黒海臣(くろみのおみ)のはなし 八
「下がれ黒海臣ッ! 幾度来ようともここは通さぬ!」
工房の前に、糸くり婆の怒声が響き渡ります。
と同時に杖がふり回され、黒海臣は辛くもそのこぶしを逃れました。しかし婆は少しも怯まず、叫びながらつぎつぎと杖を繰り出してきます。
「あの
「婆のお気持ちはわかります。しかし私とて――」
「黙れ奸臣ッ!」
ぐわんと杖が大きく唸り、さすがに避けてばかりもいられません。黒海臣は杖を受けとめ、婆へ言い聞かせるようにしました。
「私に対する罵りならば、いくらでもなさればよい。だが、ここは通らせてもらう」
「ッ、この――!」
婆がさらに振りかぶろうとした瞬間、工房の奥から悲鳴のような声が上がりました。
小さな、赤子の泣き声です。婆がその声に手をとめたので、黒海臣は杖をどけて踏み込みました。
「――黒海臣ッ!」
婆の声があとを追ってきます。中に入れば、
黒海臣はそれを聴き流しつつ、工房の奥に足を向けます。
――
いま、この工房には、お生まれになった
ですが黒海臣は、いままで男王にまみえることができませんでした。婆が工房の前をふさぎ、決して通さなかったからです。
それで三月の間手をこまねいていたのですが、きょうようやく、この妨げを乗り越えることができたのでした。
奥までゆくと、細蟹比売は身をこわばらせている様子です。黒海臣はその前に額ずきました。
「細蟹様、ご無沙汰しております。黒海臣にございます。覚えていらっしゃいますでしょうか」
名を告げると、細蟹比売は少し力を抜いたようでした。
「ええ、……もちろんです。耀日祇さまの……」
そう言いかけたとき、追いついた婆が割り込んできます。
「聞くな欠け星! この男は勝手に機屋へ踏み込んだ狼藉者じゃ、さような者と向き合わぬでよい!」
「婆どの、あまり声を荒げられますな。
御子は、細蟹比売に抱かれてぐずっていました。
その声を聞き、さすがの婆も黙り込みます。黒海臣は細蟹比売に向き直りました。
「このたびは細蟹様にお願いがあり、
「願い?」
細蟹比売が不思議そうに訊ねます。婆がすぐさま、横から口をはさみました。
「そのことは、ならぬと申したはずじゃ。幾度ここに来ようともまかりならぬ」
「婆どの。ご息女かわいさはお察しするが、これ以上とどめ置くことはできぬのです。いまやこの国唯一の
「まだ首の据わりも危うい赤子であるぞ。それを母と引き離し、祀り上げて
「いかようにも罵られるがよい。私はかまいませぬ」
「――愚者めがッ!」
工房の前でも、いちど為した争いです。息を荒げる婆の隣で、細蟹比売がおそるおそる口を開きました。
「黒海臣さま……。お願いというのは、あかるの身の振り方についてのことでしょうか」
「あかる?」
聞き慣れぬことばを問い返します。すると細蟹比売は、そこだけ胸を張るような声色となりました。
「この子の――耀日祇さまの御子の名です。きっとこの子は、ひとびとの心を明るませる
「……尊き王の御名を、お独りで決めてしまわれたのですか」
大君の御子がお生まれになったときは、一族や臣下たちにも
思わず呆れ返りますが、細蟹比売は恥じるふうもありません。しきたりを知らぬがゆえの強さでしょう。
いまは御名のことを諫めたいわけでもないので、黒海臣はひとまず譲ることにしました。
「まあ、それはいまの話の筋ではない。お願いというのは、たしかにそのあかるの
「はい」
途端に、細蟹比売は背を正したようでした。黒海臣も膝をそろえ、まことをもって比売に乞います。
「細蟹様、どうか王様を正殿にお返しください。王様は、耀日祇様のたったひとりの御子でいらっしゃる。しかるべき乳母をつけ、大君としてのふるまいを学び、ゆくゆくは
「――」
細蟹比売が、静かに息をつめました。
恐れていたことを突きつけられた、そういう様子です。それで黒海臣は、この比売が決して愚かなむすめではないと感じました。
――ものは知らぬが、大君の血の重さをわきまえぬ者ではないらしい。
が、そのわきまえと心とは、また別のものです。
細蟹比売はうつむくような衣ずれをさせ、それからすがるように黒海臣を呼びました。
「黒海臣さま……、」
その背を後押しするように、婆が声を荒げます。
「この男の言うことなど聴かぬでよい、欠け星。おまえこそが王の母じゃ、気をしかと持て」
そう口をはさまれると、なかなか話が進みません。黒海臣はかすかな苛立ちを隠し、婆に向かって説きました。
「婆どの。貴女もわかっておいででしょう、そのような我が通るものではないと。これは国の大事です」
「ふん、国とな。男という生きものはそればかりじゃ。そのうねりの中で女や子らがいかな目に遭おうとも、ふりむきもせぬ。外ばかり向いて大義じゃ使命じゃと騒ぎ立てる」
「さようなことはない。男は女や子らのことを思うがゆえに、国を動かし働くのです。あかるの王様のこととて同じ――」
そのとき、細蟹比売が苦しげに声を上げました。
「……やめてください」
思わず、そちらをふり向きます。
細蟹比売はお泣きになる
「わかりました、黒海臣さま。あかるは正殿にお渡しします」
「――欠け星!」
婆の叫びも、もはや気にならぬようです。細蟹比売は膝を乗り出し、まっすぐに続けました。
「その代わり、わたしも王とともに連れて行ってください。せめてこの子が乳を離れ、おのれで立ち、口をきけるようになる歳まで。どうか母として王のそばに添い、王にお仕えさせてください」
――……これは……、
そこで黒海臣は、知らず背が張りつめるのを感じました。
声を上げた細蟹比売は、急にひと回りもふた回りも身丈が伸びたかのようです。守られるだけの比売ではなく、闘う母として、はっしと地を踏みしめているような。
黒海臣はその姿に接し、眉をひそめました。
――この比売の奥底は、なんと激しい……。
おとなしいばかりのむすめであるなど、とんでもありません。
いま座している細蟹比売は、触れれば切れそうな
――かような
そう考え、黒海臣は慎重に問いかけました。
「もしも
「あかるを殺して、わたしも死にます」
すかさず、迷いのない答えが返りました。
婆は歯を噛み、目を見開くようにして黒海臣たちを窺っています。黒海臣はそれらの気配を
「
黒海臣は立ち上がり、細蟹比売に手を差し伸べました。
比売は察して、礼とともに身を預けてきます。そのうしろを婆が追いました。
「ならば儂も戻る。黒海臣よ、おまえには信が置けぬ」
「ええ、よきように」
そういらえつつ、正殿へ戻ります。黒海臣は先に立って歩みながら、ひそかに考えをめぐらしました。
――これは、なんとしても耀日祇様の死にざまを、隠しておいたほうがよい。
このひたむきな比売に死にざまを悟らせるのは、酷なことでしょう。
黒海臣を責めるだけならば、まだよいのです。しかしもし、耀日祇が細蟹比売の織った帯で、首を吊ろうとしたのだと知ってしまったら。
そうしたら黒海臣には、細蟹比売がどうなってしまうのか、見当もつきません。
狂うか、死ぬか、次なる耀日祇となり果てるか――。いずれにせよ、お生まれになった
――それだけは、断じて避けなければならぬ。
国を守るそのために。くらひこの
黒海臣は、この小さくも激しい比売の身をも、守ることに決めました。その中で、比売にいかな偽りと戒めを科すことになろうとも。
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