目弱児(まよわこ)のはなし 三
その晩、目弱児の住まいの外に、誰かの気配があらわれました。
足音のぬしは、入り口の
簾をたぐり、そこにいる男の匂いに顔をしかめます。
「……やはり、来よったな、」
するとその男――あかときの
「おう、そなたに会いにきた。中へ入れてくれ」
誰が入れるかと追い払いたいところですが、村びとたちにこの
目弱児は鼻を鳴らし、顎で王を招きました。
「そこに突っ立っていられてはわたしが困る。仕方ないゆえ許してやる」
「おう」
王は頷いて入ってきます。その瞬間、目弱児は杖で
「ずいぶん、熱のこもった出迎えだな」
「黙れ色狂い。妙な気を起こせばこの杖で
「それは恐ろしいな」
王は、頭を掻くようにして苦笑いをこぼしました。それからふと、居ずまいを正すような気配になります。
「そなた、おれとともに来ぬか。そなたを妻として
「……さような言い分、信じられるか、」
目弱児は、すぐさま言い返しました。苦いものを飲み下したように眉が寄ります。
しかし王は、否といらえながら近づきました。
「おれは、戯れも偽りも申しておらぬ。そなたが
「――……、」
目弱児はこわばりました。
あかときの王のことばには、力があります。
決して喚いているわけではないのに、聴く者の心の臓を掴みとるような重みがあるのです。思わず、惹き寄せられてしまいたくなります。
目弱児は半ばその力に引きずられながら、しかし唸るように首をふりました。
「わたしは、……ゆかぬ。やはりおまえの
「どうしてもか」
「どうしてもだ。おまえがわたしを好くのは、少しめずらかなものがあったから目を留めただけであろう。じきに飽きる」
きっと、あかときの王の周りには、かような女はいないでしょう。
王に盾つき、歯向かう女。
――そうとでも考えねば、わたしをうるわしいなどと言うはずがない……。
目弱児は、ひそかにこぶしを握りました。手がふるえ出さぬように、唇も噛みしめます。
王はそうした目弱児を眺めていたようですが、やがて長いため息をつきました。
「そなたは、どうにも頑なだな」
「そうだ。それが嫌ならば早う
吐き捨てるように、王そのものを拒みます。ですが王はさらに近づき、目弱児の頬へ手をすべらせました。
「――おまえ!」
とっさに杖をふりかぶります。王はそれを片手で受け止め、静かな声で告げました。
「嫌ではない、と言うたはずだ。この住まいもそなたのことも、おれはまことに、よいものだと思うている」
「――」
「だが、いまはこれ以上無理を強いまい。……半月のちだ」
「……なに?」
「半月で、おれは東を制してこの村に戻ってくる。そのときにもういちど、そなたの心を聴こう。それまでおれのことを考えていてくれ」
王はするりと目弱児の頬を撫で、きびすを返しました。思わずその背を呼び止めます。
「おい!」
「
王は色めいた笑いを含み、手をふったようでした。
そのまま、ひょうひょうとした風のごとく去ってゆきます。目弱児は喉がつかえたように立ち尽くし、そのうちに座り込みました。
――この、
言うだけ言って逃げるなど、なんと憎らしい男でしょう。目弱児は地を殴り、膝に顔をうずめました。
「……痴れ者が、」
ですがそう呟いた声音は、おのれのものとも思えぬほどに弱々しいものでした。
目弱児はどうしようもなく、甘い苦みに胸を潰されておりました。
その次の日です。
目弱児は、村おさの家の近くで木の実を採っていました。嵐でいろいろと蓄えが流れたので、村びとみなで
幸いなことに、
そのとき、目弱児の道をふさぐように誰かが立ちます。
「見ていたぞ。
「……その声は、
小稚というのは、この村の若者です。同じ歳ゆえにか、なにかと目弱児へ絡んでくるおのこでした。
目弱児は嘆息し、籠を抱えて追い払うしぐさをします。
「退け、いらぬ妨げだ」
ですが小稚は、ふふんとせせら笑いました。そこらの茂みから、おそらく
「いいのか、そんな口を利いて。おれが言いふらせば、おまえは村を
「おまえのような
目弱児は、相手を見下ろすようにして言い放ちました。
女系のこの村では、男は弱い立場にいます。ただ種を残すためだけに婿へ取られる者も多く、男たちには大した勤めもありません。
彼らは村をふらついたり、あるいは賭けごとに興じたりして、日がな一日過ごしていました。
少し志のある者は、早々に村を出ていってしまいます。そういうわけで、村には働かぬ男ばかりが居つくのでした。
小稚も、そうした男のひとりです。小稚は葡萄の皮が混じった唾を吐き、ふてぶてしく笑いました。
「
「……おまえは、何がしたいのだ。わたしを脅しでもするつもりか。だが生憎と、わたしがおまえに遣れるような財はないぞ」
目弱児が疎んじられ、ひどい暮らしをしているのは小稚も知っているはずです。ですからこの点においては、目弱児は屈する隙などないのでした。
しかし小稚は、くつくつと笑って近づいてきます。
「別に、財なんぞ要らん。おれはおまえを
「この
目弱児は顎を取られ、見えぬ目を細めました。小稚は怒り出すでもなく、皮肉めいて鼻を鳴らします。
「そう、おれは下種だよ。この村じゃ、下種でも食ってゆけるのだから。――耳を貸せ、」
貸すも貸さぬも、無理に顎ごと引き寄せられます。目弱児は手をふり上げようとしましたが、その前に小稚がささやきました。
「
葛児というのは、いつも小鳥のように群れているむすめたちのひとりです。
群れの中でも
ですが目弱児もしおらしいむすめではないので、泣き寝入りをしたことはありません。
いまも鼻に皺を寄せ、唾を吐きかけるようにいらえました。
「ご忠告痛み入る。――だがおまえこそ気をつけるのだな!」
そう告げた瞬間、小稚のむこうずねを蹴り飛ばします。目弱児は呻く小稚を突き放し、さっと身をひるがえしました。
「愚か者め、詰めが甘いわ! そこで死ぬまで座しておれ!」
目弱児はそれだけ言い捨て、籠を抱えて駆け出します。そうしながら、ひそかに舌を打ちました。
――あの、痴れ者め。おまえのせいで、いっそう村暮らしが難儀ではないか!
耳の奥に、からりと笑う男の声がよみがえります。
目弱児はその声をふり払うように、いつまでも駆け続けました。
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