黒海臣(くろみのおみ)のはなし 五



「細蟹、……ささがに、わたしの妃……」


 耀日祇はとこに手足を縛られたまま、それでも這いずって動こうとなさいました。

 かと思えば突然に大声を上げ、泣いて亡き父母に謝ります。しきりに頭をぶつけようとされるので、黒海臣は急いで手を差し伸べました。


「なりません、耀日祇様!」

「ちがう、ちがう、わたしが殺したのではない……わたしが、わたしが――!」


 耀日祇は弓が張りつめたように叫び、ふつりと力を抜きました。

 しかしなおも、丸まって泥のようにお泣きになります。黒海臣はその痛ましさに、こぶしを握ることしかできませんでした。


――耀日祇様は、これほど弱っていらしたのか……。


 春も盛りの、三月やよいの半ばです。この日、黒海臣はひと月ぶりほどに耀日祇の寝所を訪れました。

 二月きさらぎのころにお妃懐妊の騒ぎがあってから、耀日祇はほとんどまつりごとをお執りになれなくなったのです。そのために寝所へ移され、こうしてご静養をされていたのでした。

 これらはすべて、黒海臣が手配をしたことです。

 しかし、黒海臣は大君の代わりにまつりごとを行わねばなりません。その忙しさで参れずにいたのですが、まさかここまでお悪いとは思いもしませんでした。


――日々の報せだけは上げるように申しつけておったが、やはり、私がじかにお伺いをすべきだった……。


 そのようにほぞを噛んでいたとき、地をすような足音が入ってきました。


「失礼仕る」


 これは、みつきの従者であった糸くり婆の声です。

 この婆は変のあと、真っ先に侍女として宮へ残ると申し出ました。おのれならばもともとめしいているゆえに、耀日祇が厭われることもなかろうと断じたのです。

 その考えどおり、耀日祇は婆をお手元に置かれました。

 それどころか、婆以外の侍女を近づけようとなさらなかったのです。ゆえに耀日祇が寝ついてからも、こうしておそばにお侍りしているのでした。


「また泣いておられるか、耀日祇様よ。お気を確かに持たれませ」


 婆はきびきびと座し、耀日祇を抱き起こすような衣ずれをさせます。そうしながら黒海臣に言い放ちました。


「おまえ、黒海とかいう臣下であったな。そうぼんやりとしておらんで手伝わぬか」

「ああ、……失礼」


 思わず頭を下げますと、婆は顎で示すような口ぶりをします。


「おまえの右膝のところに膳を置いておる。粥の椀じゃ、耀日祇様に差し上げよ」


 手で探れば、言われたとおりあたたかな椀がありました。黒海臣は匙も合わせて見つけ出し、粥をすくって耀日祇のお口へ運びます。

 しかし、耀日祇はうつろに呟き続けるばかりでした。そのために幾度も粥がこぼれ、婆が痺れを切らします。


「この木偶でく! ……もうよい、儂がやる。おまえは耀日祇様の御身をお支えせよ。せめて支えの棒きれくらいにはなれ」

「……は、」


 婆は苛々とした様子で椀を奪い、耀日祇へ参らせました。耀日祇をうまくなだめながら粥を差し上げるので、黒海臣は感心します。


「手慣れておられる」


 途端に、婆がぴしゃりと言い返しました。


「寝ぼけたことを。いったい誰が朝な夕な、耀日祇様にお侍りしていると思うておる」

「婆どのですな。……申し訳ない、思慮が足りませんでした」

「ふん」


 婆はいまいましげに鼻を鳴らし、ふたたび耀日祇に粥を差し上げます。その合間に、ひっそりと問いかけました。


「これから先、おまえは耀日祇様をいかに扱う気じゃ」


 これほど病んでおるものを、と無言のうちに突きつけられます。

 黒海臣は黙り込み、しかし顔を逸らすことなく答えました。


「むろん、考えはございます」


 これからのことについて、黒海臣は四つの道筋を考えていました。

 そのうちのひとつは、耀日祇がお戻りになり、元通り国をお治めになる道です。ですがこの道は、きょう、早々に潰えてしまうやもしれぬと思いました。

 ひそかに歯を噛んでいると、婆がふたたび鼻を鳴らします。そうして、黒海臣を突き刺すように言いました。


「耀日祇様も、哀れな大君じゃな。周りがかような者ばかりでは」



 春が過ぎ、みどりしたたる五月さつきが来ました。

 そのころには、まつりごとはほとんど黒海臣が為すものとなっていました。

 めしいた宮びとたちは、先頭かしらを失った鳥の群れのごとく惑うています。彼らの訴えや話を聴き、つねに正しい方角へ舵を取るのは、並たいていのことではありません。

 しかし黒海臣には論じる相手も、ともに舵を取れる人もいないのです。となれば、独りで道を決めてゆくしかありませんでした。


――まことならば、耀日祇様のお加減も、日ごと伺いにあがりたいのだが。


 耀日祇は、三月やよいのころから変わらず寝ついていらっしゃいました。

 幾度かその御枕元まで参りましたが、黒海臣を見てもそうとわからぬご様子です。耀日祇はひたすらに妃を求め、父母の夢にうなされておられました。

 かような耀日祇を放り置きたくはありませんが、まつりごとの忙しさに阻まれます。どうしても、侍女である婆に任せざるをえません。


――……否、それはただの言い訳やもしれぬ。


 たったひとりの主君の御子。黒海臣にとってもわが子のごとき、若き大君。

 ほんとうは、こうした耀日祇が弱ってゆくお姿を、近くで感じたくないだけなのやもしれません。忙しさにかこつけて、いまこのさまから目を背けようとしているのやも。


――かような愁いに浸る暇など、ないというのに……。


 ため息とともに目頭を揉んでいると、控えていた駒が身じろいだようでした。

 きょうは黒海臣のそばに付いて、こまごまとした用向きを手伝ってくれていたのです。駒は気づかわしげに口を開きました。


「お疲れでいらっしゃいますか」

「いや、……大したことはない」


 そう答えましたが、駒は黒海臣の肩にはおりをかけます。


「とは仰せられましても、朝からひとたびもお休みされておられませぬでしょう。果子くだものなりとお持ちします」

「すまぬ」

「いえ。わたくしには、これほどのことしかできませぬから」


 そうして、駒が部屋を出ようとしたそのときです。


「――誰か……、――黒海臣さまァッ!」


 よろめくような叫びと足音が聞こえ、つられた宮びとたちも次々に出てくる気配がしました。

 そのおおもととなった女人の声は、黒海臣たちがいる部屋へ飛び込んできます。


「黒海臣さまッ! ……どうか、早く細蟹さまが――!」


 聞き覚えのある声に、黒海臣はすばやく立ち上がりました。


「真木どのか? いかがした?」

「大君さまが、……ッ剣を持って細蟹さまのお部屋に!」


 そのことばを聞いた瞬間、黒海臣は鋭く駒に命じました。


「駒!」

「――はっ」

「すぐに手勢を率いてゆけ!」


 駒はすばやく駆けてゆきます。それを聞いた真木も、あわてて立ち上がりました。


わたくしも、細蟹さまの御もとへ戻ります」

「ああ、頼もう。私はいちど、糸くり婆のところへ行ってから向かう」

「畏まりました」


 そこで黒海臣は真木と分かれ、耀日祇の寝所へ赴きました。


――耀日祇様には、婆だけでなく見張りの兵もお付けしていたはずだが……。


 そのはずなのに、いかにしてとこを抜け出されたのでしょう。

 そう思いながら訪ねると、寝所の前は兵たちの呻き声に満ちていました。黒海臣が驚くうちに、部屋の中から婆の声が上がります。


「……その足音は、黒海臣か?」

「婆どの。いかがされましたか」


 急いで駆け寄り、婆を助け起こします。婆は腰をかばうようにして吐き捨てました。


「どうもこうもないわ、これはおまえの怠慢じゃ。……おそらく、誰ぞ間諜うかみが入り込んでおる」


 うしろだけ声がひそめられ、黒海臣は眉を険しくします。


「なにゆえ、そうお考えになりましたか」

「剣じゃ。兵に身をやつした何者かが、耀日祇に剣を渡しよった」


 婆はそうささやき、いきさつを語りました。

 きょうはもともと、耀日祇のいましめを解く日にしていたそうです。いつも手足を縛っていてははだが腐ってしまいますから、数日にいちど、紐を解いて新しいものに替えるのです。

 その付け替えのとき、婆は古い紐を兵のひとりに渡しました。

 するといきなり、腕をひねり上げられたのです。別な兵がすかさず耀日祇を抱き起こし、なにかをお捧げしました。

 刹那、山犬のような唸りと風が巻き起こります。みなその風になぎ倒され、気づいたときには耀日祇が消え去っていたのでした。


「あの風は、耀日祇が変のときに持っていた剣のまとうものじゃろう。何のためにかはわからぬが、誰ぞがあの剣を持ち出したのではあるまいか」

「……なんということか、」


 黒海臣は低く呟き、すぐさまきびすを返しました。


「申し訳ない、婆どの。あとはお任せしてもよろしいか。わたくしは細蟹様の御もとへ参らねばならぬ」

「ならばく行け。あの比売に何ぞあったら承知せぬぞ」

「むろんのこと」


 ひとつ頷き、黒海臣は足早に寝所を出ました。糸縄にすがりつつも、できる限り急ぎます。


――誰がやったか。……否それよりも、細蟹比売の御身は無事か。


 細蟹比売は、ただひとり大君の血を孕むむすめです。その血が絶えるようなことがあれば、国が崩れかねません。

 黒海臣は冷や汗を押し隠し、細蟹比売の部屋まで参りました。真木のすすり泣きが聞こえ、まだ荒れた気の残るところへ踏み込みます。


「真木どの。細蟹様はご無事でおいでか?」

「……黒海臣さま」


 真木が頭を下げる横で、こちらを窺う気配がします。どうやら細蟹比売のようです。

 向かい合ってみたところ、どこを傷つけられたふうもありません。黒海臣は安堵し、その御前に叩頭み伏しました。


「かような場でご無礼仕ります。私はかつて闇彦くらひこ様、そしていまは耀日様の臣をつとめております、黒海臣くろみのおみ佐弥さやびこと申します」


 そう告げると、細蟹比売も膝を正したようでした。


「こちらこそ、このような姿で申し訳ありません。細蟹です」

「どうぞお気になされませぬよう。いまは御身こそ、なによりの大事。くお休みください」


 そのことばが効いたものか、細蟹比売は疲れた様子で力を抜きます。真木がその肩を支えながら、声をひそめました。


「黒海臣さま。やはり、大君さまはもう、尋常の御方ではいらっしゃらぬのでは……」

「否、まだ答えを出すのは早い。が、備えはしておくべきであろう」


 黒海臣は、まどろむ細蟹比売を慮りつついらえました。


――いまからすでに、耀日祇様のことをあきらめ申し上げるのは早い。だが、真木の言うこともあながち外れてはいない……。


 黒海臣の頭には、いま、三つの道が浮かんでいました。

 耀日祇が国をお治めになる以外の、耀日祇を亡き者として突き進んでゆく道です。

 ですが黒海臣は、もはやこのさまから逃げようとは思いませんでした。


――国のことだ。私ひとり、愁えて立ち止まるわけにはゆかぬ。


 為すならば、断じて他の者に任せはしません。正しくこの手で行うのです。

 そう決めてこぶしを握れば、指先は静かに冷えておりました。


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