第14話 正行出陣
正平二年(一三四七年)六月。日差しを強めた太陽が、天空に
吉野山から戻った正儀は、長兄、楠木
今度は庭に出て、弓の鍛錬をしていた次兄、楠木正時の元に歩み寄る。
「二郎兄者、太郎兄者はどこへ行ったのじゃ」
「何じゃ、知らぬのか。北畠卿(親房)からの呼び出しで、吉野山の
正時は、顔だけ振り向き、蝉の声にも負けない大きな声を返す。
「……そういえば三郎、昨日帰って来なかったか。どこへ行っておったのじゃ」
「ああ、まあ、ちょっと」
言葉を濁しながら背中を向ける。
(入れ違いになったか)
早く
吉野山に到着した楠木
暑気が
北畠親房が、扇でゆっくりと風を取り込みながら口を開く。
「
頭を下げて拝聴していた
「恐れながら申し上げます。出陣は、今しばらくお待ちいただく方がよろしいかと存じます」
すると、四条
「それはなぜじゃ」
「それがしが京へ放った
その挙げ句、
「……尊氏が
筋の通った意見に、
だが、
「内側から脆さを露呈……それはいつのことじゃ。明日か、一年後か、はたまた十年後か。希望を唱えるだけであれば、誰でも言えるわ」
続いて親房も
「河内守、そなたは
答えを伏せた問い掛けに、
「威厳とは」
「京を離れた帝というのは、日増しに威厳も薄れていく。帝は京の
親房が意図することは理解できた。しかし、一族の多くを
諦めずに
「幕府が内から揉めるのは、そう先のことではございませぬ。今、我らが討幕の
抗弁に、
「河内守、
「いえ、決してそのような事はございませぬ。時機がくれば、必ずや、我が楠木党の力をお見せ致しましょう」
そこは武士の面子である。
すると親房が
「今がそのときなのじゃ。
親房は立ち上がり、
二人を呼び止めようと、思わず身を乗り出す
「河内守、そちの考えはわからぬではない。ただ、
武士に同情的な
楠木
「河内守様、その節はありがとうございました」
振り向くとそこに居たのは、
「これは
「御舎弟殿には本当にお世話になりました」
「いえ、礼を言われるほどのことではありませぬ。では、これにて」
立ち上がった
「御出陣が決まったと聞きました。御武運をお祈り致します」
声をかけた
その日の夜のことである。急ぎ楠木館へ戻った楠木
ゆらゆらと揺れる
「ついに討幕の
「そうか……されど、よいではないか兄者。わしらはもうこどもではない。
兄の心情を察した正時は、強がってみせた。
しかし、満子は不安げな表情を見せる。
「戦は武士の習い。わたくしも武家に生まれ、武家に嫁ぎましたゆえよくわかっております。ただ、この子のためにも、決して
そう言って、侍女の
「おお、よく寝ておるな……うむ、約束じゃ」
そう言って顔を上げた
「二郎、三郎、すぐに一族一門を集めよ。軍議を開く」
「承知」
兄の
久子は、末子の正儀までもが挙兵の渦中にあることに、長く静かな溜息をつく。
「平穏な日々は長くは続かぬものですね」
「母上、我らが勝てば、また平穏な日々が戻ります。心配されるな」
そんな母の様子を見て、正儀が気遣った。
楠木
広間に座したのは楠木正家と、美木多
和泉国からは、南郡の和田党を率いる和田正武と、
「偽院宣を仰ぎ洛陽を我が物とせしむ足利尊氏を討伐の事、武家に仰せ遣わされ給う旨……」
一同を前にして
すると従兄弟の
「多聞の兄者、わしは戦が楽しみじゃ。やっと父上(正氏)の
幼い時から正儀らと兄弟にように育った
上座で腰を落としながら、正行が
「私情を挟めば戦には勝てん。そのようなことでは戦に連れて行くことはできぬぞ」
「す、すまぬ、多聞の兄者」
幼き時から兄として敬慕する
「さて……」
年長の従兄、正家が、腕を組みながら軍議を進める。
「……いかに兵を挙げるかじゃが」
「我らが北へ進むには、まず背後の
絵地図を広げた
神宮寺
「楠木の本軍としては、兵をいくら集められようか」
「ううむ、今は与力衆を含めて三百がやっとというところ」
続いて一門の和田正武と橋本正高も指を折る。
「和田党は七十といったところじゃ」
「橋本党も同じでござる」
これに、
「我らの兵を加えて五百といったところか。
「ないものは仕方ない。これでどのように攻めるかじゃ」
そう言って、絵地図から顔を上げた正時が、上目使いに皆の顔を見渡した。
すると、目が合った橋本
「不意を突くしかあるまい。静かに岩倉城に取り付き、一気に旗をあげる。
「そうじゃな。
閉じた扇で、正家が絵地図に書かれた岩倉城の周りをぐるりと示した。
正儀は一人、話に加わるでもなく、終始無言で絵地図を見つめていた。
「どうした、三郎(正儀)。わからぬことでもあるか」
兄、
「どうやって敵に籠城されぬよう岩倉城に取り付くか、考えておりました」
「ほう。それで何か考えがあるか」
興味深かそうに
「敵が我らを
にやりと笑った
「うむ。よい案じゃ。では、楠木本軍から
そう言いながら、
「……手薄になった岩倉城は、和田党と橋本党合わせて二百騎で西から攻め落としてもらう。さすれば、
一門衆の和田正武が大きく頷く。
「うむ、太郎殿(
「よし、それでは
「おう」
出陣の
自らの献策が兄、
八月十日、赤坂に朝露が降りたこの日、ついに楠木党は出陣を迎える。楠木本城の麓には、鎧の擦れる音を響かせて、およそ百騎が集まっていた。ここを出立して
楠木
すでに和田正武と橋本正高は、騎馬二百騎で、
これまで戦の面から楠木を支えてきた
正儀は初陣に武者震いしていた。
「虎(正儀)、緊張しておるのか」
その声に正儀が振り返ると、頭を丸めた美木多
「そ、その頭、どうしたのじゃ……」
「我ら兄弟、出陣に際して出家した。わしの法名は
丸めた頭に手をやって、
「同じく、
弟の
「われら兄弟、この世の未練をなくしてここに来た。これで、いつ死んでも、大丈夫じゃ」
そう言って
久子は
「皆の御武運をお祈りします」
久子らは武家の女として気丈夫に声を掛けた。
「では母上、行って参ります……皆の者、出陣じゃ」
棟梁、
正時が率いる
所は変わって京の都。将軍御所である
「何やら吉野方が戦の
「いかにも。それがしが
しかし、下座に
「今更、吉野の帝(後村上天皇)に何ができるといえましょう。今や吉野に従う武士といえば、
軽口を叩く顕氏に、
「
「あれは奥州勢を迎え撃とうと、天王寺に兵を集めた隙に、楠木に奪い返されたのじゃ。戦って負けたわけではない」
「されど、そうまでしても、天王寺で南軍に負けておるのじゃぞ」
北畠顕家の二度目の上洛を、四天王寺で迎え撃った顕氏であったが、善戦空しく敗北する。直後に、顕氏を助けて四天王寺から奥州軍を追い払ったのが
「ふん、奥州勢とは比べるまでもない。楠木など、ものの数ではないわ」
顕氏はむっとして吐き捨てた。
そんな顕氏の態度に、万事、鷹揚な尊氏でさえ眉をひそめる。
「十年も経っておるのじゃ。正成が嫡男も
「将軍、さほど戦の経験もない
慢心する顕氏に尊氏はふうっと小息を吐く。
「顕氏が河内・和泉の守護じゃ。それほどに自信があるなら、そなたに任せよう」
「ははっ、お任せあれ」
尊氏の
しかし、
「将軍、
細川家は、遠祖が足利家から別れた血縁のある家臣であり、一方、
「口を慎め、
これに
「これは失礼を致しました」
その軽く舐めた態度に、
そこに、
「失礼つかまつります。火急の知らせにございます」
「どうした。申してみよ」
「紀伊の
すると
「攻め落とされたとはどういうことじゃ。一日でか」
「はっ。紀見峠から南に侵攻した楠木を迎え撃つため、
「何と……楠木軍の数は。大将は誰じゃ」
「楠木は総勢五百騎。大将の名乗りを上げたのは、楠木正成が嫡男、楠木
興奮気味に一報を伝えた
「鮮やかな戦振りじゃ。やはり、楠木の子は楠木か、わはは」
一方、
「ではここは、我らも戦上手の
「わかっておるわ。たかが五百の
改めて尊氏に向き直した顕氏が、両方の拳を床に付ける。
「楠木討伐、この
尊氏と
さっそく細川顕氏は河内に入ると、配下の秋山四郎次郎に命じて、
八月二十四日の夜明け前。秋山四郎次郎が兵を率いて池尻城に入ってから、二日後のことである。
「えい、えい」
「おう」
「えい、えい」
「おう」
見張りの兵を残し、眠りについていた四郎次郎は、早くも明けようとする夏の朝空に響き渡った
「何事か……」
驚いて近習とともに陣屋の外に飛び出した。
明け方の白む空の下に、無数の、はためく旗が見える。菊水の紋様であった。
秋山勢が騒然としていると、
――びゅぅっ――
楠木の陣営からはいっせいに矢が射かけられた。これに、四郎次郎の顔はみるみる青くなる。
池尻城を取り囲む楠木軍では、正儀が額に手を当て、城の中を凝視していた。
「太郎兄者、城の中は浮足立っておるようじゃ」
ふふんと、正儀は得意気に鼻を鳴らした。
「よし、手筈通り、討ち入って敵を蹴散らせ」
楠木
秋山勢は慌てふためき、撤退しようと城の北へと向かうが、すでにそこには、楠木正時が兵を率いて待ち受けていた。
しかし、正時は兵を東西に割って中央を空ける。逃げようと必死で迫る敵を相手にしては、自分たちも犠牲を増やしてしまうからである。
道を開けた楠木軍を
直後、正時が手筈通り、騎馬隊を指揮してこれを追撃する。そして、背後から秋山勢を散々に討ち取った。
池尻城を脱出した秋山四郎次郎は、ほうほうの
わさわさと浮き足立つ敗走兵と、うなだれる四郎次郎を前に、顕氏が苦虫を噛み潰す。
「くそ、楠木の
顕氏は、
「殿、いかがなされますか」
近臣に問われると、奥歯を噛んで口を歪める。
「ううむ……この上は仕方がない。三条殿(足利
京、三条坊門の屋敷で知らせを受けた副将軍の足利
そして、近習の取次を無視して将軍、足利尊氏の執務の間に入る。そこには尊氏とともに、無愛想な表情で座る執事の
内心、しまったと思う
「騒々しい。どうしたのじゃ、
「楠木討伐で池尻城に入った守護代の秋山が、楠木の強襲を受けて天王寺の細川本陣へ退いた。
「
「戦が長引けば
むっとして応じる
「戦のことは、将軍(尊氏)が決めること。それがしは、執事として、ただ従うまでのことでござる」
しおらしく頭を下げた
そして、改めて尊氏に身体を向ける。
「兄上(尊氏)、
「無論じゃ。顕氏とて大事な家臣よ。畿内の武士を送ろう」
「すまぬ、兄上」
これまでの経緯をさして気にする素振りも見せず、尊氏は二つ返事で軍を送ることを決めた。
与力衆として、佐々木氏頼、赤松円心の嫡男、赤松
九月九日の朝、楠木
城への登り口にある館の前には、
「我らの戦はこれからが本番ぞ、いざ、敵を平らげて、主上(後村上天皇)を京へ御戻しするのじゃ」
「ううおぉ」
楠木党は、ここから
途中、和泉の和田党や橋本党が合流し、大和川を渡る頃には、総勢千騎となっていた。
大和川まで南下して楠木軍の動きを見張っていた守護代の一族、秋山彦六は、北進する楠木軍を目にすると、慌てて
その八尾城を前に
「三郎(正儀)、今度は幕府も本気で我らを討伐しにくるであろう。本当の戦はこれからだと思え」
そう言って、馬の
「承知。それがしも一軍を率い、
正儀が決意を口にすると、
「いや、三郎はわしの
兄の顔はいつになく険しいものであった。将来のために、正儀に戦の
それから数日、楠木軍は八尾城の秋山彦六と睨みあったまま動かなかった。
「太郎兄者(
「敵の動きを見極めておる。八尾城の救援に駆け付けたのは、城の北に陣を張った六角勢(佐々木氏頼)だけじゃ。幕府の主力はいまだ天王寺に布陣しておる。どうも、八尾城は
兄に言われて、正儀もはたと気がつく。
「もしや、東条……さもなくば吉野とか……」
「その通りじゃ。されど、いきなり吉野山はあり得ぬ。おそらく敵の狙いは東条。八尾城は二郎(正時)に任せ、我らは東条へ戻ろう。三郎、諸将に兵を引くように伝えるのじゃ」
「よし、太郎兄者、承知した」
そう言うと、正儀は本軍の諸将を回って、東条への撤退を伝えた。
さらに八尾城の南に陣を敷く正時の元に、河野辺正友を伴って馬を走らせる。そして、直接、正時に
「三郎、東条を守ってくれ」
「承知した」
本拠を心配する次兄に向かって、正儀は力強く頷いた。
正時と助氏の三百騎を残し、楠木本軍の七百騎は、東条を目指して撤退をはじめた。
九月十七日、四天王寺に布陣していた幕府軍の大将、細川顕氏が南進をはじめる。軍勢には、赤松
幕府軍は、昼過ぎに南河内への入り口である藤井寺に到着する。そこは赤坂から北へ四里ほど離れた場所であった。
寺の
「申し上げます。楠木軍は八尾に一部を残して、既に主力は東条へ引き返した模様でございます」
「我らの狙いを悟られたか。
顕氏は苦々しい表情を浮かべる。
「……よし、明日は敵の本軍との戦になるであろう。今のうちに、兵に休息をとらせるがよい。今日はここに陣を張る」
大将の
その藤井寺から半里ほど東南に
正儀は近習の津田武信、河野辺正友らとともに、馬の背を
「どうどう、頼むから鳴くなよ……」
そして、周囲の兵にも声をかける。
「……敵が、ゆっくりと休息しているところを狙うのじゃ。皆、今しばらく待つのじゃ。声を立ててはならんぞ」
楠木軍は、東条に向けて撤退していたが、途中で
細川顕氏が藤井寺で宿営を決めたと知った
楠木党の強みの一つは、諜報能力に長け、これに基づいて臨機応変に軍略を変えるところにある。
それから一刻も経った頃、楠木
「さあ、我らの力を見せてやろうぞ。皆の者、出陣じゃ」
「おう」
楠木軍はいっせいに菊水と
藤井寺で休息をとっていた幕府軍の兵が異変に気づく。
「何やら騒がしいな」
そう言って、
他の兵が森の西側から立ち上がった土煙を指差す。
「あれは何じゃ」
「こっちに、迫ってくるぞ」
「あ、あれは騎馬隊じゃ」
幕府軍の兵たちに衝撃が走った。
兵たちの騒ぎは、すぐに大将、細川顕氏の耳にも入る。
「何事か」
「て、敵じゃ。菊水の旗じゃ。楠木じゃ」
「
「それより、馬の
「間に合わんぞ」
兵たちの慌てる声が、次々に耳に入った。
「早く
顕氏は真っ青になって、周りの兵たちを
楠木の騎馬隊が歩みを緩めることはない。その勢いのまま、幕府軍の中に切り込んだ。
「我こそは、楠木正成が嫡男、楠木
正儀も近習の津田武信と河野辺正友を従えて、騎馬で突入する。
「正成が三男、楠木三郎正儀、ここにあり」
名乗りを上げて、果敢に刀を振り下ろした。
一方の細川顕氏は、慌てて
「殿、あの馬に乗ってお逃げくだされ」
近臣の一人が顕氏を逃がそうと、
そして自分は、
しかし、後の兵が続かない。結局、突入した近臣たちは、楠木の兵に取り囲まれて討ち取られる。
楠木の四倍の兵力を誇る幕府軍であった。だが、浮足立った兵たちは、体制を整える暇もなく、右往左往するばかり。大軍ではあるが、四国や中国から急遽集められた寄せ集めである。統制する者にも事欠いていた。結果、不利とみて戦線から離脱する兵が相次いだ。
楠木軍は楠木
従兄弟の
正儀は近習たちと大将首を探して必死に馬を駆った。
「三郎様(正儀)、あれを」
津田武信が指し示す先に、幕府軍百騎ばかりが北に敗走する姿が目に入った。
正儀が
「敵の総大将、細川顕氏は、きっとあの中じゃ」
「よし、我が父(美木多正氏)の
言うや否や、
「
二人に向けて、後ろから
総大将、細川顕氏の逃走を見て、細川、赤松からなる主力たちもじりじりと後退する。そしてついに幕府軍は、最初に本陣を敷いていた四天王寺に向けて敗走を始めた。
「敵は本陣へ撤退をはじめたぞ。今じゃ。追い打ちをかけよ」
楠木
しかし、楠木軍は四天王寺の手前で、八尾城から駆け付けた佐々木
だが、
その勢いで正儀らは、四天王寺の幕府本陣に迫る。幕府の諸将も、引くは武門の名折れと、引き返して楠木軍を防ぐが、その勢いは止まらない。前線に出張った幕府兵たちを突破して、四天王寺に雪崩れ込んだ。
これには、総大将の細川顕氏と与力の赤松
「もうよい。追うな。これ以上、深追いをするな」
「三郎、
「よし」
再び、正儀は拳を突き上げる。
「我らが勝利じゃ。えい、えい」
「おう」
「えい、えい」
「おお」
四天王寺には、木霊のように楠木兵たちの気勢が上がった。
惨敗を喫した細川顕氏は、武者姿のまま、京の将軍御所に姿を見せた。殿上の将軍、足利尊氏、副将軍の足利
「まったく頼りにならぬ、口先だけの御調子者よ。援軍を送ったにもかかわらず、たかが、千の兵に負けて逃げ帰ってくるとは」
さすがに
「もう、よい。下がるがよかろう」
「では、次はそれがしが参りましょう」
これに慌てたのは
「兄上(尊氏)、お待ちくだされ。執事が出陣するのは時期尚早じゃ。楠木如き、我らが出陣するまでもなく討たねば、幕府の面子に傷が付く。
「うむ、山名か。時氏の武勇を知らぬ者はおるまい。よかろう」
山名時氏は、尊氏・
勇猛果敢な時氏を出陣させれば、楠木を討ち取ったも、もはや同然である。出番がなくなった
尊氏は、さっそく細川顕氏に変えて時氏を
「楠木河内守(
奏上役の
「
若々しい帝の声が、
「ははっ、ありがたき幸せに存じます」
言葉は簡単なものである。それでも
「河内守、これは
そう言って
大納言の四条
しかし、そんな中でも
拝謁を終えた楠木
「河内守、
「
帝の母、阿野
「河内守、
「はっ。お誉めの言葉、恐縮にございまする」
「
「何と、
その返事に、
「何と欲のない者よ。ますます気に入りました」
「河内守は
「仰せの通りにございます」
話を振られた伊賀局は、広間の下で手を突いて答えた。
一瞬、困ったような表情を浮かべた
「宮中でも評判高き
答えを聞いて、
「何と真面目なもの言いよ。もちろん存じておるが、そちほどの武将であれば、妻は一人でなくともよかろう」
「されど、今は戦のことで頭が一杯でございます。それがしは器用ではありませぬゆえ、今は戦のことに集中しとうございます」
「左様か。わらわとて、戦の邪魔をしてまで縁談を薦めるつもりはありませぬ。されど、
「
そう答えるしかなかった。
広間から下がった
強張った顔で、伊賀局は深々と頭を下げる。
「河内守様、わたくしは出しゃばった真似をしたようです。申し訳ありませぬ」
「いや、
幕府は、山陰の勇、山名時氏を総大将として、畿内・中国・四国から一万騎の追討軍を編成し、
楠木
馬上の時氏が豪快に笑う。
「今さら、吉野方などものの数ではないわ。楠木の
足利の準一門と言われる山名氏だが、実は南朝を支える新田の一門筋である。だが、分家当初から新田本家の下を離れ、直接、源頼朝や
時氏が、足利尊氏・
その山名時氏が摂津に入ったとの知らせは、
緊迫する館の広間で、楠木
河内
「ううむ、山名は強敵じゃぞ。いかに戦うか……」
「
楠木正時が
「北から仕掛けるか、南から仕掛けるかじゃが」
「うむ、天王寺の本陣は油断しているであろうから、攻め処は北じゃ。されど、不意を突いて天王寺に攻め入れば、御堂を灰にしてしまうやもしれぬ。ここは定石通り南から攻めかかろうと思う」
謹厳実直な
「あっはっは……」
「……よいではないか。いずれにせよ総大将の山名時氏と戦わねばならんのじゃ。総大将の首さえ
そんな放胆な
その様子に、
「三郎(正儀)。また何か、よい策が浮かんだか」
「ううむ、
そう言ってから正儀は顔を上げる。
「……昔、菊池
進言に
「おお、三郎、それじゃ」
正時は感嘆し、
「うむ、それは、
兄たちに
家宰の恩地左近満一へ、
「左近、短刀を三百、いや五百、取りそろえることができようか」
「ううむ……心当たりを手当たり次第、当ってみましょう」
「頼んだぞ左近。三郎は郎党を指図して、総出で
「任せてくれ。太郎兄者(
二つ返事で正儀は頷いた。
突如、
「多聞の兄者(
「お前にか……ううむ……よし、
この度も正儀の知恵で、楠木軍の戦術が決した。
桐山にある楠木本城(上赤坂城)。正儀らは楠木館の者を総動員して長槍を作る。その中には女たちの姿もあった。
母の久子が正儀に、でき上がった
「三郎(正儀)、短刀の
「どれ……」
槍を受け取った正儀は、刃の背を地面に押し当てる。
「……母上、もっと強く縛らないと。これでは戦っている最中に刃が抜けてしまいます。短刀の
「三郎殿、承知しました。ところで、この長槍を何本作るのですか」
「左近(恩地満一)が短刀を何本用意できるかで変わりますが……五百は作りたいと思います」
「まあ、そんなに……では急がなくてはなりませんね。
満子は久子と侍女たちを連れ立って、
母たちを目で追った正儀は、続いて
「
一人だけ違ったものを作っていた。
「これじゃ」
そう言って正儀に見せたのは、短刀の代わりに、長刀を取り付けた長槍(長巻)であった。
「わしはこれを振り回して敵を切り倒してくれるわ」
何事にも豪快な、
十一月二十五日、北風が吹く寒い日であった。楠木
一方、幕府軍の総大将、山名時氏が率いる四千騎は、
楠木軍の千五百は夜中のうちに住吉に入る。そして、夜明け前に
住吉の山名時氏は、夜中でも臨戦態勢で楠木の強襲に備えていた。
夜が明けると同時に、本陣に
「何、楠木の騎馬隊が……自ら討たれに来たのか。うむ、願ってもない機会ぞ。返り討ちにしてくれよう。赤松
出陣を
正儀は馬を走らせながら、山名の騎馬隊の動きを注視していた。そして、自らの馬を兄、
「太郎兄者、土ぼこりが東と西から上がっておる。おそらく山名軍は我らを挟み込むつもりじゃ」
「三郎(正儀)、焦るな。我らは小勢じゃ。東西の騎馬は放っておけ。前からくる敵だけに集中せよ」
そう言って、
両軍は
双方もみ合う中で、楠木軍は騎馬隊で包み隠していた
長槍隊を率いる
「ここはお前に任せる」
「兄者はどうするのじゃ」
弟の質問には応じることなく、
『世中は
一人、小歌を唄いながら、呆気にとられる敵兵たちの前に立つ。そして、小脇に抱えた長刀付きの長槍を、鼻歌まじりに降り回し、あっという間に数騎を討ち取った。
続いて一族の荒法師、
そんな中、幕府軍の総大将、山名時氏の舎弟、山名
「山名の大将の一人を、討ち取ったぞ」
正時の声に、楠木の兵の気勢が上がった。
山名時氏の元に舎弟、兼義が討ち取られたとの知らせが届く。
「か、
弟の首を
―― びゅっ ――
鮮血がほとばしる。
山名兼義が討ち取られ、総大将の時氏までが長槍を喰らったことに、兵たちは恐れをなして
「
後を追って来た安田
だが、時氏の足から流れる血は止まらない。薄れいく意識の中で、時氏が声を張り上げる。
「引くな。この者どもを討て」
すると、山名の新手、騎馬兵三百余が、楠木の長槍隊を包み込んで殲滅せんと集まった。
正儀は、長兄の楠木
「
敵を見定めた正儀が、郎党たちに向けて声を張り上げた。
しばらくは、互いに退く者もない激戦が続く。だが、楠木の長槍は有効で、次第に山名の兵を押し戻した。
大怪我を負った山名時氏が、側近の安田
その山名勢を追って正儀が馬を走らせる。
「山名が撤退するぞ。追え。追え」
敵方の撤退を見て楠木軍は勢いづき、敗走する山名軍を追撃した。
一方、赤松円心の嫡男、赤松
和田党を指揮する和田正武は焦っていた。
「いかん、このままでは持ちこたえられぬ。討ち死に覚悟で突入するか、それともここは一旦撤退するか……」
馬上で思案する正武の横で、和田の郎党が指を差す。
「殿(正武)、あれをご覧あれ。あの土煙を」
郎党の指差す方角を見ると、東の
「あれは……山名の敗走が始まったのか。そうか、太郎殿(楠木
正武の顔に赤みが戻った。
一方、和田・橋本軍と対峙していた赤松軍には動揺が走っていた。敵地で孤立する事を恐れた赤松
これを見て、正武は反転攻勢に出る。和田・橋本軍は、赤松軍を追って北へ攻め上がった。
四天王寺の南に陣を構えていた細川軍の前を、一足早く
「何、山名が逃げて来ておるのか……ははは、我らが
これで過日の面目を取り戻せると、顕氏は笑みを浮かべた。
「殿、そのような場合ではありませぬぞ。あれを」
近臣が指さす方向に向けて、顕氏が手をかざす。
西から赤松軍一千騎が土ぼこりを上げて北へ向かっていくのが見えた。そして、南には敗走する山名の兵が迫っている。
「こ、これはまずいぞ。我らもただちに退散じゃ」
顕氏は兵たちに撤退を
その直後、四天王寺の本陣に、敗走する山名軍がなだれ込む。すぐ南には楠木軍が、菊水の旗をなびかせて迫って来ていた。
六角軍に続き、先に渡辺橋にたどり着いた赤松軍が、何とか橋を渡り切る。しかし、その後に渡辺橋にたどり着いた山名軍と細川軍は橋を渡ることができず立ち往生する。橋の上は、我先にと急ぐ兵たちで
馬を駆った顕氏自身は早々に渡辺橋を渡り切っていた。しかし、細川の歩兵らはそうはいかない。狼狽し、神崎へ向かおうとする者、敗走する山名軍に合流しようとする者らで混乱を
そこへ楠木の騎馬隊が迫ると、山名と細川の兵は大狂乱に
楠木軍を恐れて右往左往する山名軍の中に、ひと際、目立つ
「あの者が総大将の山名時氏に相違ない。
そう言って、正儀は二人とともに馬を駆り、長槍を片手に切り込んだ。
追い詰められた山名時氏は、介添の河村
そこに、正儀が騎馬で駆け込んで長槍を繰り出した。しかし、槍は、横から差し出された刀によって払われる。そこには、息を切らせて駆けつけた山名の郎党数人の姿があった。そして、時氏を
馬を止めて切り合っては不利と、正儀はそのまま時氏の前を駆け抜けた。武信と正友も同様に、馬を走らせながら長槍を降り下ろすが、敵も必死で防いだ。
いったん、その場を駆け抜けた正儀が、もう一度、取って返そうと振り返ると、時氏が河村
「待て、逃げるか」
渡辺橋の中に消えいく時氏の姿に、正儀は唇を噛み、くそっと
「太郎兄者(
正儀は悔しさを
「もうよい。敵は追い払った。我らは
「承知」
「我らの勝ちじゃ。者ども、
「おお」
「えい、えい」
「おお」
馬上の
渡辺橋に、しばらく楠木の
明け方から始まった戦は、気がつけば夕暮れ時になっていた。
戦いが終わっても、取り残された幕府軍の混乱は収拾せず、兵は次々に川の中に落ちていく。日が暮れて、凍てつく冬の川へ落ちた兵たちは、命の危機にさらされていた。
「わっはは。山名に付いたことが、そもそもお主たちの命運よ」
河岸から
「やめよ、
「す、すまぬ。多聞の兄者(
渡辺橋の上から溺れる敵兵たちを見つけた
「あの者どもを死なせては楠木の名折れじゃ。皆で助けよ」
「さ、こっちじゃ。早く暖まるがよい」
正時は川から上がった敵兵に暖を取らせた。
「怪我をしている者はくるがよい」
正儀は、津田武信、河野辺正友らとともに、自らの
「さあ、濡れた服を脱ぎ、この
そこへ
「虎(正儀)、着る物ならほれ、この通りまだまだあるぞ」
「おい、
すると、
「ほれ、あのあたりからじゃ。仏に手を合わせて持ってきた」
その方角に正儀が目を向けると、討死した兵たちが、裸になって、横たわっていた。
助けた敵兵たちの前に、
「故郷へ帰るがよい。せっかく助かった命じゃ。粗末にするでないぞ」
その言葉に、助けられた山名や細川の兵たちは
そんな中、一人の敵兵が
「楠木の
一人が申し出ると、他に楠木に加わりたいと申し出る兵が続く。
「わしもじゃ」
「楠木の
兵たちの思わぬ声に、
「その
そう言って、
この後も、いったん帰ろうとした者が、橋の途中で考え直して引き返すなど、多くの兵が楠木の配下に加わった。
真夜中にも関わらず、桐山の楠木本城(下赤坂城)は、
男たちの留守を預かっていた女たちは、勝利の一報に、手を取りあって喜ぶ。
「また、勝ちましたよ。父上は敗け知らずじゃのう」
楠木
方や母の久子は、勝利したことには喜びつつも、あまりにも絵に描いたような勝ち戦が続くことに、一抹の不安も覚えていた。
明朝、勝利の報は、
さっそく大納言の四条
「さすがは楠木正成の嫡男じゃ。
一睡もせずに報せを待っていた若い帝は、この上なく喜んだ。
知らせはすぐに女官たちの耳にも達する。
伊賀局は、正儀らが無事とわかると、ひとまず胸を
「本当に、ようございました」
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