黒海臣(くろみのおみ)のはなし 二



 その夜ふけ、黒海臣はとある里から馬を走らせておりました。

 都の北西に接する、小さな山里です。かつて異国とつくにから渡ってきた者たちが建てた里で、いまはその子孫うみのこらが住んでいます。

 彼らは浮屠ふとがみという不思議なこがねの像を祀り、髪も眉も剃り落としてひっそりと暮らしていました。顔立ちやふるまいも、常夜の者とはどことなく違っています。

 そのような異形めいた里の中に、しかしひとりの都びとがお隠れになっていました。

 黒海臣はその御方をこっそりと訪ねるために、夜ふけてから宮を抜け出したのです。

 そうして話が終わったいま、帰り道に馬を走らせているのでした。


――早く宮に戻らねば。


 みなが起き出す刻限になれば、宮にいなかったことが露見してしまいます。

 そして抜け出していた所以ゆえんが知られでもしたら、たいへんなこととなるに違いないのです。

 なぜならば黒海臣は、もしも大君をしいし奉るとしたら、などという話をしていたのですから。


――……闇彦祇様、


 黒海臣の額に、熱い汗が流れます。それはまなじりを伝い落ち、涙のように頬を濡らしてゆきました。

 大君である闇彦祇は、このひととせほど尋常でなくなっておいででした。

 いつも気を張りつめさせ、やせ衰えたお顔でぎょろぎょろとあたりを窺っていらっしゃいます。かと思えば突然に臣下を責め立て、女官にお手を上げようともなさいました。

 宮びとたちはかような闇彦祇を恐れ、なにか取り憑かれておしまいになったのではと噂をしておりました。

 ですが、黒海臣は知っています。

 闇彦祇は、宮びとたちのこうした目にこそ取り憑かれてしまったのです。あるいはご自分の成してきたとがに耐えかね、おかしくなっておいでなのです。

 黒海臣はそうした闇彦祇をお救いできぬかと思い、一方で国の行く末を案じました。

 国を安んじさせようとすれば、病んだ大君をたかくらにとどめ置くのはよくありません。なりゆき次第では、いまの大君を弑して新たな大君を立てることすら必要なのです。

 黒海臣はかような謀りごとを腹に抱えて、浮屠の山里へのぼったのでした。

 すなわち、亡きみこの奥方である、水輪刀自売みなわのとじめのお力を借りんとして。

 刀自売は突然やってきた黒海臣を、粗末なとまの荒れ小屋で迎えました。

 客をもてなす酒や果子くだもののたぐいもなく、うらぶれた風の音のみが、まだしもの華やぎです。

 そうした中で、刀自売は静かに、青々と剃り上げた御かしらを下げました。


「……久方ぶりでございますね」


 この御方はよひの王の奥方であり、闇彦祇と小夜比売のお母君でもあります。

 ですから黒海臣のこともよく知っているのですが、とても、出会いをなつかしむ口ぶりではありません。むしろ二度ふたたびと会いたくはなかったという、哀しげなものさえも滲んでいます。

 黒海臣はそれをわかっていながら、わからぬふりをして礼をしました。


「ご無沙汰をいたしました。刀自売様におかれましては、変わらずご健勝にあらせられましたか」

「さあ……。わたくしも、すっかりと老いさらばえましたから」


 ため息のような声音は、いまにも世をはかなんでしまいそうな御ありさまです。黒海臣は口を結び、わだかまるものを呑み込みました。


――この御方は、昔からかようなところがおありだった。


 つねにこの世のすべてを愁い、おのれの内へ内へ閉じこもってゆこうとされるのです。御子がたに対しても、進んで母であることを避けようとする気配がおありでした。

 それはつまり、御みずからしか見えていらっしゃらないということでもあります。

 それがためにか、夫君が若くして亡くなられたときも、あっさりとこの山里へお隠れになったのです。まだ幼い闇彦祇と小夜比売を残し、独り異国とつくにの神に救いを求めて。


――……刀自売様にお話をお持ちしたのは、間違いであっただろうか。


 ですが、いま味方となってくれそうな大君の一族といえば、刀自売のほかにいらっしゃいません。黒海臣はこぶしを握り、刀自売の前に叩頭み伏しました。


「闇彦祇様の御母上様、そしてかがよひのみこ様の祖母おおはは様であらせられる、刀自売様にお願いを申し上げます。どうか刀自売様のお力を、この国のためにお貸しいただけませぬか」

「……このうばに、何の無理を申されますか」


 すう、と刀自売が消え入りそうな息をつきます。黒海臣はかぶりを振りました。


「ご無理ではございませぬ。刀自売様は、れっきとした大君のお血筋につらなる御方。里をお降りになれば宮びとたちがひれ伏しましょう」

「里を、降りるなど……」


 刀自売はふいと顔を背けました。まるで聴きたくもないといったご様子です。

 黒海臣はかすかな苛立ちを抑え、腹に力を込めました。


「いま、宮ではご子息とお孫様が苦しんでおいでなのですよ。ともすれば、闇彦祇様を弑し奉らねばならぬかもしれませぬ。事はそれほどに差し迫っておるのです、それでも刀自売様はお気になられませぬか」


 黒海臣は、あえて剣を突きつけるような勢いで申し上げました。

 しかし、それでも刀自売は、風に垂れるしおれ草のごとく首を振ります。


「黒海臣どの。どうかこれ以上、わたくしの暮らしを乱さぬでください。……よひのみこさまがお隠れになったとき、わたくしと大君の一族とのつながりは絶えたのです。もはや、宮などというあのまがつ世へ戻る気はございません」

「刀自売様」

「わたくしは、この里で心静かに死にたいのです」

「……、」


 黒海臣は、なにかおのれの身から煙のようなものが抜けていく心地がしました。

 翁のように、背がするすると縮んでいってしまいそうです。されども黒海臣はその落胆をあらわにせず、わずかに目を伏せました。


「……承りました、こたびはひとまず退きましょう。また日を改めてお伺い申し上げます」

「さようですか」


 刀自売は、さほど気を惹かれぬ目をして頷きました。

 黒海臣が席を立っても、見送るでもありません。小屋のうしろへ置いたこがねの像に向き直り、異国のまじないを唱え始めます。

 そのまま、もう黒海臣をふりかえることはありませんでした。


――……かぼそい御方だ。


 黒海臣は馬を走らせ、そのように刀自売のお人柄を思い返します。

 刀自売はそのかぼそさゆえに、御みずからを見るゆとりしかないのでしょう。

 そして皮肉にも、そうしたかぼそさは御子である闇彦祇や、孫であるかがよひのみこにも確かに受け継がれているのです。


――だが、だからといって大君の血を捨て去るなどできぬ。刀自売様には、なんとか、かがよひの王様の後ろ盾となっていただかねば……。


 そうしなければ、いつか闇彦祇は、かがよひの王をお手にかけてしまうやもしれぬのです。

 近ごろの闇彦祇は、それほどまでに心を病んでおいでなのでした。みこを手にかけるその前に、黒海臣が闇彦祇を弑し奉らねばと考えるくらいには。


――闇彦祇様。……かがよひ様。


 黒海臣は目を細め、やがてあらわれてきた都の遠景を望みました。

 星満つる常夜の国をらしめ給う、大君のいます宮。黒海臣が守るべき、ただひとつの約束の地。

 このとき、大君たる闇彦祇は三十と五つの歳。

 そしてその御子であるかがよひの王は、十五の歳を迎えられておりました。


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