黒海臣(くろみのおみ)のはなし 九



 細蟹比売が、あかるのみことともに夕生比売ゆうひめの部屋へ入ったその晩です。

 黒海臣は剣を佩き、亡き耀日祇の寝所まで赴きました。

 その寝所の隣の部屋は、手勢の兵たちが固く見張りをしています。兵たちは黒海臣の気配を察し、ひざまずきました。

 黒海臣は彼らをねぎらい、問いかけます。


「大儀であるな。……中の者は変わりないか?」


 うしろだけ声をひそめると、兵のひとりが答えました。


「はい、日夜おとなしくしております」

「そうか。では通してもらえるか、きょうはこちらの者へ沙汰を告げに来たのだ」

「はっ」


 兵たちは深く畏まり、黒海臣に道を譲りました。

 黒海臣は静かに戸を開け、踏み込みます。しんと冷えた倉のごとき匂いがただよい、部屋の真ん中にいる女人がはっと気づいたようでした。


「……黒海臣さま?」


 細く、以前よりも痩せ枯れたような声色です。

 黒海臣は背を伸ばし、その女人の前に立ちました。


「真木どの。これまで謹慎を申しつけておったが、きょうは改めて貴女の沙汰を告げに参った」

「――はい、」


 真木は、覚悟を決めたといった様子で応じます。黒海臣は剣を抜き、ひたりと真木の首筋にあてがいました。


「その前にひとつ訊こう。――貴女は、私のためにいのちを捨てる気があるか?」


 すると、真木はきっぱりと頷きました。


「ございます。黒海臣さまの御ためならば、わたくしはこの身も骨もお捧げしましょう」


 真木のいらえには、ひとかけらの揺らぎもありません。まるで、透きとおった氷のような平らかさです。

 黒海臣は、ひそかに息をつきました。


――女人という生きものは、なにゆえに、こうもたやすく変わってゆける……。


 細蟹比売が、急に母の顔となったように。真木がいま、恐れなくおのれの心を語るように。

 黒海臣からすれば、女人という生きものは、強く伸びゆく若木のごとく思われます。風雨を浴びてしおたれたように見えていても、枝葉は決して屈することがないのです。

 いまとて、うすく剣をめり込ませても、真木の居ずまいは変わりません。黒海臣はおののきそうになる指を握り、その首から剣を下ろしました。


「……ならば、真木どの。貴女は私の間諜うかみとして働きなさい。それが貴女の償いだ」

「黒海臣さま」


 真木の声が、ぱっと喜びに満ちあふれます。

 礼とともに足元へ額ずこうとするので、黒海臣はさりげなくうしろへ下がりました。


「礼などよい。それよりもこれからは厳しくなる。たとえ潜り込んだ先で仕損じても、私は助けることができぬゆえ」

「はい、覚悟しております。妾はかまいませぬ」

「ならば、あとは私の腹心である駒に聴け。貴女には駒の代わりをしてもらう」


 はい、と答える声を背に、黒海臣は部屋を出ました。控えていた兵たちを見返ることもなく、足早に正殿へ向かいます。


――……これでよい。駒の代わりが入り用であったのだから。


 駒には、いま阿多臣あたのおみの動きを探りに行かせています。

 ですが駒がそばにいないと行き届かぬことも多く、彼を手元に戻したいと思っていたのです。真木は駒の代わりとして、阿多臣の元へ行かせるつもりでした。


――ゆえに、これは温情なさけではない。決して、真木の罪だけを軽くしようとするものでは。


 そのように考えながら、おそらく心の奥底では、それは言い訳なのだとわかっていました。

 黒海臣は、敵方の間諜や耀日祇を殺したようには、真木を害せなかったのです。害せなかったこのことこそが、まことなる気持ちなのでした。

 しかし黒海臣は、そこから目を背けて歩み続けます。

 おのれの中に芽ばえてきたこの気持ちを、黒海臣は、いまだ認めることができずにいました。



 まだ冷たい風が吹く、二月きさらぎの夜ふけです。

 黒海臣は、ひとびとが寝静まった宮の中をめぐっていました。

 正殿を下り、大君の寝所や妃たちの部屋、大君の血族たちが住まう舘。

 また儀礼を執り行う礼宮いやのみやや、臣下たちの勤める官庁が集まった星堂院、技人らがいる工房のあたりまで。

 黒海臣は、宮のすみずみに足を伸ばして回りました。

 そのようにして、いずこかに異変がないかをたしかめるのです。

 毎夜とはゆかぬまでも、黒海臣はこうして暇をつくっては、みずからの足で宮の守りをあらためているのでした。


――今夜も、変わったことはないか。


 ひととおり調べが済み、正殿へ戻ります。北に向かって歩みながら、黒海臣はすでに翌日あくるひのまつりごとについて考えておりました。


――北の都築つき代国しろのくにが、雪にやられていると報せが上がってきていたな。西の早稲わせの里は、里おさの代替わりが近かったか。近海の鹿野津かのつは変わらず、荒れた賊どもが多い……。


 宮の外のみならず、内でもことごとに訴えは上がってきます。そのどれを先に捌き、あるいは後回しにし、みなの心をなだめるのか――。

 かようなことばかり考えるうちに、いつしか正殿の近くへ帰ってきていました。

 黒海臣は、回廊のところで足を止めます。まつりごとのことを考えると、どっと疲れとため息が出てくるのでした。


――国を治めるのは、並たいていのことではない。


 その難しさは、かつて闇彦祇や耀日祇のおそばにいて知っていたはずでした。

 ですが、隣で見聞きするのとおのれで為すのとは、やはりまったく異なります。いまさらながらに、大君たちの苦しみが身に染みてくるようでした。


――だが、私は狂わぬ。あかるのみこ様が、ただしく大君の座に就かれるまで。それまでは、なんとしてでも生きねばならぬ。


 黒海臣は、新たなる大君が立たれるまでのつなぎに過ぎません。

 しかし、つなぎはつなぎなりに、しかるべきときまで生をまっとうせねばならぬのです。いかな罪を重ねようとも、誰を手にかけたとしても。


――そして、あかるの王様が即位されたそのあとは……。


 そこまで考えを致していた、そのときでした。

 宮に張りめぐらされた引板のひとつが、ふいにからからと鳴り響きました。


「――誰かっ!」


 黒海臣はとっさに叫び、懐の短刀を投げつけます。そのまま隙なく二刀めをかまえ、声を張り上げました。


「動くでないぞ。動けば害意ありとして汝を斬る――」

「黒海臣さま!」


 そこで、澄んだせせらぎのような声が割り込みます。

 黒海臣はあっけにとられながら、その声のぬしに近づきました。


「……細蟹様? なにゆえかような場所に……それもこの夜ふけに出歩かれるなど、危のうございます」


 細蟹比売はつき前に、文目あやひとの工房から夕生比売ゆうひめの部屋へ移ってきました。

 それからというもの、部屋を出てきたためしがありません。黒海臣が指図をして、比売を出さぬように言いつけていたからでした。


――であるというのに、この比売は……。


 女官たちの隙をついたか、それとも言いくるめたものか。いずれかはわかりませんが、まったく侮れぬむすめです。

 黒海臣が眉をひそめれば、細蟹比売は察したようにうな垂れました。


「勝手をして申し訳ございません。ですが、どうしても知りたくて……」

「なにをですか」


 そう訊ねると、細蟹比売は迷いなくいらえを返しました。


「耀日祇さまの死の真実を。そしてその亡骸のある場所を」

「……、」


――これは、いかんな。


 黒海臣は、めずらしく唾でも吐きたい気持ちになります。

 そのいまいましさは、細蟹比売のひたむきさを軽く見ていた、おのれに対するものでした。

 ここで黒海臣が耀日祇の死にざまをあざむけば、比売はいっそう疑わしく思うでしょう。

 そうなれば、つぎは部屋どころか、宮まで飛び出して真実を探ろうとするやもしれません。


――あるいは宮の中を荒らされて、阿多臣あたのおみにでも近づかれては困る。


 細蟹比売を部屋に籠めていたのは、阿多臣のようなやからから、比売を守るためでもあります。もしもよこしまな謀りごとでも吹き込まれたら、みこともども国を乱すわざわいとなりかねないのです。


――そのようなさまに陥るよりは、私が悪人となるほうがよい。


 黒海臣はそう心に決め、細蟹比売におのれの上衣うわぎを差し出しました。


「お寒うございましょう。男のむさ苦しい衣ですが、ないよりはよろしいかと存じます」

「ありがとう存じます」


 細蟹比売がまとうのを待ち、歩き出します。すると不思議そうに名を呼ばれ、黒海臣はふりかえりました。


「ついておいでください。細蟹様がこうまで求められるのならば、真実をお見せいたします」

「――、」


 細蟹比売は息をのみ、急いであとに従ってきます。

 黒海臣はその足音を聞きながら、いかほどまでこの比売を傷つければよいかと考えをめぐらしました。



 その後、黒海臣たちは星見の丘へ登りました。

 丘は風が鋭く吹きつけ、たおやかな比売の身を折れ惑わせようとします。黒海臣は細蟹比売に手を貸し、枯れ草の中へ導きました。

 比売はかがみ込み、朽ちた骨のかけらに触ります。


「……かがよひ?」


 その声は、凍りついたしずくのごとく草むらに落ちました。

 細蟹比売は肩をふるわせ、すぐさま狂ったようにあたりをかき回し始めます。耀日祇の名を幾度も呟き、くずおれるように泣きむせびました。


「かがよひ……、かがよひ、ッ……!」


 しゃくり上げる細蟹比売は、聞いているこちらまでもが身を引きちぎられるような痛々しさです。

 しかし黒海臣は、決して比売の心に寄り添いませんでした。静かに細蟹比売の前に立ち、比売が崩れかけた剣へ気づくまで待っていました。


「……これは……、」


 やがて細蟹比売が触れたのは、亡き耀日祇が佩びていらした剣です。

 耀日祇が父母を弑し、宮びとたちを斬りつけた血濡れの剣。そして最期には、黒海臣が耀日祇をつらぬいた謀反の剣。

 黒海臣はその剣と比売を見下ろし、冷ややかに告げました。


「剣でございます。耀日祇様を弑したてまつった、わたくしの剣ですよ」


 細蟹比売が、はっとして身を引きます。黒海臣はあえて比売を追いつめるように、一歩踏み出して語りました。


「黒海臣、さま……」

「耀日祇様はお心を病まれました。その病はもはや、如何いかんともしがたいところまで来ていたのです」


 耀日祇がまつりごとを為せなくなっていったこと。宮びとの間で退位をせまる声が高まったこと。ゆえにこそ黒海臣が、耀日祇を弑したこと。

 ひとつひとつ説いてゆくと、細蟹比売はぎりと歯を噛んだようでした。

 そうして、あぶらの煮つまったような憎しみを込めて、黒海臣に吐き捨てました。


「ッ、――この、ひとでなし」


 その罵りをぶつけられたとき、黒海臣は胸のうちで頷きました。


――そうだ、それでよい。


 細蟹比売が黒海臣を憎んでいれば、ほかに目は向かぬでしょう。

 これで、耀日祇が首を吊ろうとしたことまでは知られずに済むのです。それで話が済むのならば、おのれはどんな罵りにでも甘んじようと決めていました。


――この比売を、……この国を守り抜くそのために。


 黒海臣はそう呟き、わざと尊大に細蟹比売を見下ろしました。


「ええ。わたくしはこの国を守りたいのです。そのためならば、いかようにも致しましょう」


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