黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十三



 あかるのみこは、糸くりの婆とともに浮屠ふとの山里へお逃がし申し上げました。

 前もって水輪刀自売みなわのとじめを説き伏せ、みこをお預かりいただくよう頼んでいたのです。

 刀自売はよい顔をなさいませんでしたが、それでも頷いてはくださいました。

 もし、三日経っても黒海臣から便りがなければ、さらに西へ逃げるようにも告げています。糸くりの婆ならば、いのちに代えても王を守り尽くすでしょう。


――万一私がけたときは、駒だけでも落ちのびさせる。そしてあかるの王様を擁させる。


 そのための伝手つても、あらかじめ話をつけていました。

 西の国には、黒海臣の縁戚ゆかりの者が住んでいます。駒をつうじて、その者にあかるの王を託すのです。

 やがて機が満ちたら、みこを大君として奉るようにことづけていました。


――とはいえ、私はここで敗けるつもりなど、さらさらない。国を守るそのために。


 このために、黒海臣は高御座の部屋で陣を整えておりました。

 駒は兵たちの長として、そちらをまとめに向かっています。

 宮びとたちには細蟹比売を探すよう言いつけながら、その実、みなが宮の後方へ集まるように仕向けました。戦が起こったら、一番に裏門から逃がせるようにするためです。


――兵以外の者たちを、戦に巻き込むわけにはゆかぬ。無用な血は流させぬ。


 黒海臣はそのように考えつつ、物見の兵の報せを待ちます。

 そうして夜もふけたころ、幾度めかの物見が走ってきました。


「申し上げます! 都の東、外宮近くよりあらわれた兵の影がございます!」

「……外宮だと? まことに外宮か、都の三のみち付近ではなく?」


 黒海臣は、思わず物見に問い返しました。

 外宮とは、都の東に張り出した区画さかいのことです。このあたりには、大君の遠い縁戚や、むかし大君の一族から降下した者の子孫うみのこらが住んでいました。

 黒海臣がまことに外宮かと疑ったのは、ここに阿多臣のやかたはないためです。阿多臣の住まいは都の東南、三の条と呼ばれるところにありました。

 物見は気圧されたように後じさりながら、黒海臣の問いに頷きます。


「はい。この耳で確かめましたので、間違いはないかと……」

「――、」


 兵たちには、目が見えぬぶん耳を鍛えさせています。どんな細かな音のでも、聞き分けられるようにしているのです。

 その兵が言うのならば、まことに敵は外宮からやってきているのでしょう。


――ということは、もしや敵方が潜んでいた舘というのは……、


 そう考えたとき、別な誰かが足早に入ってきました。楚々とした衣ずれが黒海臣のそばに付きます。


「黒海臣さま、報せを持ってまいりました」

「真木どのか。よく戻ってまいったな、いかな報せだ?」


 そう訊ねると、真木は黒海臣の耳元でささやきました。


「細蟹さまは、小夜比売さよひめさまのお舘に籠められているようです。兵たちもそこから発してきております」

「――!」


 驚きと、やはりそうかという思いが同時に湧き上がりました。

 黒海臣は、てっきり、兵たちは阿多臣の舘から上ってくるものと思っていました。しかしどうやら、ほんとうに小夜比売が阿多臣へ手を貸したようです。

 小夜比売はおのれの――そして黒海臣の家でもある舘の中に、阿多臣がたの兵をかくまっていたのです。

 小夜比売の舘は、まさに外宮の真ん中にありました。


「――ッ!」


 黒海臣はこぶしを震わせ、しかしすぐさま剣をびて立ち上がります。そして控えている物見に命じました。


「敵をできる限り宮の近くまで引きつけろ、ほんとうに寸前までだ。敵が近づくまでは決して手を出さず、息をひそめて待ち続けよ」

「はっ」

「また、駒にこう伝えてくれ――」


 黒海臣はかがみ込み、物見の耳にささやきます。

 物見は、そのことづけを承知して下がりました。横にいた真木が、気づかわしげに黒海臣へ声をかけます。


「……黒海臣さま、」

「言うな、気をつかわずともよい。真木どのは宮びとたちのそばに付いてくれ。万一のときには彼らを逃がせ」

「……はい」


 真木はためらいながらも、礼を取るような衣ずれをさせました。

 あとには、黒海臣だけが残されます。黒海臣はその場にたたずみ、苦く歯を噛みました。


――小夜比売様。


 小夜比売は、いったいなにを考えていらっしゃるのでしょうか。

 仮にも奥方であるというのに、黒海臣には、もはや彼女のなにもかもが信じがたくなっています。

 黒海臣はむうと呻き、しばしの間、答えのない問いを探し続けました。



「申し上げます、敵方の兵が大路を上り始めました!」

「兵は南より一団となり、この宮を目指している模様です」

「宮の裏門、ならびに東西の門へ近づく別隊はおりません――」


 物見の兵が、ひっきりなしに報せを持ってやってきます。

 黒海臣はそのひとつひとつに頷き、ときに指図を与えました。前線にいる駒にも、こまめに伝令を走らせています。

 報せのどれもが、敵は真正面から宮を襲おうとしているらしいことを告げました。


――おそらく、正面からでも行けると踏んでいるのだろう。宮はいま、細蟹比売がおらず乱れていることになっているゆえ。


 なめられたものだと思いますが、これはまたとない好機でもあります。

 黒海臣は、肩をふくらませてそのときを待っていました。


「申し上げます! 敵があと三百歩のところまでまいりました!」

「よし、さらに引きつけよ。あと十となったらいっせいに撃て」

「畏まりました!」


 物見が去り、恐ろしく静かな狭間が訪れます。黒海臣はみずからの脈をとり、その速さと比べて敵の進みを計りました。

 百歩。

 五十歩。

 あと十歩。


だ――」


 その直後、宮の前門で激しいときの声が上がりました。

 合間に、弓やつぶてが飛び交う嵐のごとき音もします。そのあと敵が大崩れとなるようなどよめきも続き、黒海臣はひそかに息をつきました。


――どうやら、うまくやったらしい。


 目の見えぬ宮兵が敵に打ち勝つには、こちらからも奇襲をかけるしかありません。

 そこで寸前まで兵を隠し、弓の届く近さとなってから、いっせいに矢を降らせたのです。

 ほかにもきたなきものを投げつけさせたり、山の芋やくず米をねまりにしたものをぶちまけさせたりもしました。

 いまごろ、敵は思ってもみない奇襲返しに浮き足立っているはずです。黒海臣には、手に取るようにその景色が浮かびました。


――そして、こちらの策はそれだけではない。


 そう胸のうちで呟いたとき、さらに遠くで鬨の声が上がりました。

 すると敵は、いよいよ泡を食って走り始めたようです。悲鳴や罵りがこの正殿にまで届き、黒海臣は次なる奇襲が無事成ったことを知りました。


――駒も、うまい具合にやってくれた。


 先ほどの鬨の声は、駒の率いる一隊がうしろから敵を撃ったものです。

 黒海臣は、小夜比売の舘が敵の根城とわかったときに、駒たちを西から下らせていました。そうして見つからぬよう背後に回らせ、ひと息に敵を叩いたのです。

 兵というものは、ひとたび崩れれば川の水のごとくなだれ落ちます。

 そこを突き、あとは深追いしすぎぬほどに敵をほふってゆくのです。生け捕れる者は生け捕りに、散らせる者は逃げ帰らせ、長がいればまっさきに首級くびを獲る――。

 兵たちの戦う声が、炎のように夜ふけの空を覆っています。

 これとは別に、宮の後方では宮びとたちが怯え騒いでおりました。残った兵や真木たちが、彼らを逃がそうと声を張り上げるのも聞こえてきます。

 そちらに気を配っているさなか、よろけるような足音が部屋へ駆けてきました。


「――黒海臣様!」

「どうした? その声は波見はみだな?」


 波見は、駒の下についている雑兵です。小柄で身がかるく、真木とは別に阿多臣がたへ潜り込ませていた間諜うかみでした。

 波見は息を切らせながら、くずおれるように告げました。


「小夜比売様の――小夜比売様が、御みずからのお舘に火を……!」

「なにッ!」


 どういうことだと愕然とします。黒海臣はすぐさま指図を飛ばしました。


「急ぎ兵を小夜比売様の舘へ集めよ! 舘を叩き壊してもかまわぬ、とにかく火を止めるのだ! そして中にいるはずの細蟹様をお探し申し上げよ!」

「はい!」


 黒海臣は知りませんでしたが、そのころ、小夜比売の舘は敵も味方もなくなっておりました。

 みなが慌てふためいて、火消しにあたっていたのです。そのおかげで小火ぼやは広がらなかったものの、兵たちが入り乱れて恐ろしいうねりになっていたのでした。


――小夜比売様、……細蟹様!


 脇の下を、じっとりと嫌な汗が伝います。

 小夜比売ならば、細蟹比売を籠めたとしても殺しはしまいと思っていました。

 ゆえにこそ戦を先んじ、それが落ち着いてから舘を囲んで、細蟹比売を救い出そうと考えていたのです。


――だが小夜比売様は、この戦でつねに私より先の手を打っている!


 黒海臣は歯を食いしばり、宮の後方へ身をひるがえしました。

 宮びとたちは逃げおおせたのか、しんとした中に慌ただしい気配だけが残っています。黒海臣は声を張り上げました。


「真木どの! 真木どのはいるか!」


 しばらくして、こちらに走ってくる足音がありました。ひそやかな衣ずれが足元に畏まります。


「お呼びでしょうか、黒海臣さま」

「真木どの。宮びとたちは無事逃がしたな?」

「はい。黒海臣さまのお言いつけ通り、兵たちが付き添って星見の丘へ……」


 黒海臣はそこまで聴き、頷きました。


「よし、では貴女も逃げなさい。私はこれから小夜比売様の舘へゆく」

「小夜比売さまの……?」

「細蟹様の御身が危ういようなのだ。もしかすると、小夜比売様ご自身すらも」


 それだけ説いて駆け出します。あとから真木が呼び止めましたが、その声はもはや届いていませんでした。

 黒海臣はぞっとするような汗にまみれ、ひたすら走り続けました。

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