第13話 伊賀局と弁内侍
風薫る頃の木々は、単調な夏の深緑とは違い、様々な色を纏っている。一見、見分けがつきにくい樹木でさえ、この時期ならば一目瞭然であった。
黄緑や浅緑を纏った木々が生い茂る南河内の山々を背に、三人の若者が馬を進めている。
先頭は、
「ここまでくればもうすぐじゃ。やはり故郷はよいのう」
そう言って身体いっぱいに息を吸い込んだのは、数えて十七歳となった
正儀の後にぴたりと馬を付ける二人は、何れも心許せる近習である。
その一人が正儀の隣に馬をせり上げる。
「三郎様、赤坂とは如何なるところでございますか」
「うむ、そうじゃな、津田荘は都へゆき交う人々で賑やかであったが、
「三郎様、久方ぶりの故郷。楽しみでございますな」
後ろから、もう一人の近習がほくほく顔で言葉を返した。
正儀は、津田範高の屋敷で二人の近習を持った。その二人を連れ立って、養い親の範高の元を離れ、故郷へ向かっていた。これまでも亡き父の法要などでときどき戻っている。しかし、この度の帰郷はこれまでとは違っていた。
三人が向かっているのは
この辺りは水銀や
その赤坂の地より半里西、小振りな
この赤坂や
この東条は、延元二年に幕府方(北朝側)の河内守護、細川
【注記:本作の東条は現代の旧東条村地区(佐備、龍泉、甘南備)に限定されるのではなく、東条川(千早川)流域、つまり、東と南は金剛山地に詰められ、西は西条川(石川上流)まで、北はその西城川に東条川が落合う辺りまでの広域を示していたとの説に基づいている】
楠木館の前で馬を降りた正儀に、ざっざっと草履の音を立てて男が歩み寄る。
「おお、
声の主は次兄の
「二郎兄者、ただいま戻りました。されど、その虎夜刃はお止めくだされ。わしには父が残してくれた三郎正儀の名があるのですぞ」
膨れっ面で、正儀が釘を刺した。
「わっはっは、虎夜刃は虎夜刃じゃ。虎夜刃丸を虎夜刃丸と言って何が悪い。されど、まあ、よかろう。今度からは三郎と呼ぶことにしよう」
兄弟の会話に、二人の近習は互いを目をやってにやついた。
「うぉっほん、お前たち、何が可笑しいのじゃ」
正儀のぶすっとした顔に、二人は、その場をしのぐように、あわてて正時の前に進み出る。
「津田範高が五男、
最初に挨拶した津田当麻武信は、範高の末子、
「二郎様、ご無沙汰をしております。又次郎にございます」
「おお、
「二人とも、三郎とともによう来てくれた。さ、館の中に入れ。皆、待ちかねておったぞ」
急かす正時に引きずられるようにして、三人は館の中に入った。
広間では、長兄の楠木太郎
「三郎、よう戻った。待っておったぞ」
前に座った正儀が、床に両の拳を突いて頭を下げる。
「太郎兄者、ただいま戻りましてございます」
続けて、後ろに控えた津田武信と河野辺正友も、それぞれ名乗りを上げて平伏した。
「うむ、ご苦労であった。楠木も郎党が増え、兵を
棟梁としての
「はっ。この三郎正儀、楠木家を再興し、吉野の朝廷を京にお戻しすべく、身を
「うむ、期待しておるぞ……」
末弟の緊張した顔に、
「……では、新たに家臣の列に加わった後ろの二人のために、当家の者を紹介しよう。まずは左手からじゃ」
「わしはもう顔合わせは済んだ。飛ばして従兄弟たちじゃ」
正時が次に送ると、隣の入道頭が声を上げる。
「それがしは
その顔には、正儀の従兄弟としては似つかわしくない
続いてその隣に座る、兄の
「わしは弟の和田新九郎正武じゃ。今朝、和泉からやってきた。よう、名を覚えておいてくだされ」
一門の和田党は、楠木家とは濃い
「次はわしか。わしは
「同じく弟の
遠慮なく正儀を虎と呼ぶ、この威勢のよい兄弟は、
「次に、当家を支える者たちじゃ」
「橋本九郎
叔父の美木多正氏亡き後、
次に、その
「さて、わしの番じゃな。わしは大塚
正成の叔母が、河内国石川を
続いて、正儀より二十くらい歳上の武士の順番となる。
「わしは
知的な雰囲気をかもし出す
最後に、その隣の男が頭を下げる。
「楠木の
先代
名乗りが途切れたところで
「これで皆、紹介は終わったな。今日ここには来ておらぬが、他にもたくさんの者たちがおる。楠木が軍として動かせるのは、ここ河内と隣国和泉の一門衆と与力衆じゃ。追々、左近(満一)から聞くがよい」
「ははっ」
津田武信と河野辺正友は、神妙に、声を合わせて頭を下げた。
楠木
和田正武の和田党と共に、一門の中で大きな力を持つ橋本党は、正成の時代に紀伊国
楠木一門の中でも和田と橋本の二家は別格で、楠木
一方、与力の中で力を持っていたのは、和泉国
【注記:
皆の挨拶が終わった頃合いを見計らって、下座に正儀ら兄弟の母、久子がすうっと顔を出す。
「
一同のもてなしのため、久子は侍女たちと一緒に、朝から
微笑む久子の隣に、若い女がつつましく控える。
「三郎殿、御無沙汰しております」
物柔らかに語りかけたのは
久子の前で、正儀は改めて頭を低くする。
「母上、それに
「三郎も達者で何よりです。よく戻ってきました」
そう言って、久子は少し目を
「三郎殿、母上様は、朝から大そうお待ちかねでございましたよ」
嫁の言葉に久子は、これっと手首を振って苦笑いする。
続けて近習の二人が頭を低くして挨拶すると、久子が安堵の表情を返す。
「
照れくさそうに頭に手をやる河野辺正友に目を細めながら、久子はもう一人にも視線を向ける。
「
久子の問いかけに津田
「
母と近習たちの話が続く中、正儀が満子にせっつく。
「ええ、奥に
甥に合うのはこの度が初めてである。正儀は多聞丸に会うのを楽しみに帰って来ていた。
「おお、よく寝ておるな。うむ、可愛い顔をしておる」
正儀は耳元で
それから一年、楠木正儀は近習の津田武信・河野辺正友とともに、兄たちを手伝って楠木党の強化を図りつつも、赤坂で平穏な日々を過ごした。
翌、正平二年(一三四七年)五月、長雨が幾重にも連なる山々の陵線を
大覚寺統の血統は、七年前に
先帝が理想とした天皇親政の
京の朝廷とは比べるまでもない小さな
天皇親政である吉野の朝廷では
左大臣の二条
「申し上げます。
そう言って、
吉野の知恵袋ともいえる北畠親房は、九年前、関東支配のために
建武の新政における親房は、必ずしも恵まれたものではない。急進的な先帝(後醍醐天皇)と漸進的な親房は、元来、反りが合うものではなかった。しかし、それだけではない。その
その後、吉野に逃れて朝廷を開いた先帝の元で、またも
しかし、先帝が
その北畠親房が、帝(後村上天皇)の前で、仰々しく
「伊勢では我が子、
北畠
親房の報告に若い帝は、
「では、幕府を討って、京の都へ
「御意。ただ、これまで楠木は、河内と和泉という要国の守護職にあるにもかかわらず、
親房の話に、
「河内守は正成の子ではありますが、戦といえば小競り合い程度。これまで戦らしい戦をしておりませぬ。一族の多くが討死したため、戦に臆病になっているのやも知れませぬな。我らがきっかけを与えてやることも肝要かと存じます」
そのもの言いに、同席の四条
しかし帝に、気にする素振りはみられない。
「楠木のことは、その
「はっ。承知つかまつりました」
部屋に入ると、
「や、これは失礼致しました」
慌てて、部屋から下がろうとする
「構いませぬ。
声をかけられ、
「はい、それが……」
「
「構いませぬ。
「
少しためらいを残したまま、
伊賀局と呼ばれる女は、
「それで、いかがでしたか」
「はい、北畠卿(親房)は、大和は元より伊勢、紀伊、そして河内・和泉において、朝廷(南朝)に
「では、わらわが京へ戻れる日も近うありますな」
こどものように、
「ただ挙兵に際し、楠木
「左様か、楠木がな……宮中の女たちは才覚ある若武者じゃと話しておったが……のう、伊賀局」
「はい、河内守様は、官女たちの間では、それは人気でございます。若くて美男、弓馬の腕前も随一とのこと。そして、田舎育ちでありながら、
「左様、麿からみても、立派な
「これまで戦に消極的だったのは、何か考えがあってのことやも知れませぬな。中納言殿、一度、河内守を呼んで、仔細を聞かれるよう、北畠卿にお話してみてはいかがか」
「はい、承知致しました」
この後も、
「これは
「これは、ありがたいご助言をいただき、恐れ入りまする。しかと
宮中随一の実力者である親房だが、中納言の
そして親房は、帰る
「女狐め、要らぬ口出しを……」
親房は、吐き捨てるように呟いた。
一方、持明院統の血統である朝廷(北朝)を押し立てる京の幕府。征夷大将軍の足利尊氏が、所用を済ませて将軍御所に戻ってくる。この頃、尊氏は二条高倉
増築後の白木の香り漂う執務所の中で、将軍を待ち受けていたのは、弟で副将軍の足利
尊氏は、難しそうに
「何じゃ、
「兄上、探しましたぞ。いったいどこへおいででございましたか」
「天竜寺で先帝の菩提を
「また、天竜寺へ……」
天竜寺は、後醍醐天皇の菩提を
「兄上は、まさか、先帝の
「わしは
尊氏は憮然とした表情を見せる。
「……わしにとってあのお方は特別なのじゃ。わしはあのお方の前に出ると、蛇に睨まれた
心ならずも反旗を
「天竜寺の
またかと、
「天竜寺の
弟の話に、尊氏は目を閉じて深く息を吐く。
「それより兄上、その先帝の、いや吉野の朝廷のことであるが、いつまでこのまま放置しておくのか。先帝の七回忌が済んで二年が経とうとしておる。そろそろ、幕府の威厳を示さねばならん」
「そう焦らなくとも、畿内は戦もない平穏な日々が続いているではないか」
「何も、戦は畿内だけで起きているのではないぞ。北畠親房が
「では、いったい、どうせよというのじゃ。吉野山へ攻め入り、南主(後村上天皇)に刃を向けよと申すのか」
尊氏の投げやりな言い方に、
「誰もそのようなことは言っておらぬ。ただ京の朝廷を仰いで幕府を開いておきながら、吉野の朝廷をそのままとしておくのは、征夷大将軍として虫がよすぎるというのじゃ」
尊氏と
この後も二人は、延々と噛み合わぬ話を続けた。
河内国赤坂にある楠木館の庭には、笛や
皆を楽しませているのは、猿楽の
座長の
元成の隣にはその妻で、正儀らの叔母である
「太郎殿(
「元成殿も、叔母上(晶子)も御元気そうで何よりじゃ」
上座に座って応じる
正儀ら兄弟の母、久子は、晶子の後ろに控える目元涼やかな双子の兄弟に目を細める。
「まあ、
「母上、もう観世丸、聞世丸ではありませぬ。二人は十五歳。元服を済ませたのですぞ」
二人より三つ年長の正儀が、小生意気に指摘した。
「伯母上(久子)、わたしは観世丸改め、服部三郎
そう言ってすぐに、身体を正儀に向けてねじる。
「……されど三郎兄者(正儀)、一座では
「わたしは聞世丸改め、服部四郎
観世と聞世の答えに、正儀は、ほうと目を丸くして納得する。
双子の兄弟は、今や小波多座の花形であった。
正時が、その二人を見比べながら感心する。
「しかし、いつ見てもそっくりじゃな」
「でもね、同じように育てても、違ってくるものなのですよ」
呆れる正時に、二人の母である晶子は可笑しそうに口元を緩めた。
父の元成は、二人を
「観世は芸の道一筋じゃ。方や聞世の軽業は観世以上じゃが、一座の裏の顔に興味があるようで……」
「裏の顔……」
すると、長兄の
「三郎、我らがこうしてあるのも、元成殿をはじめ一座の者たちが、我らの目となり耳となって敵方を探ってくれておるからじゃ。時には危ない橋も渡っていただいておる」
「太郎殿、そのことなのですが……」
ここぞとばかりに晶子が切り出す。
「……ひとつ頼みがございます。この聞世を召し抱えていただけませぬか」
「太郎兄者(
晶子の言葉に続けて、聞世が頭を下げた。
うぅんっと目をしばめかす
「こやつは芸事よりも武士に成りたいと言うのです。ちょうど小波多座も観世らのお陰で人気が出ましてな、興行のために楠木の仕事も十分にできなくなっているところです。であればいっそ、一座から
「それは、願ったりじゃが……聞世、それで本当によいのか」
「はい。それがしにとっては、一座でやっていた事を、楠木党に入ってやるだけです。どうか、お願いします」
神妙な顔で、聞世が頭を下げた。
「よし、決まりじゃ」
間髪置かず、勝手に正時が許すと、あははっと、誰とはなく笑いが漏れた。
これにつられて、
「まあ、よかろう。では叔母上、聞世を預かります。では改めて服部四郎成次、以後、よしなにな」
「太郎兄者、ありがとうございます」
「これ。今日からそなたは楠木の家臣じゃ。太郎殿のことは殿、二郎殿や三郎殿は、二郎様、三郎様じゃ」
晶子の小言に肩をすくめた聞世は、改めて居住まいを正す。
「殿、服部四郎成次めにございます。以後、よしなにお願い申し上げます」
この日をもって、聞世こと服部成次は、楠木党の一員となった。
六月、万緑の木々が、幾分か暑気を和らげる南河内の街道に、
女房らの筆頭は日野
一行の中には侍女を従えた
女房が数人も集まれば、他愛のない雑談に花が咲く。ついつい、足取りが遅くなりがちであった。
「
しっかり者の伊賀局が
その時である。
「ぎゃっ」
一行の先達をしていた警護の一人が、突然、仰向けになって倒れ、うめき声を上げた。
「きゃああ」
これを見て、女房らが悲鳴を上げた。倒れた武士の肩には、矢が突き刺さっていた。
一行はあっという間に、怪しげな男たち十人ばかりに囲まれる。いかにも
「この山賊風情がっ」
他の侍たちが一斉に刀を抜いた瞬間、一人が掌を射抜かれてその場に崩れ落ちた。
「きゃああ」
再び女房たちから悲鳴が上がった。
「手向かう者は容赦せぬ。男に用はない。大人しく立ち去るがよい」
しかし、気丈夫な伊賀局は、侍女の
「その
まだ、十七歳のうら若き娘である。だが、その
「あはは。我らはその
「執事とは……
「そういうことだ。観念するがよい。ところで、お主もなかなかの玉よのう。高く売れるぞ。はっはは」
「皆の者、女は全て生け
頭目の声で、山賊たちはいっせいに女たちに襲い掛かった。
伊賀局は
「ぎゃあ」
一人の山賊が前のめりに崩れる。その背には矢が立っていた。
「何だっ」
山賊の
その中から一騎が進み出る。楠木
武信が吐き捨てる。
「女を襲うとは卑怯な奴じゃ」
「ま、待て。わしらは幕府の執事、
山賊の
「何が
「その通りじゃ。わしは棟梁の楠木
「く、楠木の棟梁……」
だが、すぐに正儀が馬を走らせ、一人の山賊のゆく手を塞ぐ。
「当麻(武信)、そっちにも行ったぞ」
「お任せを……おっと、お前たち、どこへ行くのじゃ」
山の中に逃げ込もうとした山賊は、武信が馬を入れて遮った。
―― びゅん ――
騒ぎの隙をみて、逃げようとする
「今のはわざとじゃ。今一度逃げれば命はないぞ」
へたへたと座り込む山賊の
「お怪我はございませなんだか」
「
「左様、楠木
兄に
「三郎正儀にございます。
「あ、危ないところをありがとうございました。こちらは帝(後村上天皇)にお仕えする
「あなたが
そう言って、
その隣で正儀も伊賀局に向かって微笑む。
「ところで、あなた様は……何とも驚くほどに肝が座っておいででございましたな」
ぶっきらぼうなもの言いに、伊賀局は一瞬、眉を
「私は、
「伊賀局殿というと……
「左様にございます」
問いかけに、伊賀局は息を整えながら頷いた。
正儀は武信と顔を見合せ、互いに首を傾げると、兄たちの会話に割って入る。
「兄者、篠塚
「うむ、一騎当千の武者とはまさに伊賀守殿のこと。ただの一人で敵陣に討ち入って、十六貫の鉄棒を振り回し、二十人をあっという間に平らげたという。されど、その伊賀守殿も武運
「我が父のことを存じおいていただき、ありがとうございます」
在りし日の父を偲ぶように、伊賀局は憂いを帯びた表情で頭を下げた。
先帝(後醍醐天皇)が南朝を打ち立てた折り、京から遠い吉野山では官女にも事欠くありさまであった。そこで、公家だけでなく、南朝方の有力武将にも、
「娘が宮中に入っておると聞いておったが、伊賀守殿(重広)のような剛な武者の娘が、
しかし、正儀は女心がわからない。
「いや、兄者。やはり、その剛力な伊賀守殿の御血筋。先ほどの隙のない構え。おそらく山賊が近づけば一人や二人は
余計な言葉に、伊賀局は笑顔を引き
しかし正儀は、彼女の態度が理解できず、きょとんとした表情を返した。悪気があるわけではない。むしろ
そんな二人に
「
「め、滅相もございませぬ。お忙しい河内守様に、そのような事はさせられませぬ」
「遠慮は御無用でござる。この三郎(正儀)はそこまで忙しくはない。吉野山まで供をさせましょう」
供の相手が、
「ああ、御舎弟殿(正儀)……でございますか。では、まあ、遠慮なくお願い申します」
少し投げやりな伊賀局の言い方にも、正儀は少しも気にする素振りを見せない。
「それがしにお任せくだされ。では、参りましょうか」
正儀は馬を預け、武信ら十人ばかりの手勢を率いて、徒歩で一行を先達した。
その頃、幕府の重鎮、佐々木
平安貴族が住むような神殿造りに、対面所(対面儀礼を行う部屋)、
屋敷の主である道誉は、広間に大きな壺を
「それで、わしに何の用じゃ。手が離せぬから、用件は手短に」
「何が忙しいのじゃ。花を壺に入れているだけではないか。将軍の
客が憮然と言葉を返した。将軍家の執事、
二人の接点は
道誉が、
「で、何じゃ」
「入道殿(道誉)は
「堅苦しいことを……執事殿、本当に将軍が言うたのか」
鷹揚な足利尊氏らしくないと思った。
「本当でござるよ。確かに将軍がこのわしに、入道殿の元へ行くように命ぜられた。ただし、三条殿の進言があってこそじゃがな」
三条殿とは副将軍、足利
「やはり、あの御仁か。御舎弟殿(
妙法院の件とは、道誉が紅葉をひとさし折り、持ち帰ろうとしたことに
「いや、いや、それは本来、切腹でもおかしくないこと。それに
その言葉を受けて道誉が顔だけ振り返る。
「ほう、執事殿ともあろうお方が、まともな事を言う。そなた、女というのなら、
再び背中を見せて、
「たわけた事を。いったい誰がそんな噂を……」
「いやいや、実際、そなたは先の二条関白殿(二条兼基)の姫をさらって、子を産ませたではないか」
「さらったなど、言葉に気をつけられませい。道子は帝(
顔を向けた道誉に、
ふっと鼻を鳴らし、道誉が新たな生花にはさみを入れる。
「されど、人の奥方を手に入れたいがため、夫の
「濡れ衣じゃ。あれは
「まさか、入道殿が数々の噂を流しておるのではあるまいな。そもそも、
「だから何じゃ」
「
「ふん、埒(らち)もないことを」
つまらなそうに言葉を返す道誉であったが、
深緑の木々に覆われた高野街道は、日が傾き始めると一気に暑気も退いていく。木漏れ日が低く差し込む時分は、人々の往来にはもってこいであった。
正儀は津田武信とともに、
「あの、三郎様(正儀)……」
「……河内守様(楠木
「歳ですか。えっと、それがしの七つ上ですから二十五です」
「奥方様は
矢継ぎ早に質問を投げかけた。
「ええ、二年前に妻を迎え、一年前に子が生まれました。多聞丸といいましてな、これが可愛いの何の。それがしは、一日見ていても飽きませぬ」
「そう……お子まで
これを聞いて
しかし、先達する正儀は、二人の様子に気づかない。
「そうじゃ、お二人とも東条へ寄り道されますか。一夜の宿を寺に借りるくらいなら、我が館にお泊まりになればよい。
「いえ、結構でございます」
ぶすっと伊賀局が応じた。
「そうですか。可愛いのに……のう、当麻(武信)」
残念そうに、正儀は身体をねじって後ろの武信に顔を向けた。
「はっ……左様で」
武信はそう言いつつも、正儀一人がその場の空気を察していないことが可笑しく、必死に笑いをこらえていた。
一行は大和五条の栄山寺に宿を借りるべく高野街道を南に進んだ。だが、怪我を負った者たちも一緒では、思うように進めない。結局この日は、
翌朝、一行は紀伊橋本に出て、伊勢街道を東に進み、吉野山を目指した。
「あっ」
「いかがされた」
正儀が振り返えると、伊賀局が草履の鼻緒が切れてしゃがみ込んでいた。
「どれ、失礼つかまつる」
草履を手にした正儀は、自らの腰にかけた手拭いを破いて、あっという間に鼻緒を直した。
「ご面倒をおかけしました」
頭を下げる伊賀局に、正儀が白い歯を見せる。
「何、礼を言われるほどのこともありませぬ。それがしにできることがあれば、何なりと」
すると、侍女の
「
「いや、御曹子などと呼ばれる身分ではありませぬが……何か困ったことがあるのですか」
すると、伊賀局は、余計な事をと言わんばかりの顔を
「今、宮中の女房の間では、妖怪騒ぎが起きておりまして。どうしたものかと思案しております」
「妖怪……」
普段は勇ましい武信が顔を強張らせる。
一方、正儀は薄笑いを浮かべて身を乗り出す。
「本当に見たのですか。怖いと思うと木の枝が揺れただけでも化け物に見えるとも言いますが」
これに伊賀局は憮然とした表情をみせる。
「ならば、もう、結構でございます」
「あ、いえ、申し訳ござらん……そ、それで、どのような姿なのです。身の丈は。何か悪さをするのですか」
下手に出た正儀に、
「それが……見た者の話もさまざまで、要領を得ぬのです。ただ一様に、ただならぬものを見たと」
「ううむ、それだけでは、何とも助言できかねますな。幽霊の類いであれば、たぶん、相手の願いを叶えてやってから、
「はあ……お経でございますか」
場当たりな返答に、伊賀局は気のない返事を返した。
「今宵は満月です。しかと妖怪の姿を見定めたら、それがしに使いでも送ってください。すぐに妖怪退治に駆け付けましょうぞ。はっはっは……のう、当麻(武信)」
「えっ……はあ、まあ」
笑いながら正儀は、顔を強張らせる武信の肩を軽くぽんと叩いた。
その後、一行は無事に吉野山に入る。正儀は、皆を
夜半を過ぎた頃、伊賀局はあまりの寝苦しさに、涼を求めて奥御殿の庭に下りて夜空を見上げる。
「まあ、何と見事な月」
白く輝く満月が、
月を見て、正儀の言葉を思い出す。
「妖怪の姿をよく見ておけなどと、適当なお方。まさか、こんな明るい夜に、妖怪など出る事もありますまい」
月あかりの元、伊賀局は、赤松の向こうから吹き込む風を受けて、つい口づさむ。
「涼しさを、まつふく風に忘られて、
すると、松の下からがさごそと音がして、男の声が続く。
「君待つ我は、やぶ蚊に刺され、我慢しかねる」
目を見開いて、伊賀局が思わず
「
聞き覚えのある声に、伊賀局は目を凝らす。松の木の下には正儀が立っていた。
伊賀局は、鼓動を押えるように胸に手を当てる。
「三郎様(正儀)、どうしてここに……」
「いやあ、妖怪の正体を見てやろうと引き返して参りました」
「お連れの方は……」
「ああ、当麻(津田武信)ですね。怖がるので先に戻し、それがしのみ隠れておりました。そうしたら、あなたが出てこられたので、顔を出した次第です」
腕に止まった蚊を叩きながら、正儀が歩み寄った。
無邪気に笑うその顔を見て、
「このようなところを
「ただでは済まない……まあそうでしょうね。だいたい想像が付きます。夜が明ける前に抜け出します。決して、ご迷惑はかけませぬ」
頭を
「本当にもう……」
伊賀局が小息を吐いた。
しかし、妖怪話を適当にあしらったわけではなく、親身になって引き返してくれた正儀を少し見直していた。
「
「三郎様は歌がおわかりになるのですか」
「いや、わかりませぬが、何やら音の響きがよいようにございます」
歌のわからぬ者に
「もう一度、聞かせてくれませぬか」
親身に気遣ってくれる正儀の要望に、伊賀局は、仕方ないといった感じで、もう一度歌を詠む。
「涼しさをまつふく風に忘られて、
続いて歌の返しが聞こえる。
『唯よく心静かなれば、即ち身も凉し』
すぐさま伊賀局は隣の正儀を見るが、正儀は首を横に振る。
気付けば、明るい月には雲がかかり、あたりは闇に包まれていた。松の下が、ぼんやり青白く光っている。
普通の女であればとっくに腰を抜かすところであろう。しかし、伊賀局は正儀の背中に隠れるようにして、肩越しにその得体の知れないものを凝視していた。
目を凝らすと、だんだんと光が人の形になっていく。
いないと高を括っていた正儀も、思わず
「ほ、本当におったのか……」
そもそも正儀の目的は妖怪や幽霊を見ることではない。いないことを確かめて、伊賀局たちを安心させようと思っただけであった。
「そ、そなたは何者です」
ひるむことなく、伊賀局が問いかけた。
『麿は
妖怪かと思われたその者は、意外にも返事を返した。これに伊賀局は、正儀の背中にしがみ付いた。
正儀が伊賀局に代わって問いかける。
「貴殿はこの世の者とは思えぬが、死んでおられるのか」
『死んではおるが、
(やはり、成仏できていない霊魂の類か)
二人は顔を見合わせて納得する。
「
『あれは、都から吉野へ落ちる折のこと。
なるほどと正儀は頷く。
「そうか、その時の矢を受けて
「まあ、それは可哀想なことでございました。
正儀の脇に立ち直し、伊賀局は申し訳なさそうに頭を下げた。
落ち着きを取り戻した正儀が語りかける。
「して、こうしてこの世を
『麿は
毅然とした態度で伊賀局が口を挟む。
「
『ならば、麿が成仏しないのはなぜでございましょうや』
逆に問われて、伊賀局はうっと
見かねて正儀が提案する。
「貴殿のためだけに、
すると、
これを見て、伊賀局は正儀に言われた事を思い出す。
「お経は何がよろしいでしょうか」
『
「わかりました。では、私が明日、必ずや
伊賀局の約束に、その者はこくりと頷く。
『では、約束をお待ちしております』
そう言うと、
二人は、夢から目覚めたように我に返る。あたりは満月のあかりに照らされていた。空には月を隠す雲など見当たらない。
「夢を見ておったのか。それとも……」
正儀は松の木の下を凝視した。しかし、そこには庭石が一つあるだけであった。
「夢……」
そう小さく呟いた伊賀局は、茫然と正儀に目を合わせた。
「
「ええ、ありがとうございます。三郎様が
翌日、伊賀局は、
「何、
「ご存知なのでございますね」
伊賀局の問いかけに、
「存じております。私は
「あの者は、
「そうですか……では、さっそく
「
ただちに伊賀局は
翌日から
その後、藤原
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