目弱児(まよわこ)のはなし 一
風が、
織り上げた布を水にさらしていた、小川のほとりです。目弱児は唇を引き結び、西の方角を仰ぎました。
目弱児は杖をさばき、足早に川へ踏み込みました。途端に、近くで喋っていたむすめたちがぎょっとします。
「まあ、なにをするの!」
「布が乱れてしまうじゃない」
「あたしの布を台なしにするつもり?」
同じ機織りの村のむすめたちは、いつも小鳥のように群れています。
いまも目弱児をなじりながら、かしましく肩を寄せ合っているようでした。目弱児はさばさばと布を引き上げ、鋭く彼女らに言い返します。
「
「……嵐?」
「匂いがする。ぷんと
目弱児は、すばやくおのれの織った布をまとめて歩き出しました。
むすめたちが、うしろでひそひそと噂をします。
「……なにかしら、あの
「ねえ。匂いでものがわかるなんて、まるで餓えた狼みたい」
「これだから、盲の
村のむすめたちは、わざと目弱児へ聞かせるように話していました。
ですが目弱児はふりむきもせず、地を
――早く戻って、嵐に備える支度をせねば。
そうでなければ、誰も目弱児を助けてなどくれません。目弱児は荒々しく草を踏み、村外れのおのれの家へ戻ってゆきました。
目弱児は、
親はいません。母は目弱児を産んだとき、目弱児の目が見えぬのを厭うて村を出てゆきました。
父もまた、この村の者ではなかったようです。
塩を売りにくる旅人のひとりであったらしく、目弱児の母に乞われて種だけを残しました。目弱児の母は、あまり身持ちの堅くない女でした。
残された目弱児は、忌まれながらこの村に育ってきました。
機織りをなりわいとするこの村で、目が見えぬ童など厄介者でしかありません。目弱児は疎んじられ、下働きとしてこづかれながら、どうにか生きてきたのです。
わずかの情けと、憎しみと、村の外れにかまえた家と。
それだけが、目弱児に与えられたすべてでした。目弱児はこのほんのわずかな営みを守るために、おのれの足で立ち続けているのです。
与えられぬならば、おのれの手で築くまで。
その一心で、家のことも機織りも、なにもかもこなせるように修練して。
そうして独りで、きょうも冷えた家の真ん中に腰を下ろすのでした。家と呼ぶのも憚られるほど、粗末なものではありましたが。
その
ごうごうと、風が叩きつけるように吹いていました。
小さな目弱児の住まいなど、その力でひねり潰してしまいそうです。目弱児は寝床に臥し、その風の音をまんじりともせずに聴いていました。
――まだ。……まだ
おのれと同じだ、と目弱児は思います。
ぼろぼろに朽ちた醜い姿で、それでも決して、これまで崩れ落ちたことはありません。
そのしぶとさは、必死でしがみつくように生きてきた目弱児自身と似ていました。
――足をしかと地につけていれば、風は過ぎる。生きられる。
脇を伝い落ちた汗を、てのひらで拭います。そうしてまた風の音に耳を澄ましていた、そのときでした。
「――らし吹く、……夜の……にまに……、」
まだ若そうな、男の声です。
その声は、住まいのうしろにある森のほうから聞こえてきました。風に負けじと、がなり立てるように歌っています。
目弱児は矢を射かけられたように跳ね起きました。
――まぼろしか? ……だが、わたしが聴き違えるはずもない。
目が見えぬぶん、耳は
「……山はしる、……の
やはり、まぼろしではありません。
どこの誰やらわかりませんが、この大嵐の中、森で歌などそらんじている愚か者がいるのです。目弱児は舌打ちして立ち上がりました。
「
途端に風雨が目弱児を殴りつけ、呻き声が漏れました。しかしかまわず、風をかき分けて進みます。
愚か者はそう遠くないところにいるようで、だんだん声が近づきました。
「雨、風、なるかみの、……のとどろく……」
張りと力に満ち満ちた、男の声です。風雨など何ほどでもないと言わんばかりに、機嫌よく歌っています。
このときのことは、のちのち、目弱児にとってたいそう不思議な瞬間となりました。
よく考えてみれば、わざわざかような男を助けに走ることなどなかったのです。嵐の夜に森で歌うなぞ、とんでもなく気の触れた輩やもしれなかったのですから。
ですがそのときの目弱児は、このようなことはひとつも考えていませんでした。ただおのずと足が動き、草をなぎ倒して叫んだのです。
「死ぬる気か、この痴れ者めが!」
「――おう?」
にわかに飛び出した目弱児を、男は子鹿でも跳ねてきたような声で迎えました。その
目弱児はずかずかと歩み、男の頭を杖でぶちました。
「なにを
なんと狂ったことをするかと、憤りがあふれます。
男はしばし呆然と目弱児の怒りを眺めていたようですが、やがて突然、からからと笑いだしました。目弱児はますます眉を吊り上げます。
「なにを笑うておる!」
「いや、そなたはずいぶんと人が
「……それは、……!」
目弱児は、はっとして口をつぐみました。
言われてみれば、たしかにそのとおりなのです。
目弱児とこの男は、なんの関わりもありません。そんな相手を叱りつけた目弱児のほうが、痴れ者と思われてもしようがないのです。
しかしそうと認めてしまうのはくちおしく、目弱児は顔を逸らしました。
「……わたしの住まいが、この近くにあるのだ。だというのにかような場で死なれては、気味が悪い」
「おう? このように、里から離れていそうな場にか? そなた独りで?」
「そうだ。だったらどうした、おまえとて独りだろう」
独り身を憐れまれるのは、目弱児のもっとも嫌うことです。村びとからは、しばしば嘲りまじりに情けをかけられることがありました。
その思いを込めて見下ろせば、男はふと笑んだようです。
「それもそうだな。森の中で独りがなっておったのだから、そなたの言うとおりだ」
「――、」
――なんだ、怒らぬのか。
てっきり怒り出すだろうと思っていたので、小石にでも蹴つまずいた気持ちになります。目弱児は、おのれの言い方がよく
ですが男はからりと笑い、先を続けます。
「まあ実のところ、おれは連れとはぐれて迷うたのだがな。かような機もめったにないから、嬉しくて歌うておった」
からからとここにいた
目弱児は嘆息し、杖をつき直して歩き出します。男が不思議そうに問いかけました。
「いずこへゆくのだ?」
「帰る。ここまできたわたしが愚かであった」
「ならば里まで
男の手が、目弱児のかぶる
「来い、痴れ者。わたしもそろそろ、身が冷えてきた」
「あか」
「……なに?」
突然わけのわからぬことを呟かれ、ふりむきます。
男は童のように笑い、目弱児にみずからの腕を差し出しました。どうやら、掴めということのようです。
「そなた、目が見えぬのだろう? 危ういではないか」
「いらん。独りで歩ける」
「違う、おれのほうが危ういのだ。そなたは見えぬゆえに慣れておろうが、おれは見えるゆえに足がもつれる。このあたりに来るのは初めてであるから」
「……おまえ、それでよく歌など歌うている気になれたな」
どうにも、大らかすぎる男です。目弱児はもういちどため息をつき、襲の裾をつまみました。
「ここならば、掴んでいてもよい」
「おう、そうか」
男は、ほがらかに裾を掴みます。それから目弱児を覗き込むように、耳元でささやきました。
「それとな、おれは痴れ者でも、おまえでもない。あか、だ。そなたには特別に、おれの名を教えておいてやろう」
目弱児は息を吸い、杖で男のむこうずねを狙いました。
ぶんと振り抜けば当たったらしく、その場で飛びはねるような呻きを上げます。目弱児は鼻を鳴らして言い放ちました。
「おまえなぞ、痴れ者でじゅうぶんだ。早う行くぞ」
あとは、男を放り置いて歩き出します。
目弱児はあわてて追ってくる気配を感じながら、いまいましく鼻に皺を寄せました。
――知らぬ男が、知らぬ女に名を明かす道理があるか。
名を明かすのは、男が女を
これこそ痴れ者じみたふるまいだと、目弱児は唾を吐き捨てたくなりました。
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