れる。
「父上、千早へ、千早にお引きください」
「小太郎か……よし、千早じゃ。千早へ向かうぞ。全軍に触れて参れ。千早城へ引き上げるのじゃ」
郎党たちへの《めい》で、平尾の楠木軍が撤退を開始する。
すると、正勝ら千早城の楠木軍も、正儀らの盾となりつつ、自らも退却を始めた。しかし、ここでも悲劇が起きる。
「こうなれば、我らはここに残り、敵の先頭を切り崩す。大殿(正儀)を
正近は郎党たちに
「何のっ」
正近はそう言って、手にした槍を杖代わりにして立ち上がった。だが、後ろから
「くそっ」
怒声を上げる正近だが、雑兵たちの
しかし、正近の死は無駄ではなかった。正近の奮戦で正儀らは敵を振り切ることに成功する。
圧勝した山名氏清であったが、少なからず山名軍も損害を被っていた。この状況に氏清は、東条への追撃を見送る。正儀の態度を見極めよという将軍、足利義満の
一方の正儀は、当初の目標とした、氏清の進軍を阻むということは果たした。しかし、その代償は大きかった。楠木軍は、この戦で楠木一族六人、兵百四十余人を失った。
生き残った一族郎党とともに、正儀は楠木正勝に先導されて千早城に向かった。
「開門じゃ。殿(正勝)と大殿(正儀)の御帰還じゃ」
すでに
その中央には、胸の前で両掌を握る徳子の姿があった。
正儀は徳子に目を留めると、馬を降り、ゆっくりと歩み寄る。
一方の徳子は、感情をぐっと胸の奥に仕舞い込んだかのごとく、涙をこらえ、口元に小さな笑みを浮かべる。
「大殿、お帰りなさいませ」
「うむ……いま、戻ったぞ」
二人の間を
舎弟の楠木正顕が、徳子の横に立つ。
「兄者(正儀)、よくぞ御無事で」
「すまぬ、四郎(楠木正顕)。小七郎(楠木正近)が……聞世(服部成次)が……津熊三郎(義行)が……大切な一族郎党、多くの者を討たれてしもうた……すまぬ」
正儀は力なく
沈痛な面持ちで正顕は正儀を見返す。
「そうか……されど、兄者(正儀)が立たなければ、もっと多くの一族郎党が討たれたやも知れぬ。自分を責めないでくれ」
傷ついた正儀の肩を正顕が支える。
「兄者(正儀)、会うて欲しい者がおる」
「ああ、わかっておる」
連れられて館に入り、奥へと進んだ。そこには、老境の男が病の床に
「思慮深い三郎殿(正儀)が、
「新九郎(正武)殿にそのように言われると返す言葉がない……」
正儀・正顕の後に続いて、楠木正勝・正元の兄弟、和田正頼・
「三郎殿(正儀)、わしは間違ったのであろうか。あの時、わしは武力を持ってそなたを排し、帝(長慶天皇)の即位を助けた。この果てしない動乱の一因はわしなのであろうか」
「新九郎殿、いつになく弱気じゃのう」
そう言って、正儀は正武の息子、正頼の顔をみた。
「父は、病で床に伏せるようになってから、気弱になり、御仏にすがるようになりました。朝夕に
正頼の話に、正儀は正武の顔に目を落す。
「それで、観音様はどのように答えましたか」
正武はゆっくりと首を横に振る。
「それが、何も答えてくれないのじゃ」
「そうであろう。御仏とてわからぬことはある。わしは終生、自らの考えが正しいと思うておる。そなたもそれでよいではないか。わしは死ぬまで、どのような立場になろうと君臣和睦、南北合一を貫くつもりじゃ」
その瞳は昔のままに澄んでいた。
「三郎殿は強いのう。やはり大楠公の息子よ」
正武は正儀の表情を見て、安堵の表情を浮かべた。
翌朝、正儀が千早城の館の中で目覚めると、徳子が
「起こしてしまいましたか。何やらうなされておられたので……」
正儀は、徳子に手を添えられて、ゆっくりと上体を起こす。
「戦の夢を見ておった。一族郎党を多数失ったことは、わしの心から消えることはないであろう」
暗い表情で自責の念を口にした。
対称的に、館の外からは
「外に出られてみますか」
徳子は正儀を館の縁側へと
そこで正儀の目に写ったのは、侍女の
縁に腰かけていた楠木正勝が、正儀に気づいて振り向く。
「父上、娘の照子です。父上の孫ですよ」
目元が徳子に似ている。正儀は思わず目を細め、口元を緩める。
「そうか、照姫か。よい名じゃ」
そう言って、庭に降りて照子の元に歩み寄った。そして、同じ目線にしゃがみ込む。
「照姫は幾つじゃ」
「七つにございます」
恥ずかしそうに答えた。
照子の後から、女が幼児の手を
「これは我妻の
「父上様、初めてお目にかかります。
「うむ、聞いております。
金剛丸は母、
「幾つじゃ」
金剛丸を目で追いながら、正儀は
「年が明け、三つになりました」
「そうか、三つか」
元気に駆ける自分の孫を見て、正儀は久しぶりの家族の温かみに
いつの間にか、金剛丸を見つめる正儀の背後に、徳子、正勝、正元、そして弟の正顕が立っていた。さらに、正儀に付き従った
一方、勝利を収めた山名氏清の動向である。一瞬の隙に楠木軍に逃げられた氏清は軍勢を率いて、北に進軍し、平尾城を取り囲んだ。
山名軍が到着した時には、城は三十人ばかりの守備兵を残すばかりとなっていた。女たちも含め、城の者たちは、多聞丸や和田良宗らとともに、いち早く金剛山に向かって逃げていた。
守備兵三十人は、城に
城を見上げた氏清が、鼻で笑う。
「ふん、楠木は東条に逃げたのじゃ。ここに多数の兵を
続々と城に攻め込む山名勢に、守備兵たちは逃げるしかなかった。山名の兵は難なく平尾城を占領し
城の外で
「城に火を放て」
「殿、占領せぬのですか」
近臣は首を傾げた。
「ここは正儀の居城。奪還を目指されては面倒じゃ」
そう言って、氏清がぎろりと目を向けた。すると、近臣は縮こまり、
山名の兵によって平尾城に火が放たれる。白い煙が渦を巻くように高く舞い上がった。煙は、平尾より北が、楠木の支配でなくなったことを世間に知らしめた。
平尾城が焼かれたことは、すぐに千早城の正儀らの耳にも届いた。
館の
「皆、悲しむことはありませぬ。館は再び造れます。城は再び取り返せばよいのです」
動じることなく、徳子は一同を元気づけた。
広間に向かっていた正儀は、そんな徳子の後ろ姿を目にして立ち止まる。自分がいない間、こうやって徳子が楠木家を支えてくれていたのだと悟り、改めて妻に感謝した。
その思いに応じるべく、正儀は皆を広間に集めて決意を示す。
「皆、聞いてくれ。楠木の城が落とされたのはこれが初めてではない。下赤坂の城も、龍泉寺城も何れも二度も落城した。楠木館も二度も焼け落ちた。されど、その度に我らは城を奪い返し、館も再建して参った。楠木はこの河内に深く根を下ろしておる。山名ごときに引き抜かれることのない太い根じゃ。河内を再び我らの地とする事をともに誓おうではないか」
「そうじゃ。兄者の言う通りじゃ」
正儀のかけ声に、楠木正顕が呼応し、男どもは気勢を上げた。
正儀が山名氏清と戦って負けたという報は、南朝をも駆け巡った。帝(長慶天皇)が住む学晶山栄山寺の
この事態に、大納言の阿野
吉野山から、参議の六条
「昨日、楠木正儀が山名氏清と戦って負けたという報がもたらされました」
「存じております。こちらにも一報が入りました」
頷きながら、
「幕府に身を投じたはずの正儀がなぜ山名と戦うのじゃ。親しかった貴公らであれば、
「おそらくは一族を、ひいては朝廷(南朝)を護らんがため」
釈然としない
すると、憮然とした表情で、関白の
「我らを護る……そのために幕府を裏切ったというのか」
「いえ、正儀は、幕府を裏切って我らの側に立ったのではありませぬ。幕府に居ても、終始一貫して我らの側であったのだと思いまする」
「どういうことじゃ」
すると、
「
「なるほど……やはり、そうであったか」
深く息を吐きながら、
しかし、帝(長慶天皇)によって関白の地位を得た
「楠木正儀は、天野
「あれは、
横に首を振って、
少し目線を上げた
「左様……あの時、
「そのことは、先の関白(兄、二条
疑いの目で、
「それは、四条卿が
「左様にございます。正儀は常に我らのことを考えておりました。南に兵を配さず我らの逃げ口を作っておりました。天野
穏健な言葉遣いの
「なるほど、左様でありましたか……」
「南北合一まであと少しでございました。あの後、北畠卿(
やるかたない表情で、
「このことで、和睦を進めていた幕府
軽く目を閉じ、
「……残念ながら正儀も手詰まりとなったのでありましょう。己の妻子が責められるとなり、ついに、表立って幕府へ反旗を
「なるほど……して、表だって幕府を裏切った正儀は、この後、どうするつもりであろう」
「右府様(右大臣/吉田
「うむ、そうじゃな……」
難しい顔を崩さない
「後は
「
言いにくい言葉を、
だが、関白の
「はたして、
「そのときは、
毅然とした
摂津国
楠木大敗の知らせが館に届くと、秀則は娘の
「この二十四日のことじゃ。東条へ進軍した山名氏清の軍勢に対して、楠木の殿(正儀)はこれを防ごうと出陣。ついには戦となった。楠木軍は、一族六人、
秀則の話を聞いて、
「殿様(正儀)は、御無事でしょうか」
「殿(正儀)が討ち取られておれば、もっと騒ぎになるはずじゃ。ひとまずは無事と考えるべきであろう」
「もう、これで、楠木の殿(正儀)は幕府を敵に回した。
「いくら楠木と縁を切ろうと、
厳しい言葉に、十一歳の
「
関白左大臣の二条
帝は傍らには、大納言の
「
南朝の
「その議はまかりならん。
「さりながら、楠木は幕府に降ったとはいえ、常に朝廷(南朝)と幕府の和睦の道を探っておりました。忠臣ではありますまいか」
「二条関白も
そう言って、
すると、終始、口を閉じたままの
その関白の態度を見定めて、
「
「
これに
「では、致し方ございませぬ。この先は、
「なっ、何と。お言葉を慎みなされよ。例え
顔を強張らせた
「もうよい、民部卿(
そう言うと、帝は立ち上がり、側近の
この日をもって、朝廷の実権は弟の
すると、さっそく吉野山の
正儀は
傍らに、
その要職にある
二間続きの下間に座って頭を下げる正儀に、
「東宮様はお待ちかねであった。楠木殿、さ、こちらに」
その声を待って、正儀は上間に進み、あらためて頭を下げる。
「宮様、お
幕府を追われ、たくさんの一族郎党を討死させてしまった正儀は、その言葉通り、
「久しいのう、正儀。そちが幕府に降ったのも、この朝廷を思うておればこそ。阿野大納言(
「もったいなきお言葉。それだけで、この正儀、報われた思いでございます」
「正儀には元の通り、
「承知つかまつりました。
十三年ぶりに南朝に復帰した瞬間であった。
「栄山寺の帝(長慶天皇)のご様子はいかがでありましょう」
「北畠卿(
「げにも。大納言様の申される通りじゃ。気になされるな」
そう言って
「お心遣い、かたじけのうございます。されど、たとえそれがしが帝に憎まれようと、それがしの覚悟は決まっております」
拳をぎゅっと握り、正儀は決意を新たにした。
幕府は、反旗を
基国は、正儀が幕府に降る以前、かつて幕府方の河内
これに驚いたのが、幕府軍を率いて正儀を平尾から千早へ追い払った、和泉守護の山名氏清である。
氏清は、兄で紀伊守護の山名
「楠木正儀を平尾から追い払ったのはわしではないか。どこから畠山が出てくるのじゃ」
氏清は下座からいきり立った。客として上座に腰を据えた
「おそらく将軍(足利義満)が山名を恐れてのことであろう。山陰から丹波、
「されど、戦って
「では、いっそ、
兄の言葉に、氏清は憮然とする。
「落ち目の
「であろう。まあ、今は辛抱せよ。今は大人しく力を蓄えるのじゃ。いずれ山名が天下に号令できる時が来よう。我らも将軍家と同様に八幡太郎(源義家)の血筋じゃ。最も足利ではなく新田の血筋ではあるがな」
初夏になると、正儀らは金剛山の千早城を出て赤坂に戻った。
新たに幕府から河内
楠木正勝・正元の兄弟が兵を率いて石川に出没すると、土豪らが楠木に加勢して、
この結果、基国は河内中部の若江まで撤退し、この地で、河内支配のための拠点作りに取り掛かるのであった。
八月。千早城にかくまっていた和田正武の病は、回復の兆しを見せなかった。正武は、自らの死を悟っていた。千早を訪れ、病床を見舞った正儀に、正武が語りかける。
「討幕一辺倒だったわしが、居城を追われるはめになり、こうして千早城にかくまわれた。このような姿をそなたに見せることになろうとは、口惜しい限りじゃ」
口とは裏腹に穏やかな顔つきであった。
「そうじゃな。わしも見ることになろうとは思わなんだ」
冗談混じりに、正儀は言葉を返した。正武の元気な姿を、今一度、記憶に留めたいと思ったからであった。
「わしは後悔しておる。やはり三郎殿(正儀)と
その目は
「前にも言うたが、そんなことは誰にもわからん。新九郎(正武)殿がわしに同意してくれるのであれば、これからどうやって、君臣和睦、南北合一を進めるか、それを一緒に考えようではないか」
すると、正武は口元を緩めて頷いた。
しかし、それからほどなくして、正武は息を引き取った。
かつての楠木軍の強さは、知謀の正儀と、武勇の正武がいてからこそである。その正武の死に、一門の者は不安の色を隠しきれないでいた。
翌、弘和三年(一三八三年)三月二十七日、一時は大宰府を占領し九州を支配下に置いた
この二年前の六月、幕府が九州
南朝の強硬派の一翼を担っていた
同じ頃、正儀が南朝に帰参したことで、京で微妙な立場になりつつある者が居た。正儀の従弟、観阿弥である。
正儀は観阿弥との血の繋がりをあえて言わないようにしていたため、幕府でそのことを知る者は、将軍、足利義満と、
その禅尼は先の幕府
花の御所の奥座敷。義母である大方禅尼の元に、足利義満がご機嫌伺いにやってきていた。
禅尼は征夷大将軍に臆することなく苦言を呈する。
「義満殿、裏切り者の楠木の血を引く観阿弥を、いつまでも御所の中に招き入れるのは、いかがなものでございましょうや」
「楠木……そういえば、観阿弥は正儀の従弟というておりましたな」
義満は観阿弥の出自など、まったく無頓着であった。
「今更ながら、以前、御所に忍び込んだ観阿弥の偽物。あれはどう見ても観阿弥その者の顔でした。もしや、観阿弥自身が楠木が放った冠者ではありますまいか」
大方禅尼は不審感を
しかし、義満は気にする素振りを見せない。
「母上、観阿弥の
「藤若大夫とて観阿弥の息子。楠木の血は流れておりますよ」
「それがしには、楠木の血が問題とは思えませぬ。観阿弥の偽物が忍び込むことが問題でございましょう。ならば、観阿弥のみ御所への出入りを禁止すればよいではありませぬか」
義満は、観阿弥は兎も角、藤若大夫を手放したくはない。珍しく憮然とした表情を禅尼に返した。
平素の義満は、実母の
一方、大方禅尼は、憮然とした義満を前にして、この先の、観阿弥と藤若大夫への対応を思案していた。
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