第 1 話 元弘の変
眠りから覚めると、土ぼこりが
その縁側、誰かの腕の中で目を覚ました
母の名は
「母上、わしも手伝うというに、
砂を噛んだような顔をして駆け寄ってきたのは、虎夜刃丸の四つ歳上の兄、
「これ、持王丸。兄上の邪魔をしてはなりませんよ。兄上は、お前に構っていると、自分の仕事ができぬのじゃ」
久子は、目を覚ました虎夜刃丸をあやしながら、口を尖らす息子を
楠木館は、戦の
「わしは兄者の手伝いをしたいだけじゃ。さすれば兄者の仕事もはかどるであろう」
「そんなに手伝いがしたければ、母からお前に仕事を頼むとしましょう。ちょうど虎夜刃丸が目を覚ましたところ。歩けるようになってから、この子はどこに行くかわかりませぬ。遠くに行かさぬよう、見張っておいてくだされ」
「へん、母上に言うではなかった。虎の世話などできるか。わしは武士の子。戦の
持王丸は逃げるようにして庭の方へと駆けて行った。
その反対側に納屋がある。大きな建物だが館に比べるといかにも古く、粗末なものであった。中は薄暗く、壁の隙間から入り込む陽の光に照らされて、埃がちらちらと揺れている。
ここで刀と
「七郎叔父、父上はなぜ鎌倉と戦うのじゃ。鎌倉とは将軍がおる幕府のことであろう」
問いかけた相手は楠木七郎
ううんと唸り、
「よいか多聞丸、お前の父はかしこくも帝の
帝とは
「うん、あの時は驚いた。さぞ、父上も驚かれたであろうな」
「いや、三郎兄者は驚かなんだ。いずれ帝から声がかかることはわかっておったからじゃ。楠木にはいろんな伝手があるからな。ただ、予想より早過ぎた」
瞳をきらきらと輝かせ、多聞丸が
「父上は帝に会うたと申されておったが……」
「そうじゃ。帝は幕府の成敗を考えておられたが、幕府に気づかれてしまい、大和の
「あぁ、帝はどのようなお顔をされておられるのであろうか」
「さあ、そこまではわしも知らぬが……兄者は宮様から、幕府軍を討ち破る策をたずねられた」
かじりつくように多聞丸が身を乗り出す。
「父上はどのように答えたのじゃ」
「うむ、『残念ながら、我らの武力で幕府の大軍に勝つことはできませぬ』と答えた」
期待を先走らせていた多聞丸は、しゅんと肩を落とした。
その様子に
「続けて三郎兄者は言うた。『されど、人心が離れた幕府の衰運は、すでに見えております。ゆえに、この難局を生き延びることこそが最大の策とお
耳を傾ける多聞丸の目に、再び輝きが戻る。
「……そうして、ここ
「されど、京の朝廷も、鎌倉の幕府も国を治めているのであろう。なぜ帝は幕府を滅ぼそうとするのじゃ」
腑に落ちない多聞丸が、予てからの疑問をぶつけた。
対して
「ううむ、そうじゃな……源頼朝が
「それでどうなったのじゃ」
「朝廷は、時の帝の父君であらせられた
「北条とは酷いのう」
北条氏の言い分はさておき、多聞丸は素直に頷いた。
「そればかりではないぞ。帝に成る時も幕府が口を挟む次第じゃ。おかしいであろう、幕府は帝の臣下であるというに」
「されど七郎叔父、それだけ強い幕府に父上は勝てるのか。帝が勝てぬ相手に……父上はそんなにすごいのであろうか」
多聞丸は心細げに手元の
突如、納屋の扉が開き、まぶしい光が多聞丸の不安を包み込む。
「あっはは、そうじゃ、お前の父は幕府より強いのじゃ」
男が豪快に笑いながら中に入ってきた。虎夜刃丸ら兄弟の叔父、
口と
【注記:
二人の話を適当にあしらい、正氏は
「で、七郎、
「そうじゃな、ざっと三百というところかのう」
「そうか、まだまだ少ないのう」
頭を掻きながら、
「そういう五郎兄者の方はどうじゃ。兵は集まったのか」
「こちらも三百というところか。一族の和田や橋本だけではなく、
「それでも五百か。苦しいのう。されど、少ないとは言うても、
百姓たちを気遣う
「なあに、勝って倍にして恩を返してやればよい。兄者(正成)は、五百の兵が二カ月は
悪党とは、幕府の支配から外れ、領主に対して反抗的な武士団を指した。幕府からみれば面倒な存在である。
「うむ……されど、今は二十日分しかない。戦が始まった後も、紀伊から兵糧を集め、赤坂の砦に運び入れる必要があるぞ。されど、敵に囲まれた砦に運び込むのは難しい」
「よし、その役目はわしが引き受けよう。兄者(正成)にそう伝えておいてくれ」
「さすがは五郎兄者、頼りになるのう」
「おう、任せておけ」
胸をどんと叩いた正氏は、そこにあった
多聞丸は、せっかく十本単位で揃えた
翌日、久子は楠木
その目の前に壮大な砦が現れる。そこにかつての下赤坂の小山はない。麓の木々は伐採され、寒々としたその周りを、
「父上」
砦の上に着いた持王丸の大声に、振り向いた男が困り顔で頭を
「久子よ、このようなところへこどもらを連れて何事ぞ。もう直、戦が始まるのじゃぞ。女こどもがくるところではない」
「あら、もうすぐ戦が始まるから来たのですよ。いざ戦が始まれば、ここに入ることはできませぬ。女こどもは今のうちしか見ることができぬではありませぬか」
「まったくお前という奴は。嫁いできた折から何も変わらぬな」
溜息をつく正成だが、久子との会話を楽しんでいる風でもあった。
皆に気づいた美木多正氏が、腹を抱えて歩み寄る。
「あははは。さすがの兄者も
「何をいう。お前も、おかかがここに
正成の放言に、久子がぱあっと掌を合わせる。
「そうだ。五郎殿(正氏)も七郎殿(
すると、正氏が顔をひくつかせながら
「そう……わしは
「おいおい、五郎兄者、わしまで巻き込むな。まったく……」
そそくさとその場を離れる正氏を、
「五郎は久子が苦手なようじゃ。口では勝てぬからな」
「まあ、殿まで」
これから戦が始まるにもかかわらず笑い声を響かせる三人を、虎夜刃丸は母の腕の中から不思議そうに見つめた。
多聞丸と持王丸は、興味津々に砦の中を見て回っていた。
「こんなところに
ひょいと虎夜刃丸を抱き上げたのは
「
歩み寄ったのは
「これは左近殿、お久さしゅうござる。我が党は五十人を連れて参ったぞ。砦の口に待たせておる……」
そう言いながら、範高が浅黒い顔を、その手に抱いた虎夜刃丸に向ける。
「……されど、楠木ではこのような小さき子まで砦に入れるのか」
「いやいや、虎夜刃丸殿は予定外でござる。楠木には、それは元気のよい奥の方がおられますので。わしはいつも驚くことばかり……」
左近が視線を向けたその先を範高も目で追う。そこには気さくに兵に声をかける久子の姿があった。
「なるほど、楠木は
「ははは、
「ほう、案外、本当かもしれんな。ははは」
そう言うと、両手を伸ばして幼子を高く掲げる。すると、虎夜刃丸は我に返ったかのように周囲を見渡し、そのぷくんとした顔をこわばらせた。
興味津々で砦の中を見て回っていた多聞丸は、柵に沿って周りを走る男たちに目を止める。
「五郎叔父、あの者らは何をしておるのじゃ。先ほどから砦の周りをただ走っておるようにしか見えぬが……」
「ああ、あれか。あれは千度巡り(尽度巡り)というてな、兄者が命じて何度もこの砦を回らさせておるのじゃ」
何気に応じる正氏に、多聞丸が小首を傾げる。
「何だ……勝利の願かけか」
「いやいや、逃げるために足腰を鍛えておるのじゃ」
「何、逃げる……まだ戦ってもおらぬうちからか。そのようなことでは勝てぬではないか」
その顔に不満の色を滲ませる多聞丸に、正成が歩み寄る。
「多聞丸。戦で最も重要なことは何じゃと思う」
「え……それはもちろん、勝つことにございます」
「いや、最も重要なことは負けぬことじゃ……」
そう言って、いつになく厳しい顔を多聞丸に向ける。
「……無理をして勝つことより、負けぬ戦いを続けることじゃ。さすれば自ずと勝機も訪れる。負けぬためには兵を大事にすることじゃ。兵が居なくなれば、いかに良将といえども勝てはせぬ。危なくなれば兵を逃してやる。そしてまた兵を集めて戦を仕掛ける。よいか、多聞丸。これが楠木の戦じゃ。いずれ持王丸、
頭の片隅にもないその
「は、はい、わかりました。肝に銘じまする」
多聞丸にとって父は、河内を見下ろす金剛山のように大きな存在であった。
ちょうどそこに持王丸が元気よく駆け戻る。その後ろから、左近が虎夜刃丸の手を引いて現われた。
正成は虎夜刃丸を抱き上げると、
「虎夜刃丸、持王丸、多聞丸よ。
遠くを見るこの時の父の横顔を、虎夜刃丸は生涯忘れることはなかった。
鎌倉幕府は、楠木正成に赤坂砦を完成させる猶予を与えなかった。
虎夜刃丸らが砦を見物していた頃、帝が籠る笠置山は幕府の軍勢およそ一万に取り囲まれていた。さらに新たな軍勢も押し寄せる。正成は一刻も早く赤坂砦で挙兵し、幕府軍を引き付け、敵を分散させる必要があった。
この日、
目の前には、
館の前で久子はあらたまり、瞬きもせずに正成の顔を見つめる。
「殿、御武運をお祈り致します」
「うむ。館に火を掛けることは、そなたに対しても心苦しいことである。されど、幕府軍の陣屋になってもらっては困る」
すると、久子が白い歯を見せる。
「わかっております。それに、隠れる先が勝手知ったる
「赤坂城か……よし、今日からわしもそのように呼ぼう」
そう言いながら、正成は虎夜刃丸の頭に手をやった。
「殿、それがしは赤坂城に入れぬのが残念ですが、
白い髪を
その横では、小振りの鍬形の兜を被った楠木
「では
身軽な
その隣には妻の
二人の間に生まれた嫡男の
澄子とは対照的に、良子は終始笑顔を絶やさない。良子なりの気遣いであった。
美木多正氏は、少数の兵を引き連れて避難先の
途中の小高い丘で、振り返った持王丸が、呆然として立ち止まる。
「母上、館が燃えておる。煙があのように高く……」
「父上の戦が始まった合図じゃ。よく見ておくがよい」
久子の言葉に、皆それぞれの思いを胸に、飛竜のように立ち昇る煙に見入った。
すすり泣く侍女の声も聞こえる。楠木党に戻る場所はもうない。
虎夜刃丸も久子の背中越しに、じっと煙を見つめている。
「この子も、ちゃんとわかっているのかもしれませんね」
何気ない澄子の呟きに、久子は静かに頷いた。
「では……」
と、正氏が一行に振り返る。
「……
そう言うと、良子が抱く
日が暮れぬ間に、一行は観心寺に入った。
久子は背負っていた虎夜刃丸を降ろし、出迎えた僧侶に頭を下げる。
「院主様、
「何の、迷惑などと。
温かい笑みで一行を迎えたのは、観心寺
「拙僧は昔、若き頃の正成殿に、親への恩、
神妙な顔で
「私は殿を信じております。殿の決意は間違ってはおりませぬ。院主様、我が夫はすごいのですよ」
「まあ、
精一杯お道化る久子に、良子ら女たちも笑いで応じる。戦で夫たちが
笑い声が落ち着いたところで、龍覚がこどもらにも目をやる。
「多聞丸殿、持王丸殿、よう参られた」
「院主様、
しっかり者の多聞丸の挨拶に釣られ、持王丸も慌てて頭を下げた。
「こちらは虎夜刃丸殿ですな」
龍覚が
龍覚が、顔の
「何と、賢き子よ」
迫る苦難の前の、和やかなひと時であった。
赤坂城は、笠置山から第一皇子の
城には、楠木正成・
赤坂城を取り囲む幕府軍は日を追うごとに膨れていた。
「どうであった、七郎(
「ううむ、すっかり囲まれた。一万は下らぬ」
「そうか。じゃがこれで済みそうにないぞ。治郎が悪い知らせを持ってきた」
正成の言葉を受けて、
服部氏は
元成が率いる小波多座は、山の民、散所の民、山法師など怪しげな者たちの巣窟である。しかし、この者たちの諜報網と、大道芸で身に着けた軽業術は、正成にとって、世情を集めるのにありがたいものであった。
「七郎殿、笠置が落ちましたぞ。
元成の言葉に、
「何と、早々に笠置が……して帝は」
「落城前に抜けられたそうです。御無事に逃げおおせられればよいのですが……」
「兄者、どうする」
色めき立つ
「もし、
「わかっておるが、この赤坂城は半分しか出き上がってはおらぬ。笠置にはもう少し持ちこたえてもらいたかった」
「そうじゃな。されど七郎、半分とはいえ策はある。存分に、我ら楠木の力を見せようではないか」
「承知じゃ。とうに腹は括ってある」
すでに
「これで城とは片腹痛いわ。このような砦などすぐに落としてみせようぞ」
「せめて一日でも持ってもらわねば、
寄手の侍大将たちは、軽口を叩いて兵を率いた。
まずは、赤坂城の正面から先陣の一千が一気に進撃する。しかし、城からの反撃はない。兵たちは我先にと城の
「くそ、こんな事までさせやがって」
「おお、そうじゃ。奴らめ、ただではおかぬ」
口々に文句を言いながら、急峻な山肌に手をかけて城を目指す。そして、早い兵は、あと少しで
泥散る顔を上げた兵に向け、塀越しに恩地満一がひょいっと顔を覗かせる。
「よう、ここまでご苦労であったな」
「うっわっ」
不意のことに仰天した先兵が、足を踏み外し、急斜面を滑り落ちていった。
「よし、
満一の合図で、身を潜めていた楠木の兵がいっせいに塀の上に顔を覗かせた。すかさず、塀の上から矢先を下に向け、思いっきり弓の
「ぎゃあぁぁぁ……」
崖を登ることで両手が自由にならない幕府の兵たちは格好の的。抗う
そこに、城の側面に隠すように配置していた和田五郎
その頃、観心寺の近くの竹林の中で、十数人の身なり怪しき男たちが息を潜めていた。裸の上に直接、
「お前らよく聞け。狙うは楠木正成の妻子じゃ」
「
「
このあたりを根城とする
一同を見渡した頭目は、笹五郎の胸倉を
「もう一度言う。狙うは楠木正成の妻子じゃ。他の者は切って捨ててもよいが、正成の妻子は幕府の陣に連れて行けば金になる。必ず生け
「わ、判った……じゃが、観心寺にも僧兵がおるぞ」
これに頭目は、ちっと舌打ちをして、笹五郎を突き飛ばすように放つ。
「抜かりはない。今日は観心寺の門主ら高僧たちが高野山に上っておる。その護衛で僧兵たちも出払った。今日は手薄じゃ」
頭目はにやにやと笑った。
観心寺の
塀越しに男たちの声が聞こえる。
「
「笹五郎、まだそんなことを。裏切れば死あるのみぞ」
凄みのある声にびびったのか、あきらめたのか、返事は聞こえなくなった。
「楠木の女こどもは
仲間に命じる威圧的な声が響いた。
(これは一大事じゃ。僧兵も出払っているというに)
口に手を当てたまま、小僧は心の中で叫ぶと、とにかく
「賊十人が奥方様と多聞丸様を狙って押し寄せます。は、早う、お逃げに……」
血相を変えた小僧の声に、久子はすぐさま、立ち上がる。
「良子、澄子、早う子らを連れて。多聞丸と持王丸は侍女たちと共に行くのです。左近殿、皆を頼みます」
対応は早かった。小僧の話を聞き終わらぬうちに、てきぱきと周りを指図した。
しかし、お守り役の恩地左近は、おろおろと周りに目を向ける。
「い、いったい、どこへ逃げれば……」
「
小僧が指差す方へ、多聞丸と左近は皆を連れて駆け出した。
一人、
「は、母上、どこへ」
「虎が奥の間で寝ております。お前は気にせずに、さ、早う。
侍女の
「さ、参りましょう」
小さな窓だけのそこは薄暗い。目を凝らすと、使わなくなった
息子を隠し終えて一息ついたところで、自らの置かれた状況に、今度ははっと息を飲み込む。辺りを見回しても身を隠せそうなところは無い。賊はそこまで迫っている。あせる久子は板場の端を踏み外し、土間に転げ落ちた。
観心寺を脱出した多聞丸らと入れ替わるように、
「ちっ、逃げたか……されど、まだ間に合う。追え」
一味がいっせいに駆け出たところで、がたっと物音が響いた。
「奥方はどこへ逃げた。
頭目の問いかけに、女は怯えて顔を
「わ、わかりませぬ。知りませぬ」
「言わねば切るぞ」
どすの
「ほ、ほ、本当に知りませぬ」
「そうか」
そう言うと、頭目はゆっくりと刀を抜いた。慌てて背中を向けて表へと逃げる女の肩から、
―― びゅっ ――
血しぶきが散った。
「くそ、つまらん時をとってしもうた。まだ逃げ遅れた女こどもがおるやも知れん。この中を探せ」
頭目の所業に眉を
いまだ、久子は
一方、頭目も
まず左端の
板場の下の久子は、
すると、願いが通じたのか、頭目は
「
そう言って、
「いや、人の気配はある……隠れているのはわかっておるぞ……出て来なければ手当たり次第に刀を入れる」
頭目は、空気が震えるような野太い声を響かせた。
板場の下で息を殺していた久子は、掌の汗に気づく。すると、ずりずりと這って自ら男らの前に姿を見せた。
「ほう、そこに隠れておったか。歳の頃といい、その
「いかにも。楠木の内儀です。さ、お連れすればよい」
土間に降り、土ぼこりにまみれる久子と向かい合った頭目は、首を傾げる。
「そうまでしておいて、妙に潔いな……まだ、ここに誰か
「だ、誰も
「いったいどこに隠した」
「だから、
疑いを払拭しようと、久子は強い口調で言い返した。
その時である。声に反応したのか、右端の
一方、頭目は、笹五郎の態度にいらつく。
「おい、何をしておる」
「い、いや、何も」
何事も無かったかのように、笹五郎は手にした
だが、頭目は、その不自然な様子を見逃さない。
「笹五郎、まさかお前……」
そう言うと、板間に飛び上がり、笹五郎を押しのけて右端の
ちょうど、その時である。
「
山賊の一人が
「な、何じゃ」
驚いた頭目は刀の
直後に
「お主の仲間は、すでに皆、討ち取ったぞ。諦めて刀を捨てよ」
「死ねっ」
―― ぎんっ、ざっ ――
いとも
事が終わって茫然とする久子に、武者が声をかける。
「怪我はなかったか」
「あ、ありがとうございます」
久子は礼を言い終えると、小袖に付いた土汚れを払う間も惜しむように、すぐさま板間に上がり、まだ
「何と、そのようなところに
その武者は、久子に振る舞いに呆気にとられた。
「楠木殿の奥方殿と承った。こちらは
「
二の句を継げなくなった久子が、虎夜刃丸を抱いたまま、慌ててその場にひれ伏した。
若い僧兵がせわしなく続ける。
「あちらの御方は四条中納言様」
そこには
「その
「そして、わしは赤松
まだ十八の若者だが、
播磨の豪族、赤松円心(
寝ている虎夜刃丸を抱いたまま、久子は
「危なきところをお助けいただき、ありがとうございました。虎夜刃丸に何かあっては、夫、正成に合わす顔がありませなんだ」
「虎夜刃と申すか。
親王の破顔を見ることもなく、ひれ伏し続ける久子が、恐る恐る口を開く。
「あの……なぜ宮様(
「それは麿が答えて進ぜよう……」
応じたのは、四条
「……笠置が落ち、それぞれ散り散りとなって山を下りた。帝は他の
「奥方、ここは
言われて、久子は少し頭を上げ、何か言いたげな素振りを見せる。
「ん、何か
【注記:貴人の一人称として用いている『
「恐れ多きことなれど、宮様が
はっと気付いて、久子は言葉を飲み込んだ。
その様子に、
「宮といえば、
「い、いえ、滅相もありませぬ」
「いや、よい。もっともな疑問じゃ。
「そして、今では宮様に
ほほほと笑いながら四条
「……ところで、我らは正成に会わなければならん。ここで奥方殿に会うたのも観音様のお導きであろう。赤坂城へ入る手立てはあろうか」
「それであれば、正成が舎弟、美木多正氏が、尾根伝いに城の外から兵糧を運び入れておりまする。観心寺に参るよう使いを出します」
「うむ、奥方、助かったぞ」
皆の頭から忘れ去られていたのが、山賊の笹五郎。逃げる機会を失い、
これに、赤松
「まだ一人残っておったか。観念せよ」
「ま、待て、待ってくれ」
身を縮める笹五郎に向けて、
「赤松殿、お止めくだされ。その者は山賊の一味なれど、隠していた虎夜刃丸を見て見ぬふりをし、開けておいた
すると
「奥方殿に
ばつが悪そうに、笹五郎は久子にちょこんと頭を下げて立ち去った。
「虎夜刃丸が寝ていた
「はい、
「ふうむ、人の思い込みを逆手に取ろうということじゃな。
親王は久子の機転に舌を巻いた。
笠置山を落とした幕府は、落城寸前に脱出した帝(後醍醐天皇)の行方を懸命に探した。そして、道に迷って三日三晩、山中を
幕府は帝を、京の拠点である
この頃の
幕府は、先帝を拘束したことで、笠置山の鎮圧軍を赤坂城に差し向ける。結果、総勢五万の兵でこれを取り囲んだ。
総大将は、笠置山を落した北条一族の
「たわけが。あの城を見て
出鼻をくじかれた討伐軍は、今度は慎重に城を囲む。弓矢をもった兵を背に、先頭の兵たちが
「よいか、者ども。かぎ縄を
現場を指揮する大将の一人、金沢貞冬が声を上げた。
背後で弓を引く兵たちの援護を受け、先駆けがいっせいに塀によじ登る。だが、城からの反撃はない。
まさに、一番乗りの兵が塀を乗り越えようとした時であった。
「よし、今だ。切れ」
塀の内側から様子を
次の瞬間、塀をよじ登っていた幕府の兵は、天地が逆さになる。かぎ縄をかけていた塀が、塀ごと城の外へ崩れ落ちたからである。塀と見えていたのは、本当の塀の外側に巡らせた偽の
その塀とともに落ちた兵は、後に続こうと待ち構えていた下の兵を巻き添えにして、さらに下へと転がり落ちていった。続けて上から丸太が転がり落ち、
現場を指揮する金沢貞冬は、わなわなと肩を震わせ、目を吊り上げる。
「おのれ、卑怯な小細工ばかりしおって。されど、それも、もう尽きようぞ。続けて兵を送り一気に城を落せ」
貞冬の激に、幕府軍の二陣、三陣が崖をよじ登り、
その瞬間である。
「ぎゃ、熱」
「うお」
「目が、目が」
別の塀からは、それとは異なる
「な、なんじゃ……こ、これは、
「うげ、わしは顔に被ったぞ」
「おのれ、鎌倉武士を
糞尿を被り、頭に血を上らせる兵たちだが、次は一瞬で血の気が引く。上から大岩が転がってきたのだ。思わず身を
幕府軍は、あちらこちらで楠木軍に
幕府本陣の後方に、丸に
「兄者、今日の戦だけで、幕府軍は五百を超える兵がやられた。なんということじゃ」
「うむ、楠木というのは只者ではないな。どのような奴か、会うてみたいものよ」
「何を呑気な。城攻めに加われとの
「大丈夫、そのようなことにはならん。幕閣は、そろそろ力攻めを止めて頭を使う頃であろう」
二人は、棟梁の足利高氏と
足利氏は、天下第一の武勇の士と言われた、八幡太郎こと
亡き異母兄の代わりに当主となった高氏は、いかにも
「
目配せした相手は足利の
その
「
「
「ふむ、誰に対する面子じゃ。鎌倉の得宗殿(北条高時)か。何、気にすることはない。ここ一局の
そう言うと高氏はおもむろに立ち上がり、招集を受けていた本陣へと足を向けた。まったく心ここにあらずといった風である。
その態度に
その日の夕刻、観心寺に美木多正氏が駆け付けた。夜陰に紛れて、
「虎夜刃丸、次に会う時は、討幕が成った後かのう」
「宮様(
「
やや緊張した面持ちで、正氏は親王の一行に出立を
幕府軍の本陣では、総大将の
「敵は急ごしらえ。
「は、承知」
北条一門の金沢貞冬が頭を下げる。高氏も、周囲の顔色を
「城を囲んだ兵どもに命じよ。時折、城に向けて矢を放ち、敵を城に釘付けにせよ。城へ攻め込む必要はない。功を焦る必要はない。一人の敵も城の外に出さぬよう、我が
「承知しました。ではさっそく」
貞直の
「ちっ、楠木め……」
これ以上の恥辱は、名家に生まれた貞直には、許されないことであった。
幕府軍は赤坂城を囲み、城に矢を放って楠木の兵を釘付けにした。赤坂城からは、これに応じるように、時折、塀の上から矢を射返す。その中には観心寺から入った帝の第三皇子、
赤坂城にはすでに
本丸(主郭)の陣屋に座したままの
―― ばっびゅっ ――
「うぅ、宮様にしておくのはもったいない……」
楠木
その隣で正成も目を見開く。
「ほんに、
日本武尊とは古代の
「日本武尊か……されど、一人では荷が重い。正成は
「はっ。確か、第十代、
「ほう、よく存じておるのう。正成は武勇だけでなく、知識も豊富とみえる。幕府を倒し朝廷中心の
矢を射る手を止め、その瞳に熱い思いをたぎらせる。
「……そのためには、朝廷自身が武力を持つ必要がある。
「ははっ」
正成は
赤坂城の外では正成の舎弟、美木多正氏が、
「
「せっかく
二人は苦々しい顔で、遠くの赤坂城に目をやった。
それから半月後、楠木正成らが
「殿、もうすぐ兵糧が尽きまする。何より水がありませぬ。もってあと二日かと」
恩地満一が深刻な表情で訴えた。兵糧だけでなく、赤坂城に引かれた水源も、幕府に見つかって抑えられていた。
だが、窮状を聞いても、正成は特に慌てる素振りを見せない。
「そうか。皆、ここまでよく耐えてくれた。満一、兵糧は
「では殿、いよいよですな」
「うむ。
そう言うと、本丸(主郭)にある陣屋に向かった。
そこには
楠木正成は一礼をして、書状を
「なるほど、これらの者に
「
書状から顔を上げた
「それと、
「そ、それは……」
「いや、
心配する中納言の
「中納言は、ちと上品すぎる顔だちゆえ、雑兵は似合わぬのう。そうじゃ、頭を剃って僧侶となって逃げるがよかろう」
「坊主となるかはさておき、では後に五條で落ち合いましょう」
掌で自らの頭を
その夜、夕刻から吹きはじめた風が草木のざわめきを呼び起こし、遠くの音を遮った。
幕府軍は、家主を追い出した庄屋の屋敷を本陣としていた。中では総大将の
大将の一人、金沢貞冬が諸将を見渡す。
「兵糧攻めにして半月、赤坂城からの返し矢もなくなった。
高氏も同意見である。しかし、討幕の戦が片付いてしまうことを、少々残念に思っていた。
「失礼つかまつる……」
唐突に守備兵が駆け込んでくる。
「……城に火の手が上がりました。城のあちらこちらで建物が燃えている様子にございまする」
「なに、城が燃えていると」
そう言って、
「これはまさに……」
「うむ、城が燃えておる」
「観念したということであろう」
「では、自決ということか」
互いに目配せしながら、諸将が口々に呟いた。
「兵を集めてすぐに城へ向かえ。中がどのような状況か知らせよ」
追い立てるように、総大将の貞直が側近に命じた。
翌朝、足利高氏は、舎弟の
「兄者、あっけない幕切れであったな。されど、万を超える幕府の軍勢を、たかが五百でよく
感心する
城の中で情報を集めていた
「怪我をして城に残っていた者どもの話です。楠木正成は、宮様らとともに、火の手の上がる陣屋の中で、自決したとのことです」
「
「はい、当人と
「いや、やめておこう。どうせ猿芝居じゃ」
高氏は意外な言葉で応じた。
すると、
「兄者は、正成が死んでいないと思われるか」
「確証はない。じゃが、そのうちにわかるであろう」
その推察に、
麓に陣取る総大将、
「申し上げます。焼け落ちた陣屋の跡から楠木正成と
「そうか、これで鎌倉の得宗殿(北条高時)への面目が立つ。首は見せしめにさらしておけ」
貞直はどがっと
観心寺の薄暗い本堂の中に、
幼子にとっては苦痛の
「奥方様、大変でございます。赤坂城が……赤坂城が、落ちたとのことでございます」
その顔に生色はなかった。
一同に緊張が走る。幼い虎夜刃丸も大人たちの雰囲気を感じ取り、思わず母のひざにしがみ付いた。
「左近殿、本当ですか。それで、殿はいかに」
「それが……」
言いかけて、左近が口ごもる。その様に、
「言ってください」
強い口調の久子に、左近は重い口を開く。
昨夜、赤坂城内の陣屋や
一瞬、場が凍りつき、
そんな一同の様子に、多聞丸が立ち上がる。
「母上、叔母上。父上たちは死んではおりませぬぞ。父上は赤坂城から逃げる手筈を周到に考えておいででした。負けぬ戦をすると言っていた父上が、簡単に自害などするはずないではありませぬか」
まだこどもだと思っていた多聞丸の言葉に、久子は心を鎮める。
「そうですね。多聞丸の言う通りです。皆、殿からの知らせを待ちましょう」
「は、はい」
実の姉とも慕う久子の言葉に、澄子も涙を
翌日、観心寺の
寺では、山賊が乱入して以来、僧兵がものものしい警備を行い、見知らぬ者を追い払うようにしていた。その
その騒ぎに、
「こ、これは、七郎殿(楠木
「宮様方も兄者も大丈夫です。これも、
これに、龍覚は胸を撫で下ろす。
「さ、奥の方へ。女衆がさぞお喜びになるでしょう」
宿坊の上がり
「お、お前様、よくぞ御無事で」
「その
「お前様……」
そう繰り返すと、緊張の糸が切れたかのように、その場でへたり込んだ。
逆に
「おお、虎夜刃」
嬉しそうな虎夜刃丸を、両手で高く掲げてから下に降ろした。
その後から久子も、多聞丸らと一緒に駆け寄る。
「七郎殿、皆、御無事ですか」
問いかけに
「兄者も無事じゃ。宮様方も火を掛ける前に城を抜けられた」
「そうですか。でも、伝え聞く話では赤坂の城が落ち、楠木の者は自害したと……殿の首が
「それも兄者の
「そうですか……」
気丈に振る舞っていた久子も、その場にへなへなと座り込んだ。
「
「殿が我らにそのようなことを」
座ったまま、久子がぐるっと首を回して皆の反応を
すると、澄子が訴えるように視線を返す。
「
「ええ、私とて同じ思いです。七郎殿、喜んでお手伝いしましょう」
「やった、戦の手伝いができるぞ」
久子の発言に喜んだのは虎夜刃丸の次兄、持王丸であった。
しかし、恩地左近は釈然としない表情を浮かべる。
「七郎殿、城造りというても、赤坂城は幕府の手に落ち申した。
「今度の城は千早じゃ。金剛山の麓の
「まあ、あのようなところに……土地の者でも行かぬようなところに城を造って意味があるのですか」
良子が目を丸くした。
無理もなかった。千早とは里からずいぶんと離れた奥山である。
「あはは。
「わかりました。とにかく我らは殿を信じてお手伝いするだけです」
久子の言葉に澄子も強く頷く。一同に活気が戻っていた。
すると、良子が
「よし、では皆で頑張りましょうぞ」
座り込んでいた久子と澄子も立ち上がり、輪の中心となって、こどもたちと一緒に拳を突き上げる。
「おおぉ」
遅れて、虎夜刃丸も拳を上げる。
「おぉ」
その無邪気な姿が、これから始まる困難な戦を、ほんの束の間ではあるが、皆の頭から消し去った。
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