潮織りの比売(ひめ) 八



 月は平らかにめぐりました。

 六月みなづき、そしてづき。細蟹の胎もだんだんと大きくなり、もうふた月ほどで産まれるだろうと思われます。

 細蟹はその日を待ち遠しく焦がれながら、機を織り続けていました。

 きり、はたり。

 ちよう、はたり。


――あなた。あなたさま。……かがよひ、


 緒を込めて。このひと糸におのれの玉の緒を込めて。

 それが決してほどけることのないように、細蟹は指を腫らして織り続けます。

 尋常でないからだで機を織るのはたいへんな難儀でしたが、御子は細蟹を力づけるように、ときおり胎を蹴りました。

 細蟹はそのたびに手を休め、ほほ笑んで胎を撫でるのでした。

 こうした細蟹を、文目あやひとたちも労ってくれました。真木はしばしば正殿へ行くようになっていたので、その間、彼女の代わりに身の回りのことをしてくれるのです。

 文目人たちは手をかけすぎず、ですが突き放すのでもない近しさで、ひっそり細蟹を守っていました。

 きり、はたり。

 ちよう、はたり。

 経糸たていと緯糸よこいとをとおし。

 たん、ととん、とおさをおさめ。

 そうして幾日が経ったでしょうか。

 細蟹の手は、心はすでに身を離れ、ひとすじの機のとなって遠ざかってゆくようでした。

 いまの細蟹には、織ることがすべてです。いとしい汝兄なせの御方のために。あの方へ思いを捧げ、あの方ともういちど向き合うために。


――そうして、わたしたちは生まれくるこの御子の父母になりたい。


 はたり、と最後の打ち込みを終え、細蟹は息をつきました。

 指先が震えています。喉は干上がり、長い道を駆け抜けたかのように心の臓が痛みます。

 細蟹は機の上へ伏してしまいたいのをこらえ、腰かけから崩れ落ちました。


「……妃さま?」


 ふと、周りの文目人たちが見えぬ目を上げます。そして細蟹のさまに気がつき、あわてて駆け寄ってきました。

 女たちは細蟹の身を支え、叫び、誰かがいずこかへ走ってゆきます。祖女そめが女たちを叱りつける声もします。細蟹はそのけたたましい渦の中で、懸命に腕を上げました。


「祖女さま、……みなさま。どうかこれを、耀日祇かがよひのかみさまに――」


 指をさしたのは、織り上げたばかりの男帯です。目隠しをした細蟹には見えませんが、まぶたの裏には、はっきりとそのあやが浮かんでいました。

 夜のしじまのような藍の糸を経糸たていとに、しろかねの緯糸よこいとを細く細くこき混ぜた織物です。

 身にまとえば、ほのかな光を弾いて星の河のようにきらめくでしょう。きっとあのうるわしい背の君に、ぴったりと添うはずです。


――わたしにできるのは、このようにつむぎ織ること、ただそれだけ……。


 どうか、かがよひのかよわい魂が、あくがれ消えてしまわぬように。やさしき人が、闇に潰れてしまわぬように。

 細蟹はそう願いながら、暗い眠りの底へすべり落ちてゆきました。

 つきとおにはまだひと月足らぬ、づきに入ったばかりのころでした。



 御子は、細蟹の胎で暴れていました。

 いったん産気づいたものの、そこから御子が下りてこなくなってしまったのです。産屋に移れるだけの力もなく、工房の隣にある、文目人の住まいで御産に臨むこととなりました。

 細蟹は目を閉じて、夢とうつつの境にいました。

 じくじくとした痛みが汗をにじませ、また少し引いてゆきます。潮が満ち、またるように。

 呼ばれた薬師が渋い顔つきで細蟹の脈を取ります。周りでは文目人たちが、しきりとまじないの歌をつぶやいています。

 細蟹のからだはその調べに合わせてくうへ広がり、やがて閉じ、果てなきまどろみの中で揺らいでいました。

 ゆらゆらと。

 かそけく、かぼそく、玉の緒はうつおに乱れ。

 乱れ乱れて風の吹く野に。

 いつしか細蟹は、しろがねに光る尾花すすきの道を歩いていました。

 紫色の夜の野です。

 むなほどの丈の穂がそよぎ、星の子が駆け踊るように、しらしらときらめきます。そのはかない響きが、鈴の音を撒いたように周囲に満ちているのでした。

 さやさやと。

 そよそよと。

 細蟹は鈴の音に誘われて、さわさわとしろがねの波をかき分けます。

 そのときちらりと、目の端をかすめる影がありました。


――……かがよひ?


 はっとしてふり向くと、影はふわりと黒いはおりをまといました。

 黒い白鳥くぐいが羽根を広げてみせるように、その童は風をはらんで走り出します。細蟹は叫んであとを追いました。


「かがよひ!」


 かがよひの足は小さく、彼のからだは、いまや七つほどの幼子の姿です。しかし、かがよひはぐんぐんと野原をすべり、とても追いつけないのです。

 細蟹は夢中のあまり、草で手足を切りました。その痛みも気づかぬくらいに駆けました。そして必死で呼びかけました。


「かがよひ、待って、ねえかがよひ――!」


 そのとき、ざあっと大風が起こりました。

 銀の野がまばゆく光り、黒い鳥の羽根をいちめんに呑み込んで逆巻きます。くわう、と鳥が鳴きました。

 くわうくわうと。

 かうかうと。

 黒い白鳥は喉を鳴らし、夜の大空へ羽ばたきます。涙のように羽根を散らして、独り飛んでゆくのです。

 それで細蟹は、哀しいあきらめを覚えました。


――ああ……。


 かがよひには、もう会えない。

 誰に教えられずとも、細蟹はとっさにそう悟ったのです。細蟹が手を伸ばすと、黒い羽根のひとひらが落ちてきました。

 それは手の中で、うら枯れた桑の葉に変じました。



 ああ、と細蟹は絶叫しました。

 夢は破られ、身を裂かれるような痛みが目の前を赤くします。赤く黒くまだらに青く、あるいはいかづちの爆ぜるがごとく。

 御子が叫んでいるのです。

 あたたかな母の胎を去り、この暗きとこの国に生まれ出ようと。御子は叫び、声を上げ、いまこそ生きんと身をふり絞っているのです。

 その希求が細蟹の心をふるわせ、細蟹の四肢を裂くのでした。

 細蟹は泣きながら歯を食いしばりました。


――でて、わが真子まこ。そうして生きて。


 噛んだ唇から血が伝い、喘ぐ喉に流れ込みます。からだの底から雄叫びが押し出されます。猛き春の芽ぶきのように。降りやまぬ風雨のように。天地が割れて、滾々とした清水が湧き上がってきます。

 そして待ち望んでいた産声がほとばしり、細蟹は白い光の中に包み込まれてゆきました。


「――……、」


 目覚めると、からだがくず布のように萎えていました。

 血の気は失せ、冷たく、横たわった寝床のさやけさだけがはだに沁みます。細蟹が息をつくと、隣にうずくまっていた誰かが動いたようでした。


「覚めたか、欠け星」

「……おばあさま?」


 その声はまぎれもなく、細蟹のばばさまのものです。いまは耀日祇にお仕えしているはずの。

 細蟹は驚いて起きようとしました。しかしばばさまはそれを止め、抱えていたらしいものをそっと細蟹の胸に渡します。


「おまえの子じゃ。眠っておる」

「わたしの……?」


 そうしてもたらされた御子は、熱いほどのぬくみを胸に伝えてきました。小さく、軽く、されど重たく、細蟹の腕の中でやすらかな寝息を立てています。

 その鼓動を感じ取り、細蟹の深いところがわななきました。


「ああ――、」

男王ひこみこじゃ。月足らずの身で、よう生き延びた。そしておまえも」


 ばばさまはそう言って、御産のさまを話し聞かせてくれました。

 細蟹はひどい難産で、一昼夜苦しんでいたそうです。それでもなんとか、子は産声を上げました。文目人たちが湯を使わせ、後産の始末もし、細蟹を寝床に休ませてくれました。

 そうして、ばばさまに知らせをしたのです。細蟹はそれからも三日三晩眠り続け、いまこうして、ようやく目を覚ましたのでした。


「正殿では、宮の者たちがみこの誕生に安んじておる。おまえは世継ぎの皇子を産んだのじゃ」


 細蟹はそれを聴き、嫌な引っかかりを覚えました。

 なにか、目に見えぬ煙のような鬱屈が、ばばさまの周りにたゆとうています。

 心の臓がうっすら速さを増すような、すうっと指先が凍えるような。そのような、不吉な澱のかたまりが。

 細蟹は唾を飲み、おそるおそる問いました。


「……耀日祇さまは?」


 ばばさまは、顔を背けたようでした。

 そして呻くようにつぶやきました。


「死んだ。耀日祇は病で死んだ」

「――」


 その瞬間の、底なしの空虚。

 細蟹の鼓動は止まり、耳も、舌も、手足もすべて呼吸をやめてしまったかのようでした。胸にいる御子のぬくい膚だけが、あやしく浮いて感じられます。

 細蟹は喉を震わせ、ばばさまにすがりました。


「なぜ……。おばあさま、なぜ耀日祇さまは――どんな病で……」


 ですがばばさまは、きびしく細蟹の問いを封じました。


「知らぬでよい。死んだものは死んだのじゃ、そのゆえを知ってなんとなる。おまえはいま、おのれと子を養うことのみを考えよ」

「おばあさま、」


 細蟹はなおも続けようとしましたが、ばばさまは遮るように立ち上がりました。


「しつこい。とにかくねよ、そして食らえよ。おまえが弱っていては子のための乳も出ん」


 そのきびしさを感じてか、御子が頼りない声でむずかり始めます。

 細蟹がそちらに気を取られているうちに、ばばさまはぴしゃりと戸を閉めて出てゆきました。

 隣の工房で、文目人たちと低く話をしているようです。細蟹はその声を聞きながら、癇がついたように泣く御子をあやしました。

 じきに文目人のひとりが駆けつけてくれましたが、細蟹は子を抱いて離しませんでした。水っぽい、生まれたばかりの熱い膚の匂いを嗅ぎ、きつく目をつぶりました。


――……かがよひ。


 黒い白鳥が、夜の空を翔けてゆく。

 あれは夢ではなかったのだと、細蟹は御子の陰でひっそりと泣きました。


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