第16話 吉野山炎上
正平三年(一三四八年)一月六日、
ここは南河内の龍泉寺城。明け方の、身体にちくちくと刺さるような寒さにもかかわらず、
「又次郎(正友)、義行が戻ってきたじゃと」
自身が吐いた
「三郎様(正儀)……」
津熊義行がくしゃくしゃにした顔を上げた。
「義行、戦はどうなった。兄者たちは無事か」
「……うおおぉぉ……」
唸るような声とともに、義行はその場に泣き崩れた。
「泣いておってはわからんではないか。説明してくれ」
「三郎様、それがしが聞いた話を致しまする……」
代わって喋り出したのは、近習の正友である。
「……御味方は
これに正儀は、さあっと血の気が退くのを覚えた。
その蒼い顔に向け、正友が一気に続ける。
「……最後まで付き従った三十人も後を追って自害。楠木
さらに武信が追い討ちをかける。
「さらに、
「そんな……」
焦点を無くした目で、正儀はその場に力なく崩れ落ちる。
「……兄者たちが死んだと……
不利は承知であった。だが、兄弟・従兄弟が皆死んで、楠木軍が全滅するとまでは思っていなかった。正儀は、底の無い沼に身体が沈んでいくような錯覚に陥っていた。
「三郎殿(正儀)。悲しんでいる暇はありませぬぞ」
その声に向けて顔を上げると、後見役の橋本
「そうじゃ。四條で勝った
武信の言う通りであった。楠木本軍が敗れた今、東条は風前の
まだ、涙さえ出る猶予も与えられない中で、正儀は肩を震わせる義行の手を取る。
「わしが……わしが、兄者や
そう言って、苦渋に満ちた顔を上げた。
「なぜじゃ、河内(
そう言って、
陣幕の中では、大和の
「大納言様、この後、いかがなされますか」
打つ手が見つからない定仏が、申し訳なさそうに指示を仰いだ。
「これより我らは、幕府軍を牽制しつつ、南へ退却する」
「戦わぬのですか」
思わず定仏が
「戦えるものか。一万の兵というのも見賭け倒し。
できることは、吉野山を守るために、
「このまま、楠木の本拠である東条を襲ってそのまま南進し、山を越えて五條に出てくるか……それとも、河内守を失った東条は無視して吉野山に直接襲いかかるか」
これに、苦り切った表情で
「そうですな。楠木軍が敗れた今、いずれも考えられますな」
「ううむ……おお、そうじゃ……」
乾いた声とともに
「……
吉野山の
「
通り掛かった
「これは伊賀局殿……戦はどうなのでしょう」
「私も気掛かりなのですが……何も聞きおよんではおりませぬ」
小さく首を横に振る
「そうですか……わらわは心配で、心配で」
「きっと大丈夫でございます。ともに神仏に祈りましょう」
無理に頬を緩めた伊賀局が、固い表情の
―― がちゃ、がちゃ ――
「
慌てて伊賀局は
入れ替わるように、武者姿の男たちが慌ただしく回廊に現れる。吉野山に到着した大納言、四条
「四条卿(
傷口に塩をすり込むような言いように、
「北畠卿(北畠親房)、楠木軍は全滅しましたぞ。河内守(
顔いっぱいに
「今となっては
いまだ、自身の策の失敗が信じられないかのように、親房は首をひねった。
「それより今は、幕府軍がこの吉野山に向かってくるかどうかじゃ。さ、
その震える背中に、伊賀局がそっと手を置く。
「
「
「はい、あり
「そ、そなたには、そのようなことがわかるのか」
「間違っておるやもしれませぬ。されど、私が一軍の将であれば、吉野山に軍を進め、神器の受け渡しを求めるでしょう。さすれば、我らとしては、その前に御動座いただくしか手はありませぬ」
「わ、わかりました。
「ありがとうございまする」
そう言って頭を下げた伊賀局は、阿野
楠木
「南軍は
誰に聞かせるわけでもなく呟いた後、
「堺浦の我が弟の元へ行け。和泉から楠木の東条を貫き、紀伊に出て
「はっ、
郎党はただちに和泉国堺浦へ馬を駆った。
一月十四日、凍てつく大気を震わせて大軍が動く。和泉で和田勢と睨みあっていた
そこに、家臣の
「三郎様(正儀)、堺浦を東に進軍した
「石川河原……やはり狙いはこの東条……」
石川河原は東条の北端、ここからは目と鼻の先である。
その
「引き続き敵の動きを見張るよう、
呆然とする正儀に代わって、
当時、元服したばかりの楠木
この度の
「さて、三郎殿(正儀)。敵といかに戦いますか。三郎殿が決めねばなりませぬぞ」
まだ数えて十九になったばかりの若者に、
「わ、わかっております……」
そう言うものの、次の言葉が出なかった。
兄、
「東条へ入って来られないように、
見かねて、横から津田武信が口を挟んだ。
「いや、兵力に差があり過ぎる。
首を左右に振り、
二人の会話に、正儀は一つの戦略を思いつく。
「ではいっそ、敵をこの東条に誘い込んではどうであろうか」
突拍子もない意見に、一同が驚きの表情を浮かべる。
河野辺正友は武信と顔を見合せ、皆を代弁する。
「いったい、どういうことですか」
「東条は四方を山で囲まれた
頭に浮かんだ考えを、正儀は少しずつ
「うむ、よう考えられた。それでよい」
正儀は後見役の賛同を得て安堵する。
「されば九郎殿(
「そうじゃな、橋本勢は幕府方の
「……しかし、和田勢は大丈夫ではないか」
「ならば、新九郎(和田正武)殿にも東条に入ってもらい、
自信を取り戻した正儀に応じるように、正友が前に進み出る。
「三郎様、では、さっそく和田殿に動いていただきましょう。それがしが使いになります」
「うむ、又二郎(正友)、頼んだぞ。当麻(津田武信)は
「
武信も頷き、すぐさま自らの役目に向かった。
総大将の
進軍の途上にあった神宮寺城(八尾)は、幕府軍に攻略される前に、郎党たちが
一方、恩地城(八尾)は動けない恩地左近満一に代わり、嫡男の恩地
だが、年若い満重が
「満重……」
恩地城の陣屋の中、満重討死の報に満一は涙した。
「満重、一人にはせぬぞ。わしもすぐにお前の元に参る……」
「……三郎様(正儀)、楠木を、楠木を頼みますぞ」
そして満一は刃を首に当て、一気に引いた。
楠木の支城を落としながら、
その石川河原の
国府の館に入った
「兄者(
「うむ、これも楠木の
「てっきり、赤坂城や千早城に籠って、得意の
「その正成も、
さすがに
「いずれにしても、細川、山名とあれだけ手こずっていた楠木を、兄者がこうもあっさり討ち取れば、三条殿の面子は丸つぶれですな。わっはは」
三条殿とは京の三条坊門に屋敷を持つ、副将軍の足利
「じゃが……」
「何じゃ。兄者」
「うむ、
「まあ、そうだとしても、兄者の威信は上がった。これで三条殿も兄者に一目置いて、口を
舎弟の意見に、
「真の
「うむ、兄者、承知した」
「もし、楠木が千早へ逃げ込めば、兵を割いて釘付けにし、お前は吉野へ兵を動かすのじゃ。よいな」
あくまで南大和の
そんな兄に向け、
「なあに、棟梁の居ない楠木なぞ、単なる
「うむ、では任せた。吉野山で会おうぞ」
東条攻めを
軍勢は楠木の支城、
「どうやら、
「殿、いかがされます」
近臣の問いかけに、
「ふむ、それなら楠木の者どもが出てこれるようにしてやろう」
「己の館を燃やされても、何の抵抗もできぬとは、見下げた奴らよ。棟梁の居なくなった楠木など、このようなものか。ならば、一気に攻め落してくれよう。者ども、明日は朝から城攻めぞ。今日はゆっくり休むがよい」
見張りを残し、
その日の夜のこと。
「あ、あれを見よ」
一人の見張りが強張った声を上げた。
龍泉寺城に見えていた
「お、おい、後ろをみろ」
別の兵からは怯えた声が上がった。
東にある最初の赤坂城(下赤坂城)のあたりにも
兵たちの異変に気づいた
「何じゃ、これは……楠木に謀られたか。者ども、気を抜くな。
そのうち、楠木の騎馬隊が奇声を上げて、遠巻きに幕府軍を牽制した。幕府軍はどこから襲ってくるかわからぬ敵に、神経を研ぎ澄ます。しかし、直接、切り込んでくることはなかった。
「
結局その日、幕府の軍勢は、楠木軍の攻撃を受けることはなかった。しかし、兵らは一睡もできずに夜を明かした。
龍泉寺城には、したり顔で幕府軍を見降ろす正儀の姿があった。
「楠木の兵力に驚いていることであろう」
楠木軍は兵の不足を補うために、百姓たちに命じて幕府軍を囲うように
だが、敵を討ち取ることが目的ではない。暗闇に紛れ、安全な間合いを保って奇声を上げ、矢を射かけながら縦横無尽に騎馬が走り回ればよかった。
翌日、
正儀は夜がくると昨夜と同じく、幕府軍を
さらに、和泉から和田勢の援軍が龍泉寺城に入ると、和田正武に城を任せ、正儀は夜陰に紛れて楠木本城である赤坂城(上赤坂城)に移動する。そして、楠木と和田で二組を仕立て、昼夜交代しながら幕府の陣に攻め込み、幕府軍に休む暇を与えなかった。次の日も、また次の日も、同じことを繰り返した。
昼に夜に、楠木の挑発を受ける幕府の兵たちは、寝ることもままならない。数日も過ぎると、疲労困憊で戦どころではなくなる。結局、
一方、幕府本軍は、大和盆地に入ったものの、まだ吉野山へは進軍せずにいる。総大将の
本陣とした寺の
「執事殿(
「将軍からの
「下手に将軍に許可など仰ぐからこうなる。さっさと吉野山へ攻め入ればよかったのじゃ」
「入道殿(道誉)、勝手なことを言うでないぞ。わしは出陣の折、将軍御兄弟からきつく言い含められておる。勝手に吉野山を攻めるなと。将軍の
きっと目を吊り上げた
「いやいや、それはそれで面白い。いっそ、この軍でもって将軍御兄弟を討ち滅ぼされては。それがし、協力致しまするぞ」
「何を申す」
嘘か誠かわからない、人を食ったような道誉の態度に、
「いや、
「
憮然とする
「三条殿(足利
すると
「おっと、また口が過ぎた。
心底楽しそうに笑いながら、道誉は
「全く……
道誉の後ろ姿が見えなくなると、
幕府の
朝廷は、幕府軍が大和盆地に入ったことで騒然となっていた。一刻を争う事態に正儀は、面倒な宮中の取り次ぎを得ることなく、
「もし、それがしは楠木……あの……北畠卿への御取次を……」
しかし、公家たちは蜂の巣をつついたような騒ぎで、正儀の問いかけを無視し、慌ただしく走り回っていた。
「もし、何方か。それがしは楠木三郎正儀と申す。何方か北畠卿への御取次を」
中庭から公家たちに声をかける正儀を、
「その
正儀は、親房の顔を知らない。
「楠木
目の前の人物が親房その人とは知らずに正儀は訴えた。
親房が舐めるように正儀を見る。
「何、その方が楠木の棟梁じゃと……して用件は何じゃ」
「はい、大和の平田荘に点在していた幕府本軍ですが、
「
ううむと、親房は悩み顔で閉じた扇を頭に付けた。
「東条では
唐突な話に親房は戸惑う。二十歳にも満たぬ若者の言葉を信用せよというのも酷であった。
「
「はい、そこで、吉野の山には幾重にも旗を掲げ、ここに
「何、逃げるじゃと。
大人しく聞いていた親房は、態度を一変させた。
「……されど、一応はそこもとの考えも北畠卿に伝えよう。待っておるがよい」
そう言って背中を見せてその場を後にした。
しかし、正儀に背を向けた後、なるほどと頷く。
「この山に旗を立てて、南へか……妙案じゃな」
ただちに親房は、
正儀は、北畠親房への取り成しを片膝付いて
「三郎様、楠木三郎様ではありませぬか。このような場所になぜ」
声をかけてきたのは伊賀局であった。
「これは
「北畠卿なら先ほど私に、急遽、
「
そう呟くと、正儀はふうと小息を吐いてその場にへたり込んだ。
そこに親房が、
「まだこのようなところにおったのか。武士は武士でやることがあるはずじゃ。早う東条へ戻るがよかろう」
親房は、厳しい口調で正儀を叱責すると奥へと急いだ。
呆然とした表情を浮かべ、正儀が伊賀局に振り返る。
「あのお方は……」
「まあ、知らなかったのですか。あのお方が、
「なに……
正儀はぐっと唇をかみしめる。兄、
「御免」
伊賀局に頭を下げた正儀は、外で待たせていた郎党を伴い、東条へ急いで戻った。
一方、伊賀局は
「新たな荷物など用意する暇はありませぬぞ」
大きな荷物を運び出そうとする女房らに声をかけてから、奥に進んだ。
「
そう言うと伊賀局は、侍女の
「少々荷物を持っていきたい。先帝(後醍醐天皇)に頂戴した数々の品。ここに置いていくことはできませぬ。北畠卿(北畠親房)にお願いして、
「
帝はあわただしく
「残された者は
伊賀局の話を聞いて、
「何と、我らを残してすでに出立したと。まさか、
「いえ、差配されたは北畠卿でございます」
「何……親房が」
「さ、早う」
愕然とする
御殿を出た直後に、男が一行の前に立ちはだかる。まだ元服仕立てと思える若侍であった。
「伊賀局様でございますね」
「その
「はっ、
「楠木三郎様(正儀)の手の者か」
「はい、三郎様とは母方の従兄弟となります。三郎様はそれがしのことを
「聞世殿……あ、猿楽舞の」
聞世のことは正儀から聞いていた。
「それがしのことを御存知であれば話が早い。
「それは助かります。よしなにお願いします」
歳若い聞世にも、伊賀局は丁寧に頭を下げた。
「楠木三郎とは何者か」
「楠木河内守様(
「
片ひざ付いた聞世が、伊賀局の説明に補足した。
「そうですか。河内守に、まだ弟がおったのですね」
楠木一族が全滅していないと知って、
この後、
「
「何でも聞世殿の話では、
「そうですか……」
この山道は自分たちだけと知らされて、
山道を下り、幾分か道が広くなったものの、今度は川に遮られる。山合の小さな川である。川幅は知れているが川面までが深かった。
先頭を歩いていた
「橋が流されております。これでは川を渡ることはできませぬ」
昨日までの雨で川の流れは早く、男でも、歩けば足をすくわれそうであった。
「伊賀局様、それがしは上流に渡れそうなところがないか、探して参ります。
そう言って山の中に入っていった。
しかし、聞世の帰りは遅かった。同行の兵らは、帰りを待ち切れず、木を何本か倒して橋をかけられないかと相談をはじめる。橋を架けるにはそれなりの大木が必要である。しかし、木を切り倒す斧などは持ち合わせてはいない。一人の兵が、近くの木を押し倒そうと力任せに押してみるが、びくともしなかった。
「聞世とやらの帰りを待つしかありませぬか」
「
「さりとて、そなたに何か考えはあるのか」
問われた
しばらくするとその方角から、バサバサと木を揺らす大きな音がした。何事かと一同が目を向けると伊賀局らが戻ってくる。
「ほどよい樫の木があります。これであれば数人の男手があれば倒せるかと存じます」
一同は唖然とした表情で伊賀局を見た。川を渡せるほどの大木を、女手で押しても揺らせるはずはない。まして、
「
「このあたりには根腐れして朽ちた木が幾つかあるようです。たぶん川の流れが変わったためでしょう。このような地形ではあり得ることです。根を掘って、白く綿のようなものがついていれば根腐れの証。朽ちた木なら、男手が数人もあれば、倒すことができるでしょう。男の方々は木を倒してくだされ。できれば樫の木がよいでしょう。橋を渡すには二本は必要です。あまり大きな木では倒れませぬ。一尺ほどの太さとしてください。木を倒したら枝を払い……」
てきぱきと伊賀局は男たちに指示をした。
「は。承知つかまつりました。者ども、それ」
近衛の兵たちは
「伊賀局、そなたはよくそのようなことを知っておったな」
「私は幼き時から、父や兄に連れられて、よく山に入りました。そこで、父からいろんなことを教わりましてございます」
「伊賀局の父は新田四天王の篠塚伊賀守(重広)であったな。さすがは武勇の誉れ高き家の娘じゃ。父に似て頼もしき限り」
そう言うと、伊賀局に向けて満足そうに微笑んだ。
篠塚氏は、源頼朝の時代、坂東武士の鑑と称された畠山重忠を祖先に持つ勇者の血筋であった。
兵たちが木を倒したところで、
そんな聞世に、
「伊賀局様(篠徳子)の差配でございます」
「
その目は、ますます丸くなった。
「
「大丈夫ですよ。わらわにも二本の足があります」
不満を口にする事なく、
「さ、私の手にお
「では、伊賀局、頼んだぞ」
伊賀局は
先に
緊張した表情の
「これは
「堀殿(
「いえ、
「そうですか、まだ、
我が子に会う事が叶わず落胆する
「
その言葉に、
一月二十八日、
やっと、征夷大将軍、足利尊氏が、
しかし、吉野山に登った先陣から、麓の
「何、
「は、はい、
「むうぅ、それで」
「ひ、一人捕まえて問うたところ、吉野山の帝(後村上天皇)は昨日のうちに動座されたようにございます」
使いの兵は、
その横で、にやにやと話を聞いていたのが京極道誉である。
「
「三条殿ではない、
吐き捨てるように
「されば、お元とて、
「ふん、それについては誰も笑えぬよう、きっちり始末してくれよう。南主が二度と吉野山に戻ってこれぬようにな」
そう言い返すと、使いの兵に振り向く。
「山頂に戻って諸将に伝えるのじゃ。
「霊場に火を放つのですか……」
兵は一瞬、たじろいだものの、じっと睨みつける
「はっ……承知」
使いの兵が山頂に戻っていくと、吉野山に火の手が上がる。
吉野山に立ち上る煙を仰ぎ見た
赤坂の楠木館を失った楠木党は、楠木本城である赤坂城や西の龍泉寺城に籠って、石川河原に引いた
赤坂城の本丸にある陣屋の広間。上座に座る正儀の前に、絵地図が拡げられている。これを、後見役の橋本
「ただいま戻った
近習の
驚く一同に対し、もう一人の近習、津田武信が追い討ちをかける。
「それだけではございませぬぞ。石川河原に布陣する舎弟の
「何、太子
「何と罰当たりな兄弟よのう」
後見役の
「無理に押し入り兵糧を調達しているということは、
「ううむ、そのようじゃな。されど、八千もの兵をいつまでも石川河原に留め置くことは難しいであろう。いずれ兵を動かしてくる」
そこに、家臣の篠崎久親が下座に現れ、ひざまづく。
「三郎様(正儀)、北畠卿(親房)の使いとやらの
「何、北畠卿の……」
その名に、和田正武が敏感に反応した。
頷く橋本
「よし、ここへ通せ」
すぐに久親が、
上座に正儀、左右両側に諸将が向い合わせに座る中、その
「それがしは
「三郎(正儀)殿、北畠卿は何と」
「帝は御無事じゃと。吉野から紀伊に入られたそうじゃ。四条卿(
「何、このような状況でか」
驚く
「
四郎
その
「ううむ、この城から兵を
「それがしは異存ござらん。では、さっそく津田の父上の元に使いを送りましょう。六郎(篠崎久親)、頼めるか」
「承知致しました。ではさっそく」
久親はすぐに立ち上がって広間を下がっていった。
「正儀殿、
そう言って、
「はい、それがしからもお願い致します。では、ここは我らが戻るまで、新九郎(正武)殿にお任せしたい」
「判った。三郎殿、任せられい」
和田正武が胸をどんと叩き、
「では
「承知つかまつった。では、それがしはこれで」
あわただしく
翌日、正儀と後見役の橋本
正儀と
奥の座敷には
「楠木三郎正儀、橋本九郎
「
「ははっ」
二人は声を合わせて応じた。
殿上の親房が、正儀にじっと目をやる。
「楠木正儀、その方が惣領を継いだそうじゃな」
「はっ。兄たちの意志を引き継ぎ、
「まだ若いのう。歳は幾つじゃ」
「はっ。十九にございます」
すると親房は、ふっと息を吐き、渋い表情を返す。
「楠木党は我らにとって軍事の要。若いそなたではちと荷が重うないか」
「ほんにのう。麿もそのように思うぞ。楠木のみならず和田、橋本など一門の惣領として差配するのがこの若者とは……」
疑念を浮かべる親房に、示し合わせたように
「恐れながら……」
「……御心配の旨、重々承知しております。されど、ご懸念にはおよびませぬ。
「ふうむ、そこまで申すなら仕方がない。ならば、存分な働きを期待するぞ……」
不満顔を残したまま、親房が承知する。
「……ところで、
「む、無茶……」
その言葉に正儀が驚き、顔を上げようとした。しかし、隣の
親房は正儀の反応をしっかりと見ていたが、何事もないように話を続ける。
「内藤
「何と、そうであったのか。我らが負けたのはそうゆうことであったか」
大げさに
顔を伏せた正儀は、怒りで肩を震わせる。親房が、無謀な戦略の責任を、帝の前で兄、
ただ、内藤
(
心の中で叫んだ。帝の前でなければ、確実に反論していた。
「楠木正儀」
「はっ」
名を呼ばれ、正儀は我に返る。
「
正儀には親房が問う意味がわからなかった。
始末と言っても、
真意がわからず黙っている正儀に、
「どうも北畠卿のお言葉が理解できていないようじゃ。北畠卿は、手のうちを漏らした河内守の妻を処罰せよと申しておる」
「
驚きのあまり、正儀は思わず声を上げた。
「そうじゃ、当然であろう。死をもって償わなければならぬのではないか」
「いえ、
反論するが、
「根拠のない申し開きは控えよ、
(どちらが根拠のない言い分であろうか)
正儀は目の前の公家に向けて、心の中で吐き捨てた。
しかし、今はとにかく
「
意見は正論である。だからこそ、親房の顔は険しくなる。
「そなたは人の心が読めるのか。都合よくそなたが解釈しているだけであろう。すでに
「されど……」
反論しようとする正儀を制し、隣の
「処罰の対象は楠木の家の者。処罰の内容は楠木一党にて決めとうございます。どうか、この件、我らにお任せあれ」
「うむ、まあ、そうじゃな、楠木一族を差し置いて、我らが処罰の内容までを決めるわけにはいかぬ。そなたたちに任せることとしよう。されど、
厳しい口調で親房は命じた。正儀は、わなわなと震えながらも、頭を下げたまま、その姿勢を押し通した。
「もう下がってよいぞ」
黙り込んだ正儀は、塵を払われるように
正儀が
「いかがでございましたか」
その問いかけにも、正儀は下を向いて、肩を震わせたままでいた。
橋本
「三郎殿(正儀)の無念さはようわかる。わしとて同じ思いじゃ。されど今は、とにかく満子殿の
しかし、観心寺には夫、楠木
正儀が久子と向き合うのは、
「母上、風邪をひいておったと聞きましたが、お加減はいかがですか」
「三郎(正儀)、気遣い痛み入ります。太郎(楠木
「皆が助けてくれておりますので何とか……母上こそ、お気を落されませぬように」
末子の精一杯の言葉に、久子は頷く。
「まだ、石川河原には幕府軍が布陣していると聞きますが、このようなところに来て大丈夫なのですか」
「北畠卿の呼び出しで、
「そうですか。帝が御無事で何よりです。吉野山が燃えたとの報に触れ、心配しておりました。それにしても三郎が帝に拝謁とは……父上にも聞かせてやりたかったものです」
その目は少し
正儀が来たと聞いて、
「三郎様(正儀)、よう来てくだされた。今日は寒うございますので、
満子の侍女、
「ありがとう、
「母上様の話し相手になってくださいね。私は多聞丸と一緒に向こうにおりますので。何かあったらお呼びくだされ」
夫が亡くなっておよそ一月。未だ、ぎこちない笑みを浮かべ、満子は奥に下がっていった。
満子が見えなくなるのを待って、正儀は
「
「はい、四條での戦の直後は口数が少なくなり、食も細くなっておりました。されど、多聞丸様のことを思い、今は気丈に振る舞っておられます。私には逆にそれが痛々しくて……」
袖で涙をぬぐう
ふうぅと息を吐いた正儀が、後ろに控えた義行に振り返る。
「義行、悪いが、母と二人で話がしたい。少し座を外してくれぬか」
「はあ……どこで待っておりましょうか」
義行は戸惑った表情を返した。
「津熊様は、私めと一緒に
そう言って、
改めて正儀は久子に向かって居住まいを正す。
「実は今日、
正儀は母に、
わっと久子が両手で顔を覆う。
「何と無体な。満子がそのようなことをするはずはありません」
「それがしとて同じ思いです。北畠卿は己の責任を転嫁しようとしているとしか思えぬ」
がっと床を叩いて怒りをぶつけた。
「三郎、我らの力ではどうすることもできぬのですか」
「帝を前にして大臣に盾突くことは詮なきこと。
無力な自分を蔑むかのように唇を噛んだ。
「
「なるほど……されど、預けるといっても誰に預けたものか」
たずねられた久子は小首を傾げ思案する。
「やはり、頼りになるのは一族です。赤坂には九郎殿(
母に言われると何やら不思議と安心する。
「そうかも知れませぬな」
「しばらくの間、私も一緒に参りましょう。幕府との戦いも続き、ここも安全とはいえないでしょう。満子には、北畠卿の話を伏せて、私から話してみます。さすれば、満子とて不審に思う事もないでしょう」
「何やら安堵しました。母上に話してよかった。さっそく赤坂へ戻り、
平常心を取り戻した正儀は、義行を連れて急ぎ赤坂城へと戻った。
早速、正儀が橋本
数日後、久子は、満子と数えで三歳の多聞丸、そして侍女の
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