第43話 篠ヶ城
元中二年(一三八五年)正月、温暖な印象のある紀伊国だが、
正儀の
城の名は
山頂が本丸(主郭)で、その南は急峻な崖。東と北に延びる尾根伝いに、それぞれ支丸を設け、周りを土塁と
しかし、城はできても大きな問題が残っていた。紀伊の武士たちを説得し、兵を集めることである。城造りと並行し、密かに
正久は、兵の集り具合に
「真次郎、ざっと五百といったところか。心もとないのう。兵だけではない。兵糧も弓矢もじゃ」
「南軍は
正国も残念そうに答えた。
「このままでは、山名は一つ一つ、砦を落としていくであろう」
「二郎殿(正久)、ここは、大殿(正儀)に支援を求めてはいかがかと」
「たわけたことを申すな。楠木の兵力は、来る南北合一のために温存させねばならん。支援を求めるくらいであれば、
そう言って正久は意気込むが、正国の顔は晴れなかった。
楠木館の正儀も、
息子の正国を
「殿(正儀)、
「うむ、二郎(正久)は何も言って来ぬが……」
「紀伊は我ら楠木の地盤ではありませぬ。亡き四条卿(隆俊)との確執もありましたので、楠木の名で兵を集めるのに苦労されているのでしょう」
もともと紀伊は亡き四条隆俊の配下であった武将が多く、幕府に敵対するとともに、和睦を進めようとした正儀にも反発していた。
重臣の指摘に、正儀も腕を組んで考え込む。
「そうかも知れぬ。されど、今、こちらの兵を
「確かに……不気味に沈黙しておりますな」
正友の言葉に正儀が頷く。
「とにかく紀伊は山名
その言葉に、正友の隣に控える若い菱江忠儀は、焦りの色を隠せない。
「もし、先に山名が動くことがあればいかがされますか」
「その場合は、二郎を呼び戻すしかなかろう」
「それでは、せっかくの二郎殿の苦労が水の泡……」
そう言って忠儀は正儀の顔色を
幕府の河内
「その後、
基国が細川頼之の法名である常久の名を出すと、
「弟の細川頼元が摂津守護に任じられてから、常久は、さも自分が赦免されたかのように振る舞っておる。追討の動きがないのをよいことに、領国の経営に力を入れ、四国の国人衆を配下に組み入れた。御所様(足利義満)は、見て見ぬふり。
ふうむと唸り声を上げた照禅が、基国に語りかける。
「
「それはもちろん。
「そうじゃ。その
照禅の説明に、基国は憮然とした表情で沈黙した。
苦々しい表情で、照禅がさらに続ける。
「……にもかかわらず、御所様は、頼元を
「何と言っても、御所様にとって常久は先代(足利
「左様、それだけに常久に対しては甘い。このまま赦免することあらば、諸将は御所様(足利義満)の御威光を軽んずるようになるであろう。
照禅の忠義は、義満と将軍家の威光を守ることにある。もちろん頼之に対する対抗心もあった。
「赦免となれば、常久が
基国は照禅に向けてそう言いながら、
「そなたにとっても他人ごとではあるまい。常久が
「ううむ……」
基国は低く唸った。
「常久と正儀が手を組んでは厄介じゃ。されど、常久を討つべく、御所様を説き伏せて四国に兵を送るのは難しい。さすれば、今のうちに、
照禅の思惑に、互いに目を合わせた二人は、
早速、
「
「なるほど……承知しました」
納得顔で基国も頷いた。
紀伊守護の山名
幕府の使者を帰した後、
「
老臣が
「で、殿、どこから攻略しますか」
「まずは、橋本の残党からじゃ。
「承知つかまつりました」
重臣たちが頭を下げた。
「よいか、兵を出し渋る国人・土豪は、南軍とみなして、一つ一つ、順番に討伐すればよい」
「
感心する老臣に、
山名
館の広間に集められたのは、楠木正勝・正元の兄弟と
一同を前にして、正儀は険しい表情を見せる。
「
正儀の話に、諸将は顔を見合わせた。
次男の正元が身体を乗り出すように、正儀に詰め寄る。
「父上(正儀)、それで、二郎兄者はどうするつもりと書いてあったのですか」
「これを機会に、
「二郎兄者はまだ五百の兵しか集められておらん。これで兵を上げれば、敵に討ってくれと言っているようなものではないか」
正儀の話に、嫡男の正勝が焦りの色を見せた。
「若殿(正勝)、これはもしかすると二郎殿に考えがあってのことやも知れませぬぞ」
「というと……」
「
顎先に手を当てる正友に、正儀が頷く。
「おそらく二郎はそれを狙っておるのであろう」
正久の性格を考慮していた。楠木館に迷惑をかけず、己の力で紀伊の危機を打開しようとする策は、二郎らしいと思った。
だが、正儀の舎弟、正顕は慎重である。
「兄者(正儀)、そうだとしてもそれは一か八かの賭けじゃ。二郎の元に南軍が終結せねば、一つ一つの拠点を叩かれ、最後に
「されど、叔父上(正顕)、二郎兄者が兵を引いては、紀伊が山名に制圧されてしまう。さすれば、朝廷(南朝)は干上がってしまう」
正元が反論し、軍議は堂々巡りとなる。いずれも
意見が出尽くしたところで、最期に正儀が決意する。
「ここは二郎の考えに賭けてみよう」
難しい決断であった。正儀も確固たる自信はなかった。
紀伊国
本丸の土塁の上に立ち、高揚した表情で出丸に掲げられた旗を見つめる正久と河野辺正国の元に、郎党に案内された黒衣の男が駆け寄り、片ひざを付く。
男は、服部
「篠崎様(正久)、橋本
男の話に、正国が目を
「何、
討死したのは、かつての河内目代、橋本正茂の嫡男、
「くっ、我らと手を合わせることができれば、このようなことにならなかったかも知れぬのに……」
正久は悔しそうに唇を噛んだ。
幕府の紀伊守護、山名
紀伊府中の守護館に、配下の侍大将が戻ってくる。
「殿(
その報告に、
「何、いつの間に楠木が……されど、たかが五百。恐れることはあるまい」
「いえ、それが、菊水の旗が上がったことで、ばらばらだった南軍が
正久の策は当たった。ばらばらに山名
「それで
「はい、楠木正儀の息子で二郎正久と申す者のようです。自ら籠る城を
「楠木……正久か。知らぬ名よのう。じゃが、相手は楠木。確かに油断はできぬな。念には念を入れて対処しよう」
楠木と聞いた
七月、ついに幕府方の紀伊守護、山名
山名軍は、藤白山から一万の兵を差し向けて
紀伊国で孤軍奮闘の正久は、それでも正儀に負担をかけさせまいと、楠木館へ援軍を要請することはなかった。しかし、正儀の元には、続々と
正儀は館の広間に諸将を集めた。菱江忠儀が一同の前で絵地図を広げ、
「城は山名軍一万に包囲され、兵糧口を押えられたようにございます。されど、二郎殿からは、城の近況は知らせても、援軍の要請は来ておりませぬ」
舎弟の楠木正顕が不思議そうな顔をする。
「一万とは……紀伊の山名
「和泉から山名氏清の援軍が加わっておる。さらに、おそらくは南軍の国衆をも
嫡男の楠木正勝は正久を思いやる。
「二郎兄者は我らに負担をかけまいと、援軍を要請せずにおるのであろう」
「父上、二郎兄者を放っておくわけには参りませぬ。ただちに兵を出しましょう」
次男の楠木正元が進言した。一同も皆、同じ気持ちである。しかし、正儀は沈黙したまま腕を組み、目を閉じた。
「父上っ」
強く出陣を求める正元に、河野辺正友が正儀との間に入る。
「小次郎様(正元)、我らが東条から兵を
「では、そなたは
正友の言葉に、正元は眉を吊り上げた。それを見て、正顕が口を挟む。
「小次郎、口が過ぎよう。又次郎(正友)とて我が子、真次郎(正国)が
「だったらなぜ……」
苛立つ正元を、正儀が制する。
「我らの兵力は限られておるのじゃ。兵を
「されど、山名の兵はそれ以上……」
「そうじゃ。さすれば、紀伊の
「では、父上は二郎兄者と真次郎を見捨てられますか。常久殿が復帰される前に朝廷(南朝)が攻め滅ぼされてしまえば、南北合一も何もありますまい」
直情的な正元は、正儀の考えを理解しようとはしなかった。
「二郎には、自らの力で血路を切り開いてもらい、
正儀は、非情な考えを口にした。
「無体なことを。二郎兄者は、責任を感じて逃げようとはせぬであろう。そんな二郎兄者を父上は見殺しにするのか」
「致し方のないことなのじゃ」
低く唸るような声で正儀は応じた。苦渋の決断であった。
「それがしは、納得できかねる」
怒気を放って立ち上がった正元が、敷板を蹴るようにして広間から出て行った。
跡を追おうとひざを立てる正勝を、正儀が止める。
「小太郎(正勝)、
その言葉に、正勝は悲壮な表情を浮かべて座り直した。
軍議が終わり、楠木正勝が館を出ると、舎弟の楠木正元が待ち構えていた。
「小太郎兄者(正勝)、本当に二郎兄者(篠崎正久)を見捨てるつもりなのか。太郎兄者(橋本
「わかっておる……小次郎、着いて参れ」
堅い表情で、正勝は
幼き時から一緒に育った正久を、正勝も見捨てることはできなかった。二人は、正儀に隠れて散所の民や
領地も年貢も減った楠木党が、いまだ
しかし、楠木正勝の
「小太郎(正勝)、武具と
「わしの
正儀の尋問に正勝は、いずれ露見することと腹を据える。
「左様にございます。隠し通せるものではありませぬ。いつ言おうかと思うておったところ。それがしは、やはり二郎兄者(篠崎正久)を見殺しにはできませぬ」
「たわけものっ……」
目を吊り上げて、正儀が声を張り上げた。
「……なぜわからんのじゃ。そのようなことをすれば、楠木は畠山に攻められて危機に
「わかっておりまする。極力、こちらの兵を
「
「
「お前が動くことこそが深入りなのじゃ」
「父上(正儀)のお許しなくとも、それがしは出陣する覚悟。孫次郎(和田正頼)殿も同意してくれております」
声を荒げることなく、正勝は正儀の言葉をはねつけた。
そんな正勝を前に、正儀は
一緒に
「お、大殿……申し訳ございませぬ」
「左近、問い詰めるために呼び寄せたのではない。楠木党から百人ばかり兵を
その言葉に面食らった満信は、口をぽかんと開けた。
「どうした」
「あの……大殿、楠木館はよろしいのですか」
恐る恐る満信がたずねた。
「我らは赤坂城に入り、
「はっ、承知しました。お任せくだされ」
「父上(正儀)、申し訳けございませぬ。必ずや、二郎兄者を御救い致します」
苦しい父の立場をも理解する正勝は、申し訳なさそうに頭を下げて、満信とともに部屋を出て行った。
入れ替わるように楠木正顕が部屋に入って来て、腰を据えながら話し掛ける。
「兄者(正儀)、よいのか。もう、楠木の財も底を突きかけておる」
すでにこの頃、楠木家の収入源である
「聞いておったのか……」
「まず、小太郎に勝ち目はあるのか。あやつが集めた兵は
「うむ、わかっておる。高野山の僧兵に合力を願うつもりじゃ」
「高野……
正顕は
「確かにお前の言う通りじゃ。されど、味方はしてくれぬまでも、聖地高野が戦にまみれぬよう、自衛のために僧兵を出して、山名軍を牽制してさえくれればよいのじゃ」
「我らに
「いや、望みがないわけではない。四郎(楠木正顕)、わしの名代として、高野山の途上にある玉川に向かってくれぬか」
「玉川……何と……あの御方を頼るのか」
唖然とする弟に向けて、正儀はゆっくりと頷いた。
翌日、楠木正顕は従者を一人伴って紀伊国に入った。そして、高野山の途上にある玉川峡谷を目指し、
正顕は里のはずれにある小さな屋敷を訪ねる。屋敷の中に招かれた正顕は、平伏したまま屋敷の主を待った。
「
声を掛けたのは、先の大納言、
上皇は
「御尊顔を拝し、恐悦に存じ奉ります」
「
正儀と一緒に幕府に降らなかった正顕に対しては、上皇は悪感情を抱いてはいなかった。
「はっ、我が兄、楠木
正顕は平伏したまま、
「楠木|宰相……そうか、正儀は参議に任じられたのであったな」
上皇は、苦々しい表情で
高野山のおひざ元である玉川里に上皇が居るということは、暗黙の了解で高野山がかくまっているということに他ならない。高野の
書状に目を通し終えた上皇は、書状を放るようにして前に置いた。
「よくもこのような事を願い出てきたものじゃ。正儀の勝手な願い、
上皇は
すると、正顕は直視はせぬものの、少し顔を上げて上目遣いに訴える。
「上皇様、お待ちください。我が兄は、確かに上皇様とは考えを異にしておりましたが、いつも、朝廷を思うてのことでございます」
「常に和睦を求めていたという正儀が、朝廷に帰参したとたんに、戦を行おうなどとは片腹痛し」
上皇は正顕から顔を
「兄は後醍醐の帝の血筋を京へ御戻しするためだけに身を
正顕の言葉に、上皇は視線を落として、ふうと溜息をつく。
「正儀が、朝廷のことだけを念じていることくらいようわかっておる。だからこそ、正儀は
上皇はそう言うと、
しばらくして
「伊予守、そなたが希望する
驚いた正顕が、中身を確認する。
「確かに……されど、なぜにございます」
「上皇様は、楠木
「は、はは」
正顕は
それから
歌詠みの才に
建武の新政が崩壊して以降は、
親王に心休まる日はなかった。晩年に新葉和歌集を
同じ八月、楠木正勝・正元の兄弟は、
いったん砦に入った正勝は、高野山を見上げて正元に話しかける。
「小次郎(正元)、ここで高野山の僧兵を待とう」
「承知した」
すでに上皇の
「我らはここに陣を張り、高野山の出陣を待つ。そして、山名軍をここへおびき寄せる」
正勝は、満信らに策を説明した。篠崎正久が籠る
「兄者(正勝)、承知した。後は、僧兵の力を得て、山名軍の動きを待つばかりじゃ」
「うむ」
楠木兄弟は、万全を期して山名の動きを注視した。
藤白山の大野城に陣を布いた幕府の紀伊守護、山名
「何、楠木小太郎正勝じゃと。確か正儀の嫡男であったな。
「殿(山名
配下の侍大将が
「面倒かどうかはさておいて、正儀の嫡男を討てば、楠木の気勢を一気に削ぐことができるであろう。よし、
本軍を率いて、
「楠木は、備えなく城に籠った。
一方、
「よし、今じゃ。丸太を放て」
正勝の合図で、兵たちが丸太を繋ぎ止めていた綱を切った。
「矢を放て」
続けて、恩地満信が
その様子を
「兄者(正勝)、うまくいったな」
山名軍の慌てぶりに喜ぶ正元であったが、正勝は冷静に戦況を見ていた。
「所詮は一時凌ぎじゃ。いつまでも持たせることはできぬ。今のうちに
「承知した。使いを出そう」
正元は
「謀られた。こんな砦でさえも、守りの備えがあったのか」
悔しがる
「と、殿(
「楠木のことだ。どんな仕掛けがあるかわからん。兵たちには砦を囲んだままで、
「承知つかまつりました」
「楠木め、いつまでもそのような手が通用すると思うなよ。戦は小手先でするものではない。目に物を見せてくれよう」
山名軍の第一陣を撃破して気勢を上げる
「高野山の僧兵はまだか」
「いや、まだじゃ」
舎弟、正元の返答に、正勝が恩地左近満信を呼び寄せる。
「高野山に
「それがしが使者として参りましょう」
「うむ、頼むぞ」
郎党を伴った満信が、
「兄者(正勝)、山名の第一陣は追い返したのじゃ。そう、焦ることはなかろう」
「たわけ、僧兵が来ぬうちに東の逃げ口を押さえられてしもうた。我らに残された退路は高野山しかなくなったのじゃぞ」
「兄者……」
正勝の憤慨した様子に、正元は言葉を失った。
楠木軍は、
しかし、当てにした高野山の僧兵が出陣しなかったため、楠木軍の兵力だけでは砦の東は
翌日、高野山に向かわせていた満信が、二人の郎党に肩を支えられながら戻ってきた。満信が正勝の前で、両ひざを付く。
「殿(正勝)、お逃げください。高野山はすでに我らの味方にあらず……」
満信は苦しそうに肩で息をしていた。驚いた正勝が、ひざを付いて満信の肩に手を掛ける。
「おい、しっかりせよ。何があった。大丈夫か」
「何の、かすり傷でございます。そ、それより、高野山の僧兵は出て参りませぬ……すでに高野には山名の手が回り、山の上から……山名の兵が攻め込んで来ております……」
苦痛の表情を浮かべた満信が、そしてそのまま、正勝に体重を任せるように倒れた。
「おい、しっかりせよ。どうしたのじゃ」
正勝は、満信を抱き止めて背中に手を回すと、手に赤いものが付く。
「我らは山名勢に襲われ、左近様(満信)は背中に矢を受けられました」
「くそっ」
うつ伏せに倒れる満信を、正勝は横に寝かせる。あたりに気を配ると、砦の背後からは、唸るような兵たちの怒声が
「ええい、南を固めよ。弓矢の得意な者どもを集めるのじゃ。敵を近づけるな」
兵らに応戦を命じた正勝は、横たわった満信の頭の後ろに手を回して支える。
「左近、しっかりせよ。一緒に逃げようぞ」
「若殿、この傷では足手まとい。それがしを置いてお逃げください……」
そう言って正勝の手を振り
「……生き抜いて、君臣和睦を」
痛みに耐えながら、口元に笑みを作った満信が、ゆっくりと頷いた。
正勝は苦渋の表情を浮かべる。すでに、敵の先駆けが無防備な砦の南側に取り付いていた。もはや、
「くそっ……すまぬ、左近」
涙をこらえ、正勝は満信をその場に寝かせて立ち上がる。
背後を取られた楠木軍は、あっけなく敵の侵入を許していた。こうなると、寄せ集めの兵はおのおの勝手に戦列を離れ、我先にと蜘蛛の子を散らすように居なくなった。
これを絶好の機会とばかりに、南から砦に取り付いた山名の兵たちが、楠木方の矢をものともせず、次々に切り込んだ。そして、麓で
正勝は撤退せざるを得ない。
「よいか、東じゃ、東に向かえ。無事な者は一緒に来い。東の山名の守備軍へ突入する。者ども、着いて参れ」
動ける兵を率いて、砦から馬を駆って東に下った。多くの
楠木兄弟の周りは楠木本家の郎党が固め、山名の兵を寄せ付けなかった。だが、一人、また一人と、兄弟を守って討死する。
兵に向けて正勝が声を張る。
「逃げられる者から、早く東に逃げよ」
楠木兄弟に続き、和田正頼・
正儀が放っていた
「御味方は山名軍に成す
「味方の損害はどうじゃ」
「
「何、左近が……」
正儀不在の間、東条の楠木家を内から支えたのが、この満信であった。
「……して、
「若殿が
正儀は
急遽、正儀は一同を広間に移して軍議を開く。
「畠山の狙いは、河内南部の征圧じゃ。
上座に腰を据えた正儀は、
「戦うにしても小太郎(正勝)らも
「致し方ありませぬな。千早城にも兵糧を運び入れておきましょう」
重臣の河野辺正友はそう言って、さっそく手配に掛かろうとした。
しかし、正儀は一人腕組みをしたまま、絵地図を凝視するばかりであった。
「大殿(正儀)、それでよろしゅうございますか」
「いや、畠山を
正友の念押しに、正儀はやっと顔を上げて答えた。その言葉に、正顕が驚いて
「我が城のことか」
「女こどもを守りの堅い千早城に移す。我らは残りの兵を率いて
正儀の策に、正顕は目を
「兄者(正儀)、我らが
「いや、畠山は、千早城の守備の厚さを、以前の城攻めで身に染みておるはずじゃ」
言わんとするのは、八年前の幕府軍による千早城攻めのことである。この時、正儀は幕府軍の一将として、畠山基国を側で見ていた。
「基国は、千早城は簡単に落とせぬと思うておる。わし自らが兵を率いて
「兄者(正儀)自らが、
正顕は
「千早城に隠れれば、確かに、我らはすぐには討たれぬであろう。じゃが、
「あの時は、敵の侵入を許し、寝返る者も出たが、百姓らをはじめ、我らの支配は磐石であった。だから、敵をやり過ごせば、すぐにこの地は我らに戻ってきた。されど、今は違う」
河内平尾の敗戦以降、幕府方の
「されども、勝算はあるのか」
「任せておけ。畠山の鼻をへし折ってやろう」
珍しく正儀は強気に応じた。その自信ありげな様子に、一同も意を決する。
「大殿(正儀)、では、さっそく我らは出陣の
正友をはじめとする諸将は、正儀と正顕を残して広間から立ち去った。
諸将が居なくなったことを確認してから、正顕が正儀に問う。
「兄者(正儀)があのような態度を見せるのは珍しいことじゃな。それだけ、自信がないということか……」
「ふふ、さすがに我が弟、よくわかっておるな。されど、ああでも言わねば決しなかった」
正顕が正儀をじっと見据える。
「死ぬ気なのか」
「いや、生きて帰るつもりじゃ。無駄死するつもりはない。されど、万が一のことがあれば、小太郎(楠木正勝)を支えてやってくれ。そのためにお前を残した」
顔を向けた正儀が、口元を緩めた。
「
そう言うと正顕は立ち上がり、広間を出て行った。
幕府の河内
河野辺正友、菱江忠儀、津田正信らを連れて出陣した正儀は、
「矢を射かけよ」
正友の
「もう、よかろう。
「承知っ。それ、
正儀の
数で勝る畠山軍は、正儀の楠木軍を追って
「なぜ千早城へと撤退せぬのじゃ……」
大将の畠山基国はいぶかしがる。
「……そうか、これは楠木の罠じゃ。楠木との間合いを詰めるな。間合いを空けるのじゃ」
基国は馬上から近習に叫び、伝令を向かわせた。だが、時はすでに遅かった。
その先駆けが、
矢を射かけられて混乱する畠山軍の先陣に、続いて津田正信が騎馬兵を率いて切り込んだ。すると、後ろに下がろうとする者と、前に進もうとする者とが入り乱れ、混乱に
馬上の基国は、真赤な顔をして拳を震わせる。
「くそ、楠木め。使い古された手を……次はない。この借りは倍にして返してくれようぞ」
第一陣を撃破されるも、数に勝る畠山軍は
基国の側近が走り寄る。
「殿、城を三方から囲みました。すぐにでも城攻めに取り掛かりますか」
「ううむ……だが、楠木のことだ。何の用意もなく、城に
側近の問いかけに、基国は腕を組んで考えた。
九月十日、ちょうど、正儀らが
上皇は
『今度の
願文は、
「上皇様、なぜ、正儀がためにここまでなされますか」
「うむ……和睦を目指す正儀は、
「活かされておるなどと……」
「先日の山名との戦は、
そう言って、上皇は目の前に迫る高野山を見上げた。
もはや
河野辺正友とともに、正儀は自らも
「今日も隙なく囲んでおるな」
隣で正友が大きく頷く。
「全ての道は塞がれ、二重、三重に囲まれております」
「まともに戦っては万に一つも勝つ見込みはないな」
「左様にございますな」
「後は、手筈通りにあの者どもが動いてくれるかじゃが」
正儀の呟きに応じるように、仕掛けの一つが動く。正儀の与力、
「と、殿、新手の敵が現われました。北に三百騎、
基国は思わず
「何じゃと。東と西はそれぞれ、どの程度じゃ」
「東と西は、旗の紋がわからぬくらいに遠くで、定かにはわかりかねますが……旗の数からして、いずれも五百騎ばかりかと」
「それで、こちらに向かって来ているのか」
「いえ、北の
郎党の話に基国は首を傾げる。
「ううむ、四方に敵……兵の数は知れておるが、不気味な配置じゃ。慌てて動かず、しばらく様子をみるか」
基国の判断で、その日は夜営を張ることにした。
しかし、日が暮れるにつれて、畠山の兵たちの顔が引きつる。
「東の山を見よ。あの
「こっちもじゃ。西の山も二千はある」
兵たちはざわつき、不安に駆られた近習が、陣幕の中の、畠山基国の元に現れる。
「殿、左右の敵の
近習に急かされて基国が外に出ると、左右の山の中に無数のあかりが見える。
「こ、これは……楠木にこのような兵が残っておるはずはない。きっと、旗を木に
基国は、自分に言い聞かせるように言った。
その時、一人の
「千早城の様子を見て参りました。夜になって出陣の用意をはじめた模様にございます。おそらく明日朝にも出陣するかと存じます」
片ひざを付いた
「千早にも兵が
基国は混乱し、畠山の兵たちにも動揺が生じた。
千早城では、楠木正顕が指図して、たくさんの兵が
それだけではない。女たちにも
「大殿(正儀)、壮大な眺めですな」
「まことにそうじゃな。これも、百姓どもの協力のおかげよ」
こんなにも楠木を慕って協力してくれる百姓がいるのかと、正儀は、無数の
そこに、
「父上、
「よし、では、取り掛かるとするか……出陣じゃ」
正儀の
「よし、今じゃ」
正信の指揮で、いっせいに楠木の兵が畠山軍に襲い掛かった。
呼応するように、
畠山の兵たちは、東西の山に無数の
畠山基国は混乱の中、側近を呼び寄せる。
「何があった」
「楠木の大軍が押し寄せて来ました。殿、お逃げください」
「うぐぐっ」
基国は唇を噛みしめて、側近に守られて北へと撤退した。そして、大将の撤退により、兵たちも我先にと、北河内に敗走した。
正儀は、畠山軍の撤退を見極めると、
「もうよい。敵は去った。深追いは止めよ」
「承知」
正友は郎党を走らせて、正儀の
楠木軍は、何とか畠山軍を南河内から追い返すことに成功する。しかし、
十月三日、紀伊国
「二郎様、もう、矢が尽きました」
蒼い顔をした郎党が正久に訴えた。
その
「その弓を貸してみよ」
郎党から弓を取り上げた正国は、
―― ばばば ――
矢羽根代わりにわずかに残した笹葉が唸りを上げて飛んだ。周囲の兵たちは、うおぉと感嘆の声を上げて、矢の飛び先を目で追った。
「当座はこれにて凌ぐのじゃ。皆に伝えよ。よいな」
「承知つかまつった」
郎党は、
「ついに
走り去る郎党に目をやりながら、正久が呟いた。最初に
「されど、
正国の言葉に、正久が腹を据える。
「うむ、その場凌ぎなのはわかっておる。敵を威嚇できれば十分じゃ。その隙をみて、わしは討死覚悟で血路を開かんと思う」
「それがしも同意にござる。ここまできたら、お供つかまつりましょう」
その目をじっと見据えてから正久は頭を下げる。
「すまぬ……」
短い言葉に、正国への万謝を込めた。
対する山名
「そうか、
「
「よし、頃合いじゃ。一気に攻め上がり、大将首をとるのじゃ」
これに対し、
雨のように大量に飛んでくる矢に、油断していた山名の兵たちは仰天する。先駆けの兵は地面に伏せる。続く兵はきびすを返した。だが、後に続く兵に衝突し、右往左往と慌てふためいた。
楠木の、第一陣の矢掛けが一段落すると、そこらうち中に山名の兵が横たわった。しかし、仕留められたはずの山名の兵たちが、次々に立ち上がる。傷は負えども、致命傷を受けた兵は、ほとんどいなかった。
「な、何じゃ……助かったのか」
「わしも矢が胸に刺さったので死んだものと思うたが」
あちらこちらで、山名の兵たちが不思議そうな顔を浮かべた。一人の兵が矢を拾い上げる。
「これを見ろ。矢羽根が笹葉じゃぞ」
「いや、羽根どころか
「これは
「これは、城に矢がない証拠じゃ」
「頭さえ守れば
「よし、一気に城を落としてしまえ」
兵たちは、
万策尽きた
「わしに続け。敵の囲みを突破する」
「おうっ」
河野辺正国らも気勢を上げて呼応した。
がちがちと、兵と兵の刀をぶつけ合う音が響く。正国が郎党たちと一緒に数人の敵兵を切り倒し血路を開く。
「二郎殿(正久)、こちらじゃ。早く」
「すまぬ、真次郎(正国)」
正国たちが開いた血路に向かう正久であったが、数歩のところで足を止める。
「真次郎っ」
正久の声に被るように、どさっという音を立てて正国が仰向けに倒れた。正久は咄嗟にしゃがみ、倒れた正国を抱き起す。
「真次郎っ、どうした」
正国の眉間には矢が刺さっていた。
その一瞬の間に、正国たちが開いた血路が、山名の兵たちによってかき消されていく。正久があたりに目をやると、あちらこちらに、楠木の兵が倒れていた。
大将を正久と見定めた山名の兵は、その少しの間にも、二重三重と取り囲んだ。
正久は一度、眼を閉じてから、かっと見開く。
「我こそは、楠木
その怒声に、山名の兵の一人が切り掛かった。正久はこれを討ち取り、山名の兵の中へと切り込んでいく。
「父上(正儀)、必ずや君臣和睦、南北合一を実現くだされ」
そう叫びながら敵を一人二人と切り倒した。だが、ついに敵の
「ぐっ」
呻き声を上げた正久を、さらに敵の槍が横からも襲う。
脇腹に食い込んだ槍に、崩れ落ちるようにひざを付いた正久は、山名の兵に囲まれて、切り刻まれて息絶えた。
北河内の篠崎村。ここに、薬師如来を本尊とする
この寺の本堂の
尼と言っても特定の檀家はおらず、他の寺の葬儀を手伝ったり、頼まれて説法を行って日銭を得ていた。だが、基本、自給自足の生活で、寺の荒れ地に畑を作り、日々の
禅尼が畑に向かおうと、籠を持って
正信が正寿丸と呼ばれた
「まあ、六郎殿(正信)ではありませぬか」
禅尼は義弟の訪問に喜び頬を緩めた。そして、駆け寄ろうとした時、正信の瞳から
「菊姉様、二郎兄者(正久)が……二郎兄者が討死されました」
その言葉に、禅尼は手に持つ籠を落とす。そして、その両手でわっと顔を押さえた。
正信は嗚咽する禅尼に歩み寄り、そっと肩を抱きしめる。二人はそのまま、正久のためだけに、涙を流し続けた。
余人には計り知れない悲嘆である。菊子は亡くなった実母に弟、正久を託されていた。正儀の
後日、篠崎禅尼は、正久が討死した紀伊国
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