黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十二



 部屋の外から、春の花々の香が流れてきました。

 梅、もも、さくら、辛夷こぶしにやまぶき。風は嬢子おとめはだのように、やわらかに香ります。

 その甘やかな気配の中に、ふと、弾けるような幼子の笑い声が混ざりました。

 途端に風がふわりと沸き立ち、周りにいるらしい宮びとたちがため息を漏らします。

 宮びとたちはくちぐちに、その御子の名を呼んで称えました。


「ああ、よい風――」

「あかる様のおぼしめし」

「心がさっぱりとするようね」


 そのあとは、なにやら話し込む声が続きます。

 そうしてあかるのみこがお笑いになる合間に、澄んだせせらぎのようなむすめの声が聞こえました。細蟹比売の声です。

 女官らしき誰かが、比売をとくに気にかけてやっているようでした。


「……ええ、。ありがとう、以前あなたが教えてくれたおかげで……」


 そこまで聞いたところで、黒海臣は腰を上げました。

 たかくらの部屋を出、庭へ向かいます。


――とがのというあの女官は、気をつけておいたほうがよい。


 とがのは、近ごろになって細蟹比売たちへ寄ってきた女官でした。真木の調べで、どうやら阿多臣がたの者らしいと掴んでいます。


――あかるの王様が長じていらして、動き出したか。


 そう思いつつ庭へ下りれば、みこが目ざとく見つけてお呼びになりました。


「くお!」


 王は幾度も黒海臣を呼び、跳ねるようにこちらへ来いと訴えられているようです。

 黒海臣は畏まる宮びとたちの間を抜け、あかるの王の前にひざまずきました。


「あかるの王様、本日もご機嫌ようございます」

「ん、どうど」


 あかるの王は、黒海臣になにかを差し出していらっしゃいます。手に賜れば、それは庭に咲いていた花らしいのでした。


――あかるの王様も、こうして他人ひとを思いやれるお歳となられたのだ。


 いま、あかるの王は一歳と七月ななつきにおなりです。

 こうして喋ったり歩いたりができるようになり、黒海臣のこともお慕いくださっています。

 ここまで大きくなられたことを思うと、おのずと口元が和らぎました。


「幸甚にございます」


 黒海臣が礼を取れば、あかるの王はますます楽しげにお笑いになりました。


「くお、どうど、どうど」


 するとふたたび、花の咲き乱れるごとく春風が吹き抜けます。宮びとたちが、ひかえめに喜びの声を上げました。

 黒海臣はそれにかまわず、こちらを窺っていた細蟹比売に頭を下げます。


「細蟹様。恐れながら、昼のまつりごとの刻限です」

「承知しました。ご足労をかけましたね」


 細蟹比売はとがのに声をかけ、すなおに黒海臣のあとを追ってきました。

 黒海臣は気配だけで、比売のうしろにいた駒へ頷きます。駒は承知したらしく、かき消えるようにいなくなりました。

 ほどなく糸くりの婆をともなって現れ、あかるの王を引き渡します。


「あかる、母さまはこれから手習いの刻限なの。しばらくよい子にしていてね」

「ん、かさま、いいこ!」


 あかるの王は細蟹比売にまつわりつき、しきりと足を叩くご様子です。

 そのみこが糸くり婆に連れられて去ってから、比売は小さな笑い声を立てました。


「どうやら、あれはあかるなりに、わたしを励ましてくれているようなのです」

「あかるの王様は、実にいつくしみ深い御方ですね。明るく朗らかでもいらっしゃる」


 みこにあかるという御名をつけたのは、生母である細蟹比売です。

 黒海臣はいまさらながらに、その名づけがもっとも王にふさわしいものであると思いました。


――これが、母の霊力ちからというものであろうか。


 あかるの王の御名を告げたとき、細蟹比売は揺るぎないものに満ちあふれておりました。

 あのときは、しきたりを知らぬがゆえの強さかと思ったものです。ですがいまは、そうでもないのかもしれないと感じ始めていました。


――細蟹比売は、強くなられた。


 このひととせほどで、黒海臣はこう思うようになっています。

 宮びとたちがよく笑うようになったのは、あかるの王だけではなく、細蟹比売の力もあるからです。比売が歩み寄ったからこそ、宮びとたちも話をするようになったのです。

 耀日祇を亡くした直後は刃のように張りつめてもいましたが、このごろはさほどでもありません。

 むしろ母として、しっとりとした落ち着きが加わったように見受けられます。


――ただのむすめと思っていたが、そうとばかりも片づけておられぬな。


 そのように考えをつらねていると、ふと、横から名を呼ばれました。


「……黒海臣さま?」


 あどけなく立ち止まるさまは、歳に見合ったむすめそのままのたたずまいです。

 黒海臣はかぶりを振り、ふたたび歩き始めました。


「いえ、参りましょう」

「はい」


 黒海臣はその足音に気を配りつつ、細蟹比売のこれからを思います。


――比売が国母として立てば立つほど、私や駒が、ゆるがせなく御身をお守りせねばならぬ。


 細蟹比売のおだやかさは、人を惹きつける面があります。

 となれば比売のこの力を、悪しざまに使おうとする者が出てきてもおかしくないのです。

 たとえば、近ごろとみに兵を蓄えているらしい、阿多臣などのように。


――あちらが動き出すときを、いつでも待てるようにしておかねば。


 阿多臣が兵を動かしたそのときこそが、またとない好機です。明らかなあかしがあれば、罪を問うこともできるのですから。

 黒海臣はそこまで考え、ひそかに腰の剣を触りました。



 阿多臣を制する機は、それから幾月かのちにやってきました。

 あかるのみこが、二歳を迎えられた日の夕べです。

 その日、あかるの王は皇子としての学びを始められることになっていました。黒海臣はこの儀式に付き添い、高御座の部屋で王に教えを授けていたのです。

 腹心の駒やほかの臣たちも、宮をあわただしく行き交います。そうした中で、ひとりの兵が部屋へ駆けこんできたのでした。


「奏上申し上げます! 細蟹様が、お付きの女官とともにいなくなられました!」

「……なんだと?」


 黒海臣はすかさず立ち、あかるの王には聞こえぬよう、兵とともに部屋を出ました。

 その兵は震える声で、みずからの失態を明かします。


「申し訳ございません! 私は細蟹様から託されたこの花を、あかるの王様にお届けしようと――」


 兵はそう言い、黒海臣に一輪の花を差し出しました。

 この兵は、きょうだけ駒の代わりに細蟹比売へ付けていた護衛です。この護衛が語ったところは、こういうわけでした。

 細蟹比売は、あかるの王と離れることを寂しく思っていたようです。

 そこで庭の花を摘み、これを届けてもらえないかと兵に乞いました。兵は渋りましたが、女官のとがのにも頼まれて正殿へやってきたのです。


「ですがその途上、やはり女人ふたりをお残しすることはならぬと思い直しまして……」


 兵は急いで、庭へ引き返しました。

 しかしそのときには、もはや細蟹比売の姿はありませんでした。もろとも、すっかり消え失せていたのです。

 兵はここで事の大きさに気づき、真っ青になりながら正殿へ駆け込んできたのでした。


「まことに、まことに申し訳ございません! 私がおそばを離れたばかりに……!」


 兵は叫ぶように詫び、頭を打つまで床へ伏します。黒海臣はそれを見下ろし、すぐさまきびすを返しました。


「いまは悔いている場合ではない、すぐに細蟹様をお探しせねば」

――とがのという女官も消えたのならば、阿多臣が動き出した見込みが高い。


 黒海臣はそう考え、あかるの王のそばにいた駒へ耳打ちしました。


「細蟹様がさらわれたようだ。私はみなに、手分けして細蟹様をお探しするよう言いつける。お前はその陰で、ひそかに兵を支度しておけ。探すふりをしつつ、兵たちを宮のすみずみまで敷いておくのだ」

「はい」

「阿多臣が来るとしたら、宮が乱れているこの晩だろう。その奇襲を待って迎えうつ。万一朝になっても奇襲がなければ、こちらから兵を出そう」

「畏まりました」


 駒は頭を下げ、またたく間にいなくなりました。

 黒海臣はあかるの王をお抱き申し上げ、部屋の戸を開きます。そこには、いまだ先ほどの兵が這いつくばっておりました。

 黒海臣はそれを察し、声をかけます。


「詫びるくらいならば、糸くりの婆どのを呼んできてくれ。あかるの王様をお預けしたい」

「……は!」


 兵はおののきながら、それでも走り去ってゆきました。

 あかるの王はその様子を見やり、不思議そうに黒海臣の襟を掴みます。


「くろ?」

「ご安心くださいませ、あかるの王様。みこ様のお母君は、かならずお救い申し上げます」


 黒海臣は、あかるの王の背を叩いてあやしました。

 そうしながら、見えぬ目を研ぎ澄ませるように先を見ます。


――いよいよ来るか、阿多臣よ。


 こう胸のうちで呟いたとき、どこか遠くで、兵たちのどよもす声が聞こえたような気がしました。

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