黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十一



 あかるのみこがお生まれになって、ひととせが経ちました。

 そのころになると、宮はもはや黒海臣の手足のごとくになってきておりました。

 臣下や女官たちは、なにか起きるとまず黒海臣に訴えます。黒海臣は彼らの話を聴き、揉めごとがあれば裁いてやり、あるいは人を動かしてまつりごとを執りました。

 宮びとたちは黒海臣を前にすると、ふたつの顔をあらわにします。

 かたでは黒海臣を心頼みにし、もう片方では、ひどく怯えながらひざまずくのです。黒海臣は、陰でおのれがどのようにささやかれているか知っていました。


――大君すらも手にかける、すさびの臣。


 宮びとにとって、黒海臣は大君の位を奪った逆臣です。そんな黒海臣を恐れぬのは、身近にいる手勢の者たちくらいでした。


阿多臣あたのおみさまに、近ごろ、兵を集めようとする動きがございます」


 真木は黒海臣の前に座し、低い声で告げました。

 この真木も、黒海臣を恐れぬ者のひとりです。いまは間諜うかみとして、阿多臣のそばに仕えています。

 きょうはそこで聴いたことを報せるため、黒海臣の元へ戻っていたのでした。


「兵はまだ、阿多の家に古くから仕える者たちのみのようです。武具についても、いまは手に入れる経路みちを慎重に探っているところかと思われます。……ただ、」


 真木はそこで、ためらいがちに口を閉じます。黒海臣がうながすと、腹から息を吐き切るように続けました。


「かの小夜比売さよひめさまが、……阿多臣さまに、力添えをしようとされているご様子なのです」

「小夜比売様が?」


 黒海臣はまさかと思いました。まさかおのれの妻がという、とっさの気持ちからではありません。

 小夜比売は、聡明な御方です。長年連れ添ってきた黒海臣は、そのことをよく知っています。決して、阿多臣などと手を組む浅はかな女人ではないはずなのです。

 黒海臣は眉をひそめ、指でおのれの膝を叩きました。


「真木どの、その報せはまことなのか。にわかには信じがたいが」

「はい。わたくしも、初めは間違いではないかと思ったのですが……」


 真木は、なにか取り出すような衣ずれをさせました。

 そのまま差し出される気配がしたので、手を伸ばして受け取ります。ひんやりとなめらかな手触りがし、おそらくぎょくの、耳飾りであろうとわかりました。

 黒海臣はその飾りのかたちをなぞり、むうと呻きます。


「……これは、」

「はい。真円――偉大なる星のかたちでございますね」


 真木が、静かに黒海臣へ頷きました。

 この常夜の国において、まったき円は星をあらわすものとして尊ばれます。

 そして真円のかたちを身にまとうことができるのは、大君とその一族だけなのです。いまの世であれば、あかるのみこと小夜比売、あとは水輪刀自売みなわのとじめのみということになります。

 しかしあかるの王は、飾りをお着けするには幼すぎます。水輪刀自売も浮屠ふとの山里にお住まいで、飾りをおまといになるはずがありません。

 そうなれば、この耳飾りを持つのは小夜比売のほかにいないのです。黒海臣は唸りながら真木に訊ねました。


「真木どのは、いずこにてこれを手に入れたのだ」

「阿多臣さまのお部屋の前に落ちていました。これを見つけるよりも以前、阿多臣さまはお忍びの客人がいらっしゃるというので、お人払いをされていたのです……」

「――、」


 それでは、その忍びの客というのが、小夜比売であったのでしょうか。

 黒海臣は顎をさすり、それから深く嘆息しました。


「わかった、よく報せてくれた。このことはくれぐれも口外せぬように」

「むろんでございます」

「では、引き続き阿多臣どのの元へ行ってくれ」

「畏まりました」


 真木は礼をとるような衣ずれをさせ、立ち去りました。

 黒海臣は独り残され、泥を噛むようにして考え込みます。


――いちど、ご様子を伺ってみねばなるまい。


 黒海臣はこのひととせ近く、小夜比売のやかたに帰っていません。

 それはまつりごとを果たすのに忙しくなったからですが、一方では、忙しいことを言い訳にしてもおりました。舘へ帰るよりも、宮に寝泊まりするほうが心安くいられたためです。

 ですが、耳飾りのことを知った以上、放り置くことはできません。

 黒海臣はもういちど、むうと小さく呻きます。それから、小夜比売を訪ねる心づもりを始めました。



「――ただいま戻りました」


 舘に入った黒海臣は、知らず息をつめました。

 突然帰ってきたにも関わらず、舘の中はきょうもおごそかに掃き清められています。まるで、舘のすみずみにまで、小夜比売の目や耳が貼りついているかのようです。

 黒海臣はつめていた息を吐き、寝所へ向けて歩き出しました。


「失礼をいたします、小夜比売様」


 寝所の戸を開くと、比売は葦のむしろで休んでいた様子でした。しかし黒海臣の声を受けて、ひそやかに身を起こします。


「お帰りなさいませ」


 小夜比売は膝をそろえ、久しぶりに戻った夫へ礼を尽くします。

 ですがその声はしろがねのごとく冴えており、比売がまことはどう思っているのかわかりませんでした。

 黒海臣は勧められた円座に座し、無沙汰を侘びます。


「ここしばらく、とんと戻れずにご無礼をいたしました。まつりごとが立て込みまして」

「存じております。お気になさらぬよう」


 小夜比売は、変わらず冷ややかな口ぶりです。ほんとうに、黒海臣が戻らずともかまわぬという感じがしました。

 黒海臣は苦いものを押し隠し、たずさえてきた箱を比売に捧げます。


「無沙汰の償いと申しては、かえって小夜比売様のお気持ちを損ねるやもしれませぬが……。これはふがいなき夫から奥方への、精いっぱいの礼物いやしろとお思いください」


 そう額ずき、箱を小夜比売のほうへ押しやりました。

 比売は驚くこともいぶかしむこともせず、静かに手を伸ばします。


「めずらしいことですね」

「かたじけない」


 黒海臣はひかえめに畏まりつつ、比売の気配を窺いました。

 小夜比売は箱を開け、つかの間手を止めます。目を斬られていない小夜比売は、見ただけでその中身が何であるか気づくでしょう。

 黒海臣は、そこを畳みかけるようにして言いました。


「しろがねの耳飾りです。……思えば長く小夜比売様にお仕えしながら、御飾りのひとつすら、ろくに差し上げたこともございませんでしたゆえ」


 小夜比売は、じっと箱を見つめている様子です。

 その中には、まるい星をかたどったしろがねの耳飾りが収められているはずでした。


――私がこれをお贈りしたら、小夜比売様はいかないらえを返してこられるか?


 黒海臣はこのために、新たな耳飾りを支度したのです。

 もしも小夜比売がまことにぎょくの耳飾りを落としたのならば、きっとなんらかの手応えがあるはずだと考えて。


――……小夜比売様。貴女の真実をお教えください。


 黒海臣が唾を飲むその前で、小夜比売はひっそりと箱を閉じました。


「ありがとう存じます、佐弥さやびこ様。結構な贈りものです」

「お気に入られましたでしょうか」

「ええ。ちょうど、手持ちの耳飾りのかたを、失くしてしまったところでしたので」

「――!」


 さらりと知りたかった点を告げられ、黒海臣のほうがうろたえます。

 しかしその狼狽はおもてに出さず、さりげなくお訊ねしました。


「お持ちの飾りを失くされていたとは、存じませんでした。いずこにてお落としになられたのですか」

「さて。つい先日、舘を大がかりに清めましたので、その折やもしれません」

「……さようでしたか」


 小夜比売は、ひとかけらも焦ったふうがありません。

 黒海臣は読めぬ女人だと思いつつ、念のため戒めを申し上げておくことにしました。


「私が舘に戻れぬせいで、小夜比売様にはご苦労をおかけします。が、家のことはほどほどになされませ。掃除はらいごとや炊事かしきごとのさなかに、比売様が危ない目に遭われてはなりませぬ」


 暗に、危ういことにはお近づきなさるなと示しておきます。しかし小夜比売は、そのことばを耳にしても、なお静かに座していました。

 そうして黒海臣を眺めやり、さえざえとした声で頷きました。


「ご忠告、心には留めておきます」


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