目弱児(まよわこ)のはなし 一



 風が、よわを呼んでいました。

 織り上げた布を水にさらしていた、小川のほとりです。目弱児は唇を引き結び、西の方角を仰ぎました。

 めしいの目弱児に、雨や雲のうつろいは見えません。しかし鼻は濃い水の匂いをとらえており、じきに降り出すだろうと察せられます。

 目弱児は杖をさばき、足早に川へ踏み込みました。途端に、近くで喋っていたむすめたちがぎょっとします。


「まあ、なにをするの!」

「布が乱れてしまうじゃない」

「あたしの布を台なしにするつもり?」


 同じ機織りの村のむすめたちは、いつも小鳥のように群れています。

 いまも目弱児をなじりながら、かしましく肩を寄せ合っているようでした。目弱児はさばさばと布を引き上げ、鋭く彼女らに言い返します。


烏滸おこめ、雨が来るぞ。それも嵐だ」

「……嵐?」

「匂いがする。ぷんと大風おおかぜの吹く匂いだ、おまえたちも帰らねば危ういぞ」


 目弱児は、すばやくおのれの織った布をまとめて歩き出しました。

 むすめたちが、うしろでひそひそと噂をします。


「……なにかしら、あのさま

「ねえ。匂いでものがわかるなんて、まるで餓えた狼みたい」

「これだから、盲のき遅れは――」


 村のむすめたちは、わざと目弱児へ聞かせるように話していました。

 ですが目弱児はふりむきもせず、地をすように歩んでゆきます。独り身の目弱児は、あのような愚かな騒ぎにかまける暇などないのでした。


――早く戻って、嵐に備える支度をせねば。


 そうでなければ、誰も目弱児を助けてなどくれません。目弱児は荒々しく草を踏み、村外れのおのれの家へ戻ってゆきました。

 目弱児は、よわい十九となるむすめです。

 親はいません。母は目弱児を産んだとき、目弱児の目が見えぬのを厭うて村を出てゆきました。

 父もまた、この村の者ではなかったようです。

 塩を売りにくる旅人のひとりであったらしく、目弱児の母に乞われて種だけを残しました。目弱児の母は、あまり身持ちの堅くない女でした。

 残された目弱児は、忌まれながらこの村に育ってきました。

 機織りをなりわいとするこの村で、目が見えぬ童など厄介者でしかありません。目弱児は疎んじられ、下働きとしてこづかれながら、どうにか生きてきたのです。

 わずかの情けと、憎しみと、村の外れにかまえた家と。

 それだけが、目弱児に与えられたすべてでした。目弱児はこのほんのわずかな営みを守るために、おのれの足で立ち続けているのです。

 与えられぬならば、おのれの手で築くまで。

 その一心で、家のことも機織りも、なにもかもこなせるように修練して。

 そうして独りで、きょうも冷えた家の真ん中に腰を下ろすのでした。家と呼ぶのも憚られるほど、粗末なものではありましたが。



 その夜半よわです。

 ごうごうと、風が叩きつけるように吹いていました。

 小さな目弱児の住まいなど、その力でひねり潰してしまいそうです。目弱児は寝床に臥し、その風の音をまんじりともせずに聴いていました。


――まだ。……まだとう。この家はそこまで弱くない。


 おのれと同じだ、と目弱児は思います。

 ぼろぼろに朽ちた醜い姿で、それでも決して、これまで崩れ落ちたことはありません。

 そのしぶとさは、必死でしがみつくように生きてきた目弱児自身と似ていました。


――足をしかと地につけていれば、風は過ぎる。生きられる。


 脇を伝い落ちた汗を、てのひらで拭います。そうしてまた風の音に耳を澄ましていた、そのときでした。


「――らし吹く、……夜の……にまに……、」


 まだ若そうな、男の声です。

 その声は、住まいのうしろにある森のほうから聞こえてきました。風に負けじと、がなり立てるように歌っています。

 目弱児は矢を射かけられたように跳ね起きました。


――まぼろしか? ……だが、わたしが聴き違えるはずもない。


 目が見えぬぶん、耳は他人ひとよりも冴えています。目弱児はもういちど耳を澄ませました。


「……山はしる、……のかみき――」


 やはり、まぼろしではありません。

 どこの誰やらわかりませんが、この大嵐の中、森で歌などそらんじている愚か者がいるのです。目弱児は舌打ちして立ち上がりました。


れ者が!」


 はおりをかぶり、杖と短刀を掴んで駆け出します。

 途端に風雨が目弱児を殴りつけ、呻き声が漏れました。しかしかまわず、風をかき分けて進みます。

 愚か者はそう遠くないところにいるようで、だんだん声が近づきました。


「雨、風、なるかみの、……のとどろく……」


 張りと力に満ち満ちた、男の声です。風雨など何ほどでもないと言わんばかりに、機嫌よく歌っています。

 このときのことは、のちのち、目弱児にとってたいそう不思議な瞬間となりました。

 よく考えてみれば、わざわざかような男を助けに走ることなどなかったのです。嵐の夜に森で歌うなぞ、とんでもなく気の触れた輩やもしれなかったのですから。

 ですがそのときの目弱児は、このようなことはひとつも考えていませんでした。ただおのずと足が動き、草をなぎ倒して叫んだのです。


「死ぬる気か、この痴れ者めが!」

「――おう?」


 にわかに飛び出した目弱児を、男は子鹿でも跳ねてきたような声で迎えました。そのけたさまに血がのぼります。

 目弱児はずかずかと歩み、男の頭を杖でぶちました。


「なにをたわけておるのかと、訊いている! かような夜に独りで出歩くなぞ、死にに来たとしか思えぬわ!」


 なんと狂ったことをするかと、憤りがあふれます。

 男はしばし呆然と目弱児の怒りを眺めていたようですが、やがて突然、からからと笑いだしました。目弱児はますます眉を吊り上げます。


「なにを笑うておる!」

「いや、そなたはずいぶんと人がいと思うてな。こんなどこの者とも知れぬ男を、いきなり叱りつけるとは」

「……それは、……!」


 目弱児は、はっとして口をつぐみました。

 言われてみれば、たしかにそのとおりなのです。

 目弱児とこの男は、なんの関わりもありません。そんな相手を叱りつけた目弱児のほうが、痴れ者と思われてもしようがないのです。

 しかしそうと認めてしまうのはくちおしく、目弱児は顔を逸らしました。


「……わたしの住まいが、この近くにあるのだ。だというのにかような場で死なれては、気味が悪い」

「おう? このように、里から離れていそうな場にか? そなた独りで?」

「そうだ。だったらどうした、おまえとて独りだろう」


 独り身を憐れまれるのは、目弱児のもっとも嫌うことです。村びとからは、しばしば嘲りまじりに情けをかけられることがありました。

 その思いを込めて見下ろせば、男はふと笑んだようです。


「それもそうだな。森の中で独りおったのだから、そなたの言うとおりだ」

「――、」


――なんだ、怒らぬのか。


 てっきり怒り出すだろうと思っていたので、小石にでも蹴つまずいた気持ちになります。目弱児は、おのれの言い方がよく他人ひとの気に障るのを承知していました。

 ですが男はからりと笑い、先を続けます。


「まあ実のところ、おれは連れとはぐれて迷うたのだがな。かような機もめったにないから、嬉しくて歌うておった」


 からからとここにいた所以ゆえんを明かされ、なにやら力が抜けてきました。

 目弱児は嘆息し、杖をつき直して歩き出します。男が不思議そうに問いかけました。


「いずこへゆくのだ?」

「帰る。ここまできたわたしが愚かであった」

「ならば里までないしてくれ。近いのだろう?」


 男の手が、目弱児のかぶるはおりを掴みます。目弱児は眉を寄せ、それから顎で村の方角を示しました。


「来い、痴れ者。わたしもそろそろ、身が冷えてきた」

「あか」

「……なに?」


 突然わけのわからぬことを呟かれ、ふりむきます。

 男は童のように笑い、目弱児にみずからの腕を差し出しました。どうやら、掴めということのようです。


「そなた、目が見えぬのだろう? 危ういではないか」

「いらん。独りで歩ける」

「違う、おれのほうが危ういのだ。そなたは見えぬゆえに慣れておろうが、おれは見えるゆえに足がもつれる。このあたりに来るのは初めてであるから」

「……おまえ、それでよく歌など歌うている気になれたな」


 どうにも、大らかすぎる男です。目弱児はもういちどため息をつき、襲の裾をつまみました。


「ここならば、掴んでいてもよい」

「おう、そうか」


 男は、ほがらかに裾を掴みます。それから目弱児を覗き込むように、耳元でささやきました。


「それとな、おれは痴れ者でも、おまえでもない。、だ。そなたには特別に、おれの名を教えておいてやろう」


 目弱児は息を吸い、杖で男のむこうずねを狙いました。

 ぶんと振り抜けば当たったらしく、その場で飛びはねるような呻きを上げます。目弱児は鼻を鳴らして言い放ちました。


「おまえなぞ、痴れ者でじゅうぶんだ。早う行くぞ」


 あとは、男を放り置いて歩き出します。

 目弱児はあわてて追ってくる気配を感じながら、いまいましく鼻に皺を寄せました。


――知らぬ男が、知らぬ女に名を明かす道理があるか。


 名を明かすのは、男が女をめとろうとするときにすることです。この男は、そうしたしきたりをきちんと踏まえているのでしょうか。

 これこそ痴れ者じみたふるまいだと、目弱児は唾を吐き捨てたくなりました。


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