黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十三
あかるの
前もって
刀自売はよい顔をなさいませんでしたが、それでも頷いてはくださいました。
もし、三日経っても黒海臣から便りがなければ、さらに西へ逃げるようにも告げています。糸くりの婆ならば、いのちに代えても王を守り尽くすでしょう。
――万一私が
そのための
西の国には、黒海臣の
やがて機が満ちたら、
――とはいえ、私はここで敗けるつもりなど、さらさらない。国を守るそのために。
このために、黒海臣は高御座の部屋で陣を整えておりました。
駒は兵たちの長として、そちらをまとめに向かっています。
宮びとたちには細蟹比売を探すよう言いつけながら、その実、みなが宮の後方へ集まるように仕向けました。戦が起こったら、一番に裏門から逃がせるようにするためです。
――兵以外の者たちを、戦に巻き込むわけにはゆかぬ。無用な血は流させぬ。
黒海臣はそのように考えつつ、物見の兵の報せを待ちます。
そうして夜もふけたころ、幾度めかの物見が走ってきました。
「申し上げます! 都の東、外宮近くよりあらわれた兵の影がございます!」
「……外宮だと? まことに外宮か、都の三の
黒海臣は、思わず物見に問い返しました。
外宮とは、都の東に張り出した
黒海臣がまことに外宮かと疑ったのは、ここに阿多臣の
物見は気圧されたように後じさりながら、黒海臣の問いに頷きます。
「はい。この耳で確かめましたので、間違いはないかと……」
「――、」
兵たちには、目が見えぬぶん耳を鍛えさせています。どんな細かな音のずれでも、聞き分けられるようにしているのです。
その兵が言うのならば、まことに敵は外宮からやってきているのでしょう。
――ということは、もしや敵方が潜んでいた舘というのは……、
そう考えたとき、別な誰かが足早に入ってきました。楚々とした衣ずれが黒海臣のそばに付きます。
「黒海臣さま、報せを持ってまいりました」
「真木どのか。よく戻ってまいったな、いかな報せだ?」
そう訊ねると、真木は黒海臣の耳元でささやきました。
「細蟹さまは、
「――!」
驚きと、やはりそうかという思いが同時に湧き上がりました。
黒海臣は、てっきり、兵たちは阿多臣の舘から上ってくるものと思っていました。しかしどうやら、ほんとうに小夜比売が阿多臣へ手を貸したようです。
小夜比売はおのれの――そして黒海臣の家でもある舘の中に、阿多臣
小夜比売の舘は、まさに外宮の真ん中にありました。
「――ッ!」
黒海臣はこぶしを震わせ、しかしすぐさま剣を
「敵をできる限り宮の近くまで引きつけろ、ほんとうに寸前までだ。敵が近づくまでは決して手を出さず、息をひそめて待ち続けよ」
「はっ」
「また、駒にこう伝えてくれ――」
黒海臣はかがみ込み、物見の耳にささやきます。
物見は、そのことづけを承知して下がりました。横にいた真木が、気づかわしげに黒海臣へ声をかけます。
「……黒海臣さま、」
「言うな、気をつかわずともよい。真木どのは宮びとたちのそばに付いてくれ。万一のときには彼らを逃がせ」
「……はい」
真木はためらいながらも、礼を取るような衣ずれをさせました。
あとには、黒海臣だけが残されます。黒海臣はその場にたたずみ、苦く歯を噛みました。
――小夜比売様。
小夜比売は、いったいなにを考えていらっしゃるのでしょうか。
仮にも奥方であるというのに、黒海臣には、もはや彼女のなにもかもが信じがたくなっています。
黒海臣はむうと呻き、しばしの間、答えのない問いを探し続けました。
「申し上げます、敵方の兵が大路を上り始めました!」
「兵は南より一団となり、この宮を目指している模様です」
「宮の裏門、ならびに東西の門へ近づく別隊はおりません――」
物見の兵が、ひっきりなしに報せを持ってやってきます。
黒海臣はそのひとつひとつに頷き、ときに指図を与えました。前線にいる駒にも、こまめに伝令を走らせています。
報せのどれもが、敵は真正面から宮を襲おうとしているらしいことを告げました。
――おそらく、正面からでも行けると踏んでいるのだろう。宮はいま、細蟹比売がおらず乱れていることになっているゆえ。
なめられたものだと思いますが、これはまたとない好機でもあります。
黒海臣は、肩をふくらませてそのときを待っていました。
「申し上げます! 敵があと三百歩のところまでまいりました!」
「よし、さらに引きつけよ。あと十となったらいっせいに撃て」
「畏まりました!」
物見が去り、恐ろしく静かな狭間が訪れます。黒海臣はみずからの脈をとり、その速さと比べて敵の進みを計りました。
百歩。
五十歩。
あと十歩。
「いまだ――」
その直後、宮の前門で激しい
合間に、弓やつぶてが飛び交う嵐のごとき音もします。そのあと敵が大崩れとなるようなどよめきも続き、黒海臣はひそかに息をつきました。
――どうやら、うまくやったらしい。
目の見えぬ宮兵が敵に打ち勝つには、こちらからも奇襲をかけるしかありません。
そこで寸前まで兵を隠し、弓の届く近さとなってから、いっせいに矢を降らせたのです。
ほかにも
いまごろ、敵は思ってもみない奇襲返しに浮き足立っているはずです。黒海臣には、手に取るようにその景色が浮かびました。
――そして、こちらの策はそれだけではない。
そう胸のうちで呟いたとき、さらに遠くで鬨の声が上がりました。
すると敵は、いよいよ泡を食って走り始めたようです。悲鳴や罵りがこの正殿にまで届き、黒海臣は次なる奇襲が無事成ったことを知りました。
――駒も、うまい具合にやってくれた。
先ほどの鬨の声は、駒の率いる一隊がうしろから敵を撃ったものです。
黒海臣は、小夜比売の舘が敵の根城とわかったときに、駒たちを西から下らせていました。そうして見つからぬよう背後に回らせ、ひと息に敵を叩いたのです。
兵というものは、ひとたび崩れれば川の水のごとくなだれ落ちます。
そこを突き、あとは深追いしすぎぬほどに敵を
兵たちの戦う声が、炎のように夜ふけの空を覆っています。
これとは別に、宮の後方では宮びとたちが怯え騒いでおりました。残った兵や真木たちが、彼らを逃がそうと声を張り上げるのも聞こえてきます。
そちらに気を配っているさなか、よろけるような足音が部屋へ駆けてきました。
「――黒海臣様!」
「どうした? その声は
波見は、駒の下についている雑兵です。小柄で身がかるく、真木とは別に阿多臣
波見は息を切らせながら、くずおれるように告げました。
「小夜比売様の――小夜比売様が、御みずからのお舘に火を……!」
「なにッ!」
どういうことだと愕然とします。黒海臣はすぐさま指図を飛ばしました。
「急ぎ兵を小夜比売様の舘へ集めよ! 舘を叩き壊してもかまわぬ、とにかく火を止めるのだ! そして中にいるはずの細蟹様をお探し申し上げよ!」
「はい!」
黒海臣は知りませんでしたが、そのころ、小夜比売の舘は敵も味方もなくなっておりました。
みなが慌てふためいて、火消しにあたっていたのです。そのおかげで
――小夜比売様、……細蟹様!
脇の下を、じっとりと嫌な汗が伝います。
小夜比売ならば、細蟹比売を籠めたとしても殺しはしまいと思っていました。
ゆえにこそ戦を先んじ、それが落ち着いてから舘を囲んで、細蟹比売を救い出そうと考えていたのです。
――だが小夜比売様は、この戦でつねに私より先の手を打っている!
黒海臣は歯を食いしばり、宮の後方へ身をひるがえしました。
宮びとたちは逃げおおせたのか、しんとした中に慌ただしい気配だけが残っています。黒海臣は声を張り上げました。
「真木どの! 真木どのはいるか!」
しばらくして、こちらに走ってくる足音がありました。ひそやかな衣ずれが足元に畏まります。
「お呼びでしょうか、黒海臣さま」
「真木どの。宮びとたちは無事逃がしたな?」
「はい。黒海臣さまのお言いつけ通り、兵たちが付き添って星見の丘へ……」
黒海臣はそこまで聴き、頷きました。
「よし、では貴女も逃げなさい。私はこれから小夜比売様の舘へゆく」
「小夜比売さまの……?」
「細蟹様の御身が危ういようなのだ。もしかすると、小夜比売様ご自身すらも」
それだけ説いて駆け出します。あとから真木が呼び止めましたが、その声はもはや届いていませんでした。
黒海臣はぞっとするような汗にまみれ、ひたすら走り続けました。
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