潮織りの比売(ひめ) 十八
あかるの立太子礼までは、またたく間に時が流れてゆきました。
儀式の段取りに稽古、用いる調度や身につける衣の仕度など、やることはたくさんあります。黒海臣を初めとして、宮びとたちは上を下への大騒ぎとなっておりました。
細蟹も及ばずながら、みなとともに働きました。黒海臣や駒を手伝い、女官たちをまとめます。
また、
あかるが身につける衣のすべてとは言わぬまでも、せめて帯や下着の紐くらいは織りたかったのです。帯や紐はたましいを結び込めるものですから、身の守りとして授けてやりたく思ったのでした。
機を織り、女官たちの訴えを聴き、黒海臣と思うところをぶつけ合う――。
細蟹はそのように目まぐるしい月日を過ごし、ある日、ばばさまを部屋に呼びました。
もはや、立太子礼は三日のちというときです。円座に座してばばさまと向かい合うと、たいそう久方ぶりのような気持ちになりました。
「久しいな」
ばばさまも同じ思いであったのか、そのようなことを口にします。細蟹は笑みを浮かべました。
「ええ、ほんとうに。長いこと、こうしておばあさまとお話することはなかった気がします」
「おまえは、もはやこの国を背負う国母じゃ。致し方なかろう」
「はい。思いがけず、身の丈にも合わぬ遠いところへ来てしまいました。……」
ひとりでに、昔をなつかしむ口ぶりとなります。
細蟹のまぶたの裏には、星明かりに照らされる桑畑が浮かんでいました。そこは、かがよひと出会った場です。哀しい水底の瞳をした、孤独な皇子との思い出です。
細蟹はそのおもかげを胸に抱きしめ、微笑しました。ばばさまが問いかけます。
「おまえ、いまのおのれを悔いておるのか」
「いいえ」
細蟹は細蟹だけの、いとしい夫君を見出しました。珠のごときわが子をこの手に授かりました。
それをどうして、悔いることなどがあるでしょう。
――わたしは幸せなむすめだった。おばあさまがいて、かがよひと結ばれて、あかるを産んで。
ですから細蟹は幸せなむすめのまま、まことの国母になるのです。この幸せを胸に沈めて、新たな道を歩むのです。
細蟹はそのひと足を踏み出すために、ばばさまへ呼びかけました。
「おばあさま、……いえ、
ばばさまが息をのみ、身をこわばらせる気配がします。
細蟹はばばさまの驚きをわかっていながら、あえてきびしく言い渡しました。
「
「――おまえ!」
ばばさまは席を蹴倒すように立ち上がり、細蟹の胸を掴みました。そのてのひらが震えています。ばばさまは細蟹を睨みつけるように唸りました。
「おまえ、……なにを
「ちがいます」
細蟹も鋭く言い返し、ばばさまの手を握りました。皺やたこで傷だらけの、大きな母の手。
その手を包み込むように、細蟹は続けます。
「目弱児どのには、宮の外からあかるの
「――、」
ばばさまはぎりりと歯を噛み、細蟹を掴む手に力を込めました。
しかし細蟹も、負けじと沈黙をつらぬきます。ばばさまは肩をすごませて細蟹を見すえ、やがて力を抜きました。
「……おまえは、愚かなむすめよの、」
「はい」
細蟹はすなおに頷きました。
いつもばばさまの言うことに従わず、ばばさまを案じさせ、いまはばばさまを断ち切ろうとする、愚かなむすめです。それでも退く気はないのだと、ばばさまも承知したようでした。
ばばさまは疲れ果てたように手を離し、膝をつきました。
「まったく、……大君の一族は厭わしい。つねに儂の心の臓を抉ってゆく……、」
「おばあさま?」
ばばさまの呟きに、思わず元の名で呼んでしまいます。
とたんに、ばばさまがぴしりと床を打ちました。
「その呼び方をするでない! もうおまえは国母なのじゃ、ならばそれ相応のふるまいをせよ」
「はい」
細蟹はあわてて背を正しました。
ばばさまはそんな細蟹の気配を見てとり、おのれも膝をそろえたようです。床に
「機織り
「……ええ。よろしく、頼みます」
これが母子としての決別なのだと、胸が突かれるように痛みます。ですが細蟹はその痛みをこらえ、国母らしく頷きました。
ばばさまもうむと頷き、席を立ちます。その途中でふりかえり、ため息の中へひそませるようにささやきました。
「死ぬるなよ」
「――」
ばばさまは、細蟹がいらえる暇もなく部屋を出ていってしまいます。
細蟹はぼうぜんとその姿を送り、やがて唇を噛みました。
――……ごめんなさい、おばあさま。
ほんとうは、あかるを外から守ってほしいなど、表向きの
細蟹は怖かったのです。これから先、国母として立つおのれをばばさまに見られることが。きっと大切なもの以外を切り捨てて歩んでゆく、心なき姿をさらすことが。
――だからそうなってしまう前に、わたしは逃げた……。
うつむき、こぶしを握って涙を耐えます。泣くことはならぬとおのれに言い聞かせても、押し寄せるものは細蟹の胸をふるわせました。
そうしているうちに、静かに部屋の戸が開かれます。細蟹が顔を上げるのと同時に、黒海臣が声をかけました。
「細蟹様」
細蟹は涙を飲み込み、息を吸って立ち上がります。
「はい、黒海臣さま」
「立太子礼の儀について、お確かめいただきたい点がございます。……また、
黒海臣は、うしろだけ声をひそませて告げました。そうして、細蟹へ手を差し伸べます。
細蟹は口を結び、その手におのれを預けました。
もはや逃れようもないところまで来たのだと、心を固めるそのつもりで。
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