潮織りの比売(ひめ) 八
月は平らかにめぐりました。
細蟹はその日を待ち遠しく焦がれながら、機を織り続けていました。
きり、はたり。
ちよう、はたり。
――あなた。あなたさま。……かがよひ、
緒を込めて。このひと糸におのれの玉の緒を込めて。
それが決してほどけることのないように、細蟹は指を腫らして織り続けます。
尋常でないからだで機を織るのはたいへんな難儀でしたが、御子は細蟹を力づけるように、ときおり胎を蹴りました。
細蟹はそのたびに手を休め、ほほ笑んで胎を撫でるのでした。
こうした細蟹を、
文目人たちは手をかけすぎず、ですが突き放すのでもない近しさで、ひっそり細蟹を守っていました。
きり、はたり。
ちよう、はたり。
たん、ととん、と
そうして幾日が経ったでしょうか。
細蟹の手は、心はすでに身を離れ、ひとすじの機の
いまの細蟹には、織ることがすべてです。いとしい
――そうして、わたしたちは生まれくるこの御子の父母になりたい。
はたり、と最後の打ち込みを終え、細蟹は息をつきました。
指先が震えています。喉は干上がり、長い道を駆け抜けたかのように心の臓が痛みます。
細蟹は機の上へ伏してしまいたいのをこらえ、腰かけから崩れ落ちました。
「……妃さま?」
ふと、周りの文目人たちが見えぬ目を上げます。そして細蟹の
女たちは細蟹の身を支え、叫び、誰かがいずこかへ走ってゆきます。
「祖女さま、……みなさま。どうかこれを、
指をさしたのは、織り上げたばかりの男帯です。目隠しをした細蟹には見えませんが、まぶたの裏には、はっきりとその
夜のしじまのような藍の糸を
身にまとえば、ほのかな光を弾いて星の河のようにきらめくでしょう。きっとあのうるわしい背の君に、ぴったりと添うはずです。
――わたしにできるのは、このようにつむぎ織ること、ただそれだけ……。
どうか、かがよひのかよわい魂が、あくがれ消えてしまわぬように。やさしき人が、闇に潰れてしまわぬように。
細蟹はそう願いながら、暗い眠りの底へすべり落ちてゆきました。
御子は、細蟹の胎で暴れていました。
いったん産気づいたものの、そこから御子が下りてこなくなってしまったのです。産屋に移れるだけの力もなく、工房の隣にある、文目人の住まいで御産に臨むこととなりました。
細蟹は目を閉じて、夢とうつつの境にいました。
じくじくとした痛みが汗をにじませ、また少し引いてゆきます。潮が満ち、また
呼ばれた薬師が渋い顔つきで細蟹の脈を取ります。周りでは文目人たちが、しきりとまじないの歌をつぶやいています。
細蟹のからだはその調べに合わせて
ゆらゆらと。
かそけく、かぼそく、玉の緒はうつおに乱れ。
乱れ乱れて風の吹く野に。
いつしか細蟹は、しろがねに光る
紫色の夜の野です。
さやさやと。
そよそよと。
細蟹は鈴の音に誘われて、さわさわとしろがねの波をかき分けます。
そのときちらりと、目の端をかすめる影がありました。
――……かがよひ?
はっとしてふり向くと、影はふわりと黒い
黒い
「かがよひ!」
かがよひの足は小さく、彼のからだは、いまや七つほどの幼子の姿です。しかし、かがよひはぐんぐんと野原をすべり、とても追いつけないのです。
細蟹は夢中のあまり、草で手足を切りました。その痛みも気づかぬくらいに駆けました。そして必死で呼びかけました。
「かがよひ、待って、ねえかがよひ――!」
そのとき、ざあっと大風が起こりました。
銀の野がまばゆく光り、黒い鳥の羽根をいちめんに呑み込んで逆巻きます。くわう、と鳥が鳴きました。
くわうくわうと。
かうかうと。
黒い白鳥は喉を鳴らし、夜の大空へ羽ばたきます。涙のように羽根を散らして、独り飛んでゆくのです。
それで細蟹は、哀しいあきらめを覚えました。
――ああ……。
かがよひには、もう会えない。
誰に教えられずとも、細蟹はとっさにそう悟ったのです。細蟹が手を伸ばすと、黒い羽根のひとひらが落ちてきました。
それは手の中で、うら枯れた桑の葉に変じました。
ああ、と細蟹は絶叫しました。
夢は破られ、身を裂かれるような痛みが目の前を赤くします。赤く黒くまだらに青く、あるいはいかづちの爆ぜるがごとく。
御子が叫んでいるのです。
あたたかな母の胎を去り、この暗き
その希求が細蟹の心をふるわせ、細蟹の四肢を裂くのでした。
細蟹は泣きながら歯を食いしばりました。
――
噛んだ唇から血が伝い、喘ぐ喉に流れ込みます。からだの底から雄叫びが押し出されます。猛き春の芽ぶきのように。降りやまぬ風雨のように。天地が割れて、滾々とした清水が湧き上がってきます。
そして待ち望んでいた産声がほとばしり、細蟹は白い光の中に包み込まれてゆきました。
「――……、」
目覚めると、からだがくず布のように萎えていました。
血の気は失せ、冷たく、横たわった寝床のさやけさだけが
「覚めたか、欠け星」
「……おばあさま?」
その声はまぎれもなく、細蟹のばばさまのものです。いまは耀日祇にお仕えしているはずの。
細蟹は驚いて起きようとしました。しかしばばさまはそれを止め、抱えていたらしいものをそっと細蟹の胸に渡します。
「おまえの子じゃ。眠っておる」
「わたしの……?」
そうしてもたらされた御子は、熱いほどのぬくみを胸に伝えてきました。小さく、軽く、されど重たく、細蟹の腕の中でやすらかな寝息を立てています。
その鼓動を感じ取り、細蟹の深いところがわななきました。
「ああ――、」
「
ばばさまはそう言って、御産のさまを話し聞かせてくれました。
細蟹はひどい難産で、一昼夜苦しんでいたそうです。それでもなんとか、子は産声を上げました。文目人たちが湯を使わせ、後産の始末もし、細蟹を寝床に休ませてくれました。
そうして、ばばさまに知らせをしたのです。細蟹はそれからも三日三晩眠り続け、いまこうして、ようやく目を覚ましたのでした。
「正殿では、宮の者たちが
細蟹はそれを聴き、嫌な引っかかりを覚えました。
なにか、目に見えぬ煙のような鬱屈が、ばばさまの周りにたゆとうています。
心の臓がうっすら速さを増すような、すうっと指先が凍えるような。そのような、不吉な澱のかたまりが。
細蟹は唾を飲み、おそるおそる問いました。
「……耀日祇さまは?」
ばばさまは、顔を背けたようでした。
そして呻くようにつぶやきました。
「死んだ。耀日祇は病で死んだ」
「――」
その瞬間の、底なしの空虚。
細蟹の鼓動は止まり、耳も、舌も、手足もすべて呼吸をやめてしまったかのようでした。胸にいる御子のぬくい膚だけが、あやしく浮いて感じられます。
細蟹は喉を震わせ、ばばさまにすがりました。
「なぜ……。おばあさま、なぜ耀日祇さまは――どんな病で……」
ですがばばさまは、きびしく細蟹の問いを封じました。
「知らぬでよい。死んだものは死んだのじゃ、その
「おばあさま、」
細蟹はなおも続けようとしましたが、ばばさまは遮るように立ち上がりました。
「しつこい。とにかく
そのきびしさを感じてか、御子が頼りない声でむずかり始めます。
細蟹がそちらに気を取られているうちに、ばばさまはぴしゃりと戸を閉めて出てゆきました。
隣の工房で、文目人たちと低く話をしているようです。細蟹はその声を聞きながら、癇がついたように泣く御子をあやしました。
じきに文目人のひとりが駆けつけてくれましたが、細蟹は子を抱いて離しませんでした。水っぽい、生まれたばかりの熱い膚の匂いを嗅ぎ、きつく目をつぶりました。
――……かがよひ。
黒い白鳥が、夜の空を翔けてゆく。
あれは夢ではなかったのだと、細蟹は御子の陰でひっそりと泣きました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます