黒海臣(くろみのおみ)のはなし 五
「細蟹、……ささがに、わたしの妃……」
耀日祇は
かと思えば突然に大声を上げ、泣いて亡き父母に謝ります。しきりに頭をぶつけようとされるので、黒海臣は急いで手を差し伸べました。
「なりません、耀日祇様!」
「ちがう、ちがう、わたしが殺したのではない……わたしが、わたしが――!」
耀日祇は弓が張りつめたように叫び、ふつりと力を抜きました。
しかしなおも、丸まって泥のようにお泣きになります。黒海臣はその痛ましさに、こぶしを握ることしかできませんでした。
――耀日祇様は、これほど弱っていらしたのか……。
春も盛りの、
これらはすべて、黒海臣が手配をしたことです。
しかし、黒海臣は大君の代わりにまつりごとを行わねばなりません。その忙しさで参れずにいたのですが、まさかここまでお悪いとは思いもしませんでした。
――日々の報せだけは上げるように申しつけておったが、やはり、私がじかにお伺いをすべきだった……。
そのようにほぞを噛んでいたとき、地を
「失礼仕る」
これは、
この婆は変のあと、真っ先に侍女として宮へ残ると申し出ました。おのれならばもともと
その考えどおり、耀日祇は婆をお手元に置かれました。
それどころか、婆以外の侍女を近づけようとなさらなかったのです。ゆえに耀日祇が寝ついてからも、こうしておそばにお侍りしているのでした。
「また泣いておられるか、耀日祇様よ。お気を確かに持たれませ」
婆はきびきびと座し、耀日祇を抱き起こすような衣ずれをさせます。そうしながら黒海臣に言い放ちました。
「おまえ、黒海とかいう臣下であったな。そうぼんやりとしておらんで手伝わぬか」
「ああ、……失礼」
思わず頭を下げますと、婆は顎で示すような口ぶりをします。
「おまえの右膝のところに膳を置いておる。粥の椀じゃ、耀日祇様に差し上げよ」
手で探れば、言われたとおりあたたかな椀がありました。黒海臣は匙も合わせて見つけ出し、粥をすくって耀日祇のお口へ運びます。
しかし、耀日祇はうつろに呟き続けるばかりでした。そのために幾度も粥がこぼれ、婆が痺れを切らします。
「この
「……は、」
婆は苛々とした様子で椀を奪い、耀日祇へ参らせました。耀日祇をうまくなだめながら粥を差し上げるので、黒海臣は感心します。
「手慣れておられる」
途端に、婆がぴしゃりと言い返しました。
「寝ぼけたことを。いったい誰が朝な夕な、耀日祇様にお侍りしていると思うておる」
「婆どのですな。……申し訳ない、思慮が足りませんでした」
「ふん」
婆はいまいましげに鼻を鳴らし、ふたたび耀日祇に粥を差し上げます。その合間に、ひっそりと問いかけました。
「これから先、おまえは耀日祇様をいかに扱う気じゃ」
これほど病んでおるものを、と無言のうちに突きつけられます。
黒海臣は黙り込み、しかし顔を逸らすことなく答えました。
「むろん、考えはございます」
これからのことについて、黒海臣は四つの道筋を考えていました。
そのうちのひとつは、耀日祇がお戻りになり、元通り国をお治めになる道です。ですがこの道は、きょう、早々に潰えてしまうやもしれぬと思いました。
ひそかに歯を噛んでいると、婆がふたたび鼻を鳴らします。そうして、黒海臣を突き刺すように言いました。
「耀日祇様も、哀れな大君じゃな。周りがかような者ばかりでは」
春が過ぎ、みどりしたたる
そのころには、まつりごとはほとんど黒海臣が為すものとなっていました。
しかし黒海臣には論じる相手も、ともに舵を取れる人もいないのです。となれば、独りで道を決めてゆくしかありませんでした。
――まことならば、耀日祇様のお加減も、日ごと伺いにあがりたいのだが。
耀日祇は、
幾度かその御枕元まで参りましたが、黒海臣を見てもそうとわからぬご様子です。耀日祇はひたすらに妃を求め、父母の夢にうなされておられました。
かような耀日祇を放り置きたくはありませんが、まつりごとの忙しさに阻まれます。どうしても、侍女である婆に任せざるをえません。
――……否、それはただの言い訳やもしれぬ。
たったひとりの主君の御子。黒海臣にとってもわが子のごとき、若き大君。
ほんとうは、こうした耀日祇が弱ってゆくお姿を、近くで感じたくないだけなのやもしれません。忙しさにかこつけて、いまこの
――かような愁いに浸る暇など、ないというのに……。
ため息とともに目頭を揉んでいると、控えていた駒が身じろいだようでした。
きょうは黒海臣のそばに付いて、こまごまとした用向きを手伝ってくれていたのです。駒は気づかわしげに口を開きました。
「お疲れでいらっしゃいますか」
「いや、……大したことはない」
そう答えましたが、駒は黒海臣の肩に
「とは仰せられましても、朝からひとたびもお休みされておられませぬでしょう。
「すまぬ」
「いえ。わたくしには、これほどのことしかできませぬから」
そうして、駒が部屋を出ようとしたそのときです。
「――誰か……、――黒海臣さまァッ!」
よろめくような叫びと足音が聞こえ、つられた宮びとたちも次々に出てくる気配がしました。
そのおおもととなった女人の声は、黒海臣たちがいる部屋へ飛び込んできます。
「黒海臣さまッ! ……どうか、早く細蟹さまが――!」
聞き覚えのある声に、黒海臣はすばやく立ち上がりました。
「真木どのか? いかがした?」
「大君さまが、……ッ剣を持って細蟹さまのお部屋に!」
そのことばを聞いた瞬間、黒海臣は鋭く駒に命じました。
「駒!」
「――はっ」
「すぐに手勢を率いてゆけ!」
駒はすばやく駆けてゆきます。それを聞いた真木も、あわてて立ち上がりました。
「
「ああ、頼もう。私はいちど、糸くり婆のところへ行ってから向かう」
「畏まりました」
そこで黒海臣は真木と分かれ、耀日祇の寝所へ赴きました。
――耀日祇様には、婆だけでなく見張りの兵もお付けしていたはずだが……。
そのはずなのに、いかにして
そう思いながら訪ねると、寝所の前は兵たちの呻き声に満ちていました。黒海臣が驚くうちに、部屋の中から婆の声が上がります。
「……その足音は、黒海臣か?」
「婆どの。いかがされましたか」
急いで駆け寄り、婆を助け起こします。婆は腰をかばうようにして吐き捨てました。
「どうもこうもないわ、これはおまえの怠慢じゃ。……おそらく、誰ぞ
うしろだけ声がひそめられ、黒海臣は眉を険しくします。
「なにゆえ、そうお考えになりましたか」
「剣じゃ。兵に身をやつした何者かが、耀日祇に剣を渡しよった」
婆はそうささやき、いきさつを語りました。
きょうはもともと、耀日祇のいましめを解く日にしていたそうです。いつも手足を縛っていては
その付け替えのとき、婆は古い紐を兵のひとりに渡しました。
するといきなり、腕をひねり上げられたのです。別な兵がすかさず耀日祇を抱き起こし、なにかをお捧げしました。
刹那、山犬のような唸りと風が巻き起こります。みなその風になぎ倒され、気づいたときには耀日祇が消え去っていたのでした。
「あの風は、耀日祇が変のときに持っていた剣のまとうものじゃろう。何のためにかはわからぬが、誰ぞがあの剣を持ち出したのではあるまいか」
「……なんということか、」
黒海臣は低く呟き、すぐさまきびすを返しました。
「申し訳ない、婆どの。あとはお任せしてもよろしいか。
「ならば
「むろんのこと」
ひとつ頷き、黒海臣は足早に寝所を出ました。糸縄にすがりつつも、できる限り急ぎます。
――誰がやったか。……否それよりも、細蟹比売の御身は無事か。
細蟹比売は、ただひとり大君の血を孕むむすめです。その血が絶えるようなことがあれば、国が崩れかねません。
黒海臣は冷や汗を押し隠し、細蟹比売の部屋まで参りました。真木のすすり泣きが聞こえ、まだ荒れた気の残るところへ踏み込みます。
「真木どの。細蟹様はご無事でおいでか?」
「……黒海臣さま」
真木が頭を下げる横で、こちらを窺う気配がします。どうやら細蟹比売のようです。
向かい合ってみたところ、どこを傷つけられたふうもありません。黒海臣は安堵し、その御前に
「かような場でご無礼仕ります。私はかつて
そう告げると、細蟹比売も膝を正したようでした。
「こちらこそ、このような姿で申し訳ありません。細蟹です」
「どうぞお気になされませぬよう。いまは御身こそ、なによりの大事。
そのことばが効いたものか、細蟹比売は疲れた様子で力を抜きます。真木がその肩を支えながら、声をひそめました。
「黒海臣さま。やはり、大君さまはもう、尋常の御方ではいらっしゃらぬのでは……」
「否、まだ答えを出すのは早い。が、備えはしておくべきであろう」
黒海臣は、まどろむ細蟹比売を慮りつついらえました。
――いまからすでに、耀日祇様のことをあきらめ申し上げるのは早い。だが、真木の言うこともあながち外れてはいない……。
黒海臣の頭には、いま、三つの道が浮かんでいました。
耀日祇が国をお治めになる以外の、耀日祇を亡き者として突き進んでゆく道です。
ですが黒海臣は、もはやこの
――国のことだ。私ひとり、愁えて立ち止まるわけにはゆかぬ。
為すならば、断じて他の者に任せはしません。正しくこの手で行うのです。
そう決めてこぶしを握れば、指先は静かに冷えておりました。
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