潮織りの比売(ひめ) 十一
星すらも口をつぐむ夜ふけです。
細蟹は
とたんにまだ冷えた
――あかる、おばあさま。どうかそのまま眠っていて。
幸い、近ごろのあかるはそれほど夜泣きがありません。ばばさまもそんなあかるを抱き、深い寝息をついていました。
手伝いの侍女には手が足りていると告げ、無理に正殿へ帰らせています。あとは見回りの兵にさえ気をつければ、うまく切り抜けられるはずでした。
――きざはしを下りて、回廊を北へ三十五歩。それから左へ曲がって二十五歩……。
宮の見取り図は、おおよそ頭に入っています。正殿へ来たばかりのころ、いろいろと進言をしたからでした。
糸縄をない、音の鳴る
――まさか、こんな形で役立つとは思わなかったけれど……。
細蟹は息をつめ、闇にひそむ獣のように歩んでゆきます。おのれの胸の音が聞こえてしまうのではないかと、口の中が渇きました。
十歩。
二十歩。
三十歩。
やがて、回廊を左へ曲がったときです。
「――誰かっ!」
いんとした声が響き、細蟹は立ちすくみました。
その瞬間、襲をかすめて鋭い風が飛んできます。小刀かなにかが投げられたのだと思ったときには、相手が声を張り上げました。
「動くでないぞ。動けば害意ありとして汝を斬る――」
「
細蟹はとっさに叫びました。
すると相手は息をのみ、いぶかしげな足どりで近づきます。
「……細蟹様? なにゆえかような場所に……それもこの夜ふけに出歩かれるなど、危のうございます」
きまじめな声音は、まちがいなく黒海臣のものです。
細蟹はいくらか安堵し、しかし見つかったことに身を固くしました。
めまぐるしく考えますが、よい言い訳は思いつきません。しかたなくうな垂れました。
「勝手をして申し訳ございません。ですが、どうしても知りたくて……」
「なにをですか」
「
「……、」
黒海臣は黙しました。
その間はあまりにも長く思われ、細蟹は冷えるからだを抱えて震えました。
黒海臣はそれを察して、おのが身につけていたらしい毛皮の
「お寒うございましょう。男のむさ苦しい衣ですが、ないよりはよろしいかと存じます」
「ありがとう存じます」
細蟹は礼をして受け取りました。黒海臣は、細蟹が上衣をまとうのを待って歩き出します。
「黒海臣さま?」
呼びかけると、黒海臣は静かな声で言いました。
「ついておいでください。細蟹様がこうまで求められるのならば、真実をお見せいたします」
「――、」
細蟹は、どきりとして唇を結びました。
冷えた指で上衣をたぐり、黒海臣のあとを追います。
そのひと足ひと足が、まるで死者の世へ下ってゆく道ゆきのように思われました。
星見の丘は高台にありました。
丘のいただきまでは、さざ波のような段丘が続いています。きざはしを上るようにその道をたずねてゆくと、やがて都を見下ろす野に出るのです。
吹きつける風は天に近く、鋭く
――
それは幼いころ、糸くりの村で嗅いだことのある臭いでした。
村では、死人が出るとその身を棺に収めて祀りました。そして七夜が経ったのち、あらためて
その屍と同じ――しかし、それよりも乾いたかすかな臭い。
そのようなものが、いま細蟹のいる丘にゆらりと染み込んでいるのでした。
「……黒海臣さま、」
思わず怖じた声が出ます。
ですが黒海臣はそれには答えず、細蟹の手を取りました。
「こちらです、細蟹様」
導かれ、ひざまずいた先に朽ちたかけらがありました。
もろもろとして、軽く、それでいて重いかけらです。まだ肉の、たましいの重みをそのまま留めているかのような。
「……かがよひ?」
ひとりでに、その名がこぼれ落ちました。
とたんに熱いものがこみ上げ、涙となって目隠しにしたたります。
細蟹は、夢中であたりをかき回しました。冬枯れた草の
かがよひの、からだの骨です。
その中には長細いものも、折れたものも、噛み砕かれたようなものもありました。おそらく山犬が荒らしたのでしょう。
細蟹はむせぶ声をこらえきれませんでした。
おさな子のようにかがよひを呼び、草を掻き、やがて地に突き立った硬いものへ触れました。くぐもった鈍い音と、ぼろぼろに剥がれ落ちる
「……これは……、」
「剣でございます。耀日祇様を弑したてまつった、
細蟹は、はっとしました。
息をのんで仰ぎ見ると、黒海臣がその場にたたずんでいる気配がします。
たたずまいにも、声にも変わりはありません。細蟹はその静けさがかえって恐ろしく、腑の底へ氷を押し込まれた心地になりました。
「黒海臣、さま……」
「耀日祇様はお心を病まれました。その病はもはや、
おののく細蟹の前で、黒海臣は語りました。
病んだかがよひは、しだいにまつりごとも為せなくなっていたこと。
宮びとたちは、暴れるかがよひに疲れはててしまったこと。そしてやがては、かがよひの退位をせまる声が高まってきたこと――。
「だから、……かがよひを亡き者にしたのだと?」
細蟹の心は、いまにも決壊しそうでした。
怒りと哀しみと狼狽で、目の前が真っ白になりそうでした。細蟹はくらくらとする頭をこらえ、黒海臣を仰ぎます。
いまにも飛びかかってしまいそうな細蟹の真ん前で、黒海臣は言い切りました。
「さようにございます。耀日祇様をお止め申し上げ、民の心を鎮めるにはこれしかなかった」
「ッ、――この、ひとでなし」
細蟹は呪詛のごとく吐き捨てました。
かようなことばを人に浴びせたのは初めてでしたが、細蟹の中には驚きも恐れもありませんでした。ただ血も
黒海臣はそれでも変わらず、夜の静けさで細蟹に対しました。
「ええ。
細蟹はそのさびさびとした声音を、喉を、かき切ってやりたいとすら思いました。
それから、どのようにして宮へ戻ったのかわかりません。
細蟹は夢心地にふらつきながら、みずからの部屋の前までたどりつきました。すると衣ずれの音がし、ひっそりと声をかけられます。
「欠け星よ、戻ったか」
「……おばあさま、」
細蟹は驚き、早足で駆け寄りました。
「起きていらしたのですか。……あかるは?」
「ここに。眠っておる」
ばばさまからあかるを受け取ると、その
細蟹はやすらかな寝息を聴き、ほっとして頬をすり寄せました。
「ああ、……よかった」
ばばさまは、そんな細蟹に訊ねます。
「おまえは、よいのか。耀日祇の真実を知ったのじゃろう」
「――、」
いきなり問われ、身をこわばらせました。
とたんに、あかるがむずかるような声を出します。細蟹は急いでその背をあやし、小声になりました。
「……気づいていらしたのですね」
「いつかは、こうなるだろうと思うておった。おまえはおのれが得心せぬ限り、どうにも折れぬところがあるゆえ」
ばばさまは、顔を背けたようでした。いつものばばさまの、気まずいときや誰かを気づかうときの癖です。
そう、ばばさまはいつも細蟹を気づかい、許してくれていました。
いまこのときも、かがよひが亡くなったあのときも。
あるいは細蟹が故郷を捨て、かがよひの手を取った十五の年も。
ばばさまは厳しくとも、最後には細蟹の決めた道を重んじてくれていました。細蟹の養い親として、母として、つねに細蟹を見守ってくれていたのです。
突然そう思い至り、ひとりでに涙があふれました。細蟹は、あかるを抱いたままうつむきます。
「おばあさま、……」
「なんじゃ」
「ありがとうございます、おばあさま。わかっていながら、わたしを行かせてくださって」
そう言うと、ばばさまはぴしりと細蟹の背を叩きました。
「泣くでない。儂はなにもしておらぬ、おまえが泣けばあかるが起きる」
なんとも、ばばさまらしい励ましです。
細蟹は泣き笑いのようになり、鼻をすすってほほ笑みました。
「はい、おばあさま。わたしはもう泣きません」
それはまことに、細蟹がいまこのときから、おのれに課した誓いでした。
あかるを守るそのためには、もう、泣いてばかりはおれぬのでした。
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