潮織りの比売(ひめ) 十



 細蟹は、かつて夕生比売ゆうひめがお住まいだったお部屋を使うことになりました。

 夕生比売は、かがよひの亡くなったおかあさまです。夫君はかがよひのおとうさま、すなわち第十一代大君である闇彦祇くらひこのかみでいらっしゃいました。

 比売のお部屋は、正殿から少し南へ下ったところにあります。

 細蟹が以前、かがよひの妃として遇された寝所よりは遠く、しかしそれよりのちに移った、小夜比売さよひめのお部屋よりは近い場所です。

 黒海臣は、手ずから部屋の塵を払って言いました。


みこ様、ならびに細蟹様のこれからのお住まいです。のちほど女手を寄越しますが、それまでお休みください」

「ありがとうございます」


 細蟹は頭を下げながら、なにか耳にこころよい響きが渡ってくるのを感じました。

 どうやら、水のせせらぎのようです。細蟹が顔を上げると、察した黒海臣が教えてくれました。


「部屋の外に小川が流れているのです。川のおおもとは、宮のいま少し北にある泉より発しております」

「宮の中に、泉が?」

「はい。夕生比売様がまだ御子でおいでのころ、しばしばその泉のほとりで遊んでいらっしゃいました。……」


 そう語る黒海臣の声には、どこか寂しげなところがありました。

 おやと思いましたが、黒海臣はそれきりなにも言いません。そのまま部屋を出、糸縄にすがってきざはしを下りてゆきます。

 細蟹はそのあとを追いました。とたんにばばさまが声を荒げます。


「欠け星!」

「おばあさま、お案じにならないで。小川のようすを確かめたいだけですから」


 細蟹はばばさまにあかるを預け、きざはしを下りました。

 黒海臣は細蟹を待っていて、最後の段を下りるのを助けてくれます。川のせせらぎが近くなり、まるで澄んだ土鈴を鳴らしているようでした。

 黒海臣がひっそりと呟きます。


「婆どのは、実にお強い女人でいらっしゃいますな」


 細蟹は黒海臣に顔を向けました。彼は小川を向いたままらしく、静かに続けます。


「婆どのはつきもの間、私を機屋に踏み込ませなかったのです。まことならば、細蟹様の御産が済んですぐ伺うつもりでいました。しかし婆どのに手ひどくやられまして」


 そう語りながらも、黒海臣の口ぶりには恨みがましいところがありませんでした。むしろ、ばばさまのことを認めている風があります。

 細蟹は思わず笑みをこぼしました。


「ええ。おばあさまは、わたしが幼いころから強い方だったんです」

「そうでございましょうな」


 黒海臣はきまじめに頷きます。細蟹は頷き返し、やがて笑みを収めました。

 さらさらと水が流れます。細蟹はその響きへまぎれ込ませるようにして、声をかけました。


「……黒海臣さま、」

「はい」

「耀日祇さまは、まことにお隠れになったのですか? 正殿でなにがあったのですか?」

「……、」


 清い川風が、ふたりの間を渡りました。

 黒海臣はひと息黙し、それから細蟹に向き直ったようでした。


「婆どのは、耀日祇様についてどのように?」

「病で亡くなられたのだと教えてくれました。ですが、それ以上のことはなにも……」


 話すうちに、知らせを受けたときのことがよみがえります。あの底なしの、冷たい空虚。半身をもがれたような心もとなさ。

 細蟹は胸を押さえました。その横で黒海臣が息をつきます。


「たしかに、耀日様は病でいらっしゃいました。心を病み、そのために御身も損なわれたのです」

「では、ほんとうに……」

「ええ。耀日祇様はお隠れになりました。それゆえに、私どもはあかるのみこ様のご降誕を、心よりお待ち申し上げていたのですよ」

「――」

「ですから、どうぞ細蟹様もご自愛ください。細蟹様は、いまやこの国の国母でいらっしゃるのですから」


 黒海臣はそういたわり、正殿へ去ってゆきました。

 しかし細蟹は、しばらくその場から動くことができませんでした。ばばさまが呼びに来るまで、じっとかがよひのことを思っていました。



 国母といっても、それは名ばかりの位であるとやがて知れました。

 細蟹は、部屋からほとんど出られなくなったのです。周囲の宮びとたちが、そういうふうに手引きをしているようなのでした。


――あかるの世話もあるし、内へ籠もるのは、もともと苦ではないけれど。


 ですが、あえて閉じ込められるのはいい気がしません。裏になにか秘されているのではという疑いも起こります。


――たとえば、かがよひのことであるとか……。


 そう考えていたら、匙を落としてしまいました。腕に抱いたあかるが、不思議そうな声を上げます。


「ああ、ごめんなさいね、あかる。すぐにごはんを上げるわね」

「儂が洗うてこよう」


 ばばさまが、匙を拾って出てゆきます。細蟹は礼を述べ、代わりにおのれの指を重湯の椀へひたしました。

 それをあかるの口元に持ってゆくと、懸命に吸い始めます。その力強さに、細蟹はほのかな笑みをこぼしました。

 あかるは、生まれてつきとなっていました。

 月足らずで産まれた子ですが、そうとも思えぬほど健やかに育っています。近ごろはこうして食事ができるようにもなり、ますます大きくなるようでした。

 日ごと重くなる赤子のからだは、細蟹の心をなぐさめます。

 あかるが笑えば、まるで春風の立つような心地になるのです。あたたかな湯をもらったように、いとおしい気持ちがあふれてきます。朝夕生い立ってゆくさまが、まぶしくてたまりません。


――……けれど、これはつかの間の安らぎだわ。


 あかるが三つになれば、母と子は引き離されます。あかるはたかくらを継ぐ皇子となり、まつりごとの世へ飛び込んでゆくのです。

 細蟹にはとうていわからぬ、なにか恐ろしげな男たちの世へ。

 かがよひがむなしく屈した、ひとびとの大いなるうねりの中へ。


――そう。かがよひのことも、わたしはまだ、あきらめきれない……。


 この世を去ったというのならば、せめてその亡骸だけでも会いたいと思います。この手で触れてたしかめて、弔いたいのです。


――そうして、わたしは真実を知りたい。かがよひが死に、あかるが育ちゆくこの宮の真実を。


 細蟹はなにくわぬ顔で、戻ってきたばばさまから匙を受け取りました。

 あかるに重湯をやりながら、ひそかにばばさまの気配を探ります。ばばさまは小さく歌を唱えながら、糸くりに精を出していました。

 細蟹はその横で、きつくあかるを抱きしめます。

 かがよひの亡骸は、宮を北へのぼった星見の丘に葬られているそうです。この部屋からなら、正殿を通って訪ねてゆくことになるでしょう。


――正殿と星見の丘。わたしひとりで行けるかしら……。


 そう思い、すぐにその考えを打ち消しました。

 行けるかどうかではなく、行くのです。知りたいのならば、おのれの足で動かねばなりません。

 細蟹は唇を噛み、すがるようにあかるのぬくもりを求めました。


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