第15話 四条畷の戦い
正平二年(一三四七年)十一月末、にわかに京の町を寒波が襲った。町屋や寺社仏閣、公家や武家の屋敷までもがぴんと張り詰めた空気に覆われる。
「まさか、あの山名殿が負けるとは」
「吉野方は京へ攻め上ってくるらしい」
「悪党楠木がくれば、何をしでかすかわからん」
「きっと京の町は燃やされるぞ。早く逃げねば」
口々に楠木の恐ろしさを語った。楠木党には、かつて宇治を火の海とした前科があったからである。
京の
これまでも楠木
広間の上座に腰を据えた尊氏は、いつものおおらな顔とは違う表情を
「楠木の強さは本物じゃ。このまま付け上がらせば、諸国の吉野方は勢い付き、元弘の折の二の舞となろう」
元弘の折とは、先帝(後醍醐天皇)の
「次はそれがしが、舎弟の
口元に力を込めた
「うむ、小軍と敵を
「承知しております」
一方、
尊氏は、先の戦に続いて、細川顕氏、佐々木
南軍の将、楠木
一行が吉野山に入ると、その勇姿を一目見ようと、多くの人たちが集まった。凍てつく寒さにも関わらず、公家や官女、近隣の住人までが、黒門(
この騒ぎに、正儀は困惑の表情を浮かべながら、
「三郎様(正儀)」
自分を呼び止める声に正儀が振り向くと、侍女の
兄の元を離れた正儀は、
「これは
「まあ、おかしな御方……」
紅の口から白い息を吐いて笑う。
「……皆、三郎様(正儀)たちを一目見ようと、集まったのですよ。何と言っても、大勝利の立役者ですから。
伊賀局は自分のことのように喜んでいた。
「それはありがたい。じゃが、これからが問題でござる。太郎兄者は北畠卿(親房)に召し出された」
その口調から、
「北畠卿……お苦手なのですね」
「い、いや、それは……」
見透かされたかと正儀は
一方、
「河内守様」
雑踏に
しかし、
ただ、それだけのことである。だが、弁内待の顔は、夕日に染まったかのごとく赤らいだ。
一行が
一人、
親房が、手に持つ扇で
「
その話にも、
「
京に放った
親房は
「対する我が方は、四条大納言の元に一万、河内守が三千。そして伊勢より我が息子の
一万八千と言うが、公家大将の
「じゃが、戦は数ではありますまい。のう河内守」
「いえ、今度の幕府軍は、執事の
「弱気じゃのう。河内守」
同意を得られなかった
「さて、武家方はどちらから攻めてくるか」
四条
すると、親房は自信ありげに、一同を見回す。
「兵を生駒の東西に配置するのが良策であろう。四条様には一万の軍勢を率いて
すまし顔で親房が軍略を披露した。しかし、
「それがしの意見は異なります。少ない戦力を生駒の東西に分ければ、ますます勝ち目はございませぬ」
「峠を挟んで陣を敷くのじゃ。合流すればよいであろう」
「いえ、細い峠道では一列になって進軍せざるを得ません。時がかかるとともに、敵の別働隊が山の中に入って側面を突ければ、一気に崩れてしまう恐れがあります」
「ではどうしろというのじゃ」
だんだんと不機嫌になる親房に、
「千早城でございます。ここに幕府軍を釘付け致します」
「元弘の戦の再現じゃな」
「
正行は、紀伊勢との戦を皮切りに、河内・摂津へ侵攻して幕府軍を翻弄した。そして次は千早城。まさに父、楠木正成が
「で、麿は……」
「四条大納言様におわしましては、一万の兵で大和の
「なるほどのう」
納得顔で
しかし、親房は顔を
「河内守の策は、武家方(幕府軍)は必ず千早を目指すと決めつけておる。だが、生駒の東を通って吉野山の
そう言ってから親房が、ぎっと顔を向ける。
「……もし、幕府の軍勢が吉野山へ進軍してきたら何とする。
「いえ、吉野山は大丈夫でございます。東には北畠
「いや、
戦に関して稚拙と言われては武家の面子は丸つぶれである。
「東西の敵をそのままに、隙だらけで吉野山を
「何、
「何と、それがしを不忠者と言われますか」
怒りに震える目で
慌てて
「北畠様、河内守には河内守の考えがあってのこと。決して
言い終えると、
「されど、河内守。やはり我らは万が一のことを考えて、吉野山を守るべきと麿も思う。武家には武家の考えがあろうが、ここは曲げて北畠卿の策に従おうではないか」
南朝軍事の責任者である
「太郎兄者、如何であった」
「うむ、出陣を命ぜられた。
そう言うと、
楠木
赤坂城の麓にある楠木館に集まったのは、南河内の親族・家臣のほか、和泉国からは一門衆の和田正武と橋本正高、与力衆の美木多助氏らであった。
前回までの戦とは明らかに異なる表情で上座に座った
「皆に集まってもろうたのは他でもない、今にも河内を侵攻しようとする幕府軍への対応じゃ」
「多聞の兄者、千早城の修復はすでに終えておる。いつでも敵を迎え撃つことができるぞ」
したり顔で
「いや、その必要はない。我らは東条を出て北へ討って出る」
兄の言葉に、絵地図を広げていた正時の手が止まる。
「討って出ると……正気か」
「殿、敵は万を
後見役の橋本
「九郎殿(
呆然とした表情で正時が口を開く。
「なぜ、そのようなことに……」
「千早城へ敵を誘き寄せるわしの献策、北畠卿に一蹴された。幕府を河内の奥まで誘い込めば、吉野山の帝(後村上天皇)にも害がおよぶと考えたようじゃ」
「戦慣れされた四条大納言様もおられたというに……何ともならなかったのですか」
皆の胸の内を、正儀が代弁した。
「今や朝廷は北畠卿が動かしておる。四条卿はおろか、二条左大臣様でさえ、北畠卿を制することはできぬ」
「……」
正儀は口幅ったそうに、唇を噛んで押し黙った。
「くそっ」
怒りをどこにぶつけてよいかわからない正時は床を叩いた。
そんな弟たちの様子にも動じず、
「皆、聞いてくれ。こうなっては、討って出ることを前提に、策を講じなければならん。評定では
「おそらく
大塚
「その通りじゃ。生駒山の麓、
意図を察した正時が頷く。
「なるほど……では敵が南進して
「そうじゃ。ここは細い街道じゃ。正面同士で対峙すれば兵力の差を埋めることができる」
そう言って
「なるほど、何とかなりそうな気がしてきた。さすがは太郎殿(
勇猛果敢な和田正武が名乗りを上げた。
しかし、
「いや、
「和泉に残る……」
「左様、和泉の兵は、
正武が正高と顔を見合わせる。
「うっ、北畠卿がくるのか」
その困った顔に、一同がどっと笑い声を上げた。
緊迫した空気が少し和んだところで、正儀が兄に顔を向ける。
「それで太郎兄者。我らはいつ、出陣することになるのじゃ」
問いかけに、
「敵方の動き次第じゃが、十日のうちには出陣する。ただし、三郎(正儀)は留守居役じゃ。そなたはこの城に残って母上たちをお守りし、何かあった場合の後詰めと心得よ」
冷や水を浴びせる兄の言葉に、正儀は目を大きく見開く。
「太郎兄者、なぜ、わしが留守居役なのじゃ。
「総力戦だからこそ、一族の者の誰かが、その後を守らねばならん。あの
「そうじゃ、三郎(正儀)。
「なっ、それなら二郎兄者(楠木正時)が残ればよい」
正儀は食い下がった。
しかし、正時は頬を緩めて正儀をあしらう。
「おいおい、
「残ってもらうのは、三郎(正儀)だけではない。
「えぇ、多聞兄者、わしにも残れというのか。それはないであろう」
ひと際、正儀は納得できない。
「いやじゃ……」
ぎゅっと拳を握りしめる。
「……
そう言って口をつむぐ正儀に、
「三郎(正儀)、わしらは討死するつもりはない。生きて帰ってくる。兄弟三人で戦うことは、この先、いくらでもある。
「三郎様、殿の言われる通りじゃ。楠木の
恩地満一も身を乗り出して正儀を
さらに正時も続ける。
「
近臣の二人は、顔を見合わせてから互いに頷き、床に手を突く。
「二郎様(正時)……」
「……承知つかまつりました」
もう、正儀に反論の余地は残っていなかった。自然と目が
十二月二十五日、男山の麓に布陣した幕府軍の総大将、
その諸将の軍勢を見下ろす男山の山頂、八幡宮には、
一方、
楠木
一方、見送る正儀は、龍泉寺城で、本拠の防衛に付くこととなっていた。
その正儀は、湿っぽい話は止めようと近習の津田武信・河野辺正友らと話し合い、平常心を装う。
「
「そう言えば、朝から見ておりませぬな」
正儀に問われた武信は、正友とともに首を傾げた。
「困った奴じゃ。このような大事な日に
ふうぅと溜息を付き、正儀は辺りを見渡した。
その後ろから河内
「こういう日だからこそ、
この
「明王らしい……」
なるほどと正儀は頷いた。
大将の
「よしよし、では行って参るぞ」
年が明ければ数えで三歳。しがみ付いて離れようとしない多聞丸の手を
「多聞丸を頼むぞ。では、行って参る」
「殿、御武運を御祈りしております」
満子は、これまでの見送りと変わることはなかった。しかし、何も知らないわけではない。武士の妻として、楠木の嫁として、満子は感情を抑えることに必死であった。
向こうでは、久子が正時を見送っている。久子も息子たちが覚悟を決めて戦に
「母上、では行って参ります。後は万事、三郎に任せますように」
「武運を祈っています」
母の言葉に、正時は深々と頭を下げた。
郎党が持つ馬の
「おお、そうじゃ。これを……」
そう言って、腰のものを鞘ごと抜いて、正儀に手渡した。
その刀はずしりと重い。
「この
「そうじゃ、我らが父から譲られし
「なぜ、これを……」
「意味など無い。わしが帰るまで、無くさぬように預かっておいて欲しいのじゃ」
「それは……」
だが、出陣しようとする馬上の兄たちに向け、ぐっと耐えて声を張る。
「次は……次こそは、二郎兄者が留守居役じゃからな。絶対に帰って来て約束を守られよ。太郎兄者はその証人じゃからな」
二人の兄は、正儀に笑顔を見せてから馬を進めた。
軍勢の姿が見えなくなった頃、満子は久子の元に歩み寄って胸を借りる。
「
我慢していた涙が一気にあふれ出した。侍女の
久子は満子の頭の後にそっと手をやる。
「大丈夫ですとも。太郎は無駄死するような子ではありませぬ。不利となれば、無理をせず撤退することでしょう。安心なさいませ」
若い嫁を励ましつつ、亡き夫、楠木正成を思い出す。
十二月二十七日、東条を発った楠木
凍てついた空気の中で、武者姿の
その手前に座る左大臣の二条
「河内守(
「はは。この楠木河内守
その時、帝の側近である
「河内守、大義」
姿を現した帝は、短い言葉を投げ掛けた。
温和な、少し幼さの残る顔を目にした
「
すると、
「河内守。
「ははっ。身に余るお言葉、痛み入りまする。この河内、必ずや敵を平らげ、
これに、帝は満足そうに、ゆっくり、小さく頷いた。そして、中納言の阿野
「河内守は
「
居並ぶ公家たちは、感心したように大きく頷き、この決意を称賛した。
「河内守の思い、まことにあっぱれじゃ……さりながら……」
帝は、
「……
死しても結果を残せと言う、まるで湊川を思い起こさせる非情な
ただ、先帝を反面に見て、今上の帝に天子の徳を説き、導いてきたのは、皮肉にも、この非情な出陣を整えた
帝の人となりに触れた
帝への拝謁が終わり、楠木
「あっ……」
「……なぜ、お前がここに
そこには、本堂の濡れ縁に腰をかけた
「多聞の兄者、頼む。わしを連れて行ってくれ。こうして、戦の
「駄目じゃ。帰れ」
「父上(美木多正氏)の
兄の
「遊びではない。帰るのじゃ」
だが、
刻々と出立の刻限が近づいていた。
「兄者、早くしないと刻限が来てしまう。とりあえず連れて行くだけ連れて行こう。
すると、
「勝手にするがよかろう」
『かえらじとかねておもへば
「皆の者、我らは帝と先帝の恩に報いるため、
「おう」
鼓舞する
年が明け、正平三年(一三四八年)一月早々、吉野山を発った楠木
一方、吉野方の公家大将、四条
また、
多くの僧兵を擁するこの寺は九百七十余坊を有する山岳寺院で、
そして、和泉の
「殿(
「うむ、ご苦労であった。やはり生駒の西から来たか」
頷く
「ふん、ゆっくりと南進か、余裕じゃな」
「よし、敵が油断している今が好機ぞ」
立ち上がった
「我らはこれより、急ぎ北へ向かい、幕府軍より早く東高野街道を押える。
「えい、えい」
「おお」
「えい、えい」
「おお」
兵たちが重ねて声を上げた。
その頃、河内国東条では、正儀が近習の津田武信・河野辺正友、河内
すでに赤坂の楠木館には、母の久子や
正儀らが
嶽山の中腹には、その名の
龍泉寺城は、湊川の戦の後、一旦、足利方の手に落ちる。しかし、楠木党が奪い返した後は、前線基地として、楠木本城である赤坂城(上赤坂城)、後詰の要、千早城とともに、楠木党の最も重要な拠点の一つとなっていた。山深い二つの城に比べ、
楠木
「三郎様(正儀)、淀を渡って南進していた
「何、あの新九郎(正武)殿が……」
勇猛な正武が戦わずに退却するとは考えられなかった。
すると、
「きっと、新九郎殿には、何か考えがあってのことであろう」
「はい、左様にございます。正武様はいったん退却された後、二千の騎馬を率い、果敢に堺浦の幕府軍に奇襲を仕掛けております」
聞世の話に
「それで、堺浦の幕府軍はどうなった」
正儀が話を先へと急かした。
「はい、それが、幕府軍は和田勢の奇襲にも慌てず、逆に討って出る構えを見せ、今は、両軍睨みあったままで動けない状況です」
「八千の幕府軍を、堺浦に釘付けしているだけでも、上出来ではないか。さすがは新九郎殿じゃ」
津田武信が感心するが、正儀は首を傾げる。
「ううむ、堺浦の幕府軍は、動けないのではなく、動かないのではないか」
「三郎様、それは、どういうことでございますか」
近習の河野辺正友が不思議そうな表情を浮かべた。
「考えてもみよ。
「あ……なるほど……」
「山深い吉野にとっては、
冷静な正儀の説明に、正友と武信は目を丸くして感心した。そして、後見役の
一月五日、
楠木の行軍が四條の手前、野崎に達したときであった。先陣を務めていた正時は目を疑う。
「な、なぜ、ここに……」
目の前には幕府軍が無数の旗を
男山八幡を進発した
「くそ、あの者どもを討ち取るのじゃ」
正時の声で、ついに両軍は激突する。
幕府軍の先陣は、
肝を冷やしたものの、幸先よい勝利に、楠木軍の気勢は
しかし、敵本軍に向けて
恩智左近満一が、馬で
「殿(
「慌てるな、左近。小太郎に五百の兵を付けて送ろう」
不意を襲われた正時率いる先陣であったが、すぐさま、救援に入った
気付くと、北に控えていた幕府本軍の姿が見えない。
緒戦を凌いだ楠木
軍列のやや前方で馬を進めていた
「ぐわ……」
「て、敵じゃ」
「矢を射返せ」
突如として
ただちに、
しかし、騎馬の脚を止められたのは、京極軍だけではなかった。楠木の騎馬も田のぬかるみに脚を取られ、思うように先に進むことができない。そこを、敵の歩兵が振う
大将の
「皆、馬を捨てよ」
田に脚を取られてしまうことを嫌い、馬を置いていくことにしたのだ。この先のことを考えると、思い切った策である。
「ここで進軍を止められるわけにはいかん。離れすぎるな。集まって戦え」
京極勢の矢は自ずと、剣の前立てが施された
「殿(
年長の従兄、楠木
その時、京極の郎党が放った矢が
―― びゅう、ずざっ ――
矢が貫いたのは、咄嗟に盾となった若い正種の首であった。
ぐらっと崩れ落ちる正種を
「おい、正種、気をしっかりせよ」
「……」
口を動かす正種だが、声にはならなかった。
父親の正家が正種の元に駆け寄る。
「太郎殿、構わず指揮を執るのじゃ」
息子の正種を抱きながら、
「
息子の前で座ったまま刀を振るって敵の矢を防ぐ正家をそのままにし、
不意を突かれた楠木軍の痛手は大きかった。
しかし、
「ええい、一旦、兵を退くのじゃ」
たまりかねた京極道誉は撤退を指示し、兵を引き上げた。
肩で大きく息をしながら、楠木
従兄の楠木正家は、息子の正種を
敵将、
「やはり
「助氏殿、
助氏も足に矢傷を受けていたが、幸いにも
「河内守殿(
「いや、足に矢を受け、動けぬ者は足手まとい」
「されど……」
「わしは情で申しているのではない。少しでも勝てる可能性を高めるためじゃ。わかっていただきとうござる」
そうはいうものの、
「二郎(正時)、
「な、何を言うておるのじゃ」
兄の言葉に、楠木正時は目を丸くして唾を飛ばした。
「そうじゃ。多聞の兄者」
「おお、帰れる訳がなかろう」
「ここからはわしの戦じゃ。初めから決めておった。お前たちは若い者を連れて東条に戻るのじゃ」
「いや、ならんぞ、兄者。ここまでくれば生きるも死ぬも一緒じゃ」
「若い者はお前たちだけではないぞ。お前たちが帰らねば他の若い者も帰らんであろう。むざむざ死なせてよいのかっ」
その勢いに正時は
「さ、されど、兄者……」
「二郎、これは兄の
かつて、
戸惑う正時であったが、若い
「兄者、承知した。
「
「おう、ここにいては兄者の邪魔じゃ。お前たちは怪我をした兵を支えよ。ここから脱出する。さ、早う」
正時は、動揺する
馬を捨てた楠木
楠木軍は討死した兵、東条に戻した兵、また逃げた
しかし、
郎党が
「山の中には、敵軍が控えておるようです」
「わかっておる……が、なぜ来ないのじゃ」
幕府軍が満身創痍の楠木軍に襲いかかってこないことを、
「よし、本軍はあそこぞ。目指すは
敵軍を目前にして、後方の
「二郎(正時)、なぜ、お前、ここに……」
「わしが帰ると言わねば、あの場は治まらなかった。されど、安心してくれ。わしが
「お前が生きねば意味がない。この
兄の言葉に、正時は笑みを返す。
「兄者の腹づもりくらいわかっておる。だから、戻ってきた」
「くそ、わしの策が台無しではないか」
「そう怒るな。後は虎(正儀)に任せることとしようぞ。虎は俺などより余程、器量がある。俺は棟梁としての虎に賭けてみたいのじゃ」
「この
その
「ちょっと待て兄者、あれに見えるは
「何……」
「……ううむ、あの
敵の総大将を前に、楠木軍は最後の気力を振り絞る。
「者ども、ひるむな。進め、進むのじゃ」
正時は、郎党たちとともに長槍を降り回しながら、敵兵を押し分けて進んだ。
死にもの狂いの楠木の突撃に、さすがに
「何をしておるのじゃ。みっともない」
「我こそは、将軍家の執事、
顔を隠すように兜の下に
「よし、わしが参ろう……」
敵の名乗りを聞いて、楠木正時が進み出る。
「……我こそは河内守が舎弟、楠木
正時は長槍を両手で上げるようにして構え、突進する。
「いざっ、うぉぉ」
「こしゃくな若造め。返り討ちにしてくれよう」
正時が繰り出す槍を
―― きん、きん ――
刀と刀が幾度もぶつかる音が響く。
―― きん、びゅ ――
一瞬、正時の切っ先が
その目元が苦痛に
「ぐっ……何のこれしき」
「うっ、ふぅ」
正時は間一髪でこれをかわした。一筋の汗が頬を伝う。だが、冷や汗を
双方の郎党は、それぞれの
先般の戦いで正時はあちこちに傷を負っていた。だが、
「ぐっ」
苦痛の表情を浮かべて、
その瞬間である。正時は
「御覚悟っ」
「くっ、勝ったと思うな」
睨み返す
―― びびゅ ――
返り血が正時の顔を赤く染める。
「敵の総大将を討ち取ったぞ」
楠木軍は歓喜に沸く。逆に、
楠木正時が
「兄者、ほれ」
正時が
「二郎、ようやった」
「殿、これで大手を振って吉野に戻れますな」
郎党の一人がそう言って感涙にむせた。
「ち、違う……違いまする」
歓喜の中で冷や水を浴びせる声が聞こえた。
「何が違うのじゃ」
「この首は
「
「ああ、そうじゃな」
気を取り直して、正時も顔を上げた。
すでに楠木軍は百人ばかりとなっている。敵の懐深くに誘い込まれ、周りは敵に囲まれていた。もう、撤退という選択肢は残されていない。再び、
遠くに、輪違いの
「今度こそ
確認をとる正時に、先の
一方、楠木勢が三町あまりに迫る中、
「
「
強弓で名をはせる須々木四郎は、弓矢の得意な兵を集めて、雨あられのごとく、楠木勢に矢を射かけた。すると楠木の動きが鈍る。これを見て、幕府軍の他の武士も、落ちていた矢を拾い、
それでも、楠木の者たちは、自らの兜を脱いで片手で前に掲げ、これを矢除けにしながら雨のような矢の中を、本陣に向けて迫って来る。
しかし、須々木四郎にあせる様子はまったくない。他の者には目もくれず、
横殴りの暴風雨のような矢であった。だが、楠木兄弟はひるまない。脱いだ兜を前にかざし、向かいくる矢を左右に弾きながら前進する。しかし、もう誰の目にも勝敗は明らかであった。それでも、なぜか
「う……」
―― どさっ ――
「二郎、二郎……くそ」
弟を心配する
―― ざぐっ ――
「うっ……」
一本の矢が右の目尻をえぐった。血が目の中に入り、目の前が真っ赤に染まる。
しかし、あたりが赤いのは血の色だけではない。朝から始まった戦は、気がつけば夕暮れ時となっていた。
意識が遠のく中、
一瞬、敵の矢が止まった。
「今世はこれまでぞ。皆、敵の手に懸かるな」
全員に
「二郎、わしを刺す気力は残っておるか」
「……」
喉を射抜かれて声にならない。正時は代わりにゆっくりと頷いた。
今まさに命が
「いざっ」
―― ずっ ――
「虎よ、楠木を……
そう言って、正時と重なるように倒れた。
最後まで付き従った楠木の兵たちは、兄弟の最期を見届けて、それぞれに刺し違え、また、ある者は自刀した。
龍泉寺城の正儀は
すると突如、一陣の風に煽られる。身も凍る真冬であるにもかかわらず、なぜか優しい温もりある風であった。
「兄者……」
思わず正儀は声を漏らした。
楠木軍の後詰めとして、後方の敵軍を防いでいた大塚
「お味方は全滅。殿(
楠木軍の敗北を見定め、それまで兵を動かさなかった幕府軍の細川顕氏が、猛然と
「くっ、これまでか……」
意を決した
「我は大塚
ついに
激戦の地、四條の
「兄者、何をするのじゃ」
「知れた事よ。敵の雑兵に紛れて、
「ならわしも……」
勇み立つ
「いや、お前は東条へ戻れ」
「何を言う。わしだけ生きていられようか。わしも
兄の
「ならん、お前は東条へ戻り、虎(正儀)の元でわしの
その言葉に、
「くそっ」
あきらめた
弟の様子に、
「三郎よ、
「
義行は涙をぼろぼろと流した。そして、
夕日が沈み、あたりは薄暗くなる。
中央には赤々と焚火が燃え、周囲には
(多聞の兄者……)
泣くまいと思う
諸将に囲まれた大将らしき男を凝視する。
(あの者が
極力自然に、ゆっくりと
―― がちゃ ――
しかし、ここは
「み、美木多
周りの兵が、
「くそ、邪魔立て、するな」
一喝して刀を振るう
血を吐きながらも
「ぎゃっ」
首を噛みつかれた兵が奇声を上げる。そして、その場に
―― ぎゃあぁ ――
だが、
「ううぅ……」
兵の首に噛みついたまま、
兵から
「ひ、ひぃ」
息絶えても
この騒動に、総大将の
「ふん、無駄死にじゃな。首をとれ」
一方、弟の
「そこの者っ、逃げるのかっ」
先を急ぐ
驚いて
「その武者姿、楠木の名のある武将とお見受けした。それがしは
「
「……わ、わかっておる」
拳をぎゅっと握り、
すると忠実が、それも見越していたかのように罵言を浴びせる。
「楠木の者どもは皆自害したというに、一人逃げるとは卑怯なり」
「何、自害したじゃと……」
「そうじゃ、大将の楠木河内守とその舎弟もじゃ。最後まで従った三十人も皆、自害したぞ。一時は武蔵守様(
この時初めて、
「まあ、潔い死に様ではなかったな。やはり楠木の武将は
明らかに挑発であったが、若い
「引き返すなどわけもない」
刀を抜いた
これに義行は顔を強張らせる。
「け、
「義行、そなたは先に東条に戻っておれ。わしはあやつを始末する」
そう言って義行に背を向けると、刀を振り上げ、忠実に向けて駆け出した。
すると忠実は、にやりと笑みを浮かべ、郎党とともに背を向けて逃げはじめる。
「おのれ、逃げるとは卑怯なり」
目を吊り上げ、
気がつくと、
敵兵たちは
「うぐ……卑怯な……何が正々堂々とじゃ……」
―― しゅん、ざっ ――
その瞬間、敵兵たちが放った矢がいっせいに身体を貫く。
目の前に忠実が刀を抜いて、ゆっくりと近づいてきていた。
「くそっ」
―― ぐぐ ――
忠実の刀が
「うっ、兄者(
振り絞るように声を上げ、
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